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万治の石仏
長野県諏訪郡下諏訪町社
                                                         2016.10.20訪問

 JR中央本線・下諏訪駅の北約1.2km。
 諏訪大社下社・春宮の西、砥川(トガワ)の対岸にあり、春宮大鳥居前を左へ、砥川に架かる橋を渡って右へ、川添いの道を進んだ先に鎮座する(春宮西の浮島からも行ける)。下諏訪町指定文化財。
 嘗ては川添いの田圃の中にあったというが、有名になった今では周辺には住宅が建ち整備されていて、嘗てあったと思われる鄙びた面影はなくなっている。


 万治の石仏とは、仏身の左側に「万治三年(1160)11月1日・・・」とあることからの呼称で(今は摩耗して読めない)
 ・この石仏を見た故岡本太郎氏が、「世界中を歩いているが、こんな面白いものは見たことがない」といったこと(1974)
 ・故新田次郎氏が、イースター島の女酋長が石人(モアイ像)の頭をもって島を抜け出し、いろいろな冒険をしながら日本の天龍川河口に着岸、川を遡って諏訪湖畔まで運んだという小説(万治の石仏・1976)を書いたこと
などで有名になったものだが、地元では「浮島の阿弥陀さん」と呼ばれてきたという。

 石仏は、高さ2.6m、正面幅3.8m、奥行き3.7mの自然石(安山岩)の上に、高さ65cm、幅39cmの仏頭が乗ったもので、ずんぐりとした大きな仏身の上に、小さい面長の仏頭が乗るというアンバランスな姿をしている(仏塔と仏身は別々の石で、全身を一体として彫られた石仏ではない)

 仏頭は、通常の仏頭に比べて、中央に鼻が大きく三角に突出し、上から1/3(普通は中間辺りという)のところに細い目が彫られているが、首がないことと相まって異様な印象を受ける。

 また、仏身正面は弥陀定印を組んだ座像で、首から掛ける執事袈裟(シュウジケサ・修行者が行脚や労働の時につける袈裟という)には、向かって右から逆マンジ(卐)以下の文様が彫り込まれているが、この文様が何を意味するのかは不明(案内には、太陽・雷・雲・磐座・月というが、よくわからない)
 仏頭・仏身共に、その彫りは稚拙で、これを彫った人は作仏の基本を知らない素人だったのではないかという。

 
万治の石仏
 
同・頭部

同・頭部側面
 
同・側面
 
同・胴部正面

同・背面 

 石仏の傍らに掲げる案内板(下諏訪町)
 「万治の石仏と伝説
   南無阿弥陀仏 万治3年(1660)11月1日
   願主 明誉淨光心誉廣春
 伝説によると、諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時(明暦3年-1657という)、この石を材料にしようとノミを入れたところ、傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事を止めた[ノミの跡は現在でも残っている]
 その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ、そこに良材を見つけることができ鳥居は完成したというのである。
 石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。
 尚、この地籍はこの石仏にちなんで、古くから下諏訪町字石仏(現地名は下諏訪町社)となっている」
とある。

 巨石あるいは巨木に刃物を当てたとき、そこから血が吹き出て云々という伝説は幾つかあり、当伝説もその一つだが、石仏造立の由来が分からないなか、後になって、春宮の大鳥居建立(万治2年)を付会して作られたものであろう。

 また、その下に縢る案内板には
 「石には『南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉淨光 心誉廣春』とあり、また、胸には幾つかの謎の文様が彫られている。
 向かって右から太陽・雷・雲・磐座・月などで、これは大宇宙のすべてを現し、右端に逆マンジ(卐)が刻まれている。

 これは大日如来を教主とする密教の曼荼羅で、阿弥陀如来と大日如来を一体の石仏に共存させた『同体異仏』を信ずる密教集団の弾誓上人を祖とする浄土宗の一派である。
 南無阿弥陀仏と唱えれば、現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。
 これは今までに例のない念仏思想で、『仏頭授受』を伝えるものといわれている。

