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諏訪大社/上社参詣記
付--神長官守矢史料館
                                                            2016.10.21参詣

【諏訪大社上社】
  諏訪大社上社は、本宮・前宮の2宮から成っている。
   本宮--祭神:建御名方命  長野県諏訪市中洲
   前宮--祭神:八坂刀売命   同県 茅野市宮川  (両宮間:約1.7km)

※本宮
 JR中央本線・茅野駅の西北西約3km、諏訪盆地の西南端、赤石山系守屋山(1651m)の北東約5kmの山麓に鎮座する。
 駅西側を線路に沿って北西へ、上原信交差点を左折、国道152号線(ビーナスライン)を西へ、道なりに進んで突き当たりの高部東交差点を右折(西へ)、県道16号線を北西方に進んだ先、Y字形分岐点の左側に参道へ続く一の鳥居が立つ。

 
本宮・社殿配置略図
 
境内掲示の案内図

 一の鳥居を入り、民家に挟まれた東参道を進んだ先、御手洗川に架かる小橋(蛙狩神事の場所)を渡ったすぐに堂々たる大鳥居が立ち、境内に入る。
 なお、北側入口にも鳥居が立ち、
 また、境内西北部(社務所西側)にも浪除鳥居(西鳥居)と称する木製の鳥居が立ち、傍らの案内には
 「当社唯一の木造鳥居。昭和15年(1950)紀元二千六百年祭の折建て替えられたものを、平成21年(2009)解体修理を行い再建したもの」
とあるが、浪除と称する由来は不明。

 
本宮・一の鳥居
 
大鳥居(東鳥居)

北鳥居 
 
浪除鳥居(西鳥居)

 境内は東西に長く、南側には山(神体山)が接している。
 東側の表参道から入った正面に二の御柱が立ち、その傍らに布橋門(入口御門)がある。
 「入口御門
  文政12年(1829)建立。宮大工棟梁である原五左衛門親貞とその弟子藤森廣八が構築し、巧微な彫刻が施されている」

 
境内東正面、布橋門と二の御柱(右)
 
布橋門(入口御門)

◎布橋
 本宮境内の略中央を東西に貫く長い建物を布橋(67m)という。橋というより、屋根を有する吹き通しの板張り廊下というのが適切。


布 橋 
 
布橋内部(東より西を望む)
 
布橋側面

 布橋に関して、諏訪信仰習俗(県教育委員会)に、
 「布橋上の布単
   神輿遷座の道筋は東西両宝殿の前を南北(東西の誤記)に貫く四十八間の長廊(ナガハシ)であって、通称これを布橋と呼んでいる。
  古くは、この長廊は大祝専用の廊であり、五官以下は更に下段神楽殿前を通行するのを例としていた。
  遷宮に際し、布単を敷くと共に、その下部に氏子崇敬者が自家で調製した各種の布を持参して敷く詰めたので、長廊が布橋と呼ばれるようになった。近来は殆ど行われていない」
とあるように、この長廊は、明治以前は大祝専用の通路で、大祝通行時や神輿遷座に際して白布を敷いたことから布橋と呼ばれたという。

 しかし、諏訪社遊楽図屏風(江戸前期)や木曽路名所図会(文化2年・江戸後期)といった絵図には、一般の人が布橋を通っている様子が描かれているそうで、とすれば、白布を敷いたのは大祝通行時のみだったと思われる。

 ただ、復刻諏訪史蹟要項(諏訪史談会、1950~60年代)には
 「(現在の)布橋は、上社古図(室町末期)では千度参りをする道『千度大内』と書かれ
 一方、境内北側の塀の内側にある回廊が『布橋』となっている」 
とあり、上社古図(右図)にみるように、
 ・上部、現布橋の場所には「千度大内 四十五間」とあり、
 ・下部の回廊沿いに「布橋二間百二十間」とある
   (古図に「今ナシ」との但し書きがあり、室町末期にはなくなっていたという)


 また、幕府に提出した「大祝本社例記」(1679)にも、「千度大内四十五間」とあり、現布橋は、古く千度大内と呼ばれていたのは確かといえる。 

上社古図・布橋位置図(資料転写)

 千度大内が布橋と改称したのは明治以降というが、大祝通行時あるいは神輿遷座などの神事に際して白布を敷いたことから布橋と称したのであろう。(但し、今の布橋は約67mで、換算すれば37間に相当し、古史料より短い)

 因みに、信州立山には“布橋勧請”と呼ばれる行事があり(山麓・芦峅寺の法要)、立山への入山が禁止されていた女人たちが、男子同様の救済・極楽往生を求めて、白布を敷かれた道を通って閻魔堂から小川を挟んで対岸の姥堂まで渡り、姥堂での法要ののち極楽往生が保証され生まれ変わった姿で娑婆へ帰ったという(擬死再生)

 このように白布を敷いた道とは聖なる道であり、布橋に白布を敷くこによって、そこが生神様である大祝や神輿が通る聖なる道と化したことを示唆している。
 (今も御柱祭の遷座祭には、近郷の婦人達が手織りの白布を持参して神輿の通る布橋に敷くという--参詣の栞)

 なお、千度大内の“千度”とは“多い・沢山”の意で、“大内とは“大路”(通路)を意味し、多くの人々がお参りする(お百度参りと同意の千度参り)通路を指すといわれ、そこには大祝専用通路の意は含まれていない。

◎宝殿
 布橋半ばから西側、布橋南側に接して茅葺きの宝殿2社が東西に並び建ち、その間に四脚門がある。
 脇に立つ案内には、
 「神輿及び御神宝を奉安する神聖な御殿であり、一般の神社の御本殿に相当する。
 寅年と申年毎に一殿を新しく作り替え、遷宮祭を行っている(御柱祭毎に交互に建てかえること)
 宝殿が二殿あるために仮殿に御遷座の必要がなく、新造の御宝殿に直ぐ御遷座になるのである。
 古い記録によれば、新造して6年経った宝殿に御遷座になり、旧殿を新造してまた6年置くいうのが本義であり、今も新旧二殿が平素共存している」
とある。

 東宝殿は今年(2016)の新造で新しく、今、この宝殿に神輿等が納められているが内部は見えない。
 西宝殿側面はそう古びていないが、茅葺きの屋根は相当に古くなっている(旧宝殿を権殿とも呼ぶという)


東宝殿・側面 
 
東宝殿
 
西宝殿

 東西の宝殿二宇は、寅年と申年に交互に建てかえられ、神輿を新しい宝殿に遷す神事を宝殿遷座祭(6月15日)という。
 宝殿遷座(造替)について、諏訪大明神絵詞には、
 「寅申の干支に当社造営あり。・・・桓武の御宇に始れり。
 但し、遷宮の法則諸社とは異なり。元より古新二社相並て断絶せず。仍って仮殿の煩(わずわしさ)なし。
 先年(寅年)造替の新社は七廻の星霜をふれば、天水是を洗ひ降露乾くことなし、当社奇瑞の一也。自ずから潔斎して、今度(申年)に遷宮をなし奉る。
 其時の古社は又新造の後七年送りて、神座又七年をふれば、前後干支一禩(ヒトメグリ)十三年に当りて撤却す。其跡に又新造して、来寅の歳をまつ。
 此如く輪転す。是即ち両社・同末社一同の儀也」
とある。

 遷宮という神事は多くの古社にみられるが、例えば、伊勢神宮の式年遷宮では、20年毎に、現社殿の隣に新しい社殿を造営して、竣工後直ちに遷座している。
 これに対して、嘗ては、宝殿二社のうちの片方を寅歳(あるいは申歳)に新造(新宝殿)するが、その後の6年間は空殿のままで(その間に社殿が清浄化するという)、7年目の申歳(あるいは寅歳)に隣の古宝殿から新宝殿へ神輿を遷し、6年間鎮座するのを恒例としたという。
 しかし、この恒例も天正10年(1582)織田信長の焼き討ちによって社殿すべてが焼失したことから途絶え、2年後の甲申歳(1584)諏訪頼忠が「新しく造った宝殿に、再造した神輿を納めた」ことから、以降、新宝殿造営後直ちに遷座するようになったという。

