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諏訪大社/下社参詣記
                                                                2016.10.20参詣

 諏訪大社下社は春宮・秋宮の2宮から成る。
  春宮--長野県諏訪郡下諏訪町武居
  秋宮--  同       同    下ノ宮

 主祭神--八坂刀売命
  相殿神--建御名方命・八重事代主命

※春宮
  JR中央本線・下諏訪駅の北約1km強、駅北から国道20号線へ出て駅前交差点を左折(西へ)、次の春宮大門交差点を右折(北へ)、県道184号線(春宮大門通り・嘗ての春宮専用参道)を進んだ突き当たりに鎮座する。

 大門交差点の北側道路をまたいで“大鳥居”が立ち、民家にはさまれた春宮大門通の途中、道路の真ん中に“下馬橋”と称する屋根付きの反り橋(太鼓橋)がある。 
 傍らの案内には、
  「この橋は、春宮大門通りの中央に位置する、御手洗川にかけられた屋根付きの反り橋です。
 昔、春宮参拝の折には、ここで下馬しなくてはならず、殿様でも駕籠や馬から下りなければならない場所であったため、下馬橋の名がつきました。その形から、俗に太鼓橋とも呼ばれます。 
 現在でも、年に二度の遷座祭の行列の内、神輿だけがこの橋を通ることが出来ます。
 梁行1.8間(3.25m)・桁行5.5間(9.95m)・平面積32.3㎡・橋高5.35m(以下略)
とある(下諏訪町指定文化財)

 参詣の栞(大社刊・諏訪大社)には
  「室町時代の建立といわれ、簡素の中に力強さ・美しさを兼ね備え、元文年間(1730年代)に修築したもので、下社では最も古い建物です」
とある。

 
春宮・一の大鳥居
 
下馬橋・南正面

下馬橋
 大門通りの突き当たりに境内に入る二の鳥居が立つ。

 境内に立つ案内には、
 「諏訪大社は建御名方神と八坂刀売神(女神)を主祭神としている。
 下社の祭神は、2月から7月まで春宮に鎮座し、8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌2月1日に春宮に帰座される。

 下社の中心となる建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の弊拝殿、その左右にある廻廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなる(以下略)
とある。

 二の鳥居をくぐった境内正面に、大きな注連縄を掛けた神楽殿(天保年間:1681--84造営)が建つ。

春宮略図
 
春宮・二ノ鳥居
 
同・神楽殿(正面)
 
神楽殿

 神楽殿について、参詣の栞には
 「正面の神楽殿は大社の沢山の建物の中でも一番修改築の多い建物で、天和年間(180年代)のものに最近では昭和初年に大改修がなされています」
とあり、
  大注連縄について、参詣の栞には
 「地元下諏訪町の氏子有志の人々(大〆縄奉献会)が、出雲から職人を呼び作らせたもので、出雲大社のものと良く似ていますが、長さが約13mあって出雲大社型〆縄では日本一長いといわれ、目方は約500㌔と推定されます」
とある。

◎弊拝殿と片拝殿
 神楽殿背後の弊拝殿について、社頭の案内には
 「この建物は、御幣を奉ずる弊殿と拝殿が一体となったもので、弊拝殿と呼ばれる。
 建築様式は、二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されている。
 棟梁は、地元の宮大工・柴宮(伊藤)長左衛門で、秋宮と同じ絵図面で秋宮弊拝殿より一年早い安永9年(1780)に落成した。
 春秋両宮は社殿構造は同じで、当時は双方で技術が競われた」
とある。

 弊拝殿から左右に延びる左右方拝殿について、社頭の案内には、
 「片拝殿と呼ばれる建物は、弊拝殿と同じ安永9年、地元の大工・柴宮(伊藤)長左衛門により造営されたものである。
 秋宮に比べて幅が短く、屋根は片切りになっている」
とある。


春宮・弊拝殿 
 
同・東片拝殿

◎宝殿
 弊拝殿の背後が神域だが、通常の神社にある本殿はなく、それに代わるものとして東西に宝殿2棟が南面して鎮座する。
 社頭の案内には、
 「東西の宝殿は茅葺・切妻造平入りの簡素で古風な形式をもち、寅申の7年毎の御柱大祭で(片方ずつ)新築する式年造替制度がとられている」
とあり、
 参詣の栞には
 「伊勢神宮においては御遷座後旧殿を取り払いますが、当社においては上下社共に平素二殿が並んでおります。・・・」
という。

 又、東西宝殿にはさまれた後方に御神木である杉の木が聳えており、参詣の栞には、
 「下社における最も重要な場所で、御神座とも相殿ともいわれる場所にある御神木は、春宮では杉の木です。
 平素山上におられると考えられた神々を、この御神木にお招きして、・・・」
とある。


