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志貴御県坐神社
奈良市桜井市三輪字金屋
祭神−−不詳
                                                              2010.09.09参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 志貴御県坐神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名は、シキノミアガタニマス神社と訓む。

 JR桜井線・三輪駅の東南約1.7km、山辺の道・金屋の石仏堂から少し北へ進んだ三叉路を左に折れた先に鎮座する。当地が、崇神天皇の“磯城瑞籬宮趾”(シキミズカキノミヤ アト)に比定されることから(境内に石碑、道端にも同じ表示が立っている)、普通“シキノミヤ”と呼ばれている。当社の西隣に天理教敷島大教会あり。地名の志貴(シキ)は、磯城・志紀・師木とも記す。

※祭神
 式内社調査報告(1982)によれば、
 「現在、大己貴神(オオナムチ)を祀る(志貴御県坐神社明細帳)
とあるが、境内に案内表示が見えず、真偽不明。

 一方、大和岩雄氏(日本の神々4・収録・志貴御県坐神社−2000)は、饒速日・弟磯城の2説を挙げている。
 ・饒速日命(ニギハヤヒ)
   新撰姓氏禄(815)
  「大和国神別(天神) 志貴連(シキノムラジ) 神饒速日命孫日子湯支(ヒコユキ)命之後也」
   また先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)にも、
  「ニギハヤヒ七世の孫・建新川命(タケニイカワ)および八世の孫・物部印岐美石連公(モノノベノイキミノムラジキミ)は、志貴県主(シキアガタヌシ)の祖である」
とあることから、物部氏系の志貴連(県主)が、その遠祖・ニギハヤヒを祀った(志貴県主は、天武朝の御代、連の姓を賜っている)

 ・弟磯城(オトシキ)
   日本書紀・神武紀に
  「弟磯城(オトシキ)−名は黒速(クロハヤ)を、(橿原宮で即位したとき)磯城(志貴)の県主とされた」
   また先代旧事本紀には、
  「志貴県主の兄磯城を誅(ツミナ)ふ。弟磯城を以て志貴県主と為す」
とあり、神武天皇の大和侵攻に際して、抵抗して誅殺された志貴の豪族・兄磯城(エシキ)に代えて、帰順したオトシキを志貴県主としたとあることから、オトシキの後裔が、その遠祖・オトシキを祀った。

 上記以外に、『御県の霊』(ミアガタノレイ)とする史料(大和史料・1915)もあるが、これは“その“在地の神”を指す一般名称で、固有の神名ではない。
 
※創建由緒
 当地・磯城の辺りに盤踞した古代豪族が祀った神社だろうが、その創建由緒・時期など不明。

 社名にいう“御県”(ミアガタ)とは、古く、天皇の御饌に供える蔬菜を栽培するために設けられた御料地(直轄領)で、祈年祭祝詞によれば、大和国には志貴(志紀)御県ほかに五つの御県(高市・葛木・十市・山辺・曽布)があり、祈年祭(トシゴイノマツリ)では
 「この六つの御県に生育する甘菜辛菜の蔬菜類を持ち来って、皇御孫命(スメミマ)の長久の召し上がりものとして、召し上がられます故、皇神等のその恩頼に対するお礼として、皇御孫命の立派な幣帛を捧げ奉る」(延喜式祝詞教本)
との祝詞が奏上されたという。

 社名からみれば、当社は“志貴の御県に坐す神”を祀る神社となるが、その祭祀に係わったのは、この辺りを本貫とした古代豪族・志貴県主であろう。
 志貴県主が何時の頃の氏族かははっきりしないが、日本書紀に見える第2代・綏靖天皇から第7代・孝霊天皇までの皇妃は、すべて磯城県主の子女とある。ただ、初代・神武から第9代・開化までの実在は疑問視されているから、その皇妃の実在もまた疑問といえるが、このような伝承があることは、古く、ヤマト朝廷の大王に妃をだすだけの実力を持った豪族・ヤマト朝廷が無視できない豪族が当地にいたことを示唆しており、それがオトシキを祖神とする氏族であり、ニギハヤヒを遠祖とする物部系の氏族であろう(両者の関係は不明だが、オトシキ系が先ではないかという)。ただ、その実体ははっきりしない。

 古史書における当社の初見は、天平2年(730)の大倭国正税帳の「志貴御県神戸・・・」であり、遅くとも8世紀初頭には存在していたのは確からしい。また貞観元年(806)には、従五位下より従五位上に昇授している。

 なお、当地が春分・秋分の夕刻、二上山の二つの峯の間に沈む夕日が拝できるなど、太陽の動きによって農耕に必要な季節の節目(冬至・夏至・春分・秋分)を知ることができる“日知り”“日読み”の地であったことが、当社の創建、瑞籬宮の造営に関係するという。

※社殿等
 鬱蒼たる鎮守の森に覆われた境内は、真昼でも薄暗く、境内南に二の鳥居(その先・南に一の鳥居が見える)、北に拝殿・本殿が並ぶ。
 南面する拝殿(割り拝殿)は切妻造・瓦葺で、扉が閉まっていて中は覗けない。
 拝殿裏の瑞垣(鳥居あり)に囲まれた中に春日造の本殿が南面して建つが、金網で仕切られていて正面へは入れない。
 山辺の道沿いにあるとはいえ、訪れる人もないようで、だいぶ荒れている。

志貴御県坐神社/二の鳥居
志貴御県坐神社・二の鳥居
志貴御県坐神社/拝殿
同・拝殿
志貴御県坐神社/本殿
同・本殿

 境内に西側(社殿の左)に境内社2社(小祠)がある。
 式内社調査報告には、末社:春日神社・琴平神社・厳島神社とあるが、小祠に表示なく詳細不明。

 社殿の右手(東)・瑞垣(鳥居あり)に囲まれて、人工とみえる石組の前に4個の丸い石が並んでいる。
 崇神紀6年条に
  「(トヨスキイリヒメがアマテラスを倭笠縫邑に祀ったとき)磯堅城(シカタキ)の神籬(ヒモロギ)を立つ」
とあり(古語拾遺では“磯城神籬”)、当地が倭笠縫邑比定地の一つとされることから、これを復元したものかとも思われるが、はっきりしない。磯城神籬とは“石を巡らした処に神の降臨を仰ぐ依代”をいう。

志貴御県坐神社/磯城神籬?
磯城神籬?
志貴御県坐神社/境内社
境内社(社名不明)

境内社(社名不明)

※崇神天皇磯城瑞籬宮趾
 境内の一画に、『崇神天皇磯城瑞籬宮趾』(スジンテンノウ シキノミズカキノミヤ アト)との石碑が立っている(大正14年・1925、奈良県建立)

 当地を磯城瑞籬宮趾とするのは、江戸中期の史書・大和志(1736)に、
 「(瑞籬宮は)三輪村東南志紀御県神社西に在り」
と記すからというが、その根拠は不明。大和志の編者・並河誠所(1668--1738)が、当社の社名・志貴から磯城を類推したものともされている。

 これに対して、桜井市史(1979)
 「いまのところ、崇神天皇の磯城瑞籬宮はシキの地の何処かに伝承されていた宮というほかないであろう」
とあり、瑞籬宮推定地の一つとしている。
崇神天皇磯城瑞籬宮趾の碑

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