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中世スペインのユダヤ人
(ユダヤ教徒迫害略史)

 ユダヤ人は、使徒パウロがイベリア半島(以下、半島という)のユダヤ人訪問を希望したといわれるように、紀元前から住んでいたというが、大量に流入はじめたのは、イスラム勢力が侵入した8世紀初頭以降で、特に10・11世紀にはバビロニアなどから大挙して移住したという。
 これらユダヤ人は、当然のことながら先祖代々のユダヤ教を奉じていたと思われるが、彼らユダヤ教徒に対するキリスト教(カトリック)への改宗強制は、始めて半島の殆どを統一したヴィシゴート王国(568--711)が、それまでのキリスト教アリウス派(381年に異端とされた教派)から正統とされるカトリックへ改宗したとき(589)に始まったという。
 ただ、これによってどれだけのユダヤ教徒がキリスト教へ改宗したかは不明で、表面だけのキリスト教徒いわば隠れユダヤ教徒もまた多かったと思われる。

 このキリスト教(カトリック)への改宗強制は半島だけの動きではなくヨーロッパ全域に及んだというが、半島にあったも、カトリック教会は歴代のヴィシゴート王とともに、ユダヤ教徒に対してキリスト教徒との通婚・ユダヤ風俗の禁止(589布告)などを通じてカトリックへの改宗を強制し、最後にはユダヤ教徒全員の財産没収・奴隷化を決定するに至ったという(694、トレド公会議)

 そんな半島に侵入したイスラム教勢力は(711)、瞬く間にヴィシゴート王国を倒して支配権を確立するが(756、後ウマイヤ朝成立)、イスラム時代のユダヤ教徒は、中世ヨーロッパにあっては比較的恵まれていたと思われ、彼らは、イスラムと経典(旧約聖書)を同じくする民として、時には支配者の気まぐれによる抑圧はあったものの、一定の貢納を納めることによってそれまでの生活を続けることが可能だったという。
 というより、本来砂漠の民であって物々交換経済しかしらないイスラムに対して、ユダヤ人の広域な商業活動によってもたらされる冨と、そこからあがる貢納は、イスラムの支配者にとっても必要欠くべからざる財源であったといわれ、ユダヤ人の一部は、その財力と知的能力によって高級官僚として王朝内部へ参入し、あるいはイスラム貴族と婚姻するなど、ある種の制約はあるものの安定した生活を送っていたという。
 と同時に、中世の知識集団の最たるものであったユダヤ人は、文化・学問の面でもイスラム文化の興隆に多大の貢献を為したといわれ、イスラムは半島にアラビア語に翻訳されたギリシャ古典などを持ちこみ、キリスト教社会では忘れられていたギリシャ古典をラテン語に翻訳することで、来たるべきルネッサンスを用意したといわれ、それらに従事した主たる集団がユダヤ人であり、それを可能とする雰囲気をつくったのがイスラム社会だったという。

 そんなユダヤ人が、レコンキスタ(キリスト教徒による国土回復運動)の進行に伴って次第に孤立化していく。
 レコンキスタを推し進めたのは、一国家・一民族・一宗教という大義名分のもと、カトリックを以て唯一の国家宗教とするキリスト教国の政策であり、それを正当化したのがカトリック教会だったという。
 そのひとつが、教皇インノケント三世によって招集された第4回ラテラノ公会議で(1215)、そこでは、ユダヤ人をキリスト教社会から区別し排除するために、ユダヤ人であることを示す黄色の標識を付けることが義務づけられたという。

 これら目にみえるユダヤ人への差別、それを可能とした背景は、単に主キリストを十字架に架けたのがユダヤ人であったという誤解だけではなく、差別をうけながらも依然として大規模交易や金融業・商工業などに従事するユダヤ人がもつ冨と権力に対する民衆の反感と妬みがあったという。
 一般論でいえば、中世始めから中期にかけてのキリスト教社会は、“戦う貴族・祈る僧侶・耕す農民”からなる社会であって、その枠外にあって商工業・金融・流通などの経済活動に従事したのがユダヤ人であり、それが国王達から金を生む卵として国内居住・経済活動を許されていた理由の主なるものだが、中世末期になると、キリスト教徒の中からも従事者が出現し、ユダヤ人はこれらの分野から排斥されたという。

 そんな反ユダヤ感情に油を注いだのが、14世紀後半のヨーロッパを席巻した黒死病・ペストの大流行で(1348・62・75・83など)、これらが病原菌によるものであることと、それを予防する衛生観念を持たなかった中世の人々にとっては、突如として襲ってくる死に至る病に対して、なすすべもなく右往左往するだけだったのは当然のことだろうが、そんな中、その原因がユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだとか、ユダヤ人街から吹いてくる腐ったかぜのせいだとして、その鉾先をユダヤ人に向けられたのも自然の成りゆきだったといえる。
 その頃の風潮を示すものとして、ある知識人は次のように伝えている。
  「セビリアの空気は暑くて且つ腐っている。その主たる原因は、ユダヤ人町から押し寄せてくる大気の腐敗に求められなくてはならない。というのも、ありとあらゆる病気の宣告を受けている輩が、あそこには大勢住んでいるからである」と。