春宮・東西両宝殿 

同・西宝殿

同・ご神木の杉

 高木を御神体とする信仰は古代の樹木信仰の流れをひくもので、神が依り付く聖なる樹木(高木)として、注連縄をめぐらし、玉垣で囲むなど大切にされている。

 ご神木について、折口信夫(1887--1953)
 ・避雷針のなかった時代には、何時何処に雷神が降るのか分からなかったと同じく
 ・天降り憑く神々に、自由自在に天降って土地を占められては、如何に用心しても、何時神の標めた山を犯して祟りを受けるかもしれないと心配された
 ・それ故に、神々の天降りに先立ち、人里との交渉の少ない些少な地域で、さまで迷惑にならぬ土地を神の標山(シメヤマ)と勝手に定め、これに神を迎え奉るのを最も安全な手段と昔の人は考えたらしい
 ・しかし、空爆散漫たる一面をもつ神霊を、一ヶ所に集中させるには、適当な招代(オギシロ)が必要で
 ・その招代とされたのが神の眼に触れやすそうな高山の高木で、松なり杉なり眞木(マキ)なりを神々の依ります木(依代・ヨリシロ)と定め、これを御神木として崇めた
という(鬚籠の話・1915)

◎御柱
 社殿域右前の一の御柱から時計回りに4本の御柱が立つ。
 ただ、背後に立つ三・四の柱は、周りの木々に阻まれ見つけるのに苦労する。

 
一の御柱
 
二の御柱
 
三の御柱
 
四の御柱

◎境内社

 境内左手(西側)には、北より子安社・筒粥社の2社が、
 同 右手(東側)には、同じく若宮社・神諏訪社の2社が鎮座する。「 」内は社頭の案内

*子安社--高志沼河姫命(コシノヌナカワヒメ)
 「お諏訪さまの御母神である高志沼河姫命をお祀りする。
  昔からお産の守り神として親しまれ、底の抜けた柄杓は、水が通りやすいように、お産も楽にとの願いを込めて奉納されたものである」
とある。

 高志沼河姫とは、八千矛命(大己貴命)が越国の沼河(新潟県糸魚川市付近)に住む沼河姫のもとに嬬恋(求婚)に訪れ、家の外から求婚の歌を詠み、姫がそれに応ずる歌を返し、翌日の夜結ばれたという神話をもつ女神だが(古事記)、この姫を建御名方命の母とするのは先代旧事本紀のみで、記紀には記されていない。
 諏訪では、この姫が建御名方命の母神ということで、子安社に祀るもので他にも多い。

*筒粥殿(ツツカユデン)
 「下社特殊神事の一つである筒粥神事の神粥炊きあげが行われる建物。
 毎年1月14日夜から15日早朝にかけて神職が土間にある石の囲炉裏(円形・江戸初期のもの)を囲み、一晩中大釜の中に葦筒と米と小豆を入れて粥を炊き込み、筒の中に入った粥の状態で、その年の農作物の豊凶を占うもので、今は葦筒44本のうち43本は作物の豊凶を、残りの1本は世の中を占う。
 土間中央の囲炉裏は江戸時代初期のものである」

 所謂・粥占といわれる神事で、粥の中に竹管や尖端を割いた木枝などを入れて炊きあげ、その中に入った(付着した)米粒や小豆の状況で、その年の豊凶や作物毎の作柄などを占う神事で、粥に邪気を祓う力があるという信仰によるという。

 
子安社
 
筒粥殿

*若宮社
  祭神--建御名方彦神別命(タケミナカタヒコカミワケ)・伊豆早雄命(イズハヤオ)・妻科比売命(ツマシナヒメ)・池主神(イケオ)
        ・諏訪若彦神(スワワカヒコ)・片倉辺命(カタクラベ)・蓼科神(タテシナ)・八杵命(ヤキネ)・内県神(ウチアガタ)
        ・外県神(ソトアガタ)・大県神(オホアガタ)・意岐萩命(オキハギ)・妻岐萩命(ツマハギ)」  以上13柱
  建御名方命には22柱の御子神があったといわれ、そのうち特に諏訪地方の発展に功があった神々というが、本来は土着の神々が建御名方命の御子神とされたのであろう。

