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スペイン点描-1
  トレド・コルドバ・セビリア・グラナダ
                                                                  2001.07訪問

 ほぼ15年前(2001)に訪れたスペイン、その時の記録と写真をもとに、訪れた観光地(トレド・コルドバ・セビリア・グラナダ)の印象を幾つか点描する(「カテドラル」など別稿記録との重複あり)

※トレド
 トレドは、スペインの首都がマドリードへ移る(1561)までのスペイン王国の古都である。
 記録上での初見は、「BC190年、ローマによって征服された要塞」との記録というから、それ以前から拠点集落として存在していたであろう。

 ローマ帝国は、第2次ポエニ戦争(BC218)後、イベリア半島のほぼ全域を支配下に収めたが、そんななかでトレドは、カルペタニア県の県都・トレトゥムとして、神殿・円形劇場などを備えたローマ風の都市だったという。

 時代が降って5世記初頭(ギボン・ローマ帝国衰亡史によればAD410年)のイベリア半島には、北のピレネー山脈を越えてヴァンダル族・スエヴィ族といったゲルマン民族が、次いで同じくヴィシゴート族が侵入し(大規模移民に近かったという)、先住民族を追って王国を興し(507)トレドに首都を置いたという(568、わが国では“西ゴート王国”と呼ばれることが多い)
 ヴィシゴート王国は、イベリア半島のほとんどを支配するなど一時代を画するが、一般民衆から遊離した支配体制から安定性を欠き、加えて選挙による王位継承という慣習から内紛・反乱がつづき、711年北アフリカから侵入してきたイスラム教徒によって瞬く間に制圧され、約一世紀半という短期間で消滅したという。
 ただ、ヴィシゴート王国におけるカトリック国教化(586)が、今に残るスペインのカトリック信仰の元という。

 このイスラム勢力の侵入から撤退までの期間(711--1492、約780年間)が、スペイン中世史で最も重要な一時期とされる「国土回復運動」いわゆる「レコンキスタ」と呼ばれる時期で、逆にいえば、レコンキスタに明け暮れたのがスペインの中世だったといえる。
*レコンキスタ--中世のイベリア半島で、国土をイスラム勢力からキリスト教勢力に奪還するために繰り広げられた争い。わが国では「国土回復運動」・「国土再征服運動」と呼ぶ

 レコンキスタの前半8~10世記にかけてのイベリア半島は、後ウマイヤ王朝(756--1031)の圧倒的優勢のもと、キリスト教勢力は北部山岳地帯に逼塞させられるが、10世記末から始まる王朝の衰退と崩壊に伴うイスラム勢力の分裂に乗じて、キリスト教勢力は一進一退を繰り返しながらも次第に支配地域を南に拡張しはじめる。
 そんななかで、トレドは1085年という早い時期に、カスティーリャ国王アルフォンソ六世(1072--1109)によって再征服(解放)され、首都としての繁栄が始まったという。

 トレドは、東・西・南をタボタ川が半円形に取り囲む花崗岩の丘の上にある都市で、東西約1.5km、南北約1.3kmほどのややいびつな円形をしていて、北側を城壁で囲みさえしたら容易に要塞化できるという地形をもっている。
 そこから、フェニキア人・ギリシャ人などが入植した古代以降、次々と入れ替わる支配者によって軍事・戦略上の要衝として争奪の対象にされてきたという。
 今に残された北側城壁も、ヴィシゴート時代のそれを基礎とし、イスラム以降に補強されたものだという。

 トレドのイスラム支配は約370年間、それを長いというか短いというか。
 コルドバ・セビリヤななどの南方諸都市に比べると約半分という短い期間で、その間に刻まれた痕跡は、その後の歴史のなかで破壊・改築・補修が繰り返されたこともあって、当時の姿のままで目にすることはできない。

 
トレド遠望(南側・タボタ川対岸より)

