トップページへ戻る
*スペイン紀行から 2001.07訪問

スペイン/カテドラル(大聖堂)

 キリスト教諸国のなかでもカトリックの牙城であるスペインには、各都市毎に大きな教会堂が建てられている。
 旅で訪れる教会はある程度観光地化したものがほとんどだから、それをもってスペインの教会全体を云々することはできないが、以下、印象に残った幾つかを紹介する。

※カテドラルとは
 訪れた教会は所謂『カテドラル』(大聖堂)と呼ばれるものである。カテドラルとは、ラテン語で「王座」を意味する“カテドラ”に由来し、ローマ時代後期に“司教の座る椅子”すなわち「司教座」との意味が加味され、そこから、“司教座が置かれた教会堂”を『カテドラル』と呼ぶようになった。正式には「司教座聖堂」と呼ぶべきだろうが、通常は『大聖堂』と呼ばれる。
 司教がいる教会堂という意味では、何時の時代にあってもカテドラルは有りえるわけだが、特にゴシック様式による巨大教会堂を指すのが普通で、パリ南西に再建されたサンス大聖堂がその嚆矢だという(1140〜68築)

 それまでの教会建築であったロマネスク様式に比べて、12世紀にはじまるゴシック様式を際だたせるものは“高さ”と“光”で、それは、神の国できるだけ近づこうとする当時の人々の願いを具現するものであった。
 大聖堂正面玄関の左右にそびえ立つ鐘塔、三つに分かれた出入り口を縁取る尖塔形のアーチ、壁面各処に見られる垂直の線などは、どっしりした石造建物であるにもかかわらす、見る者をして神の坐す天空へと誘う軽やかな昇揚感を感じさせる。

 それまでのロマネスク様式が、建物の重量を石の壁をもって直接支える単純な構造だったのに比べて、ゴシック様式では、上からの重みを力学的に斜め横に逃がすことで壁を薄くし且つ広い開口部を開くことが可能になり、その結果、縦長の窓を華麗に飾るステンドグラスや飛梁や控え柱を効果的に配置・装飾するこによって、天に昇るような軽やかな飛翔感を与えてくれる。
 それは大聖堂内部にもいえる。ほの暗い堂内にはいると、視線は縦長の身廊によって奥の主祭壇へ、そして身廊の両側に建ち並ぶ柱列のすっくと伸びた垂直線によって天井アーチの高みへと導かれる。
 これら垂直に伸びる構造物の組み合わせは、見る者をして心身挙げて天空へ向かうような上昇感を覚えさせる。

 その高所から射しこんでくるのは、ステンドグラスを透過した柔らかな光である。
 神は最初に光を創造したというが、それは神そのものでもある。ゴシックの聖堂にみられる数多くの窓は、単に明かりの取り入れ口ではなく、神秘的な光で堂内を満たし、そこに神の臨在を感じさせる仕掛けだといえる。
 ゴシック大聖堂における神秘的な光と、天空へ向かう昇揚感、それらは世俗界を超越した天上の都・神の国の地上での実現であり、誕生から死に至る一生がキリスト教と密接に結びついていた中世の人々に対して、精神の拠り所・希望の場所を与えることでもあった。

 大聖堂の基本的な平面プランはラテン十字架で、聖堂全体が“磔刑のキリスト”を象徴している。
 左右に高々と鐘塔が聳え、豊富な彫刻群で飾られた正面入口(西側)から堂内に入ると、真ん中の“身廊”と両側の“側廊”からなる広々とした広間があり、身廊と側廊の間に立ち並んだ柱が天井のアーチを支えている。
 身廊の奥が東方を向いた“祭壇”でイエスの頭に当たる。
 身廊と十字架の横棒にあたる“翼廊”との交差部には中央アーチが被さり、南北の翼廊先端にも左右に塔をもった入口がある。これが理念上最も完全なカテドラルだという。

 これに対してスペインのカテドラルは、身廊の途中に“聖歌台”をもつという特徴がある。
 聖歌台といっても、単に歌をうたう場所ではなく、聖堂内に別の建物を持ちこんだような造りである。
 外壁はマリア像や聖人像などで飾られ、内部には細かい彫刻などを彫りこんだ聖歌隊の椅子席が並び、その一画に大きなパイプオルガンが座っているのが通常の構造で、聖歌台全体が、その時代を代表するさまざまな工芸品で飾られた芸術作品となっている。
 そこで奏でられるパイプオルガンの響きと聖なる歌声は、ミサに列する人々にとって主を讃える天使の歌声そのものと聞こえたであろう。