 なお、諏訪大社の御柱と年中行事(1992)との冊子に
 「新宝殿が完成すると、正面に薙鎌を打ちつける。これは御柱木が見立てられ、薙鎌を打ち込んで七年目に御柱になると同じ考え方であろう。
 宝殿内の神輿奉安の位置上部の天井には、守屋山にある“穂無しカヤ”を網代に編んだ物を用いる。
 この習慣については、天正兵乱(天正10年の織田信長侵攻)の際、神輿を守屋山中に避難させた故事の伝承がある」
とあるという。

◎四脚門(ヨツアシモン)

 東西両宝殿に挟まれて建つ門で、布橋との間に小さい石橋が架かっている。

 傍らの“四脚門及び硯石”との案内には
 「四脚門は、天正10年(1582)の兵変によって焼失したものを、慶長13年(1608)徳川家康が時の勘定奉行・大久保長安(佐渡金山奉行を兼ねた)に命じて建立させたものである。
 この門は、かつては大祝(祭神の子孫であり神を顕現する者)だけが最上段の硯石と呼ばれる磐座に登っていった門である」
とある。 

 四脚門の奥が斎庭で、門と宝殿の間から遠く硯石が見える(硯石については下記)

四脚門


 布橋を降り石畳の通路沿いに進んだ途中、北参道の正面に“塀重門”と称する門があるが通常は閉まっている。
 塀重門前を過ぎた左に通用門(門名不明)があり境内広場へ入る。


塀重門 
   通用門

 境内に入ると、その東奥(左奥)に参拝所が、西側に御札授与所・参集殿、南側(正面)に宝物殿・勅願所かあり、参拝者が自由に入れるのは此処まで。


境内全景(正面左:参拝所) 
 
参拝所

◎弊拝殿と片拝殿
 参拝所の奥(東側)、斎庭を挟んで弊拝殿(前:拝殿、後:弊殿)が西面し、その左右に片拝殿が連なる。
 現在の建物は、江戸末期の天保2年から9年(1838)まで8年の歳月を要し、二代目立川和四郎富昌他が建立したもので、立川流の代表的建築物として知られている。

 通常の神社では拝殿の奥に本殿があるが、当社には本殿はなく、弊拝殿奥は“神居”と称する神域で、「御座石」と称する石があるというが(式内社調査報告・1986)、確認はできない。
 この参拝所から弊拝殿へと向かう参詣軸は布橋と平行するが、その方向は西から東に向かい、その線上約1.5km先に前宮が鎮座するという。


弊拝殿と左右片拝殿 

弊拝殿 
 
右片拝殿

 本宮の社殿配置は、中世の頃から大きな変移はないようだが、その古態について、諏訪大明神絵詞(1356)には、
 「社頭の躰、三所の霊壇を備えたり。其の上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみあり。其前に香花の供養を備ふ。・・・
 中ノ檀には宝殿・経所許りなり。・・・。
 下ノ壇は松壖(ショウセン)・柏城(ハクセイ)甍を並べ、拝殿・廻廊軒をつらねたり」 
とあり、境内は大きく3段に分かれ、鳥居格子で区画された上壇は神域、中壇には宝殿と経所、下壇には拝殿・廻廊等の施設があったという

 そのなかで、現在と異なる点は弊拝殿奥の上壇の場(神居)で、
 ・物忌令(神長本)--「上壇には石之御座多宝塔、真言秘閼伽棚・・・」
 ・上社古図--上壇疎林のなかに「御座多宝塔」との書き込みがあり(右図)
 そこは神の坐す聖域で、多宝塔が建っていたという。

上社古図(上壇部分)

 この多宝塔は通称“鉄塔”と呼ばれた石塔で、江戸後期の古書(信濃国昔話・1819)
 「諏訪宮本社拝殿
 西向きにして東の方を向き、唐戸より神陵を拝す。神陵の上に鉄の塔有り。
 神陵鉄塔の内へ年々10月16日辰(朝8時)の一天(点か)、法花(法華)経8巻を書写し奉納し奉る」
とあるように、中世以降の神仏習合時代には、この石塔を神座(御神体)として仰いだという。
 なお、この石塔は、明治初年の神仏分離によって上諏訪の温泉寺(諏訪市湯ノ脇・臨済宗)に移されたといわれ、その基盤となっていた石が調査報告がいう御座石かもしれない。

 東西宝殿に挟まれて建つ四脚門の正面(南)、斎庭を挟んで脇片拝殿の屋根越しに“硯石”との磐座が、その背後に宮山が見える。
 この硯石について、諏訪大社(三輪磐根・1978)には、
  「古来、この石上(硯石)で祭儀がなされたといわれる。とすると、本宮本来の祭の対象は神体山であり、それが時代を経るにしたがって、仏教的色彩を加味しつつ、前宮を拝む思想や、石塔を神体と考える思想がおこり、本義を離れて南(東の誤記か)に向かっての拝所が建てられたと考えることもできる。
 しかし、現在古式に従い、神体山を祭の対象としている」
とあり、
 本宮には、
 ・参拝所から東に向かう神仏習合期の参詣軸(東西軸)
 ・四脚門から硯石を通して神体山を遙拝する参詣軸(南北軸)
という二つの参詣軸が直角に交差し、南北参詣軸が本来のそれという。
 ただ、東西軸の先に前宮が位置することは、そこに居座するという大祝を遠く拝する遙拝軸に、神仏習合による仏教色が加上され、それが多宝塔に集約されたともとれる。


◎攝末社(「 」内は案内表示及び大社刊の参詣の栞による)

☆参拝所前広場の南側、石垣上の左(東側)に神饌所、その右に勅願所が、その右の石段下に宝物殿が建つ。
*神饌所
 斎庭の南側、西片拝殿に続いて建つ建物だが、斎庭内にあり一般には近づけない。
 神前に供する神饌を整える所と思われるが、案内無し。上社古図にみえる御炊殿・御供所を合社したものであろう。

*勅願所
 「勅願とは天皇の祈祷という意味である。当社の場合、この建物はご祈祷をおこなう場所で、昔は行事殿とも祈祷所ともいった。
 建立は元禄3年(1690)諏訪高島藩によって建てられたといわれ、建物の配置は諏訪大神の御神霊が宿る守屋山(御神体山)に向かって建てられている。
 弊拝殿が大社の恒例祭典や重要神事を斎行して国家安泰の祈祷を執行する場所であるのに対して、勅願所は個人私事の祈祷を行う場所である」
 なお、この建物は守屋山に向かって建つというが、実際は正対せずやや南に振っている。

 
神饌所
 
勅願所
 
宝物殿

☆布橋の北側、東から勅使殿・五間廊・天流水社・祈祷殿・高島神社が建ち、天流水社の北に神楽殿が建つ。
*勅使殿
 「現在の勅使殿は、元禄3年(1690)の創建であり、安政年間に大修理を加えてある切妻流れ正面大唐破風造りである。
 中央(中世か)の記録では神門戸屋・帝屋とも書かれており、建武2年(1335)大祝即位の記録には“御門戸屋にて神事あり、神殿に布を敷いて其の上に五穀を供え、そこに大祝が着座した”ことが見えている。
 また勅使参向の折には幣帛の授受が行われた所で、元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である。
 当時の勅使殿は、今の神楽殿の前あたりにあり、拝殿の性格も持っていた」

*五間廊
 勅使殿に接続して建つ横長の建物。
 「現在の建物は安永2年(1773)の建造であり、廊下式切妻造りで、 神長官以下の神職が着座したところだと伝えられる」