 タボタ川の南岸から眺めたトレド(上の写真)は、グレコ描く『トレド景観と地図』からうける印象とほとんど変わりなく、400年余りの時の流れを忘れさせるもので、その意味でもトレドは古都である。

 トレドを象徴するものは、東部の最高所を占めるアルカサル(ローマ時代からの要塞で破壊と再建を繰り返し、いまのそれは1936再建のもの、写真右側の高い建物)と中央にあるカテドラル(大聖堂、写真中央の高い塔)で、この二つの建物を取り囲むように、狭い路地が絡み合った木の根のように広がり、所々に小さい教会が建っている。

 
北側城壁(絵葉書)
 
同 左(ビラクサ門付近)

 車一台が通れる程度の狭く且つ曲がりくねった路地、その狭い道に覆い被さるように立っている2・3階建ての古い建物、簡素な出入口と鉄格子のはまった小さい窓、それが町全体に広がる、というのが、ガイドに連れられて門から教会までを往復した旅人の印象である(旧市街地は国定記念物として、外観の改造・新規建物の建造は禁止されているという)

     
     
やや広い道路で土産物店・食堂等多し

◎エル・グレコ
 トレド大聖堂の聖器室は一種の美術館になっている。
 黄金と宝石で光り輝く十字架とか何枚かの宗教画他が展示されているが、ここでの白眉はエル・グレコ(1541--1614)の『聖衣剥奪』(略奪ともいう)であろう。
 処刑に先立ってイエスの衣装をはぎ取ろうとしている刑吏たちを描いた画で、中央に大きく描かれた長身のイエスが身にまとっている上布の赤、“グレコの赤”と呼ばれる独特の赤が、天の彼方を見上げるイエスの神秘的な眼と一体となって迫ってくる。

 ここで衣服を奪いあうことは、単に物欲によるものではなく、イエスという人がもっていた神秘的な力、それが乗り移っている衣服を奪い身につけることで、その力を我がものにしようとする願望によるものという。


聖衣剥奪 
 
オルガス伯爵の埋葬 

 トレドにはエル・グレコの作品が幾つか残っているが、その一つ『オルガス伯爵の埋葬』という絵がサント・トメ教会に飾られている(上右写真)。見学者が多いためか、教会内陣とは別に、建物の一画を区切って、この絵のみが飾られている。

 伝承によれば、
  「1323年、町の貧窮者救済に尽くしたオルガス伯爵が亡くなったとき、天から二人の聖者が降りてきて伯爵の遺体を埋葬したが、その時、『神と聖者に仕える者は、このような褒賞を得るのだ』という伯爵を称える声が聞こえた」
という。

 この伝承を絵にしたのが“オルガス伯爵の埋葬”で、絵は上下二つの場面に別れている。
 下半分は地上界での埋葬の場面で、甲冑で身を包んだ伯爵の亡骸を二人の聖者が抱きかかえ、周りを人々か取り巻いている。
 これに対して上半分は天上界で、ぼんやりとした故伯爵の霊魂が天使に抱かれてキリストの膝下に連れられていく“被昇天”の有様が描かれ、ここでも被昇天を見守るマリアの赤井衣が画面を引き締めている。
 この絵は、キリスト教における魂の救済と栄光を描いたものという。

 *エル・グレコ--本名ドメニコ・テオトコプーはクレタ島出身のギリシャ人で、エル・グレコとは「あのギリシャ人」といった渾名。父親に連れられて移住したヴェネチアで絵を学び、ローマをへてスペインに来て、トレド大聖堂の聖衣剥奪で世に知られ、スペイン各地に多くの絵を残している。
 グレコの特徴は、赤・真紅の使い方とともに主人公の身体が異常に長いというところにあるとされる

※コルドバ
 紺碧の空に映える真っ白な家並み、これがコルドバ、というよりアンダルシア地方からうける第一印象である。

 コルドバは、レコンキスタ時代にはイスラム勢力の中心として、“後ウマイヤ朝”の首都が置かれた町である。
 スペイン最大の沃野グアダルキビル川の中流域という立地から、すでにローマ時代から多くの植民者をうけいれ、スペイン南部バティカの州都として知られた町で、つづくヴィシゴート時代にも、アンダルシアの中心都市として総督府が置かれていたといい、当寺の遺構であるローマ橋が今もって現役として使用されている。