 今回の旅で幾つかのカテドラルを拝観したが、規模・外観・堂内結構とひとつとして同じものはなく、それぞれに個性的であった。しかし、おしなべて、黄金で埋め尽くされた祭壇のきらめき、壁面を飾る彫像や絵画、豪華な聖歌台、そこに柔らかく射しこんでいるステンドグラスの輝きといった各処に、「太陽の没することのない帝国」といわれたかつてのスペイン王国の繁栄を垣間見ることができる。


※トレド
 スペイン中央部に位置するトレドは、首都がマドリードに移るまでのスペイン王国の首都であった。
 記録に出てくる最初のトレドは「紀元前190年、ローマによって征服された要塞」とあるから、古くからの拠点集落であったらしい。ローマ帝国は第2次ポエム戦争(BC218)の後、イベリア半島のほぼ全域を支配下に収めるが、トレドはカルベタニア県の県都・トレトゥムとして神殿・円形劇場などを有するローマ風の町だったという。。

 5世紀初頭のイベリア半島では、北のピレネー山脈を越えて侵入したヴィシゴート族(西ゴート族ともいう)が先住民族を追って王国を興しトレドに首都を置くが(507〜568)、それも約1世紀半しか続かず、711年北アフリカから侵入してきたイスラム教徒によって瞬く間に制圧されて消滅していった。

 このイスラムの侵入とその撤退まで(711〜1492)が、スペイン中世史のほとんどを占める“国土回復運動”(レコンキスタ)の期間である。
 レコンキスタの前半8〜10世紀にかけてのイベリア半島は、“後ウマイヤ朝”(756〜1031)の圧倒的優勢のもと、キリスト教勢力は北部山岳地帯での閉息を余儀なくされるが、10世紀末からはじまる後ウマイヤ王朝の衰退と崩壊に伴うイスラム勢力の分裂に乗じて、キリスト教勢力はその支配地域を次第に南へ広げていく。
 そのなかで、トレドは1085年という早い時期に再征服(キリスト教側からいえば解放)され、首都としての繁栄がはじまったという。

 トレド旧市街地は、東西約1.5q、南北約1.3qほどのややいびつな円形をした小さな町だが、その東西南の三方をタホ川が半円形に取りまく花崗岩の丘の上にあって、北側に城壁を築くことで容易に要塞化できるという地勢をもつ。
 トレドを象徴するのは、東よりの最高所を占める“アルカサル”(ローマ時代の城塞)と中央の聳える“カテドラル”(大聖堂)で、このふたつを囲んで狭い路地が絡みあった木の根のように広がり、所々に小さな教会が建てられている。
 車一台がやっと通れるほどの狭く曲がりくねった路地、その狭い路地に覆いかぶさるように建っている2・3階建ての古い建物、簡素な出入り口と格子のはまった小さな窓、それらが独特の風情をもって旅人の心情をくすぐってくる。トレドとはそんな町である。
 今、旧市街地の建物は、外観の変更は禁止され、古い姿の保存に努めているという。

現在のスペイン・トレド旧市街地
現在のトレド旧市街地(中央の尖塔がカテドラル)
  帰り道、町の南側に回って三方をタホ川に囲まれたトレドを眺めた。深く抉られた川越しに眺めるトレドは、
   グレコ作『トレド景観と地図』からうける印象とほとんど変わりなく、400年あまりの時の流れを忘れさせるものである。
そういう意味でトレドは確かに古都である。

◎カテドラル
 トレドにおける信仰の中心であるカテドラルは、ヴィシゴート時代から続くスペイン・カテドラルの首座という伝統を誇る大聖堂で、今のそれは、フェルナンド王の命により1227年着工、270年近くの年月をかけて1493年に完成したという。

スペイン・トレド・カテドラル・正面
トレド・カテドラル・正面
トレド・カテドラル・祭壇
トレド・カテドラル・祭壇屏
トレド・カテドラル・聖歌台
トレド・カテドラル・聖歌台内部

 当カテドラルはフランス・ゴシック様式を基本とし、その後、さまざまな改造が加えられた建物で、長113m・幅57m・高45m。正面に鐘塔1基をもっている。薄暗い堂内に入るとまず聖歌台が目にはいる。