*天流水舎
 布橋西終端部前に建つ建物(神楽殿の前にあたる)
 「俗にお天水と称される。
 どんな晴天の日でも雫が入り、ご宝殿の軒からの天滴とともに中の井戸に溜まるとといわれ、諏訪の七不思議の一つに数えられている。
 旱天の折には、このお水を青竹に頂いて持ち帰り、雨乞いの祭をすれば、必ず雨が降るといわれている」

 なお、天流水社の右(西側)に、簡単な木柵が囲われた一画があり、“上社筒粥殿跡”との表示がある。
 嘗て、この地で、農作物の豊凶を占う筒粥神事が行われたのて゜あろう。

 
勅使殿
 
五間廊
 
天流水舎
 
上社筒粥殿跡

*神楽殿
 四脚門前の布橋から石段を降りた正面に建つ社殿
 「文政10年(1827)の建立で、祈願者の神楽奉納の御殿である。
  四方吹通しの入母屋造で、上社では一番大きな建物で、諏訪市の指定文化財の建造物である。
  大々神楽や湯立神事が毎日おこなわれていたようだが、その神楽は伝わっていない。
  大太鼓は、神楽殿建立と同時に奉納されたもので、胴は樽と同様の合わせ木作りで、神龍が描かれている(直径1.8m)
  皮は一枚皮(牛皮という)が使われ、一枚皮では日本一と伝わる。
  この太鼓は、元旦の朝のみに打たれる」


神楽殿 
 
大太鼓

 ☆布橋南側の東寄りに出早社・絵馬堂・攝末社遙拝所・大国主社が並ぶ(その西側に東西宝殿が建つ)
*出早社(イズハヤ)
 境内に入って左手の低い石垣上にある小祠
 「上社の地主神、お諏訪様の門番の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大神の御子神・出早雄命(イズハヤオ)です。
 又、古くからイボ石神として敬われ、小石を投げてイボの全快を祈る風習が残されている」

 伝承では建御名方命と八坂刀売命の御子神22柱の一柱(次男)といわれ、
 神氏系図(信憑性不問)によれば、
  伊豆早雄命 又名出早雄神 御母八坂彦命の女・八坂刀売命 信濃国諏訪郡横川村坐神 又埴科郡鼠宿坐神是也
           元慶2年(878)2月正五位下 式外社也  故飯田武郷曰ふ、小県郡本郷八幡社に合祀の神か
           同郷の上辺に手塚村と云ふあり、小山の如き陵あり、此神の神陵ならむと云々・・・
とあり、また三代実録には、貞観2年(860)に従五位下、同15年(873)に従五位上、元慶2年(878)に正五位上が授けられたとの記録があることから、朝廷からもそれなりに遇されていたことが窺われる(この神階綬叙は当社祭神に対するものではないが、それが何処の神社に祀られる伊豆早雄命に対するものかは不明)
 なお系図によれば、上社大祝の神氏はこの神の後裔となっている。

 小祠が境内入り口近くにあることから門番神とされたのであろうが、祭神にそのような神格はない。御子神が門番となって親神を守るということかもしれないが・・・、本来は別神だったかもしれない。
 またイボ石神という由縁は不明。

 なお、この小祠背後の林の中に三の御柱が立つ。

*絵馬堂
 布橋の左に建つ建物
 内部には数多くの絵馬が掛かっているが、いずれも古いもので色落ちが激しい。

 
出早雄社
 
絵馬堂(東端部分)
 
絵馬堂内部

*攝末社遙拝所
 「文政11年(1828)の建築。
 昔は、十三ヶ所遙拝所とも称し、前宮を始め上の十三所、中の十三所、下の十三所 計三十九ヶ所の摂社末社を遙拝する所であった。
 現在、当大社の攝末社は約百社あり、朝夕この社を通して遙拝している」
 また、参詣の栞には
 「上社に特に関係する摂社や末社の神号殿で、計39社の御名が掲げてあり・・・」
という
 横長の建物で13箇の扉の前には、一枚に3柱の神名を刻した神名額が掛かっているが、あまり見かけない神名が多い。

*大国主社
 「諏訪大神の御父神である大国主命を祀る社で、古事記によれば、諏訪大神・建御名方命は大国主命の第二子と記されている」
 上社の祭神・建御名方命は大国主命の御子というが、これは古事記のみにみえるもので、作られた系譜との感が強い。


攝末社遙拝所
 
神名額
 
神名額
 
大国主社

☆その他
*高島神社
 布橋西端の下にある小祠
 「祭神 諏訪頼忠 大祝中興の祖 諏訪藩主
      諏訪頼水 大祝 高島藩初代藩主
      諏訪忠恒 高島藩二代目藩主
 諏訪氏は当大社の御祭神・諏訪大神の子孫で、上社最高の神職・大祝となり、更に藩主として政治をおこなった。
 この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特長である。
 御祭神は、江戸時代初期における高島藩中興の藩主3代の御遺徳を尊んでお祀りしている」

 諏訪氏は上社大祝・神氏の後裔で、平安末期には武士化して諏訪氏と称し、祭政両面から諏訪国を支配したという。
 当社祭神3柱に関係して
 ・天文11年(1542)--武田信玄の侵攻により大祝宗家は滅亡するが、頼忠は神官として生き残った
 ・天正10年(1582)--武田家滅亡・本能寺の変後の混乱に中、頼忠自立して諏訪氏再興、曲折の経て徳川家に仕える
 ・天正18年(1590)--徳川家関東移封にしたがい武蔵国に転封(諏訪国には日根野氏入府)
 ・慶長6年(1601)--日根野氏の下野国移封により、頼忠の子・頼水が旧領高島に復帰(高島藩・所領27,000石)
 ・元和4年(1618)--2代藩主・忠恒、大阪陣での功績により5,000石加増
などの経緯があるという。

*祈祷所
 高島神社の左(東側)にある小祠で、車両等の交通安全祈願所。

*駒形屋
 境内北東隅にある館で、中に白・黒の神馬像が納められている。
 参詣の栞には
 「神馬舎とも言い、諏訪大神の御神馬の館で、諏訪湖に御神渡が出来た朝、神馬の身体中が汗で濡れており、人々はお諏訪様が御神馬で湖上を渡られるのだと驚き慣れたと中世の記録にあります。
 明治以降は現在のように、木製の御神馬を祀って降ります。(以下略)
とあるが、
 白黒2頭が祀られていることは、古代の祈雨・止雨祈願に際して、白馬は雨が止むことを願って、黒馬は雨が降ることを願って奉納されたことに発すると思われる。

 
高島神社
 
祈祷所
 
駒形屋
 
神馬像

※御柱
 諏訪大社の各宮には4本の御柱が立つ。
 通常は、社殿域四隅の外に右前から一の御柱・二の御柱・・と時計回りに立つが、本宮のそれは変形している。
 ただ、当社本来の遙拝軸が南北であるとすれば、その四隅には当たる。

 一の御柱--境内西寄り、祈祷所の東側
 二の御柱--境内東側、布橋門の横
 三の御柱--出早社南側の疎林内
 四の御柱--宝物殿南側の疎林内
  三・四の御柱は、境内背後の山中疎林内にあり、樹々に遮られてみえにくい。


一の御柱 

二の御柱 
 
三の御柱
 
四の御柱


※神体山

 諏訪大社信仰の対象が生き神様としての大祝であることからすれば、神が坐す本殿がなくてもおかしくはないが、本殿の有無を云々するより、当社本来の信仰は、背後の山を神奈備山・神体山とする素朴なものだったと思われる。

 今、布橋の南に接して東西の宝殿が並び、その間に建つ四脚門(勅使門)から南方を望むと、脇片拝殿奥の高所に“硯石”(スズリイシ)と呼ばれる磐座が、その背後に宮山(前山ともいう)との小山があり、その南西方約5kmに守屋山(H=1651m)が聳えている。