 7世紀の初め、予言者ムハンマドによって興されたイスラムの教えは瞬く間にアラブ人の間に広まり、正統カリフ時代が終わった661年に建国されたアラブの帝国ウマイヤ朝(661--750)は、8世紀初頭にはエジプトを超えてアフリカ北部にまで勢力をひろげ、ジブラルタル海峡まで達していく。
 イスラムを奉じるアラブ人とベルベル人(北アフリカの先住民)の連合軍は、ヴィシゴート王国の内紛につけ込んで、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入したのは711年だという。
 時の総督ムーサに派遣された先発隊は、ヴィシゴート軍を蹴散らしながら一路首都トレドを目指しこれを占領。一方、分遣隊に攻撃されたコルドバはさしたる抵抗もなく陥落したという。
 つづく総督自ら乗り出した半島進出によって、アンダルシアからカスティーリヤ・ガリシア地方の各都市が相次いで陥落し、4年とも5年ともいわれる短期間のうちにヴィシゴート王国は滅亡し、キリスト教勢力は半島北の山岳地帯に逼塞されていったという。

 イスラムの統治といえば“コーランか、さもなくば剣か”というが、実際は違っていて、コルドバに総督府を置いたイスラムは、力による制圧よりも、一定の貢納を条件に住民の生命・財産・信仰を保証するとともに自治さえ与えるという緩やかなもので、一般住民、特にそれまで冷遇されていたユダヤ教徒からは歓迎されたという。

 そんななか、シリアのダマスクスではウマイヤ朝が滅亡し、アッパース朝(750--946)が台頭してくる。このウマイヤ朝滅亡に際して、王族の一人アブド・ラフマーが乱を逃れてモロッコに至り、支持者を集めて半島に進出して興したのが“後ウマイヤ朝”(756--1031)で、その首都として繁栄したのがコルドバという。

 後ウマイヤ朝の最盛期は10世記、アブド・ラフマーン三世(912--61)・ハカム二世(961--76)の統治下で、ラフマーン三世は、即位直後から各地に盤踞する反ウマイヤ勢力を征圧して支配地のイスラム化を推し進め、979年イスラムの盟主としてのカリフたることを宣言している。

 ハカム二世統治下のコルドバは、西方イスラム文化の中心として多数の知識人か集まり、大図書館が建造されるなど、東方イスラムの首都バグダードに匹敵する都市へと生長していったといわれ、ある史料には
 「コルドバはバグダート以西で最大の都市であり、バグダートのティグリス河東岸から西岸のいずれかに匹敵する市街地が連なり、郊外地区と本市との間には広大な庭園・墓地・空き地があった」(テブン・ハウカルの訪問記)
と伝え、別の史料では、
 「モスク471ヶ所、民家21万、貴族の館6万、店舗8万」
とか、
 「毎日、塩漬けの鰯が金貨2万ディナール分、燃料がロバ6600頭の荷物分を必要とした」
とあるという(数字は誇張されたものという)

◎ユダヤ人町 La Juderia(ラ・フデリア)
 コルドバ最高の観光名所・メスキータの北西一画を占めるのが“ユダヤ人町”である。
 とはいっても、ガイドに“ここがユダヤ人町”といわれても、それが、他の一般地区とどう違うのかはわからない。
 町の中にちいさなシナゴーク(ユダヤ教の教会)か゜残ってはいるが、それとても、ガイドに示されて“そうか”と思うだけで、ましてや、今ここにユダヤ人がどの程度住んでいるのかなどはわからない。

