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與呂伎神社
A:與呂伎神社(在青柳・日吉神社の境外社)
滋賀県高島市安曇川町青柳
祭神--子守神・勝手神
B:日吉神社(西万木)
滋賀県高島市西万木
祭神--瓊々杵尊
C:今宮神社(日吉神社の境外社)
滋賀県高島市安曇川町西万木
祭神--大山祇神
                                                        2017.04.16参詣

 延喜式神名帳に、『近江国高嶋郡 與呂伎神社』とある式内社だが、今、論社として上記3社がある
 社名は“ヨロキ”と読む。

※由緒
 式内・與呂伎神社は、往古、当地にあったという満木(ユルギ)の杜(モリ・森)にあったといわれ、その満木の杜について、
 近江輿地志略(1734)
  「満木杜 東満木村の二町許り北にあり。其の旧蹟として杉の木五六本残りあり。按ずるに、今の東満木西満木の二村の近辺、古昔悉く杜なりし成べし。
 清少納言枕草子(38段)に『よろずに懐かしからねど、ゆるぎの森に独りは寝じと争ふらむこそ おかしけれ』と書けるも爰(ココ)のことなり。
 土俗一説に鷺の森の旧跡といふも理なり。亦満木原とも詠り」
とあるように、A・B・C3社を含む広い範囲に広がる森だったようだが(靑柳は旧東万木)、今は集落のまわりに田畑が広がるだけで、往年の面影はない。

 なお、枕草子38段には、
  「鷺 いと見目も見苦し。眼居(マナコイ)なども、うたてよろづになつかしからねど(目つきなども、気味悪くてともかくも親しみにくいが)、『ゆるぎの森にひとりは寝じと争ふ』らむ、おかし」
とある(新潮日本古典集成版)

※與呂伎神社(靑柳)
 式内・與呂伎神社について、近世以降の諸資料として
*神社覈録(1870)
  「祭神在所等詳ならず。恐らくは今東西満木両村満木森跡にあらんか。尋ぬべし。万木東西二村に数社ありて分別ならず
として、当社は満木森の跡にあるはずだが、東西満木村には数社があってどれが式内社かはっきりしないという。

*特選神名牒(1876)
  「與呂伎神社  所在:青柳村字古森又白鷺森
   按に、青柳村は旧名東満木村と云々。社号にもまさしく與呂伎神社と云ひ伝へたるもの証とすべし。
   而るに、西万木村今宮神社なりと云ふ説あれど、他に証なく、社号をも正しく伝へざれば取りがたし」
として、旧東満木村(現青柳・A社)の神社を式内・與呂伎神社に充て、その西南にある今宮神社(日吉神社の境外社・C社)を與呂伎神社とみることに異を唱えている。

*高島郡誌(1927)
  「與呂伎神社 青柳村大字青柳字古森に鎮座す。祭神子守神・勝手神。旧古守社と称す。式内與呂伎神社なり。
  社地は即ち満木の森の遺跡の存するものと云」

*志賀県史(1928)
  「祭神不詳。その所在は與呂伎の杜として聞こえ、與呂伎神社として伝へていたので、青柳村青柳鎮座の同社を式内社と定むべきである」
などがあり、神社覈録は所在地不詳とするが、他は青柳所在の與呂伎神社(A社)を式内社に比定している。

 ただ、現與呂伎神社の境内に案内等なく、その由緒等は不明で、これを式内・與呂伎神社とする確証はない。

◎日吉神社(在靑柳)
 與呂伎神社は、日吉神社(青柳)の境外社(飛地境内社ともいう)というが、その日吉神社境内の案内には
  「鎮座地  高島市安曇川町靑柳944番地
   主祭神  阿夜訶志古泥神(アヤカシコネ)・市寸嶋比売命(イチキシマヒメ)・橘比売命(タチバナヒメ)
   境内社  秋葉神社・天満神社・稲荷神社
   境外社  太田神社・与呂伎神社・八幡神社
   由緒  主祭神の阿夜訶志古泥神は、此の世に生れ出でし神である天之御中主神から数えて第六代の神(古事記にいう神代七代の6代目)で、精神を司る尊い神様といわれている。
   創祀年代は不詳である、(以下略)
とあり、境外社のなかに與呂伎神社の名はあるものの、それが境外社となった経緯は不明であり、式内社についての記述はない。