 今、参拝所から弊拝殿を結ぶ参拝軸は西から東に向くが、それに直交するのが四脚門から南を望む南北の参詣軸で、三輪前掲書が「現在古式に従い、神体山を祭の対象にしている」というように、これが当社本来の神マツリの形態であろうという。

 当社の神体山を守屋山とする資料が多いが、
 ・守屋山は当社の南西方(正確には10度ほど南へずれる)約5kmに位置する
 ・四脚門から硯石を結ぶ参詣軸は、守屋山の方角から10度ほど南へ振れ、守屋山の東約600mほどの地点を指す
 ・厳密にいえば、本宮の参詣軸は守屋山を指すとはいえないが、正確な方角の測定法がなかった古代にあっては、本宮の参詣軸は守屋山を指すとしても誤りとはいえない
 ・ただ、ネットで見た守屋山は、連山の向こうに頂の一部がみえる程度で、全貌はみえない
 ・通常、神奈備山(神体山)とは里近くにある身近な山を指す場合が多いが、守屋山は遠距離にあって且つ上社の地からは全貌はみえず、神奈備山として崇拝の対象とするには難がある。
ことから、当社の神体山(神奈備山)は守屋山ではなく、境内南に近接する宮山(前山ともいう)とみるべきかもしれない。

 なお、守屋山について
 ・守屋山の東峰(主峯は西峯)には「守屋神社奥宮」との石祠があり、その南東約2kmの山麓に里宮・「物部守屋神社」がある(長野県伊那市高遠町藤沢)
 地元には、
 ・蘇我氏との政争に敗れた物部守屋の子孫が当地に逃れ、彼らが守屋を祀った
 ・蘇我氏との政争に敗れた物部守屋の次男・弟君(オトキミ)が当地に逃れ、養子となって神長家を嗣ぎ、森山(守屋山)に守屋の霊を祀った(神長守屋氏系譜)
との伝承があり、雨乞いの神として崇敬されたといわれ、諏訪信仰と直接的な関係はみられないという(諏訪信仰の象徴である御柱は立っていない)別項、諏訪大社参照)

※諏訪七石
 諏訪地方には諏訪七石と呼ばれる磐座があり、その幾つかが本宮内にある。

*硯石(スズリイシ)

 上本宮弊拝殿右側(南側)に位置し、四脚門から南方を望んだ正面、脇片拝殿の屋根の上に見える。

  四脚門脇の案内(四脚門及び硯石)には、
 「硯石とは、四脚門の前方脇片拝殿の上に見える石のことで、この石の凹面は常に水を湛えているところから、その名が来ている。
 鎌倉時代の大社の神楽歌に
   明神は 石の御座所に おりたまふ みすふきあげの 風のすすみに
とある如く、明神の天降り給う場であり、神降ろしをする古代宗教の最高至極の位置にあったといわれる」
とある。

硯 石

 今の硯石は、四脚門から神体山を望む遙拝線上にある重さ約400トンともいわれる巨石(磐座)で、諏訪明神が降臨した社中第一の霊石と伝えられ、諏訪大社(決定版・2010)は、
 ・神長守矢頼真(1505--97・室町後期)--石朽る限り神此処に坐す
 ・湯立神楽の神楽歌--大明神は巌の御座所に降り給う
とあり、この石が「神の降臨する磐座と認められていた時代があったことを示している」という。

 硯石と称するのは、その上部表面に凹みがあり常に水が貯まっているためで、上社物忌令(ブッキレイ・1237)には
  「硯石は水不増不減なり、三界の衆の善悪をしるさる(記す)硯也」
とあり、 
  「古代には、この硯石を拝することによって、その背後にある神体山と、さらにその上方の守屋山を拝したとの言い伝えが残っている」(式内社調査報告)
という。

 今、硯石は脇片拝殿の背後(南)、神饌所の東隣にあるが、上社古図(天正年間の作と伝わるが、社殿の様子などからみて江戸初期頃ではないかという)には、今の位置には“御炊殿”があり、硯石は弊拝殿と片拝殿を結ぶ線の左側に見え、現位置とは異なっている。
 これに対して、信濃宝鑑(明治34年・1902)に載る絵図には、今と同じく脇片拝殿の背後(弊拝殿ラインの西側)に描かれている。 


上社古図(資料転写・部分) 
   信濃宝鑑(資料転写・部分)

 これらから、ネット資料・上社散歩道は、硯石に関する古史料あるいは現況等を検討の結果、「硯石は、ある時期(明治時代か)に、塀の向こう側(東側)から現在地(西側)に移転したのではないか」という。

 しかし、重量物を移動させる重機等がなかった時代に、400㌧もある巨石が簡単に移せたものか、移されたとすればその理由は何だったのか、古図が社殿の相対位置関係を正確に描いているかどうかなど疑問もあり、社殿等整備に際して硯石を遷したというより、弊拝殿・片拝殿か東側に移築されたために、現在の姿になったとみることもできる。

*御沓石
  本宮境内、一の御柱背後の石垣下にあり、後ろに“天逆鉾石”なる石柱が立っている。
  案内表示はないが、参詣の栞には
  「真ん中の凹んだところが、お諏訪様のお沓の跡だとか、召しておられた御神馬の足跡だとか伝えられています」
とあり、他の資料として
 ・諏訪大社(三輪磐根)
  「上古の貴人の沓の形に似ていることから御沓石と称したと思われるが、大神が御馬に騎してこの石を乗り越えたときに、その御馬の蹄の跡が石面に留まった石であるともいわれる」
 ・上社物忌令
  「御沓石は社内にあり、これは波に浮き平沙を走る御沓なり、生類恐れて此の石の上に上らざる也」
 ・信濃国昔話(1819)
  「神前より西の方にあり、七石の一つにして大石なり。石の下より清水大きに湧き出る。
   世俗に云う、沓石とは諏訪明神神馬にて此石を乗越給うに、神馬の沓跡所々に有るが故に沓石と称すると」
などとあるという。

 また、お沓石の奥、玉垣の角に立つ石柱は天の逆鉾で、江戸時代の国学者が「神跡石上残」として和歌一首が刻んでいるというが確認できない。

 
御沓石
 
御沓石と天逆鉾石

天逆鉾石

*蛙石
  上社本宮境内西北にある蓮池の中にみえる石がそれだというが、茅野市粟沢他にも同名の石があるという。
  江戸時代の資料には、
   ①「神前の西北、池内の玉垣の内にあり」、
   ②「社中」、
   ③「鉄塔の下」とあり一定しない。
  ①は現蓮池内の石を指すもので、②の社中も同じ場所を指すと思われ、信濃宝鑑(明治34)には、境内隅の蓮池のなかに“カエルの形をした石”がみえ「蛙石」との説明がある。
  ③の鉄塔とは、現神居にあったという御座多宝塔付近を指すと思われる。
  蛙石が正月の蛙狩神事で捕らえた蛙を供えた磐座とすれば、諏訪大明神絵詞・蛙狩神事の説明に「壇上のカヘル石と申事にも故あることにや」とあり、原位置とは違っていたかもしれない。

 蓮とは季節が異なることから蓮池の水は涸れていて蛙石の全貌はよくみえ、見る角度によっては踞った蛙とみえなくもない。

 
蛙 石
 
蛙石と蓮池

*御座石
  古資料・上社物忌令に「御座石と申すは正面の内にあり、云々」とあり、他にも「神前」とするもの、「矢ヶ崎村」とする資料がある。
  物忌令にいう“正面の内”が何処を指すのかは不明だが、上社古図には、現天流水社の西に玉垣に囲まれた「御座石跡」との区画があり、この場所を指すのかもしれない(今その痕跡はなく、代わって筒粥社跡がある)