 コルドバの旧市街地にあるユダヤ人町も、トレドやセビリアのそれと同じように、両手をひろげると手が壁に届きそうな狭い車一台がやっと通れそうな路が複雑に入り組み、所々に小さな広場がある。
 そんな建てこんだ家々の分厚い壁が真っ白に塗られ、その白壁や数少ない開口部が草花で飾られているのが、コルドバの、というよりアンダルシア地方の特色といえる。

 この路が狭いことと外壁に開口部が少ないことは、暑い夏を過ごすための古来からの知恵だというが、一歩家の中に入ると、どの家にも中庭(パティオ)があり、そこには草花や樹木で飾られた開放的な空間が広がっている。
 陳腐な表現だが、真っ青な空の下に連なる白を基調とした家並み、壁から突き出た古風な街灯、磨り減った石畳という町並みの雰囲気は、異国情緒を満喫させるものではあった。
 なお、ガイドブックによれば、当地には壁一面に草花が飾られている“花の小路”という区画があるというが、夏という時期のせいか、それらしき処は実見できなかった。

 そんな小路を自由に歩き回るのも一興だろうが、ツアー客としては、先を行くガイドを片目で追いながら、写真を撮るという忙しさで、当地区がもつ雰囲気に浸る暇のない見学だった。

       

花の小路(絵葉書) 

花の小路か 
 
花の小路か

 我々は通常、ユダヤ人町といえば“ゲットー”を連想するが、スペインに残るユダヤ人町はゲットーではない。
 ユダヤ人だけがまとまって住まわさせられたのがゲットーの呼ばれる区画で、それは外部権力によって強制されたもの、ユダヤ教徒をキリスト教徒から隔離するために(逆にいえば、そこにキリスト教徒を住まわさせないために)支配者によって設けられた一画で、管見するかぎりでは1516年のヴェネチアのそれが最初という。

 これに対して、都市のユダヤ人たちがシナゴークや小会堂といった日々の生活に必要なユダヤ教施設の近くに集まって住んだのが“ユダヤ人居住区”で、そこにはキリスト教徒も自由に混住していたといわれている。

 このように、外部の力によって居住を強制されたのがゲットーで、自由意志で集まって住んだのはユダヤ人居住区という違いがあり、今のスペインでユダヤ人町といわれているところは、ほとんどがユダヤ人居住区だったという。


※セビリア
 セルビアは、グアタダルキビル川の河口から約100km弱、中世の大型帆船が航行可能な河岸に位置する。
 この辺りはオリーブ・綿・小麦・果樹などの畑が広がる肥沃な土地で、そんな豊かな後背地をもち大型帆船が停泊可能な川港であるセルビアは、ローマ時代からスペイン有数の貿易港として栄えたという。

 ローマ時代、この地にはヒスパリスと呼ばれる植民地都市が置かれ、ヴィシゴート王国も、トレド遷都以前はこの地を首都としていたというが、当時の遺構はほとんど残っていない。

 712年、セビリアを占拠したアラブ・ベルベル連合軍は、この地を最初の首都として総督府をおいたという(718年コルドバへ遷都)。後ウマイヤ朝崩壊後のセルビアは、在地勢力であるアッバード朝(1020年代)あるいは北アフリカから侵入してきたムラービト朝・ムワッヒト朝の首都として栄え、今に残る“ヒラルダの塔”などは、最後の王朝ムワッヒト朝の栄華を偲ばせる建物だが、じわじわ南下するキリスト教勢力に押され、1248年に再征服(キリスト教徒の手に落ちた)されたという。

 セビリアの真の繁栄はレコンキスタ終了後にやってきたという。レコンキスタ完了の都市1492年はまたコロンブスが新大陸のサン・サルバドルに到着した年でもある。
 セルビアとコロンブスとは直接的な関わりはないが、新大陸がヨーロッパでもアジアでもない、またアフリカでもない未知の大陸であることを発見したアメリゴ・ヴェスプッチ(1505年、アメリカ大陸という名の由来)とか、初の世界一周を成功させたマゼラン一行(1549--1522)などが母港としたのがセビリアで、それらに象徴されるように、新大陸との交易権を独占したセビリアには、新大陸からの富が陸続として流入したという。
 因みに、1503から1520年までに新大陸からセビリアに運ばれた金は14,118kgという膨大なものだったという。

