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庚申信仰/尊勝院(粟田口庚申堂)
京都市東山区粟田山北町
本尊−−元三大師
                                               2007.09.23参詣・2021.03.15再訪改訂

 かつて京都では、“八坂の庚申堂”・“粟田口庚申堂”・“山ノ内庚申堂”の3庚申堂を『京洛三庚申』として知られていたが、今も形を変えて存続している。

 京の名所図会の先魁となった「都名所図会」(江戸中期、安永9年1780刊)に、
 「東三条金蔵寺御猿堂は青蓮院御門跡の院内なり。三猿の像は伝教大師・最澄の作」
とあり、この東三条金蔵寺御猿堂が“粟田口庚申堂”と呼ばれていた。

 この金蔵寺御猿堂を継承しているのが尊勝院で、京都地下鉄東西線・東山駅から三条通りを東進、三条~宮通交差点を右折して~宮通りにはいった青蓮院門跡寺院東の丘の上にあるが、地図があっても判りにくく曲がり角を見つけるのに苦労した。

※由緒
 本堂前に掲げる由緒書きによれば、
 「尊勝院は天台宗に属する寺院で、保延年間(1135--41)に陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことに始まり、その後青蓮院三条白川坊の裏に移されたと伝える。
 また応仁の乱により荒廃したが、文禄年間(1592--96)に豊臣秀吉によって本堂が再建されという。
 江戸時代には、本堂は元三大師を本尊として南面して建っていたことから、南面大師堂あるいは元三大師堂とも呼ばれていた。
 大正4年には、寺地が現在地に移転されたが、その際に建物は本堂のみが移された。

 現在の本堂は桁行三間・梁行四間の規模で、正面一間通りを外陣、奥寄りの方三間を内陣とし、内陣には中央に四天柱を立てて、背面に仏壇を間口いっぱいに設けて本尊元三大師像を祀る厨子を安置する。

 資料がないために造営年代を明らかにすることはできないが、内陣の四天柱内の細部様式は桃山時代まで遡るものと判断される。
 本堂は桃山時代まで遡ると考えられ、その後、幾度かの修理によって大きく改造されているところがみられるものの、内陣は常行三昧堂の形式である一間四面堂の後世で建てられ、また極彩色が施されて桃山時代の趣がよく残されている小規模ながら古式で上質の建物である」
として、尊勝院の開創縁起沿革のみが記されている。

 今回は平常日であったことから本堂が閉まっていて内部を拝観できなかったが、前回訪れたとき(2007.09)は庚申日であったことから拝観できた。
 その時、本堂内に掲げる「洛東粟田 尊勝院由来略記」には、
 「抑も当院は元三慈恵大師を御本尊とし、約850年前、保延年中(1135--41)に陽範阿闍梨を開基として、比叡山の横川に草創されたものでありまして、天治元年(1124)、陽範阿闍梨は鳥羽法皇の内勅を奉じ、横川般若谷の総本尊としてお祀りしていた。
 当本尊元三大師の御宝前にて修法祈年せられ霊験を得られましたので、法皇よりその恩賞として「尊勝」の号を賜ったのであります。これを比叡山上の本坊と致します。

 その後、正和年間(1312--17)に洛東粟田口に御本尊はご遷座されまして、青蓮院の三条白川坊の後背、裏築地の辺りに本堂が建立されました。そのために裏築地殿と呼ばれ、叉脇門跡般若院般若三昧堂を当院住職代々が管領相承してまいりましたので、尊勝院を東築地門跡と称しておりました。

 尊勝院は草創以来勅願所として歴代皇室のご崇信も殊のほか深く、且つ叉、青蓮院の宮の院家筆頭として代々門跡の執事となっており、・・・(中略)

 現在の尊勝院本堂(五間四面)は文禄年間(1592--96)に豊臣秀吉公が、ご本尊を信仰する余り、朝鮮出陣と桃山城安寧を祈願するために本堂を再建されたものと伝えられておりまして、通称「南面大師堂」と呼ばれて居りました。
 堂内の彫刻など極彩色がほどこされ非常に美しく、殊に“かえるまた”などは古建築史上からも重要視されているところであります。常行三昧堂様式の建物としては、或いは桃山時代よりも古く室町時代の建物ではないかといわれております。

 明治維新までは三条白川橋東面一帯の相当の広い境内には、元三大師のご本堂のほかに地蔵堂・庚申堂・弁財天堂・多賀社・梅宮社他がありましたが、維新後いろいろと変動があり、諸堂社を改廃合併などされまして、米地蔵尊も庚申堂なども本堂に御安置申しあげるようになりました。
 戦前までは、庚申様の御縁日の御縁日には夜店など出て賑わい、俗に「東の庚申堂」と呼ばれて一般に親しまれて来たのであります。