 トレドの聖歌台は司教座首座というだけあって豪華なものである。
 細かな細工を施した椅子席が上下2段に並び、ゴシック様式の下段椅子席(50席)のうしろは、フェルナンド・イザベラのカトリック両王によるグラナダ征服の場面で飾られ、上段の椅子席(70席)後ろはは少し時代が降ったルネッサンス様式とのこと。上段椅子席の前には細かい模様が彫りこまれた細身の装飾柱が林立し、その上には聖人像が並んでいる。

 聖歌台のうしろに回り込むと正面に大祭壇が現れる。これは何れの都市でも同じだが、カテドラルの祭壇は“十字架に架けられたキリスト像”いわゆる“磔刑のキリスト”を中心に豪華に飾り立てられ、そのほとんどが光り輝いているている。
 祭壇には黄金色に輝く巨大な“祭壇屏”が輝いている。小さく区切られた各区画には、受胎告知からイエス誕生、布教するイエス、十字架を担いでゴルゴダの丘へ歩むイエス、十字架降架、復活のキリスト、マリアの被昇天といった聖書の重要場面を表す人形が所狭しとばかりに並び、その上には磔刑のイエスが両側に二人の罪人を従えて立っている。
 たぶん、これら各場面を指し示しながらキリストの一生を語ることによって、字の読めない庶民を教化し、キリスト教を広めていったのであろう。

 大祭壇は豪華である。人々の祈りであれ視線であれ、ステンドグラスを透過してくる光であれ、すべてのものが収斂する聖なる場所が大祭壇であるかぎり、豪華で華やかであるべきかもしれないが、カトリックに馴染みの薄い我々からすると、神聖な宗教施設というより、豪華ショーを飾る大道具といった感じを抱かせる。

 トレドで一見すべきものとして、エル・グレコ(1541〜1614)作の宗教絵画・『略奪(聖衣剥奪)』と『オルガス伯爵の埋葬』がある。前者はカテドラル付属の聖器室に、後者はサント・トメ教会に飾られている(別稿「スペイン点描−1」参照)


※セビリア
 セビリアはスペイン南部、グアダルキビル川を河口から約100q弱溯った、大型帆船が航行可能な位置にある。
 この辺りはオリーブ・綿・小麦・果樹園などが広がる肥沃な土地で、そんな豊かな後背地をもつ川港であるセビリアは、ローマ時代からスペイン有数の貿易港として賑わったという。
 ローマ時代、この地にはヒスパリスと呼ばれる植民都市が置かれ、ウィシゴート王国もトレド遷都以前にはこの地を首都としていたというが、当時の遺構はほとんど残っていない。
 712年セビリアを占領したイスラム勢力は、この地に総督府を置き、後にコルドバへ遷都している。 
 後ウマイヤ王国崩壊後のセビリアは、幾つかのイスラム王国の首都として繁栄したが、1248年南下してきたキリスト教勢力によって再征服されている。
 レコンキスタ終了後(1492)のセビリアは最盛期を迎え、マゼランをはじめとして多くの冒険家がここから出航し、多くの新知識や財宝を持ち帰っている。そんな立地条件のもとで新大陸との交易権をほぼ独占したセビリアには、新大陸からの富が続々と流れ込み、16世紀初頭の20年ほどの間に、新大陸から運び込まれた金は14,000キロを超えたという。

◎カテドラル
 セビリアを象徴する歴史的建造物として『ヒラルダの塔』があり、町中のどこからでも見ることができる。元はイスラム・ムワヒッド朝時代(12世紀末)に建てられたモスクに付属するミナレット(H=70m)だったが、今は改築されてカテドラル付属の鐘楼(H=97m)となっている。

 そのヒラルダの塔の下に威容を誇るのが『セビリアのカテドラル』である。レコンキスタ後、イスラム時代のモスクを取り壊して建てられたもので、スペイン最大であるとともに、ローマのサン・ピエトロ、ロンドンのセント・ポールに次ぐ第3位の規模をもち、ゴシック様式では世界最大という。建造:1434〜1601年、奥行:126m、幅:83m、天井高:37m、総面積:23,500u。

