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妙見信仰/その他の妙見社

 大坂およびその近傍には、能勢あるいは星田妙見以外にも妙見信仰にかかわる幾つかの社寺がある。ただ妙見社として独立したものは少なく、末社・末寺として境内に併祠されているものがほとんど。そのうち参詣した幾つかを紹介する。

大阪

【天満天神宮・霊符社】−−大阪市北区天神橋1丁目
 祭神−−天御中主神
 天満天神宮は学問の神さま・菅原道真を祀る神社として知られるが、境内の東北隅、末社が並ぶ一郭に【霊符社】との小祠がある。社頭の案内には
 『ご祭神のアメノミナカヌシは、天地の初め高天原に成りませる天地創造の神』
とある。
 祭神をアメノミナカヌシとしたのは明治以降と思われるが、社務所で聞いても鎮座由緒などは不明とのこと。
 末社群が祠だけなのに比べて、当社は、小さいながらも鳥居・拝殿・本殿・狛犬などが整い、拝殿内の正面上部には「霊符社」の神額が掛けられ、天井から献灯2灯が下がっている。
 案内には「祭日は節分」とあるが、由縁不詳。春分正月であった旧暦で、新年を迎える前日に延命長寿を祈った古い祭祀の名残かもしれない。
【堀越神社・末社】−−大阪市天王寺区茶臼山町
 祭神−−太上神仙鎮宅霊符神
 天王寺・茶臼山の東麓(谷町筋沿)の堀越神社の、入ってすぐ右隅の巨樹下に『鎮宅霊符神』を祀る小祠がある。案内には
 『陰陽道における天地の中心に位置する宇宙根源の神とされ、鎮宅霊符は陰陽道最高の神とされている』
とあるが、鎮座由緒など不明。

 堀越神社は、聖徳太子が叔父・崇峻天皇を偲んで、四天王寺創設と同じころ、風光明媚な茶臼山の一角に建立したとされる古社で、祭神は『崇峻天皇』。社務所無人のため詳細不詳。

妙見宮・正面

江戸時代の境内
(大阪名所独案内)
夫婦池 能瀬妙見宮 正善院】−−大阪市北区天神橋3丁目
 祭神−−妙見大菩薩
 阪神高速道路・守口線の開通(昭和43年)以前、扇町公園の東側を“堀川”が北流していた。昔、その堀川が天神橋筋3丁目辺りで東へ向きを変える辺りにふたつの池・“夫婦池”があり、その埋立跡に勧請されたのが当妙見宮。
 正善院の“しおり”によれば、
 「天保9年(1838)、能瀬氏32代頼功が幕府の命により長男頼富と共に夫婦池跡地(埋立時期不明)に天満屋敷(現正善院)を建造し、その邸内に妙見堂を建立、能瀬妙見山の霊像を法華勧請したのがはじまり」(大意)
という。
 江戸時代の当宮について、摂津名所図会(安政2年1855)に、
 「池はうづみて平地となり、ここに能瀬侯の邸を建てられ門内に妙見堂を勧請あり。これは摂州能瀬郡妙見山の本尊同体の霊像にましませば、応験わけて新たなりとて、貴賤つねに詣でて間断なし。ことさら午の日は縁日なりとて詣人群をなし、夜店など多く出ていと賑はし」
と、境内に幾つかの社殿を有しての賑わいぶりを記している。

 かつての夫婦池を舞台とした文芸作品として、「津国夫婦池」(1721、近松門左衛門)・「芦分船」(1675、一無軒道治)・「浅茅が原」(1776、上田秋成・雨月物語)などがある。いずれも夫婦愛とその悲劇を語ったもの。

 今の妙見堂は、旧夫婦橋の東約100m、旧堀川の一筋南の道路沿いにビルにはさまれた現代風コンクリート造として残っている。正面に「妙見大菩薩」との額を掲げ、扉には能勢妙見山の矢筈紋が描かれ、能勢系の妙見さんであることを示している。
 今、正善院は隣接するビルの中に納まっているが、“しおり”によれば、
 「日蓮上人誕生の地・大本山誕生寺の直末寺で、慶長13年(1608)に梅ヶ辻(中央区谷町9)に創建された寺で、明治30年(1897)34代頼萬の紹願により天満屋敷・妙見宮に移転した」
寺院という。
                                        2009.3.14改訂


【妙見山感応寺・妙見堂】(上神谷ニワダニ妙見)−−堺市南区富蔵
 本尊−−妙見大菩薩
 縁起によれば、
 『妙見信仰が盛んだった江戸中期には、能勢・星田妙見とともに大阪三大妙見といわれ、大阪や堺だけでなく遠く和歌山などからも多くの信者が集まった』
という著名な妙見堂だが、交通の便が悪いためか衰微し、今は地元の人にも忘れられた霊場と化している。
 案内書きによれば、
 『妙見山感応寺と称し日蓮宗に属する。九星(生まれ歳の星)の守り神で、北極星を神格化した妙見大菩薩を祀る。
 寺伝によれば、大化元年(645)唐の聖僧・法道仙人が、当地で大乗法華経を誦していたとき、北極星が童子に化して顕れた。その姿を一刀三礼の儀をもって浄刻し、祠を建てて祀ったのが当寺の起源』
とあり、続けて
 『妙見堂は江戸初期の万治元年(1658)に、泉州堺・妙国寺の大檀那である錺屋籐左衛門が妙国寺の世応院・日俊上人を導師として開山した。云々』
とあり、境内には、籐左衛門の顕彰碑がある。