 その後、大正4年(1915)に三条白川の旧地から現在の粟田山の京都市内を一望におさめることのできる展望絶景の現地に本堂をそのまま移転され、庫裏・寺務所なども建築され、寺運も次第に復興されまして、御本尊元三大師をはじめ庚申尊・米地蔵尊など、それぞれ一般の方の信仰も深め、遠近を問わず参詣し祈願する人が跡を絶ちません。

 本尊:元三大師(御自作、等身大)・不動明王二躰・毘沙門天・庚申尊(青面金剛と三猿、弘法大師御作)・如意輪観音菩薩(境内別堂)
  ・米地蔵尊(元金蔵寺本尊)・走り大黒天(伝教大師御作・境内別堂)・水子地蔵尊・延命地蔵尊・子育地蔵尊」
とある。

 これによれば、尊書院は平安末期に開基された比叡山横川の尊勝坊を始まりとし、鎌倉時代に粟田口の青蓮院内に移転、明治維新後、近傍にあった金剛寺とその境内社・三猿堂を合祀、大年4年に現在地に移転し、その時三猿堂も一緒に移ってきたとなる。

◎粟田口庚申堂
 当尊勝院は通称・粟田口庚申堂と呼ばれるが、これは江戸時代まで隣接する青蓮院の塔頭・金蔵寺(コンザウジ)境内にあった三猿堂を、明治3年(1868)金蔵寺が廃寺になった際、尊勝院に遷したことによるという。

 旧金蔵寺について、花洛名勝図会(1864)には
 「金蔵寺  青蓮院御門跡の院内にあり、俗に粟田の庚申といふ。三猿堂ある故なり。御猿堂といふ。
        本尊:地蔵菩薩(長三尺許り)、伝教大師の作ともいふ。
        (境内に日吉社・朝日天満宮・妙見堂・三猿堂・虚空蔵堂・蛭子堂・弁財天社があったという)
  三猿堂  妙見堂の西にあり、南向。伝教大師天台の不見・不聞・不言の三諦を表し三の猿の形を作る。
        其の一は両手を以て両眼を掩ふ、其の一は両指を以て両耳を塞ぐ、其の一は両手を以て口を閉ず。
        俗に見ざる・聞かざる・言わざるといふ。故に庚申の日参詣多し。・・・」
とあり下の絵図が載せられ、そこには「おさる堂」印)とある。(右上の元三大師堂が金蔵寺本堂)

 
花洛名勝図会−御猿堂・元三大師・白川橋・粟田天王社
 
同、おさる堂部拡大 

 図会は、金蔵寺そのものが庚申堂(御猿堂)であるかのようにいっているが、実際は庚申堂(御猿堂)が金剛寺の境内にあった別院で、その三猿像が評判となったことから、金蔵寺まで庚申堂の名で呼ばれるようになったという。
 なお青蓮院蔵の記録に「寛永7年3月再建。一堂安置三猿、称御猿堂。後年加青面金剛像」とあり、御猿堂の開創は江戸時代前期頃で(寛永7年:1630)、まず三猿が祀られ後に青面金剛が加わったという。

 また名勝図会には、尊勝院について
 「尊勝院  御猿堂の南の丘にあり。青蓮院御門跡の院内也。天台宗にして山門尊勝院の別院なり」
とあり、上記縁起に
 「その後、青蓮院三条白川坊の裏に移されたと伝える」
とあるのが当院で、三猿像は明治3年金蔵院の廃寺に伴い尊勝院に移され、大正4年尊勝院の移転により現在地に移されたと思われる。

 江戸時代の粟田口庚申堂は巷間に広く知られていたようで、管見した文献資料として
*尤の草紙(1633) 「都粟田口に庚申堂といへる宮あり。中尊は、いは猿とて口をふたぎて有。脇立はみ猿・きか猿なり。伝教大師の御猿なり。
 歌に『何ごとも いはざる きかざるは ただ仏にはまさるなりけり』とあり、公事(訴訟)ざたにかかずらふもの、此お猿をむかへて我いえにおき、対決の場に出ければ、かならず其公事勝ちに成る由いひつたへ侍りぬ」
とあり、訴訟に際して、この不言(イワズ)の猿に祈れば、相手は口をつぐみ、勝訴できるとされていたという。