  しかし、昭和6年刊の諏訪史(2巻)には「上社境内のものは今見えず」とあり、今の境内にもそれらしい磐座は見えないことから、何時の頃かになくなったものと思われる。
 なお、式内社調査報告は、弊拝殿奥の神居の中に御座石と称する石があるというが、これは嘗ての多宝塔の基盤石あるいは付近にあった石かと思われ、御座石かどうかは不明。

 一方の矢ヶ崎村とは、現茅野市本町にある「御座石神社」(祭神:高志沼河姫命)のことで、諏訪史にも「矢ヶ崎村とするは御座石神社の御座石を指す」とあるという。
 ネット資料によれば、御座石社境内には、近くの田畑から移したといわれる“穂掛石”と、祭神・沼河姫を乗せてきた鹿の足跡があるという扁平な石(名はない)があり、この石には沼河姫の母君が腰を掛けたとの伝承があることから、あるいはこの石を以て御座石と称するのかもしれない(不参詣のため詳細不明)

 上記以外に、諏訪七石として小袋石・児玉石・亀石があるというが、いずれも上社周辺にはなく不見。


※前宮

 JR茅野駅の西約2.4km、本宮の南東約1.7km (守屋山の北東約4.2km)
 本宮から県道16号線につづく国道152号線を東進、前宮前交差点南側に鳥居が立ち、南方の緩斜面一帯に鎮座する。

 前宮はおおきく二つの地区に分かれ、
 ・北側から参道を入った「神原」(ゴウハラ)と呼ばれる地区に十間廊以下幾つかの社殿が建ち、
 ・その南・約200mほどに4本の御柱に囲まれて「前宮本殿」が鎮座する。(右略図、上が北)

 嘗ては、本殿地区・神原地区を含む広い範囲が境内だったと思われるが、今は2ヶ所に分かれ、その間には家屋と畑が散在している。

◎神原地区

 境内に立つ案内・「長野県指定史跡 諏訪大社上社前宮神殿跡」(長野県教育委員会)には
 「ここは、諏訪大社大祝の始祖と伝えられる有員(アリカズ)が始めて大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であった処で、神殿(ゴウトノ)は神体と同視された大祝常住の殿社の尊称である。
 この神殿のあった地域を神原(ゴウハラ)といい、代々の大祝職位式および旧3月酉日の大御立座神事(オオミタテマシシンジ・酉の祭)をはじめ、上社の重要な神事のほとんどがこの神原で行われた。

 境内には内御玉殿(ウチミタマデン)・十間廊(ジッケンロウ)・若御子社(ワカミコ)・御室社(ミムロ)・鶏冠社(ケイカン)・政所社(マンドコロ)・柏手社(カシワデ)・溝上社(ミゾガミ)・子安社(コヤス)等がある。

 文明15年(1483)正月、大祝家と諏訪惣領家の内訌による争いで一時聖地が穢れたこともあったが、清地にかえし、大祝の居館として後世まで続いた。後、この居館は他に移ったが、祭儀は引き続いて神原に於いて行われてきた。
 諏訪大社上社の祭政一致時代の古体を示している最も由緒ある史跡である」
とある。

神原地区・略図(上が北)

 神原地区に入った正面に緩やかな石段が延び、その左右に疎林が広がる。


前宮・鳥居 
 
神原地区・正面
 
同・西側一帯


 緩やかな石段を上り、交差する細道の先の左手の高所に十間廊が建ち、その裏(南側)に神子屋跡がある
*十間廊
 参道を直進した左側(東側)にある横長・吹通しの建物で、間口三間・奥行き十間の建物であることから十間廊と呼ばれる。
 案内には
 「古くは神原廊と呼ばれ、中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、すべての貢物が、この廊上で大祝の実見に供せられた。
 上社最大の神事である4月15日の御頭祭(酉の祭)には鹿の頭75頭が供えられ、その中には必ず耳の裂けた鹿がいることから、諏訪七不思議に数えられた。

 上段に大祝の座、次に家老・奉行・五官の座があり、下段に御頭郷役人の座なども定められ、左手の高神子屋で演ぜられる舞を見ながら宴をはった」(安国寺史友会)
とあり、古来から御頭祭なと上社関係の神事がおこなわれた最重要社殿という。

 社殿は壁のない吹き通しの入母屋造で、西側2間のみに透壁がある。神事の際には神輿等が置かれる所であろう。

*神子屋跡(ミコヤアト、高神子屋跡とも)
 十間廊の背後(南)に残る社殿跡で、低い石垣が積まれている。
 「伝“天正の古図”には神子屋とあり、寛政の前宮絵図には舞屋とみえ、一般には神楽屋と呼ばれていた。
 前宮神事の舞楽はこの場所で行われたといわれ、“年内神事次第旧記”にいう20番の舞曲は名高かった。
 4月15日に執り行われる酉の祭(御頭祭)には、五官祝以下祭に奉仕する村々の御頭役人を従え、大祝が前宮十間廊にのぞみ高座につくと、当日の御供物である鹿の頭75頭が供えられる。
 この時、神子屋にて舞人5名による舞楽が奏せられ、神長官がまず祝詞を申したという。
 神事は現在も存続としているが略式化され、神子屋は衰退し、礎石のみを残すのみで、舞楽はおこなわれなくなった」

 
十間廊
 
同・内部(西側)
(神輿が据えられ鹿頭75頭が供される区画か)

神子屋跡 

*内御玉殿(ウチミタマトノ)

 十間廊の反対側(西側)にある小祠で、神原の中心をなした社という。
 案内には
 「古くは、諏訪大神の祖霊(幸魂奇魂)が宿るといわれる御神宝が安置されていた御殿である。
 『諏訪明神に神体なく、大祝をもって神体となす』といわれたように、諸神事にあたって、この内御玉殿の扉を開かせ、弥栄の鈴をもち、眞澄の鏡をかけ、馬具をたずさえて現れる大祝は、まさに神格をそなえた現身の諏訪明神そのものであった。
 現在の社殿は、昭和7年改築されたものであるが、以前の社殿は天正13年(1586・室町後期)に造営された上社関係では最古の建造物である」 
とある。

内御玉殿

 また、諏訪大明神絵詞・3月巳日条には
 「次に夜に入りて、大祝内玉殿(オホノトウチノタマトノ)に詣でて宝殿を開きて神宝を出す。諸人競ひて拝見す。
 弥栄(イヤサカ)の鈴・眞澄(マスミ)の鏡・御鞍轡(ミクラノクツワ)なり。氏人の外、影を鏡にうつさず」
 とある。
 これによれば、嘗ては、当殿において年一回の神宝拝観が行われ、多くの人々が拝観したようだが、今、神宝は宝物殿に移されているという。

*御室社
 内御魂社の先、参道南端の階段を上った右側(西側)、ケヤキの大木の傍らにある小祠で、背後には民家の塀が迫っている。
 傍らの案内には、
 「中世までは諏訪郡内の諸郡の奉仕によって半地下式の土室が造られ、現人神の大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇形の御体と称する大小のミシャグチ神とともに『穴巣始』といって、冬籠もりをした遺跡地である。
 旧暦12月22日に『御室入り』をして、翌年3月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。
 諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は惜しくも廃絶した」
とある。

 御室神事(別稿・諏訪大社参照)という重要神事がおこなわれた跡だが、今は小さな石祠がポツンとあるだけで、半地下式の土室に約100日にわたる籠りが行われたという往事の面影はない(御室神事:諏訪大社参照)

 
巨木下の小祠

御室社・小祠 
 
御室社・小祠

*若御子社--建御名方命の御子神22柱
 最初の石段上の細路を右にとったすぐにある小祠。
 案内には
 「諏訪明神とされる建御名方命の御子たちを合祀しているといわれる。・・・
 室町時代になる諏訪大明神絵詞のなかに、正月一日、大祝以下の神官・民人は、みな衣服をただし、まずこの若御子社を荒玉社とともに参詣したとある。現在は諏訪大社の末社となっている」
とある。 (絵詞には、「正月一日、新(荒)玉社・若宮宝前を拝して、祝以下の神官・氏人皆衣服をただしくして参詣す」とある)