◎ヒラルダの塔
 町の何処からでも見え、セビリアを象徴する歴史的建造物という(1184--96建造)
 元来のそれは、ムワッヒト朝の首長の命で建てられたモスクに付属するミナレット(H=70m)で、煉瓦積みの矩形の塔の頂上には、金箔で覆われた四重の球体が乗っていたそうだが、レコンキスタ後、頂上の球体が取り払われて、25個の鐘を取り付けた鐘楼として改築されている(総高97.5m・1558--68改造)。 

 今は、中程から上に施された細かいアラベスク模様のみにイスラムを感じる塔だか、塔内には馬上のまま上れるスロープがあるとか。
 その摺りへった石畳をたどって800年前の面影を偲び、塔上から町のたたずまいを眺めるのも一興だろうが、下から眺めるだけで内部には入らなかった。

 なお、ヒラルダとは、頂上に立つ4mのブロンズ製女人像が風に当たってくるくる回ることからきているという(所謂「風見鳥」をスペイン語でヒラルというらしい)

◎アルカサル
 アルカサルの“アル”はアラビア語の冠詞、“カサル”は王宮を意味する。
 そのはじまりは11世記半ば、後ウマイヤ朝の滅亡に乗じて興った小王国アッバード朝の君主が、コルドバのザハラ宮殿跡から円柱その他の建材を船で運び、当時の技術の粋を集めて建てた王宮という。
 レコンキスタ後荒廃していたものを、カスティーリヤのペドロ一世がイスラムの工人たちに復元させたという(1366)

 宮内に残る“人形の中庭”・“大使の間”・“乙女の中庭”などはアラブ風の雰囲気をもつもので、ゴシック様式が流行していた当時にあって、キリスト教国の君主がアラブ風の館を好んだというのは面白いが、それだけ当時のイスラム文化が優れていたことを示唆することかもしれない。
 ただ、一巡はしたものの何処がどの中庭なのかなどわからず、唯、精緻・精密な模様の連続にあっけにとられただけ。

 
アルカサル入口
 
同・中庭
 
同・天井に施された細密模様(3枚)

同・装飾文様 

同 左 
 
王宮南西部にある池端の建物

 なお、セビリアを訪れた最初の日本人、校倉常長一行が滞在したのが2階のカール五世の間(ルネッサンス様式で、他に比べて違和感があるという)ということで(1614・慶長7年)、忘れていたスペインとの交流の歴史を思い出させてくれる建物です。

◎サンタクルス街
 ここも、ユダヤ人町といわれる町。
 複雑に入り組んだ狭い路地を彩る白壁と草花、それはコルドバのそれと同じ雰囲気をもつものだが。各階を区切る横の線、鉄格子のはまった窓の外枠といった要所要所が黄橙色で彩られ、それが壁の白さをより引き立たせるとともに、他の町にはない印象を与えてくれる。

 この町は今、多くの観光客を引きよせている中世の色が濃い町だが、レコンキスタ末からスペイン全土に吹き荒れたユダヤ人排斥運動のきっかけとなった反ユダヤ大暴動(1391)の舞台が、このサンタクルスだったともいわれ、としたら、そのとき虐殺された4000人ともいうユダヤ人の血が、今もって家々の壁や石畳のそこかしこに染みついているのかもしれない。


 
     

※グラナダ
 ローマ時代、この地にはイリベースと呼ばれる都市があったというが、詳細不明。
 この地に興された最初の独立政権は、後ウマイヤ朝滅亡後の群小国家乱立時代(タイファー期)に北アフリカのチュニジアからきたズィーリー朝という。
 ズィーリー朝は、アルハンブラの北西アルバイシンの丘に王宮を築くが、ムワッヒド朝崩壊後、ナスル朝が当地に進出し、イベリア半島における最後のイスラム王国であるナスル王朝(1238--1492)を建てている。