 カテドラルの正面入口を「免罪の門」という。
 カトリック教会では、人は自分が犯した罪をまず悔いて反省し、教会の司教に懺悔(告白)し、最後にそれ相応の償いをすることで、犯したの罪は許されるとした。
 信仰ではなく、教会の権威によって罪が許されるわけだから、罪人は教会に来ることが必要で、そういう意味で、この門は“免罪へ至る門”ということかもしれない。
 ただ、最後の償いが“金銭による償い”という方向に進みすぎたことが、ルターによる免罪符糾弾の宗教改革を呼び起こし、キリスト教の分裂すなわちプロテスタントの成立へ進んだという一面もある。

 カテドラルの外観は、キリストあるいは聖人たちの彫像や細かい装飾模様で覆われ、そのなかにあって、南翼廊の入口上部のタンバンには「イエス聖誕時の三博士訪問」や「イエスのエルサレム入場」で飾られている。


ヒラルダの塔とカテドラル
(広場には観光馬車がたむろしている)

「免罪の門」
(正面入口)

「イエスのエルサレム入場」
(南翼廊入口)

主祭壇の祭壇屏

聖歌台・側面
(上部にパイプオルガンあり)

聖女(乙女)

 カテドラルの内部は、窓から射しこむ光はあるものの薄暗い。
 そのなかで、聖書の主要場面を表した主祭壇の祭壇屏のみが、黄金色に輝いている。他にもアルフォンソ五世の墓がある『王室礼拝堂』や15世紀の聖歌台、精霊降下の場面を描くステンドグラスなど見所があるが、一般受けするのは、コロンブスなど歴史上の人物を葬った墓であろう。
 右の側廊脇にコロンブスが、4人の王が担ぐ柩の下に眠っているし、メキシコ征服者のコルテスも又この聖堂に眠っているという。
 ただ私には、何か特別の伝承をもつ聖女だろうが、小礼拝室に一人で立っている乙女像が印象的であった。


※バルセロナ
 西地中海に面するスペイン東海岸の、北のどん詰まり近くにバルセロナはある。
 バルセロナの起源については諸説があるが、伝説では、紀元前3世紀に、カルタゴのハンニバル将軍の父ハミルカル・バルカがこの地にカルタゴ人の都市を築いたのがはじまりという。
 その後、ローマ時代には軍の宿営地となり、ヴィシゴート時代には一時的な首都が置かれたりしたが、8世紀初めにイスラム勢力に征服されている。

 732年、フランスに侵攻したイスラム勢力の敗退を追って進出したフランク王によって解放された(801)バルセロナ、“ヒスパニア辺境区”としてフランク王国の支配下に入り、港をもつ交易都市として頭角を現すが、10世紀末のイスラム勢力再侵入を機にフランク王国から離れ、“バルセロナ伯国”として独立(988)、以後、かつての辺境区全域を勢力下に収めるとともに、更に政略結婚によって隣国アラゴン王国との間に連合王国を誕生させ、イベリア半島東北部はもとより南仏プロヴァンス地方をも勢力下に置く大王国へと発展している。

 中世期のバルセロナは、14世紀にはイタリアのシチリア王国を15世紀にはナポリ王国を征服するなど地中海沿岸に進出して、ヴェネチアやジェノヴァなどと拮抗する通商貿易都市として最盛期を迎えている。

 バルセロナ伯国は1412年、男系継承者不在のため断絶するが、その遺産はカスティーリヤ王国からの入り婿によって継承されている。因みに、レコンキスタの実質的な遂行者であるアラゴンの王子フェルナンドはこの後裔である。

 ハクスブルグ・スペイン王朝(1516〜1700)下のバルセロナは、それまでの独立王国から一地方行政単位へと転落し、コロンブスのアメリカ大陸発見によって、それまでの地中海中心の通商交易が大西洋へと比重を移すなかで次第に衰微し、特にスペイン王位継承戦争でハクスブルグ家に荷担したことから、戦いに勝利したブルボン王朝(1700〜)から疎外され、それまでの自治権も剥奪されるという憂き目を見ている。

 そのバルセロナが今日のような近代的な大都市として蘇るのは、スペインで唯一成功した産業革命によってブルジョア階級が勃興した19世紀以降で、その都市再生の成果か1888年の万国博覧会開催であった。
 しかし20世紀のバルセロナは、スペイン内戦(1936〜39)で人民政府側に荷担したため内戦終結後のフランコ政権から徹底的に抑圧されるが、フランコの死後解放され、今は文化的活動の中心となっている。