 御子神22柱は、記紀等にはみえない神々だが、神氏系図(信憑性は不問)には、建御名方命の御子として、長子・建御名方彦神別命(タケミナカタヒコカミワケ)以下22柱の神名が列記され、それぞれの神が祀られている神社名などが注記されている。
 例えば、建御名方彦神別命について、
   「又名彦神別命 信濃国水内郡善光寺地主神 即ち彦神別神社是也
    日本書紀に云、持統帝5年8月朔勅使参向、有祈祭、延喜式名神大社。仁寿元年従三位を加授せらる・・・」
とあり、書紀・持統5年の奉幣記録にいう水内社の祭神がこの神だという。

 また、御子神のうちには、神階を綬叙された神が9柱、延喜式に列する神が4柱あることをみれば、朝廷にも知られた神々で、これらの神々が建御名方命に結びつけられ、その御子神として祀られたと思われる(本来は土着の神々かと思われる)

*弓立石
 若御子社前の細路を西へ少し行った左手、社務所裏手にある立石
 案内には 
 「矢立石ともよばれている烏帽子状の立石の由緒は明らかでないが、大祝の居館内庭に位置していたと推定される。
  西山裾に『的場薬師』が祀られ、付近に『笠懸馬場』や『明神馬場』がある。
  鎌倉・室町時代、弓馬の技にすぐれることで天下にその名を馳せた諏訪武士の名残を留めている」
とあるが、この立石がもつ役割は不明。

 
若御子社
 
弓立石 

*所政社(トコロマツ)
 若御子社前の細路を西へ進んだ南側にある小祠、政所社(マンドコロ)ともいう。
 案内には
 「古書には所末戸社(トコロマツ)とも政所社(マンドコロ)とも書かれ、非常に盛大な祭が春秋二度行われているが、江戸時代に至って全て廃れてしまった。
 かつては旧歴3月末日に稲の穂を積み、その上に鹿皮を敷いて大祝の座とし、仮屋をかまえて神事を行っており、大祝が定まって参詣する社13社のうち第一とされていることから、この社の重んぜられたことがわかる」

 春秋二度の祭とは、諏訪大明神絵詞に
 「3月未日 所政社(十二所第一)神事 仮屋をかまへて稲穂を積て、其上に皮を敷て大祝の座とす」
とあるように、上社最大の神事・御頭祭の開始に先だっておこなわれた神事を指すが、明治の大祝廃止に伴い当社での神事もなくなったのであろう。
 当社を政所社(マンドコロシャ)と記す資料もあるが、本宮・攝末社遙拝所の神名額に「所政大明神」とあることから、これが正式社名であろう。

 草木に覆われた古い石段の痕跡があることから、かつては、それ相応の社殿を構えていたと思われるが、今は木々に囲まれた山腹に小さな石祠があるだけで、道の脇の案内表示がなければ気がつかない。

 
○印が石祠

所政社・石祠 

所政社・石祠

*子安社
 所政社の反対側(北側)にある小祠で、案内には
 「御祭神は諏訪大神の御母神・高志沼河姫命(コシノヌナカワヒメ)と伝えている。
 古来、縁結び・安産・子育ての守護神として、諏訪大神を補佐され、お子安様とも称され親しまれております。
 底の抜けた柄杓(ヒシャク)は、安産の祈願に奉納されるもので、水がつかえず抜けるように、楽なお産ができるようにとの願いが託されています」
とある。

 高志沼河姫とは古事記にのみ登場する女神で、高志国(越国-コシノクニ、新潟県糸魚川市辺り)にいる女神のもとに八千矛神(大国主の別名・ヤチホコ)が妻問いに赴き、歌を詠みあって結ばれたとの説話がある。
 先代旧事本紀に建御名方命の母神ということから(記紀にはみえない)、安産・子育ての神との神格が付会されたのであろう。

 社頭右側の手水舎前に、底の抜けた金属製の柄杓が数多く掛けられている。安産祈願に奉納されたものだろうが、金属製というところが現代版柄杓か。


子安社・全景 
 
子安社・社殿
 
奉納柄杓


*鶏冠社(ケイカンシャ)
 御室社前の小道を西へ100mほど進んだ南側にある石祠。
 今は小祠があるだけだが、江戸時代までは、大祝の即位式(職位式)など極めて神秘・重要な儀式が行われた聖地で、傍らの案内には、
 「柊(ヒイラギ)の宮・楓(カエデ)の宮・つかさの社・とさかの社・鶏神等さまざまに呼ばれている。
 大祝の職位(就任)式がとりおこなわれた磐座があり、前宮諸社のなかで最も重要な秘所であり聖地であった。
 萱筵を敷き簾を立てまわし、雅楽吹奏のなかで、山鳩色の装束をつけて呪印を結び、四方を拝して諏訪明神の御神代として現人神となる大祝の即位式が執りおこなわれた遺蹟である。・・・」

 大祝職位事書(1335)には
 「(大祝となる童子は)当社(鶏冠社)西脇の、周りを葦の簾で囲った小神殿に至り、柊の木(守屋史料館の栞にはカエデの木とある)の下にある要石(カナメイシ)の上に立って、大祝職位式が行われた」(大祝職位事書、大意)
とある。

 また、守矢史料館の栞(平成3年)には
 「鶏冠社前の磐座(要石)の上に萱筵(カヤムシロ)を敷き、周囲に簾の垣を立てまわした中に、浄衣をまとった童子が神長に導かれて立ち、カナツボ石と呼ばれる石の上に並べられた道具で化粧し、髪を結い、諏訪明神の神紋である梶の葉の入った山鳩色の束帯に冠をつけた。
 この儀式の一切は神長守矢氏が取り仕切っており、神長の降ろしたミシャグチを身につけて初めて、現人神大祝、つまり諏訪明神になられたとう」
とある。

 何れの資料も当社傍らにある磐座(要石)の上で大祝職位式がおこなわれたというが、要石は明治初年頃に持ち去られ行方不明という(茅野市史、今、諏訪博物館に、職位式場の復元模型が展示されている。別稿・諏訪大社参照


鶏冠社・全景 
 
鶏冠社・石祠 

 当社名・鶏冠について、復刻諏訪史蹟要項・鶏冠社の項には
 「中世の資料に最も多く現れてくるのは、楓宮(カエデノミヤ)である。
 和名抄に、『鶏頭樹 加比留提乃木(カヘルデノキ)』とあるが(未確認)、これは楓の葉が蛙の手に似ていることに由来する。
 鶏冠社は『カエデのやしろ』と呼ぶのが最も古い。後世、これが鶏のトサカになってしまった如きは、文字によって誤るものとはいえ、滑稽至極といわねばならぬ」
とあるという(ネット資料・諏訪大社上宮散歩道)
 古く、この地に楓の木があったことから楓宮と呼ばれたと思われ、今もヒイラギ・モミジ(カエデの一種)の木などが植わっている。

 楓について、
 ・日本国語大辞典  かえで[楓・鶏冠木]   カエルデ(蝦手)の変化した語 カエデ科カエデ属植物の総称
 ・角川古語辞典    かえるで[鶏冠木・楓] 植物名 カヘルデの転 平安朝以後この形を用いる
                              カエデ科の落葉樹で、掌の形の葉を持ち・・・
とあるように、カエデは古くは“鶏冠木”と書いてカエルデ(カヘルデ)と読まれたようで、当社名もカエデ(楓)→カエルデ(鶏冠)→ケイカン(鶏冠)と変化したもので、“カエデの葉が蛙の手に似ているから”というのは、カエルデ・カエルとの読みの類似からの付会であろう(蛙前足の指は4本、カエデの葉先は5葉)
 今、楓のことを“カエルデ”といっても通用しないだろうが、たまたま見た新聞紙上(読売・8/20)
  花を終へ みどり鎮まる街路樹の けやき くすのき さくら かへるで (畠山順子)
との和歌があった。