 これら日頃からユダヤ人・ユダヤ教徒に向けられていた反感と、ペスト蔓延という危機的状況などが相まって起こったのが、セビリアにおける大規模な反ユダヤ暴動で(1391)、教会の説教壇から「ユダヤ人は全スペインを奴隷化する」と叫ぶ一副司教に扇動された暴徒によって、4000人に及ぶユダヤ人が虐殺されたという。
 この反ユダヤ運動は瞬く間に他の都市へと波及し、例えばバルセロナでは、同年夏の暑い日、何者かに扇動された浮浪社や不満分子が大挙してユダヤ人町に押しかけ、手当たり次第に火をかけ、建物を破壊し、ユダヤ人を虐殺してまわったという。

 これらの暴動から逃れたユダヤ人達がとってのがキリスト教への大量改宗という手段で、彼らは大慌てでキリスト教の洗礼を受け、かろうじて命を長らえたという。
 彼らは、キリスト教への改宗という手段によって、教会と国の要請を甘受し、且つ直面する民衆の反感をそらそうとするのだが、これら改宗者は二つ二大別されるという。
 ひとつは、キリスト教に心底から帰依し、旧キリスト教徒よりも熱心なカトリック教徒になった人たちであり、
 もひとつは、というより、より多くの人たちは、生命・財産を守るために形式的に洗礼を受け、表面的にはキリスト教徒を装うものの、密かに先祖伝来のユダヤ教を信じ続け、他人に隠れて安息日を守り、トーラ(旧約聖書に記すモーゼ5書)に従って生きようとしたという。
 これが「マラーノ」と呼ばれる新キリスト教徒(隠れユダヤ教徒)で、マラーノとはユダ教徒が忌み嫌う豚を意味する蔑称という。

 そんな動きに追い打ちをかけたのが、ローマ教皇・シクストゥス四世(1471--84)が出した異端審判所設置の許可で(1478)、それをうけて設置されたセビリアの異端審判所で、マラーノとされた6人が生きたまま火炙りの刑に処せられ(1481)、それを嚆矢として、再征服された都市(キリスト教勢力がイスラム勢力から奪回した都市)に順次異端審判所が設置されたという。

 異端とは、「正統がはずれていること、また、その時代において正統とは認められない思想・信仰・学説など」(広辞苑)をいうが、ここでいう異端とは正統な宗教であるカトリック以外のキリスト教教派(アルビジョワ派など、後にルター派・カルビン派なども対象となる)を指し、異端審判の対象になったのは、まずカトリック以外の教派に対する宗教裁判として始まり、やや遅れて隠れユダヤ教徒であるマラーノへ、後にはイスラム教徒へも拡大されたという。

 異端審判所は、その告発手続き・告発に対する抵抗手段・救済方法などが定められた司法機関で、王室の直接的なコントロール下にあったとはいうものの、マラーノとして告発された者が無実を証明することは現実には不可能なことで、その殆どが火炙りの刑に処せられ、よくても身ひとつで国外追放され、財産は国家に没収されたという。
 異端審判所の設置は、単に宗教的統一を達成する手段というより、レコンキスタの戦費調達に苦しむ国王が、ユダヤ人のもつ財産に目を付けた財源確保策だったともいわれる。

 レコンキスタが最終段階を迎えたスペインにあって、カトリックによる国内統一・宗教の純一化という美名のもと、で進められる異端審判、その審判が何時わが身に降りかかるかと戦々恐々として過ごしていた新キリスト教徒、特に隠れユダヤ教徒であるマラーノにとって、更なる追い打ちとなったのが、イザベル女王・フェルナンド王(以下、カトリック両王という)によって、グラナダ陥落の3ヶ月後に発せられた「ユダヤ人追放令」だったという(1492)

 1492年1月のグラナダ再征服に際し、勝者・敗者間で取り交わされた降伏条件は寛大なものだったという。その協定に依れば、グラナダの住民はユダヤ教徒・イスラム教徒を問わず、“カスティ-リヤ王国の特別な臣民”として、信仰の自由・独自習慣の維持はもとより、兵役免除・徴税面での優遇措置が講じられるなど、今まで通りの安穏な生活が送られるはずだったという。

 ところがその望みは、この寛大な措置をスペインの国家統一に対する冒涜とみなし、異教徒・特にユダヤ教徒の存在を統一を妨げる最大の要因とみなした初代の大審問官トマス・デ・トルケマダによって破られ、彼は、グラナダ陥落直後からカトリック両王に対してユダヤ人追放を執拗に迫ったという。

 当時のグラナダには多くのユダヤ教徒が住んでいたようで、トルケマダにとっては、それらのユダヤ教徒を寛大に扱うことは、それまで進めてきたユダヤ教徒のキリスト教改宗政策に反するとともに、すでに改宗した新キリスト教徒を動揺させ、マラーノの増大、更にはユダヤ教への復帰に繋がるものとして認めることはできなかったという。