◎カテドラル
 カテドラルが建つ“ゴシック地区”は、ローマ時代のバルセロナの北東部に位置するが、13世紀初めの市域拡張に際しての城壁撤去などにより、今、ローマ時代の遺構を見ることはできない。

 一見しての印象は、中世バルセロナの繁栄の跡が色濃く残っている地区で、商業施設が集中した所謂“下町”である。バルセロナの中心ともいえるカタルーニャ広場から、ゴシック地区の混雑する人混みを縫いながら南へ降ると、古ぼけたごみごみした一画にカテドラルは建っている。聖堂前の広場では青空市場(食料品主体)が開かれていて、テント張りの出店が並び多くの買いもの客で賑わっている。毎日開かれている市場らしい。

 典型的なカタルーニャ・ゴシック様式をもつこのカテドラルは、バルセロナ伯家が地中海へと進出し始めた頃に、ジャウメ二世(1291〜1327)によって、この地にあったゴシック教会を取り壊して建設されたもの(1298〜1422、正面中央の尖塔は19世紀の増改築)

 このカテドラルは、旅で見た各地のカテドラルのなかで最も完成した姿をもつというが、本来のフランス・ゴシック様式とは異なる特徴を持っている。

 一般のゴシック様式が、上からの荷重を逃がす飛梁や控え柱・控え壁が壁面の外に設けられているのに対して、カタルーニャ・ゴシックでは内部に取り込まれ、飛梁と控え壁の間にできた空間を小礼拝堂として使用する構造になっている。
 とともに、一般のゴシックが長い縦軸(身廊・側廊)に短い横軸(翼廊)とが交わったラテン十字形をなすのに対して、このカテドラルは翼廊がほとんど出っ張らない長方形で、正面には、入口正面には八角形をしたマッシブな鐘塔が3本聳えている。全体からうける感じは、軽快感・昇揚感というよりどっしりとした重厚感のほうが強い。

バルセロナ・カテドラル・正面
カテドラル・正面
カテドラル・正面入口
カテドラル・正面入口
カテドラル・聖歌台
聖歌台
カテドラル・主祭壇
主祭壇
カテドラル・祭壇屏
祭壇屏
カテドラル・黒いマリア像
黒いマリア像
(モンセラートのコピー)

 聖堂前の広場から階段を上がって三廊式の薄暗い堂内にはいると、目の前いっぱいに造られた大きな聖歌台が、中央祭壇に向かうはずの視線を遮り、側廊に沿って並んでいる小礼拝堂に献げられた蝋燭の炎が目に入ってくる。
 そこには、バルセロナの守護聖女・エウラリアや、レバントの海戦を勝利に導いたとされる“レバントの十字架”を安置する小礼拝堂、あるいは諸聖人に献げられたそれが並んでいる。
 そんななかで、聖堂左奥にモンセラートの黒いマリア像(別稿)のコピーが安置されていて、その前に献じられた数多くの蝋燭がこの像の人気を物語っている。
(聖女エウラリア−−AD30年のキリスト教大迫害時に殉教したという聖女で、船乗りの守護聖人という。伝説によれば、1211年当地にやってきた聖フランチェスコの予言によって発見されたといわれ、その遺骸とされるものが地下礼拝堂に安置されているという)

 このカテドラルの地下には初期キリスト教時代のバジリカ様式の聖堂が眠っているという(1944年発見)
 今残っている聖堂などで、古い異教時代の聖地の上に建てられているのは多い。そのひとつがバチカンのサン・ピエトロ大聖堂で、その地下にはケルト時代の多神教の祭祀遺構が埋まっているという。
 唯一神を信じるキリスト教の総本山が、多神教であったケルト・ドルイド教の聖地の上に建つというのも面白いが、それはわが国でも同じである。

 この現象は、そこが他に比べて幾分高いからとか、泉があるからといった立地条件からかもしれないが、そういった聖地の継承が世界各地で見られることは、その土地から発せられるオーラというか神秘的な聖性というか、人をしてその地に引きつける何かが発せられているからと思わざるを得ない。
 このカテドラルも、初期のバジリカ様式に続いてロマネスク様式・ゴシック様式と何代もの聖堂が建てられたということは、この地がキリスト教以前からの聖地であった可能性を含んでいるのかもしれない。