*溝上社--高志奴奈河比売命
 神原境内に入った右手(西側)疎林にかこまれた“みそぎ池”と称する小池の傍らにある石祠で、
 案内には、
 「祭神は高志奴奈河比売命(コシノヌナカワヒメ・建御名方の母神-旧事紀)といわれ、御射山へ出発する際にまず参籠された社であった。水眼の清流をたたえた『みそぎ池』の中にあり、西の方に『神の足跡石』があった」
とある。

 参道脇に案内表示はあるが、祠とはやや離れていて見つけにくい。
 今のみそぎ池は一面に草が生えた沼地然となっていて、嘗て、ここで禊ぎをした面影はない。

 
溝上社
 
みそぎ池

*荒玉社
 前宮前交差点の反対側(北側)、駐車場の奥にある小祠で、
 案内には、
 「『新御魂社』(アラミタマ)とも書き、原始農耕の神事として田の神を降し、稲の御霊をまつる社で、上社の重要な摂社である。
 古書によれば、正月元日にはまず大祝以下の神官氏人が参詣し、旧暦2月晦日の春祭りの最初にあたり神使(オコウ)が出仕して『野出の神事』が行われたとあり、現在も続いているが簡素な神事だけになっている」
とある。

 荒玉(新玉)とは稲の新霊を意味し、古書にいう神事とは、、諏訪大明神絵詞に
 「正月一日 新玉社(荒玉社)・若宮宝前を拝して、祝以下神官・氏子皆衣服をただして参籠す
  二月晦日 荒玉の社の神事、当年の神使6人童子直垂を着して出仕、饗膳あり、頭人の経営也」
とあるのを指す。

 この小祠は、古くは現在地東方の田畑の中(今は民家が建っているらしい)にあったが、一時、神原地区の若神子社近くに遷座、近年(平成16年以降らしい)になって現在地に遷座したという。
 石祠そのものは古びているが、玉垣等は新しく、近年になっての鎮座であろう。

   

*柏手社(カシテ)
 「古い時代には、食物を盛るのに柏の葉を用いたり、また、柏の葉を折って飲食器に用いた。
 ここ柏手社は、前宮の神前に供えるものや、饗宴の膳部を調理したところと思われる。

 建武2年(1335)や応永4年(1397)の大祝職位書留には、諏訪明神の現人神となる大祝の即位式において、神聖な秘法の儀式が終わると、本宮に参詣する前に、この社で神事をおこなったとある。
 水眼の清流にそい十間廊からの通路にあたっていた」
とある。

 当社社名・柏手(カシテ)とは、手をたたく拍手ではなく、今井野菊が
 「柏手は膳殿(カシワデン)、神事の内 特に御頭祭等の神饌を整える御炊職(ミカシキ)所の神を祀る、膳所(カシワドコロ)であった」
というように、神饌を調理する膳所を意味する。

 資料によれば、神原地区の東側にあるとされるが、地理不案内で参詣せず。


◎前宮本殿
 本宮・春宮・秋宮には本殿はないが、前宮には本殿と称する社殿がある。

 社頭に掲げる案内・上社前宮本殿には、
 「前宮とは上社本宮に対し、それ以前にあった宮の意味とも考えられている。
 前宮の祭神は建御名方命と、その妃・八坂刀売命と古くから信じられ、ここ前宮の奥に鎮まるところが墳墓と伝えられている。 
 古来より立入ることが固く禁じられ、侵すときは神罰かあるといわれた。

 四方に、千数百年の歴史を有する御柱が7年毎に建てられ、現在の拝殿は昭和7年に伊勢神宮から下賜された材で造営されたものである」
とある。
 尚、本殿は守屋山の方角を指しているが(正確には5度ほど南に振る)、山の全貌はみえない。 

本殿地区・略図

 前宮本殿は森の中に鎮座する。
 石段を上った上に拝殿、その左右に板塀がのび本殿域を囲む。
 拝殿の後ろ、少し離れて神明造の本殿が北面(正確には北東方)して鎮座する。

 
前宮本殿地区・正面
 
拝 殿
 
本 殿

 諏訪大社の中で、前宮のみに本殿がある由緒は不詳。
 諏訪神社略縁起(明35・1902)所収の「官幣中社諏訪上社前宮」との絵図(下図の左)には、左下に神原地区、右上に本殿地区が描かれ、4本の御柱に囲まれた中に、茅葺き切妻造らしい社殿が描かれている(下図右)
 また諏訪史(第2巻・昭6)には、絵図と同じ場所に切妻造・茅葺きの社殿(精進屋という)の写真があり、資料(ネット・「上社散歩道」以下同じ)によれば、この精進屋は昭和7年(1932)に取り壊され、その跡に、礎石をそのまま使って神明造に準じた本殿が建てられたという。

 
諏訪上社前宮・古絵図
 
同・本殿域拡大

 これからみると、今の本殿域は昭和7年以降に整備されたもので、
 諸資料を勘案すれば、
 ・元々は社殿はなく、最上部に神陵(古墳)が、その下に“御霊位磐”(ゴレイイワ)と呼ばれる磐座があり、その上で大祝が30日間の精進を行っていた
 ・その後、雨風を防ぐために、磐座の上に切妻造・茅葺屋根の仮屋を建てた(精進屋というのは大祝が籠もったからであろう)
となる。
 これによると、当地には、北に磐座が、その背後に古墳があり、磐座の上に建てられた仮屋が現拝殿の前身で、本殿は背後の古墳の位置に建てられたかと思われるが、今は板塀に囲まれていてよくみえず、磐座・古墳の有無は確認できない。

 なお、上社古図(前宮部分)には、四方を4本の御柱に囲まれた略中心に“御左口神”と記した小さな社殿(祠)が、その前方に帝屋・五間廊との建物が描かれているが、神陵らしきものは見えない(別稿・諏訪大社参照)
 これによれば、室町時代の当地には何らかの社殿(祠)があったと思われるが、それが仮屋に到った経緯などは不明。

*神陵
 上記案内は、前宮の奥には建御名方命・八坂登美命が鎮まる墳墓があるとの伝承を記しているが、これに関連して、
 上宮御鎮座秘伝記(復刻諏訪史料叢書第3巻所収)には
 「本宮の辰巳(南東)を十八丁隔て前宮と号す。 是、本宮の御妻八坂刀売命の和魂で、陰霊は岩根樹下に鎮座、神陵これ在り。荒魂陽霊は側の社中に鎮座」
とあるという。

 この神陵について、諏訪史所収の“上宮諏訪大明神前宮絵図”(1792)には、前宮本殿の左上に 
  『御神所 玉垣二間半二間
との区画が描かれている(右図)

 今、これに相当する位置(本殿に向かって左奥・三の御柱近く)に低い玉垣で囲まれた一画があり、当社神職の言では「八坂刀売命の陵」との伝承があるという。

 南に廻り近づいてみると、幹がねじれた木(藤らしい)が2本伸びているだけで、陵を示唆する高まりなどはない。

 
神陵(拝殿脇より)
 
神 陵 

 一方、諏訪大明神前宮遺蹟(今井野菊・1966)には、
 「前宮のおやま(土地では本殿域を“おやま”といったらしい)の東部に諏訪大明神の御神陵が鎮まる。
 そして、その御神陵西部、前宮の拝殿となっている御霊位磐の正面が后神・八坂刀売命の御神陵と伝える。
 前宮おやま全域は古代大祝一族の墳墓であって、露出している岩石はみな神族を埋めたとき置いた墳墓の瑩石(タマイシ)とみてよい。
 正面東に鎮まる建御名方命の御神陵は、神代から昭和7年までは、単に「御神所一間半 玉垣二間」と古来伝える箇所であって、その神籬は7年に一回、御柱年に建て替え、その中央には古い藤ノ樹が生えているにすぎなかった」
とあり、
 本殿域左奥の上記区画は建御名方命の神陵で、八坂刀売命のそれは御霊位磐の正面(現本殿の位置か)にあるという。