*出来斎京土産(1675頃) 「世の人、この猿に願たて祈りをなし、若は公事の訟、対決の時、此のいはざるを祈れば敵方言葉につまりて負にならんといひはやらかし、うつくしき浮世袋をかけ、色よき小袖をきせ、十七燈、洗米御供なんど供ふ」

*都名所車(1714) 「嵯峨天皇の御宇伝教大師の開基。元三大師堂あり。此堂の下の方に金蔵寺とて庚申の社あり。いつも庚申(カノヘサル)の日に参詣おびただし。・・・庚申の申は見猿・いは猿・聞猿とて三つの猿と立し猿なり。
 いつも庚申の日は燈明供物を供へ、人の心を猿にたとへ、身のいましめをかたちにあらわし、世の中の悪事おこりて身命を滅ぼすは、此の口・耳・鼻の三色より悪事出る。是を人々にたしなませんための形なり。それを知らずして福寿祈るはおろかなり」
などがある。

※尊勝寺本尊
   元三大師(ガンサンタイシ)

 元三大師(912--63)とは、平安中期の天台宗の僧で、僧名は「良源」。
 比叡山延暦寺にあって55歳の若さで第18代天台座主となり、荒れていた比叡山の復興発展に尽力し比叡山中興の祖と仰がれた僧で、「慈恵」(ジケイ)との諡を賜ったことから慈恵大師と呼ばれた。
 その慈恵大師の命日が正月三日だったことから通称「元三大師」と呼ばれ親しまれていたが、他にも、疫病が流行ったとき、夜叉の姿となって疫病神を退散させたとの伝承から「角大師」(ツノタイシ)とも呼ばれ、2本の角をもち骨の皮だけにの痩せた図絵が残っている。


慈恵大師座像
(京都・曼殊院蔵・重要文化財) 
 
角大師像

※境内
 境内には、正面の本堂と右奥に地蔵堂があるのみで、社務所も無人。通常の日には訪れる人もなく寂れているといった印象が強い(前回訪れた庚申日にはそれなりの人が参詣していたが、10数年経った今どうなっているかは不明)
 上記したように、今回の訪問時には本堂が閉まっていて、撮影できたのは本堂外観のみで、本堂内の画像は前回撮影したもの。


本堂(今回撮影) 
  本堂(前回撮影、扉が開いている)

◎内陣
 本堂内は仕切りの格子によって外陣・内陣に分かれ、また内陣前の格子は大きく三間に分かれている。
 その外陣左側の正面天井から「庚申尊」と書かれた大きな提灯が吊され、左に多くの括り猿が下がっている。

 
外陣左の括り猿

 

外陣正面
(左に括り猿が見える)

 内陣奥の中央に祭壇があり、正面の厨子のなかに本尊である元三大師像が安置されていると思われる。
 厨子の左に如意輪観音像があり、厨子と観音像に挟まれた奥に庚申尊(青面金剛)が祀られているらしいが、外陣からは暗くてよく見えない。

 この庚申尊祭壇について、外陣内に掲示されていた写真(下右)によれば、
 ・中央奥に厨子があり、庚申尊(青面金剛)が祀られていると思われる
 ・その前に大きな鏡があり、その両側に童子像二躰が立つ
 ・前面に三猿像6躰がみえるが、その並び方からみると片側4躰づつ、全部で8躰あるのかもしれない
 ・その場合、三猿は見ざる・聞かざる・言わざる・為ざる(セザル)の4猿となる(天台の猿は元々は4猿だったともいう)

 上記由来略記には「庚申尊−青面金剛尊と三猿−伝教大師作」とあり、叉見ざる・聞かざる・言わざるの所謂三猿は伝教大師・最澄が唐から将来したとの伝承があり、当院が天台宗に属していることから、この伝承を受けたものと思われる。


内陣中央の祭壇 
 
庚申尊祭壇部(写真転写)

 庚申堂とともに尊勝寺に移されたという「米地蔵」(ヨネジゾウ)とは、金蔵寺の本尊だったという尊像で、慈覚大師の作とも、大師が唐から招来したものともいわれ、
 「昔、粟田口にいた貧しい女が、常日頃この地蔵尊を礼拝していたところ、地蔵尊が米袋を持ってきて女に与えた。だから米地蔵という」
との伝承があり、米地蔵に祈願すれば米に不自由しないということで親しまれたという。

*地蔵堂

 本殿の右奥、覆屋の中に地蔵尊3躰が並び、扁額には「水子地蔵尊」とあり、由緒略記にいう水子地蔵・延命地蔵・子育て地蔵が是かと思われる。

 境内右手にある住宅が社務所らしいが無人で、他には何もない。


 

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