 ナスル朝の初代ムハンマド一世(1232--1273)は、キリスト教国の侵入を防ぐという名目でコルドバの東方アルホーナに政権を樹立、イスラム各都市が生き残りを模索するなかグラナダにはいり(1237)、乱立するイスラム小王国との抗争を繰りかえしながら、商工業の発展に力を注ぐなど国家基盤の強化を図る一方、仇敵カスティーリャ王国に服属するなど生き残りをかけた国家経営に力を注ぎ、アンダルシア南東部を中心に勢力を拡大させてという。

 建国から2世記弱・14世記いっぱいがグラナダ朝の最盛期で、キリスト教勢力によるコルドバ・セビリアといったイスラム都市の再征服が進行するなか、多くのイスラム教徒がグラナダへ逃げ込み、それらの人的資源の流入による学問・芸術の振興は、イスラム文化の集大成という花を咲かせ、商工業の振興・軍事力の強化とあいまって、小なりといえどもイベリア半島唯一のイスラム国家として繁栄したという。

 ユーフス一世(1333--54)時、北アフリカ・マリーン朝と連携して戦ったサラードの戦い(1340)でキリスト教軍に敗れたナスル朝は、マリーン朝の半島撤退により、単独でキリスト教国と対峙せざるをえない苦境を迎えるが、折からのペスト流行、カスティーリヤの王位継承争い、カスティーリヤとアラゴンの対立などの外部勢力の変動にも助けられて小康を保ち、続くムハンマド五世(1354--59、復位1362--91)のカスティーリヤ王国との和解・服属という権謀術策のなかで、つかの間の安定・繁栄を満喫したという。

 このユーフス一世・ムハンマド五世統治下のグラナダを象徴するのが“アルハンブラ宮殿”である。

 14世記末から15世記にかけてのナスル朝は、王室内での王位継承争い、陰謀・暗殺あるいは貴族間の抗争などが続発し、体勢を立て直したキリスト教国の攻撃激化も加わって次第に衰退していったという。

 1469年、カスティーリヤの王女イザベルとアラゴンの王子フェルナンドの結婚は、レコンキスタにおける画期的な出来事で、それまで主導権争いを繰りかえしてきた2大勢力が一体化したことを意味し、これを契機としてレコンキスタは最終段階へはいったという。
 両王が各地で繰り広げる焦土作戦によって、ナスル朝の勢力下にあったロンダ(1485)・ローハ(1486)・マラガ(1487)・アルメニア(1489)などの各都市が相次いでキリスト教軍の軍門に降り、グラナダは軍事的にも経済的にも孤立化していく。

 1491年春、カトリック両王はイスラム最後の拠点グラナダを包囲する。
 孤立無援のナスル朝は7ヶ月に及ぶ抗戦の末、1492年1月2日、最後の王アブー・アブディラー(ムハンマド12世・1482--92)はアルハンブラを出て、宮殿の鍵をカトリック両王に手渡し、代わってカトリック両王が宮殿に入って十字架を掲げたという。

◎アルハンブラ宮殿

アルハンブラ宮殿は、東西740m・南北220m(最広部)の舟形をした丘の上に建てられた宮殿群の総称。
 13世記半ば、ムハンマド一世・二世は丘の周囲を堅固な城壁で囲み、内部に宮殿を建設する(城壁全長約1400m)。 
 宮殿とはいっても、それはグラナダという城塞都市のなかに造られたいわば本丸とでもいう処で、平常の政務や日常生活を営む場でありながら、一旦緩急時には最後の拠点となる堅固な城塞という性格を兼ね備えていたという。

 北からのレコンキスタが急を告げる時代、グラナダに結集したイスラム教徒たちは、アルハンブラの丘に宮殿を築くことで、この世の楽園を夢見、と同時に、この地をイベリア半島における最後の砦としたのがこの宮殿といえる。