*上諏訪社--建御名方命
 「上の諏訪、つまり上社の御祭神をお祀りしている」
  上社主祭神で、当社相殿神である建御名方命を改めて末社に祀る由緒は不明。

 
若宮社
 
上諏訪社 

*浮島社--瀬織津比咩命(セオリツヒメ)
  境内の左(西)を流れる砥川(トノカワ)を渡った先にある浮島に鎮座する。
  境内左手に小さな案内矢印があり、小道を下り朱塗りの小橋(神橋とあった)を渡った小島の右手上流側に鎮座する。
  現地に案内はないが、参詣の栞には、
  「社殿の西方境内の脇を流れる清流砥川の川中にある島で、どんなに大水が出ても流れず、下社七不思議の一つとなっています。
  お社は浮島社といい、清め祓いの神様を祀ると伝えられ、今でも6月30日の夏越の祓い(ナゴシノハライ、通称:茅の輪くぐり)は此処でおこなわれます」
とある。

 祭神の瀬織津比咩命とは、諸々の禍事・罪・穢れを祓い清める祓戸神(ハライドノカミ)4柱の一で、六月晦大祓(ミナツキノツゴモリノオオハラヘ)の祝詞には、
 ・瀬織津比咩--流れ下る速川の瀬にいて、祓われた罪穢れを大海原に持ち出し
 ・速開津比咩(ハヤアキツヒメ)--大海原にいて、持ち出された罪穢れを大口を明けた飲み込む
 ・気吹戸主(イブキドヌシ)--根の国・底の国の門戸(気吹戸)にいて、飲み込まれた罪穢れを根の国・底の国に吹きやる
 ・速佐須良比咩(イブキドヌシ)--根の国・底の国にいて、吹きやられた罪穢れを速やかに消し去ってしまう
とある(大意)

 今、当社は浮島社と称しているが本来は祓戸社で、6月晦に夏越の祓いが行われ、人々は砥川の流れに浸かって身を清め、神事に参列することで半年の間、知らず知らずに溜まった罪穢れを祓い清めたのであろう。
 なお、浮島西側の浮島橋を渡ると“万治の石仏”へ行くことができる。

 
浮島社・鳥居

同・社殿 
 
春宮から浮島へ渡る神橋

※秋宮
 春宮の南東約1km、駅北の国道20号線・駅前交差点を右折(東へ)進んだ先に鎮座する。

 社頭の御手洗川に架かる小橋の先の大鳥居を入り、緩やかに上る参道を進んだ正面に“根入りの杉”なる大杉が亭々と聳え、参詣の栞には、
  「大社御神木の一つで、枝が垂れ下がっていて眠っているようにみえるので『寝入りの杉』だとか、杉の挿木に根が生えたものなので『根入りの杉』とかいわれる。
 また夜は特に枝を下げ布団を掛けて静かに寝ているようにもみえ、時にはイビキも聞こえるといわれ、この杉の木の皮を使ったお守りは(木の皮を煎じて飲ませるとともいう)、夜泣きする子供がよく眠れるようになるといわれている。
 樹齢6・700年といわれる」
とある。


下社秋宮・社頭 
 
同・大鳥居
 
同・根入りの杉

 根入りの杉を過ぎた先に大きな注連縄が掛かった神楽殿が、その奥、少し離れて弊拝殿が建ち、その左右に片拝殿が延びる。

 傍らの案内には、それぞれ
*神楽殿(国重要文化財)
  「神様をお慰めもうしあげ、またお楽しみ頂くために雅楽や舞を奉納したり、色々の祈願をするための建物で、天保6年(1835)上社本宮弊拝殿を手掛けた立川和四郎二代目富昌棟梁により落成した。
 三宝切妻造と呼ばれる様式で、弊拝殿のような彫刻は見られない。
 正面の大注連縄は、御柱祭毎に新しく奉製され、重量は約1㌧(500㌔ともいう)である」

*弊拝殿(国重要文化財)
  「この建物は、御幣を奉ずる弊殿と拝殿が一体となったものである。
 二重楼門造りと呼ばれ、二階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。
 諏訪高島藩の命により、安永10年(1781)に初代(立川流)棟梁・立川和四郎富棟によつて造営された」

*左右片拝殿(国重要文化財)
  「安永10年、初代立川和四郎富棟により造営された。
 弊拝殿と比べ彫刻などは見られず、江戸時代の記録には、弊拝殿は帝屋(御門戸屋・ミカドヤ)、片拝殿は廻廊と記されている」
とある。

 
神楽殿
 
弊拝殿
 
弊拝殿と片拝殿

◎宝殿と御神木

 弊拝殿・左右片拝殿の背後が神域で、一般神社の本殿に相当する東西宝殿2棟が鎮座し、
 両宝殿の背後に秋宮の御神木である一位(イチイ)の木が聳える。

 参詣の栞には
 「拝殿奥の神明造りの建物が御宝殿で、今では新しい方を神殿、古い方を権殿と呼ぶ。
 この二殿は、寅年と申年に遷座祭を行い、寅年からの6年間は向かって右の、申年からの6年間は向かって左でお祭りをする。
 下社では7年目毎の左右宝殿の遷座祭、更に毎年2月と8月の春秋両社の遷座祭と、4っの建物を使い分けてお祀りをしている」
とある。