 石仏は浄土宗の弥陀定印を結び、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟かまたは師弟のつながりをもっていて、その二人がこの石仏を造立したのではないかと推定されている」
とある。

 ここにいう仏頭授受について、五来重氏は次のようにいう(石の宗教・1988、大要)

 京都大原の三千院の北1kmにある古知谷阿弥陀寺(左京区大原古知平町 ・1609創建)の開祖・弾誓上人(1551--1613)が開いたという修験道の一派(浄土宗捨世派)に、「仏頭伝授」という儀礼がある

 この儀礼がはじまった時期は不明だが、上人の業績を伝える弾誓上人絵詞伝(1799)には
 「慶長二年(1597)10月15日の夜、佐渡檀特山の巌窟で修行中の弾誓の前に、教主・阿弥陀如来が忽然と現じて微妙の法を説かれた
 説法が終る時、観音大士が手づから白蓮所乗の仏頭を上人に授け給ふた(右図)。是仏法の印璽なり。
 その白蓮所乗の御頭は、今厳然として当山に鎮在す。証拠の御頭ともいひ、又伝法の仏面とも云ふ」(大略)とある。(この仏頭は今も京都大原の古知谷阿弥陀寺にあるという)

 この仏頭伝授は、受者の頭上に仏頭を乗せて、受者が即身成仏したことをあらす儀礼で、
 この仏頭伝授が、万治の石仏を造る動機であろうと思われる  

仏頭拝受の図

 とあり、続けて、
 「信濃の郷土史家・宮嶋潤子氏によれば、石仏が造立された万治3年は、弾誓五十回忌にあたるというから
 おそらく、五十回忌法要ののち、弾誓の遺蹟に建碑するとともに、弾誓の生命ともいうべき仏頭伝授をあらわす積石仏が作られたのであろう
 弾誓の仏頭伝授は自然宗教、または原始宗教時代の修験道の自然石崇拝が基礎となり、そこに真言念仏の「宝冠の弥陀」思想が入って、宝冠の代わりに仏頭を用いたものと思われ
 石の小仏頭を携行し、それを乗せた石を仏身とし、随所で勤行するという仏頭崇拝があったことも確かであろう
として、万治の石仏は、弾誓の修験道に属する修験者によって造立された石仏であろう」
という。
 (宝冠の弥陀--通常は螺髪である阿弥陀如来が大日如来の宝冠を被ったもので、弥陀大日一体の思想を表すという)

 なお、弾誓の修験道とは、
 ・一般の修験道とは異なり、本山派とか当山派とかいった組織をもたず、大峰山とか出羽三山のような集団入峯もしないで、孤独な窟籠りの修行をするもので、
 ・一般の修験道が密教を理想として、大日如来と一体化する即身成仏を目的とするのに対して、この一派は念仏を理想として、阿弥陀如来と一体化する即身成仏を目的とするものだったという、
 ・この教団で、仏頭伝授をうけて弾誓の伝統を継ぐことができる者は、厳しい窟籠りと木食その他の戒を守らなければならなかったため、後継者が絶えて長続きしなかったという。
 (京都大原の古知谷阿弥陀寺には、ミイラ化した上人の遺骸が石棺に納められているという)

 万治の石仏の造立由緒が分からないなか、五来氏の上記解釈は有力な見解であろう。

 なお、春宮前から左し、橋を渡り石仏へ曲がる角に、岡本太郎筆による「万治の石仏」との石碑が立つ(右写真)

 岡本氏は、珍しいものは何でも前衛に含めてしまう芸術家で、大阪・万博公園の太陽の塔にみるように特異な作品が多い。

 万治の石仏も、普通の仏像とは異なる形態をもつことから、これを“前衛”即ち“面白い”といったわけで、岡本氏らしい表現といえよう。 

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