※日吉神社(在西万木・B社)
 論社のひとつ西万木の日吉神社について、境内に立つ案内(石版)には、
  「鎮座地  高島市安曇川町西万木
   主祭神  瓊々杵尊
   境内社  愛宕社
   由 緒   創祀年代不詳であるが、社記によると、往昔、天武天皇の皇孫・塩焼王の霊を齋祀せし万木の森の旧蹟である
          後醍醐天皇・嘉暦3年(1328・鎌倉末期)滋賀郡日吉十禅師社の分霊を遷し奉り、産土神と崇祀した。
          元亀(1570--72)の兵乱に社殿兵火に罹ったが、天正17年(1589)社殿を再建し、日吉社より神霊を再勧請して、
          以降社頭修存春秋の祭祀を連綿奉祀する。
          明治維新の制に日吉十禅師社を日吉神社と改称す」

 高島郡誌には
  「日吉神社  安曇村大字西万木鎮座す。同大字の氏神なり。祭神・瓊々杵尊
  本社境内は、天武天皇の皇孫・塩焼王を祀りし満木社の旧社にして、嘉暦元年(1326・鎌倉末期)、日吉十禅師を勧請したり。
  元亀元年社殿兵火に罹りしかば、天正17年更に社殿を再建して日吉神社より神霊を再請したり」
とあるが、いずれも日吉神社としての由緒であって、そこに與呂伎神社あるいは今宮神社の名はみえない。

 当社の社名・日吉神社は、坂本の日吉神社から十禅師社(現東本宮摂社・樹下社)を勧請したことによるものだろうが、その勧請が嘉暦3年(鎌倉末期)とすれば、当社を以て式内・與呂伎神社とみるのはおかしい。

 ただ、当社が十禅師社勧請以前から瓊々杵尊を祀っていたとすれば、式内・與呂伎神社であった可能性はあるが、当社を式内・與呂伎神社とするのは、その鎮座地・西万木が旧満木の森にあったとすることからの付会との感が強い。

※今宮神社(西万木・C社)
 最後の論社・今宮神社は日吉神社(西万木)の境外社とされる神社で、その境内に立つ案内(石碑)によれば、
 「鎮座地  高島市安曇川町西万木
  主祭神  大山咋命
  境内社  天満神社  学問の神様菅原道真公を祀る
  由 緒   天正17年(1589)11月 滋賀郡日吉大行事権現(酒作の神様)分霊を遷し勧請す。
         明治に至り今宮神社と改む。
         明治維新以来一村一社の規則により今宮神社は雑社となるが、日吉神社と同様春秋の祭祀を連綿奉祀す」
とある。

 これによれば、今宮神社は16世紀末近く(安土桃山時代)に坂本の日吉大神社から大行事社(現東本宮摂社・大物忌神社)を勧請したものであり、これを式内・與呂伎神社とするには疑問がある。
 また、今、大山祇神は東本宮の祭神であって太物忌神社の祭神は大年神となっており、由緒そのものにも疑問がある。

 これらからみると、式内社としては旧東満木村(現青柳)にある與呂伎神社(A社)とみるのが有力かと思われるが、確証となるものはない。

※祭神
*與呂伎神社(A社)
   子守神・勝手神--神社明細帳

 この2神を祭神とする由縁は不詳。
 子守神は、水分神(ミクマリ)からの転訛といわれることから(ミクマリ→御子守・ミコモリ→子守・コモリ)、当社本来の祭神は水分神即ち田畑に水を配り豊穣をもたらす水神だったのかもしれず、
 当社は、古来の自然神信仰に端を発する古社とみることができる。
 なお、今、地元では“コーモリサン”との呼称で子育ての神として信仰されているという。