 今回の訪問は単独行動だったため案内者がおらず、堂内を駆け足で一通り見ただけに終わったが、このカテドラルを含めて当地区についての詳しい案内書を片手に丹念に歩けば、繁栄した中世バルセロナ時代の面白い遺構にぶっつかるかもしれない。

※コルドバ
 スペイン・アンダルシア地方の中心都市コルドバは、グアダルキビル川中流域に広がるスペイン最大の沃野に位置し、イスラム・後ウマイヤ朝(756〜1031)の首都が置かれた古都である(イスラム勢力のコルドバ制圧は711年)。
 後ウマイヤ朝の最盛期は10世紀といわれ、ハカム二世(961〜76)治下のコルドバは西方イスラム文化の中心として多数の知識人が集まり、東方イスラムの首都・バグダードに匹敵する大都市へと発展したが、11世紀にはいると衰退に転じ1031年には崩壊してしまっている。その後のイスラム勢力は、各地に乱立した小国家間の抗争とか、キリスト教勢力の拡大によって退潮傾向が続き、コルドバは1236年キリスト教勢力(カスティーリヤ王国)によって再征服されている。

◎カテドラル(メスキータ)
 コルドバ最大の観光施設といえばイスラムのモスク『メスキータ』だろうが、コルドバのカテドラルはメスキータの一画(中央部)を占めている。
 後ウマイヤ朝の“首都に相応しいモスクを”として建造された(785)メスキータは、当時のキリスト教教会を接収あるいは購入して建てられたと伝えられる。

 門を入ってすぐの“オレンジの中庭”を含めて175m×135mという大きな建物がメスキータだが、創建当時のそれは、木製天井をもつ9廊の礼拝室と中庭からなっていたといわれ、それがコルドバの発展に伴う人口増加に対応して3度にわたって拡張され、現在の規模は987年拡張時のものという(最終拡張時のメスキータは25,000人のムスリムが収容可能だったという)

 蒼天に突き刺さるように聳えるミナレット脇の“免罪の門”から入ると、オレンジとヤシの木が整然と並ぶ中庭が広がる。
 中庭を抜け、今、メスキータに残る唯一の入口“棕櫚の門”から入ると、堂内は一瞬真っ黒に見える。
 目が慣れてくると数少ない高窓からの光と少ない照明に照らされた堂内には、赤と白の石を楔形に組みあわせた横縞模様の馬蹄形アーチを二重にいただく大理石の柱が林立している。

 その柱列が何十列も平行する空間は、他に見られないメスキータ特有のもので、それがメスキータを有名にするとともに、イスラム独特の美的感覚を味わわせてくれる。

 メスキータの堂内には、赤と白との石をくさび形に組み合わせた縞模様の二重アーチで繋がれた大理石の柱が林立している。そんな柱が縦横何十列も平行している堂内は開放的で明るいものだったといわれ、そこでおこなわれる2万人を超えるムスリムの礼拝は荘厳なものだったと想像される。

 そんなイスラム特有のモスクであるメスキータは、キリスト教軍のコルドバ奪還(1236)後、キリスト教の『聖母被昇天教会』として接収され、沢山あった入口なり窓なりから光が降り注ぐ明るい堂内をもっていたモスクとしてのメスキータは、暗さを好む教会関係者によって出入り口や窓のほとんどが閉ざされ、今見るような薄暗い空間へと変貌したという。

 接収当時、壁に沿って設置されたイスラム風小礼拝室で我慢していた教会関係者は、中央祭壇をもつ大聖堂への改築を何度も試み、その都度市民の反対で断念していたが、1523年反対を押し切って時の皇帝カルロス五世の認可を得て、メスキータの真ん中にゴシック様式の大聖堂を造ってしまった。
 それが今見るメスキータで、ふたつの宗教が同居するという不思議且つ異様な空間を作っている。

 大聖堂そのものは、ゴシック・ロマネスク・バロックと当時の粋を集めたもので、それなりに荘厳且つ見所のある聖堂となっているが、それがメスキータ内に黒々とした塊として鎮座しているさまは、かつてのメスキータがもっていた統一感のある落ち着いた雰囲気をぶちこわしているともいえ、改装後のメスキータを見たカルロス五世()は
 「諸君のすることを知っていたら許可しなかったのに。諸君は何処にでもあるものを造っただけだが、前にあったのは世界の何処にもないものだったのだ」
と叫んだという。
 嘗てのメスキータを惜しむ人々によって作られた伝承とはいえ、“さもありなん”との共感をもつ言葉である。