*アラヤネス宮殿
 本来が砂漠の民であるアラブ人にとって、この世の楽園とは豊かな水が流れる処だというが、アルハンブラでも、今に残る宮殿は“水”を中心として整えられている。

 最初に訪れた“アラヤネス宮殿”(ユーフス一世造)は、刈り込まれた灌木を両側に配した長方形の池をもつ中庭を中心に、その周りを2階建ての建物で取り囲んでいる。
 中庭の北端には城砦“コマレスの塔”が建ち、宮殿の中には“大使の間”と称する公式接待場がある。
 その広間の天井は、数種類の花びらを組み合わせた寄木造の細工で埋め尽くされ、花と花の間には小さい点々がみえるが、これは星を表すものかもしれない。
 夜空を飾る星々と妍を競う天上の花びら、それがアラヤネス=天人花と呼ばれる由縁だという。

   

*レオネス宮殿
 レオネス宮殿は、中庭の中央に、12頭のライオンに支えられた円形の噴水があることからの呼称という。
 中庭そのものは、四隅に植え込まれた灌木があるだけの簡素なものだが、周囲には124本の大理石の柱が立ち並ぶ回廊が巡っている。
 柱の配置は複雑で、直線の回廊を支える柱列と庭に突きでた四阿風の回廊を支える柱列群をとおしてみる景観は、柱頭アーチ部に施された精緻華麗な幾何学紋様あるいは抽象化された草花文様などとともに、見る角度によっていろんな佇まいを見せてくれる。

 中庭は、趣を異にする3っの建物で囲まれている。そこにあるのが“王の広間”・“アベンセラヘスの広間”・“二姉妹の広間”などで、これら建物の階下は各種用途に利用される吹き抜け広間で、日常生活は2階で営まれていたといわれ、そのほとんどが王だけの私的空間ハレムだったという。

     

*装飾文様
 アルハンブラ宮殿全てにいえることだが、広間の入口・壁・天井などは、漆喰に彫りこまれた非常に細かい繊細優美なアラベスク幾何学紋様や抽象化された草花文様によって飾られ、その諸処にはコーランやアラブ叙事詩の一節を装飾化したアラビア文字が掲げられている。
 また場所によっては、鍾乳石を積み重ねたような細かい細工が、天井から壁にかけて、あるいは天井全面に彫りこまれ、その今にも滴り落ちそうに垂れ下がっているありさまは、あたかも鍾乳洞のなかにいるような感じを与えてくれる。前者の代表が王の広間で、後者のそれが二姉妹の広間だという。

 そこに施されている稠密・繊細な装飾工芸は見事なものだが、見る者をして息苦しさをおぼえさせかねないもので、そこには我々日本時が慣れ親しんでいる“空白の美”という感性はない。

       

 城砦内には、これら宮殿の他にも城砦内の要塞ともいえるアレカサバ(最古の城塞、破壊していて当時の面影なし)・パルタル宮殿(北側の一部のみ残存)・モスクを改造したサンタ・マリア教会などが残されている。
 これらがイスラム様式で統一されているのに対して、ただ一つ“カルロス五世宮殿”というスペイン・ルネッサンス様式の壮大な建物がある。これはこれとして価値ある建物かもしれないが、それがアルハンブラにある限り、全体の雰囲気を壊す無骨な建物であることも確かといえる。

*ヘネラリフェ宮殿(アセクアの中庭)
 アルハンブラ宮殿の北、城塞の外にある太陽の丘に立地する宮殿(別荘)で、“夏の宮殿”ともいう(ムハンマド三世造・1302--09)
 そのなかに、“アセクアの中庭”という一画があり、灌木で縁取られた細長い池(水路)を囲んで花壇・噴水・柱廊が設けられ、アンダルシア地方におけるイスラム建築物でもっとも保存のよいものの一つという。

     

 なお、各都市にある大聖堂(カテドラル)については、別稿「カテドラル(大聖堂)」参照のこと。

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