 道端に立つ鳥居をくぐり直進すると妙見堂があり、その前にも瓦葺きの鳥居が立っている。妙見堂は唐風破風をもつ堂舎でだいぶ荒れている。堂内の格天井(ゴウテンジョウ)にはいろんな紋所が描かれている。昔は美しかったであろう。その奥、本堂上部には“お題目”を記した日蓮宗独特の額が掛かっているが、仕切り扉が閉まっているため、本尊・妙見像の形姿は不明。境内の何処にも人気がなく、詳しいことはわからない。

 ちなみに上神谷と書いて“ニワダニ”と読む。伝承では、伊勢の能褒野で亡くなったヤマトタケルの魂が、白鳥となって大和へ飛び来たったとき、まず鉢ヶ峰に降り、次いで富蔵山の上を飛んで鳳に降り立った。神が降り立った処から“上神郷”(カミツ・ミワノサト)と呼ばれ、それがミワノサト→ミワダニ→ニワダニと訛ったものという。

京都

【行願寺(革堂・鎮宅霊符神堂】−−京都市中京区寺町通竹屋町上行願寺門前町
 祭神−−鎮宅霊符神
 行願寺は西国三十三番観音霊場第19番札所・通称【革堂】(コウドウ)として知られ、本尊は千手観音菩薩、天台宗延暦寺派に属する尼僧寺院。

 鎮宅霊符神堂は本堂左手すこし離れてあり、軒先に鎮宅霊符神と墨書した赤い提灯が数個下がっているだけで、中の様子は不明。
 鎮座由緒など、拝観受付で尋ねても不明とのことだが、資料(福永光司「日本の道教遺跡」)によれば、
 『当神堂は文化10年(1813)建立で、本尊は「北辰妙見菩薩、一名・鎮宅霊符神」と称する15pほどの青銅製尊像というが、秘仏とされているため詳細不明。ただ、秘仏の前に“前立尊像”が祀られていて、その姿は道教寺院のそれにそっくりで、“革堂行願寺、その歴史と信仰”との冊子には「道士風の宰神」と記されていた』
とある。天台密教とのかかわりのなかで祀られたのであろう。

閑臥庵・山門

閑臥庵・鎮宅霊符神堂
【閑臥庵・鎮宅霊符神堂】−−京都市北区鞍馬口寺町西入新御霊口町
 祭神−−鎮宅霊符神
 京都地下鉄烏丸線・鞍馬口駅の東100mほどの住宅地にある禅寺。黄檗宗に属し、『瑞芝山閑臥庵』(ズイシサン・カンガアン)と号する。間口はやや狭いが奥行きの深い敷地で、黄檗宗独特の山門を入った突き当たりに『鎮宅霊符神堂』があり、その奥に閑臥庵本堂がある。閑臥庵の本尊は釈迦如来。
 由来書・案内書をまとめると、
 『天の枢位にまします北辰鎮宅霊符尊神は、十干十二支九星を司る総守護神で、過去・現在・未来の三世の運勢を主宰し、人生一代の幸福を守護し給い、方除(カタヨケ)厄除(ヤクヨケ)の霊神である。円融天皇(970〜84)が陰陽博士・安倍清明(921?〜1005)に命じて尊像を造り、御所の守護神として洛北貴船の奥の院に祭祀された。
 当閑臥庵は、江戸・正保(1644〜48)のころ、後水尾法皇が父・後陽成天皇の夢告(鎮宅霊符神の夢告ともいう)によって、王城鎮護のため貴船の奥の院から御所の真北にあたる当地に勧請されたもので、わが国黄檗宗第6代管長・千呆禅師開山』
という。妙見菩薩が多い仏教寺院で、鎮宅霊符神を祀るのは珍しい。

 霊符神堂内には、正面中央に鎮宅霊符神が、その左右に道教風に彩色した尊像が祀られているが、暗くてよくわからない。本尊・霊符神像は、丸くふくよかな尊顔に王冠をかぶり道士風の服を着た2mほどの座像で、全身真っ黒。最初から黒いのか、年月が経っての変色なのか不明。また尊格縁起等も不明。
 寺の方の話では、右の彩色立像は“韋駄天”(ヒンドゥー教シヴァ神の子・スカンダ。仏教に入って仏法の守護神となった天部の神。足が速いとされる)だが、左の2躰(翁と女神像)は不明とのこと。

 なお閑臥庵は、黄檗宗に伝わる“京普茶料理”を提供することで知られている(要予約)

 京都には上記以外にも、「京十二支妙見めぐり」の寺院ををはじめとして、多くの妙見社があるというが未参詣。
また、奈良・「ならまち」にも『鎮宅霊符社』を名乗る古社がある。詳細は別稿・「ならまちの神さま−2」参照。

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