 子守神が水分神の転訛ということから、当社を同じ高島郡にあった式内・大水分神社の論社とみる資料(高島郡誌)があるが、式内・大水分神社としては高島市今津町にある大水分神社とみるのが有力という。

 勝手神とは出自・神格不詳の神で、各地にある勝手神社の祭神も一定していない。
 ただ、その理由は不明ながら、子守神と併祀される場合が多く(男神・勝手神と女神・子守神の夫婦神)、当社も、水分神が子守神へと変化した時点で、女神・子守神の配偶神として男神・勝手神が持ち込まれたのかもしれない。

 いずれにしろ、現在の子守神・勝手神との組み合わせが、当社本来の祭神でないことは確かなことといえよう。

*日吉神社(靑柳)
  主祭神  阿夜詞志古泥神(アヤカシコネ)・市寸嶋比売命(イチキシマヒメ)・橘比売命(タチバナヒメ)

 阿夜詞志古泥神(書紀では惶根尊と記す)とは、天地開闢の時、別天つ神五柱に次いで成り出た神代七代(カミヨナナヨ)の一で(天御中主神から数えて10代目に当たる)、古事記に「妹・阿夜詞志古泥神」とあることから女神であろう。
 この神の神格を案内は“精神を司る神”というが、記紀では名が出るのみでその神格は不明(講談社学芸文庫版古事記の注には「“あやに畏し”の意を神名としたもの」とあるが意味不明)

 市寸嶋比売命とは、アマテラスとスサノオのウケイによって成り出た女神で、筑紫・宗像神社祭神の一。
 橘比売命の出自・神格は不明。

*日吉神社(西万木鎮座・B社)
 社頭の案内によれば、祭神は
   瓊々杵尊
   塩焼王
   日吉十禅師社の祭神(嘉暦3年勧請)
のいずれかとなるが(社頭案内)
   豊城入彦命(トヨキイリヒコ)又は大入杵命(オオイリキ)--神名帳考証(1733・度会延経)
とする説もあり、確たる祭神名は不明。

 日吉神社と称する当社が瓊々杵尊を祀る由緒は不明。
 ただ、高島地方にあったという、瓊瓊杵尊が諸国巡幸の折、当地にやってきたとの伝承によるものかもしれない(別稿・志呂志神社参照)

 塩焼王(シオヤキ、?--764)とは天武天皇の皇子・新田部親王の御子で、妃が聖武天皇の皇女・不破内親王だったことから順調に昇進した。
 天正14年(742)、皇位継承にかかわる政争に巻き込まれて伊豆国に配流されるも同17年に許されて帰京。
 天平宝宇2年(758)に臣籍降下して氷上真人(ヒカミノマヒト)との姓が与えられた。
 その後、時の権力者・恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して参議・中納言まで栄達したが(天平宝宇6年・762)、天平宝宇8年、押勝が孝謙上皇の寵臣・道鏡との権力争いに敗れて起こした反乱に荷担(押勝に擁立されて「今帝」と称したという)、敗れて近江国で押勝一家と共に殺されたという(続日本紀・天平宝宇8年9月29日条)

 恵美押勝が殺されたのが近江国の何処なのかは不詳であることから、この時一緒に殺された塩焼王を満木森に祀ったというのも無碍に否定はできないが、地元には、そういう伝承があったのかもしれない。

 日吉十禅師宮の祭神とは、坂本にある日吉大社東本宮の摂社・十禅師宮(現樹下社)の祭神(現祭神:鴨玉依姫尊)のことで、これが、当社が日吉神社と称する由縁だろうが、
 これについて、式内社調査報告は、
  「この日吉神社も高島郡に数多くみられる同社祭祀の普及に伴うもので、與呂伎神社本来の祭神とするには躊躇される」
という。