 また、茅野市の遺跡(ネット資料)には、
  「前宮古墳  前宮社殿下」
とあり、茅野市史には
  「前宮古墳 前宮の社殿下にあると伝えられているが、その実態は不明である。
 この古墳は、上社祭神建御名方命の妻・八坂刀売命の墓との伝承があり、ここを掘ると病気になるという伝承があるが、尊崇され保護されるための伝承であろう」
とあり、現本殿下に八坂刀売命の墓と称する古墳があるという。

 これからみると、本殿域には建御名方命と八坂刀売命神陵の二つの神陵があることになるが、陵・古墳を思わせる地形ではなく、建御名方命・八坂刀売命はいずれも神話上での神であり、伝承とはいえ、その陵の有無を云々するのはナンセンスで、これらの古墳は嘗て諏訪地方を支配した有力者の墓であろう。

 今、前宮の祭神は八坂刀売命というが、前宮で行われる祭祀あるいは上社古図などからみて、本来はミシャグチ神を祀る聖地であったと推測され、正体のはっきりしないミシャグチ神に代わって、何時の頃かに建御名方命の后・八坂刀売命が持ち込まれ、本殿地区にあった古墳を八坂刀売命(あるいは建御名方命)の神陵とする伝承が生まれたのであろう。

*御柱
 本殿域四方の角に4本の御柱が立つ。

 
一の御柱
 
二の御柱

三の御柱 

四の御柱 

*清流・水眼(スイガ)

 本殿域の左に接するように、小川が背後から表へと流れている。
 案内には
 「名水『水眼』(スイガ)の清流
 古くから“すいが”と呼ばれ、山中より湧出する清流は、前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔から、ご神水として大切にされた。
 中世においては、この川のほとりに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。
 この水眼の源流は、これより約1kmほど登った山中にあるが、昭和5年に、著名な地理学者・三沢勝衛先生によって、はじめて科学的調査がされ、その優れた水質は諏訪史第2巻に取り上げられている」
とある
 


※茅野市神長官守矢史料館

   茅野市宮川389

 上社本宮からの国道16号線を東へ約800mほど行った道端に“神長官 守矢史料館”との立て看板があり、その角を南へ入った先にある。
 史料館は、平成3年(1991)神長・守矢氏の敷地内に茅野市により建造・開館されたことから、正面入口は豪邸の面影をもつもので(右に守矢史料館との石碑あり)、その奥に四脚門が開く。

 守矢家について、史料館の展示には
 「今から十五・六百年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよぶ以前からいた土着部族の族長で、洩矢神とよばれ、現在の守屋山を神の山としていた。
 しかし、出雲より進攻した建ち御名方命に天龍川の戦いに敗れ、建皆価値命を諏訪明神として祭り、自らは筆頭の神官つまり神長(ジンチョウ)となった。
 中央勢力に敗れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に坐しくす神の声を聴いたり、山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治維新の時まで持ち続けた。
 この史料館は、そうした守矢家が伝えてきた古文書などの歴史資料を、78代守矢早苗氏より茅野市が寄託を受け、地域の文化発展に資するために建設した
とある。

 
史料館・立て看板
 
正面入口
 
四脚門

 史料館は、諏訪出身の建築家・藤森照信氏の設計で、特異な形をしている。


史料館・側面(右が正面) 

史料館・正面

建物模式図

 館内には、守矢家に伝えられてきた鎌倉時代から近世までの古文書(諏訪上社の神事に関するものなど、総数1600余点という)等が公開され、併せて御頭祭にかかわる祭儀が復元展示がなされ、
 館内の案内には、
 「諏訪大社の祭祀の中心をなすのが前宮で行われる御頭祭(現酉の祭)で、春先、神前に75頭の鹿をはじめ魚・鳥・獣の肉を山のように盛り上げ、酒を献じ、かがり火に照らされながら神と人が一体となって饗宴を催した。
 この展示は、江戸時代中期の様子の一部で、天明4年(1784)3月6日に御頭祭を見聞した菅江眞澄のスケッチをもとに復元した」
とある。

 史料館1階・入ってすぐの部屋に御頭祭復元品の展示があり、奥の部屋には古文書が展示されている(古文書は写真禁止)

 
鹿頭等の展示(猪・熊などが混じる)
 
鹿 頭

耳裂け鹿 
 
サナギ鈴(ミシャグチ神の鈴)

御贄柱 
 
根曲太刀

◎御頭御社宮司総社
 四脚門を入った正面の石垣の上に、それぞれ御柱4本が立つ小祠4宇(向かって右から稲荷社・天神社・総社・神明社、祠としては同形だが、総社はやや大きく且つ覆屋の中に納められている)が鎮座する。

 中心となるものは、簡単な覆屋のなかに鎮座する御頭御社宮司総社(オントウミシャグチソウシャ)とよばれる祠で、
 傍らの案内(「神長官邸のみさく神境内社叢」)には
 「当社叢は、次の樹種よりなる。
  カジノキ(クワ科) 目通り幹周り1.70m
  カジノキ(クワ科) 目通り幹周り1.10m
  カ ヤ(イチイ科) 目通り幹周り2.25m
  ク リ(ブナ科)   目通り幹周り2.80m
  その他
 2本のカジノキは、それぞれ、およそ100年・40年の樹齢と推定される。植樹されたものであるが、諏訪大社の神紋に由緒をもつ樹種で、当地方としては珍しく、また貴重である。カヤ・クリも市中では大きい方であり、古い由緒をもつ当社を象徴する社叢として保存の価値を認めるものである。

 みさく神(ミシャグチ神)は、諏訪社の原始信仰として、古来、専ら神長官の掌る神といわれ、中世の文献・年内神事次第旧記・諏訪護符札之古書には『前宮二十御左口神勧請・御左口神申紙(神の誤記か)は神長の役なり』とある。
 このみさく神は、御頭(オントウ)みさく神ともよばれ、諏訪地方のみさく神祭祀の中枢として重んぜられてきている」昭和56年3月
とある。

 
御社宮司総社・遠景
 
総社・全景
 
御社宮司社

 御社宮司社の左に「神明社」が、右に「天神社」・「稲荷社」の小祠が並び、それぞれに御柱4本が立つ。


神明社 
 
天神社・稲荷社

 御社宮司社(御左口社とも記す)は諏訪地方の各地に点在する小祠で、諏訪古来からの神・ミシャグチ神を祀る。
 しっかりとした社殿を有するものもあるようだが、長野県を中心に関東・東海地方の御左口神を実地調査した今井野菊(在地の民俗学者)が、
 「御左口神の祀られている所には古樹があるが、その木の根元に祠があり・・・・・」
というように、古樹・大樹(湛-タタエ-の木ともいう)の根元に小祠を配したものが多いといわれ、当社も背後からカジの大樹が枝葉を伸ばしている。

 御左口社に祀られる御神体は、
 ・今井野菊--御神体として石棒が納められているのが典型的な御左口神のあり方
 ・藤森栄一(諏訪出身の考古学者)--神体は石棒や石皿・石臼である場合が多い。新しくつくりだされたリアルな、一見男根状のものもまれにはあるが、立石状自然石や、明瞭な石器時代の石棒頭がもっとも多い。縄文中期に多い安山岩製の雄大な石棒もある
というように、縄文時代から続く石棒・石皿といった類いが多いといわれ、当社の御神体も石棒・石皿ではないかというが、扉が固く閉まっていて確認できない。

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