メスキータ入口に立つミナレット
メスキータ入口に立つミナレット
メスキータ・内陣
メスキータ・内陣
二重の馬蹄形アーチで
連なった柱が林立している
大聖堂・祭壇
大聖堂・祭壇
聖歌台から中央祭壇を望む
聖歌台から中央祭壇を望む
(資料転写)
大聖堂・中央祭壇
大聖堂・中央祭壇


※グラナダ
 イベリア半島南部に位置するグラナダは、レコンキスタの嵐が吹き荒れる14世紀から15世紀にかけて、イスラム勢力最後の拠点だった都市で、グラナダは、滅びることを知りながら最後の煌めきを輝かせたことで後世に名を残したともいえる。

 グラナダを拠点としてイスラム最後の華を咲かせたのは“ナスル王国”(1238〜1492)で、その最盛期は14世紀といわれる。キリスト教勢力によるレコンキスタが勢いをもつなか、多くのムスリムがグラナダに逃げ込み、これらの人的資源の流入による学問・芸術の興隆は、イスラム文化の集大成という華を咲かせ、今、その成果の数々は“アルハンブラ宮殿”で見ることができる。

 一方、キリスト教側におけるカスティーリヤの王女イザベルとアラゴンの王子フェルナンドの結婚(1469)は、キリスト教勢力の一体化を意味し、この両王主導のもとでレコンキスタは最終段階へと突入していった。両王が各地で繰り広げる焦土作戦によってナスル朝下の諸都市が相次いで陥落し、グラナダもまた7ヶ月に及ぶ抗戦の末に開城し(1492年1月)、ここにイベリア半島におけるイスラム勢力は完全に消滅していった。

◎王室礼拝堂
 グラナダのカテドラルは、『王室礼拝堂』と呼ばれるイザベル・フェルナンド両王の墓所である(カテドラルと呼ぶべきか疑問もある)

 イザベル・フェルナンドのカトリック両王にとって、グラナダは特別の都市だったようで、イザベル女王はグラナダを墓所と定め1504年に建設を命じたという。
 イザベルはその年、夫フェルナンドは1521年と、いずれも墓所の完成を見ずに亡くなっているが、彼らの意志に沿って両王の遺骸を納めるのが『王室礼拝堂』である(1521完成、ただしフェルナンドの死後)

 礼拝堂で目をひくのは、祭壇の前に横たわるふたつの大きな石棺で、右の石棺の上にはイザベル・フェルナンド両王の寝姿が、左側石棺の上には、その娘でカスティーリヤ王国の継承者であったフワナ女王とその夫フェリベ王のそれが彫りこまれている。この下には、この2組の夫妻と孫ミゲル王子(2歳)の遺体が葬られているという。

 イザベル女王とフェルナンド王との結婚生活35年は、石棺の刻まれた銘文に
  『マホメット教の征服者にして邪悪な異端の撲滅者、アラゴンのフェルナンドとカスティーリヤのイザベル。
   夫と妻、等しくカトリック両王と呼ばれ、この大理石の墳墓に生き永らう』
とあるように、レコンキスタ・異教徒撲滅一色で、この異教徒撲滅という輝かしい偉業に対して与えられたのが、ローマ教皇からの名誉ある称号『カトリック両王』である。

グラナダ・王室礼拝堂
王室礼拝堂(側面)
グラナダ・王室礼拝堂・祭壇屏
王室礼拝堂・祭壇屏
グラナダ・王室礼拝堂・内陣
王室礼拝堂・内陣
グラナダ・カトリック両王の柩
王室礼拝堂・カトリック両王の柩
(手前がイザベル夫妻、奥がフワナ夫妻、資料転写)
壁画・グラナダ陥落
壁画・グラナダ陥落の場面
(右の白馬に乗っているのがイザベル女王、資料転写)

 歴史的に見れば、イザベル・フェルナンド両王の結婚によるカスティーリヤ・アラゴン両国の共同統治は、スペイン統一への第一歩であり、独立諸王国が並立していた中世に終止符をうち、スペイン王国という単一国家による近世の始まりを告げるものだったといえる。ただし、実態としてのスペイン王国は、イザベルの孫カルロス一世によるハクスブルグ朝スペインにはじまるといえる(1516)

トップページ^へ戻る