 また、神名帳考証がいう豊城入彦命とは崇神天皇の皇子で、崇神紀48年条に
  「天皇が後継者を豊城入彦命と弟・活目命(イクメ・後の垂仁天皇)二人の夢占いで決めようとしたとき、豊城入彦命は『御諸山に登って、東に向かい八度槍や刀を振り回した』と、活目命は『御諸山の頂で縄を四方に引き回し、粟を食む雀を追い払った』と答えたことから、天皇は『兄は東に向かって武器を用いたので東国を治めよ。弟は四方に気を配って実りを考えていたので、吾が位を継げ』といわれた」(大意)
とあり、豊城入彦命は上毛野君(カミツケ)・下毛野君(シモツケ)の祖という。
 神名帳考証が東国を治めたという豊城入彦命を当社祭神とした根拠は不明。上・下毛野両君の関係者が当地に居たのかとも思われるが、その痕跡の有無は不明。

 また、考証末尾にいう大入杵命も崇神天皇の皇子で、豊城入彦命の異母兄弟にあたるが(書紀にはみえず)、古事記には能登臣の祖とあるのみで事績等はみえず、考証がこの命の名を挙げる由縁は不明。

*今宮神社(C社)
   大山祇神(オオヤマツミ)
 由緒からみて、この神は日吉神社東本宮からの勧請であって、式内・與呂伎神社とは無関係と思われ、当社を式内・與呂伎神社とするには疑問がある。

 式内・與呂伎神社は、その創建由緒・所在地・祭神など不詳なことの多い神社といえる。

※社殿等
【與呂伎神社】(靑柳)

 JR湖西線・安曇川駅の東北東約1.5km、国道161号線の東、靑柳集落の北に広がる田畑の中に残る社叢の中に鎮座する。 
 この辺りにはは嘗ての満木森が広がっていたといわれるが、今は一面田畑に化し往古の面影はない。
 当社社叢及びすぐ西南に残る日吉神社(靑柳)の社叢は、その残痕であろう。


與呂伎神社・社叢

 社叢東の道路脇に立つ鳥居を入った小さな広場の中央に、切妻造・瓦葺きの覆屋が東面して建ち、その中に一間社流造・茅葺きの古びた社殿が鎮座するのみで、他には何もない。


與呂伎神社・鳥居 

同・社殿覆屋 

同・社殿 

◎日吉神社(靑柳)
 與呂伎神社の本社とされる神社で、與呂伎神社の西南方約250mほど。與呂伎社東の道を南下、次の交差点を西へ曲がった先の北側に鎮座する。
 
 道路脇の鳥居を入った境内中央に拝殿(入母屋造)が、その奥少し離れて、切妻妻入りの弊殿に続いて本殿が南面して建つ。
 本殿は正面を除いて板壁で囲まれ、外見上では覆屋にみえる。

 
日吉神社(靑柳)・鳥居

同・拝殿
 
同・本殿

 境内社として稲荷社・秋葉社・天満社があるが、いずれも覆屋に覆われていて、社殿の状態でよく分からない

 
稲荷社
 
秋葉社
 
天満社

【日吉神社】(西万木・B社)
  JR湖西線・安曇川駅を東に出て直進、安曇川駅口交差点を左折し県道558号線を北上、約600mほど行った道路左側に立つ日吉神社との社標を左に入った先に鎮座する。

 鳥居を入った境内正面に拝殿(入母屋造)が、その奥、唐破風付弊殿に続いて本殿が鎮座する。
 本殿は正面以外の3面を板塀で囲まれており、本殿内部の様子はよく分からない。

 なお、境内社として愛宕社(小祠)がある。


日吉神社(西万木)・鳥居 
 
同・拝殿
 
同・本殿

【今宮神社】(西万木・C社)
 JR湖西線・安曇川駅の東約600mの街中に鎮座する。
 駅東へ出てまっすぐ直進、次の安曇川駅口交差点を北へ曲がったすぐ右側(東側)が境内で、鳥居はない。
 当社は今、北約600mに鎮座する日吉神社(西万木)の境外社となっている。

 やや広めの境内奥に社殿が建ち、右側に天満宮の小祠があるのみで、他には何もない。

 
今宮神社・境内全景
 
同・社殿

境内社・天満宮 

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