 ただ、弊拝殿・片拝殿の近くには寄れず宝殿そのものの実見は不能
 また、御神木も、両宝殿の千木の背後にみえる大樹がそれと思われるが(右写真)、全貌はみえない。 

◎御柱
 神域を取り囲むように、その右前(東南角)に一の御柱が立ち、左前に二の御柱が、神域背後の左右に三の御柱・四の御柱が立つ。


一の御柱 
 
二の御柱
 
三の御柱

四の御柱 

◎境内社
 境内右手(東側)に、北から皇大神宮・若宮社・稲荷社が
 同左手(西側)に、北側に3社合祀殿(八坂社・賀茂社・子安社)、その左に鹿島社が鎮座する。

*皇大神宮--天照大神・豊受大神

*若宮社--諏訪大神の御子神

*稲荷社--倉稲魂命・大宮売命・佐田彦命

*3社合祀殿
   八坂社--素戔鳴尊・奇稲田姫命・八柱御子神
   賀茂上下社--上:賀茂別雷命 下:玉依姫・建角身命
   子安社--高志沼河比売命

*鹿島社--武甕槌命

 
皇大神宮
 
若宮社

稲荷社 

3社合祀殿 
   鹿島社

 社頭の大鳥居左の林の中に小さな池(千尋池)があり、その脇に千尋社との小祠が鎮座する。
 参詣の栞には
  「古図を見ると今より相当大きかったことがわかり、御手洗川の清流が入り込む池で、池の底は遠州浜松近くの海に続くといわれ、そこから千尋の名が対といわれている。
 社伝によると、平城天皇下賜といわれる神宝・『売神祝印』が、火災の灰と共にこの池から発掘されたという」
とある。

 また、大鳥居右のやや高くなった処(八幡山)の、左に八幡宮、右に恵比寿社(社殿建替え中)が鎮座する。
 八幡宮には近傍の天満宮・貴船社が合祀されていて、この近郷にある天神様は此処だけで受験シーズンには受験生親子で賑わうという。

 
千尋池
 
千尋社 

八幡宮・恵比寿社・社頭 
 
八幡宮社殿

※遷座祭
 春宮・秋宮両社に関わる特殊神事として“遷座祭”がある。
 諏訪大社公式HPに記す諏訪大社祭事表には
  下社  2月1日 遷座祭 午後1時
       8月1日 遷座祭(お舟祭) 午後1時
とあり、8月1日のそれは、御柱祭を除けば下社最大の祭典で、お舟祭として親しまれているという。

 8月1日の遷座祭について、公式HPには
 「2月1日に春宮にお遷しした御霊代を、神幸行列を以て再び秋宮に遷座する遷座祭に引き続いて、下社例大祭が秋宮で執行されます。
 この遷座の行列に次いで、青柴で作った大きな舟に翁・媼の人形を乗せた舟が、当番地区(御頭郷)の氏子数百人によって春宮から秋宮へ曳行されます。
 秋宮への曳き付けで神楽殿を三巡し、神事相撲三番が行われて式が終わり、翁・媼は焼却されます。
 明治初年までは、柴舟を裸の若者が担いで練ったので裸祭の名も伝わっています。
 なお、遷座祭には、当社独特の風習として楊柳(川柳)の玉串が献じられます」
とある。
 (今は8月1日に催行されるが、明治初年までは7月1日に行われていたという)

[付記]
 春宮・秋宮は同格の神社だが、昔から秋宮の方が賑わったという(菊花展開催のせいかもしれないが、参詣時にも秋宮の参拝者が多かった)

 それは、秋宮の鎮座地が古代の甲州街道・中山道の合流点近くにあったことも一因ともいわれ(下諏訪宿があったという)、今、秋宮から下諏訪駅に向かう道路の途中の北側に「甲州街道中山道合流の地 0.3km」との標示があり、傍らに嘗ての高札場が復元されている(高札場左の細い道の先に合流地があるらしい)

 高札場の案内には
 「高札場は、江戸時代に幕府の法令や藩法などを墨書した『高札』を掲示した場所で、街道の追分・町辻・船渡場・関所など人目につきやすい場所に設置されました。
 下ノ諏訪宿の高札場は、宝永年中(1704--10)に、願い出によりこの場所に移したことが記録に残されています。
 主な高札は、“親子・博奕・忠孝”・“キリシタン”・“火付”・“毒薬”・“駄賃”等の幕府による庶民への基本的な法令を書した大高札と呼ばれる5枚を中心に、時代によって諸法の高札が掲げられました。(以下略)
とある。


道路標示(右上)と高札場 
 
高札(一部) 

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