 同年3月31日、イザベル女王は国内の全ユダヤ教徒に対して“キリスト教への改宗か国外退去”を迫り、「ユダヤ教を信奉する者は7月31日までに国外に退去せよ」との勅令に署名したという。
 この時のこととして、次のような話が伝わっている。
  ユダヤ人追放計画が進んでいることを知ったマラーノで王国の財務大臣だったアブラヴァネルが、追放令を取り消すならば巨額の黄金を贈ろうとカトリック両王に申し入れたところ、それを盗み聞いたトルケマダが、その場に乗り込んで、十字架を掲げて「かの邪悪なるユダが金貨30枚で売った救い主を見よ。それを良しとするなら、主を高く売れ」と叫んだ。それを聞いた両王はすっかり怯えて署名に踏み切った、と。

 この勅令によって国外に亡命したユダヤ人は約16万人以上で、カトリックへ改宗して国内に残った数は約5万人程だったという。
 この時の国外退去者の大半は隣国ポルトガルへの道をたどったというが、そのポルトガルも1496年末にスペイン同様の措置をとったため、ポルトガルを追われたユダヤ教徒たちは、何処へ行くという当てもなくヨーロッパ各地へと散っていったという。

 このユダヤ教徒に下された弾圧は、そのままイスラム教徒へも圧力として降りかかっていったといわれ、カスティーリヤ王国の特別な臣民としてグラナダに残ったイスラム教徒は、彼らに加わる有形無形の抑圧を不満として反乱を起こし、それを契機としてカトリック両王はイスラム教徒に対してもユダヤ教徒同様の措置をとったという(1501)
 この勅令によって、多くのイスラム教徒たちが国外に去っていったというが、彼らは、祖先が辿ってきた道を逆にアフリカへ退去できただけ、ユダヤ教徒に比べて幸いだったとはいえる。

 16世紀以降のスペインは、表面的にはカトリック国として統一されたかにみえるが、その裏では、依然として異端審判所はその機能・役割を強めていったともいう。

 目にみえる迫害の嵐が過ぎ去った後、新キリスト教徒として社会のなかに潜んだマラーノたちの多くは、生来の勤勉さと知力によってそれなりの地位に就くようになり、王室を含む貴族との縁組みとか、司法・行政・軍隊・大学・教会などで、従来宗教的理由から閉め出されていた分野への進出などによって、高い社会的地位を獲得していったといわれ、それがまた、そのような地位を望めない民衆の不満と妬みを招く要因となり、隣人の隠れた行動に目を光らせる密告者の横行へと連なっていったという。
 そこでは、宴会で豚を食べなかったとか、祈りの前に手を洗ったとか、週末にシーツを取り替えたといった些細な行為がマラーノの証拠として、知人や隣人からマラーノとして審判所に密告されるといった風潮が増えていったというが、密告された方はそれに対抗する手段もなく、密告即有罪として財産は没収され、国外追放はまだしも生命すら奪われるという悲劇が続出したという。
 ユダヤ人という出自をもつ中流以上の新キリスト教徒は、突然、些細なあるいは陳腐な咎によって告発され、一朝にして財産は没収され、わが身は殺され一家は没落していったという。

 このようなユダヤ人に対する民衆の反感を示すものとして、ある異端審判所の次のような記録があるという。
  「上流階級であるカサーリャ博士・エレスエス学士の二人が処刑されるリストに入っているとの噂が流れた。これは下流の庶民にとっては、極めて魅力的な話で、5月20日夜から21日朝にかけて、2000人が良い場所をとろうとしてマヨール広場に集まり、広場に面したバルコニーあるいは窓辺の席をとろうとして、一人につき10レアルから20レアルを支払った。午前1時にミサが始まり、夜明け前に審判が始まった。
 彼らの目には、全能の異端審判所は名士たちを処罰する制度であり、庶民の手に届かない人々が卑しめられ、名誉を奪われ、庶民よりも低い地位におとしめられるのを目の当たりにする娯楽の場でもあった」
 当時の職人の日当は一日2レアルだったいわれ、彼らは5日分から10日分の日当を支払ってまで処刑を見にいったようで、毎日の生活に追われて楽しみのなかった庶民にとって、公開された異端審判所は格好のショーであり、鬱憤晴らしの場だったという。

 この異端審判所は1821年に廃止されている。この340年間に、どれだけの犠牲者があったかはわからないが、ある資料は31,912人というが、この数字が多いか少ないかは、これが犠牲者の全てなのかを判断することはできない。

 ただ、イザベルとフェルナンドというカトリック両王によって始められたユダヤ人追放と異端審判が、幾つかの国の連合体として成立した近世スペインにとって、その国家統一の理念としてカトリックを掲げなければならなかったという事情はあるにしろ、その後のスペインにとってプラスだったかどうかはわからない。
 確かにユダヤ人の財産の没収が国家財政にゆとりをもたらしたことは事実だろうが、それは一時的な対処療法であり、それによってもたらされた知識階級・上中産階層であったユダヤ人の国外退去と没落というマイナスの方が大きかったかもしれない。
 (この一文は、15年前に行ったスペイン旅行の紀行文を一部改訂したもの。参考図書-小岩昭著「スペインを追われたユダヤ人」1996)

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