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手長神社
長野県諏訪市茶臼山
祭神--手摩乳命(テナヅチ)
                                                            2016.10.21参詣 

 JR中央本線・上諏訪駅の東約500mほど、市街地の一角を占める小丘に山腹に鎮座する。
 時間の都合で、タクシーで足長神社・手長神社と廻ったため行路不明。

※由緒
 境内に掲げる案内(石版)には
 「下桑原鎮守 手長神社 御由緒
 手長神社は中世には下桑原鎮守と知られ、近世には高嶋の浮城の鬼門鎮護の神として崇敬された。
 古く手長宮と称し、御祭神は手摩乳命(テナヅチ)と申しあげる。氏子は手長さまと親しみ、諏訪大神の祖父母様と云い伝える。(以下略)
とあり、創建由緒等は記されていない。

 上記案内によれば、当社は最初から下桑原に祀られていたとなるが、資料等を勘案すれば、
 ・和名抄によれば、信州は十郡からなり、そのうちの諏訪郡は七郷に分かれていて、現在の上諏訪と四賀及び茅野市の一部のあたりを桑原郷と称し
 ・そこには産土神(鎮守社)として足長手長神社が祀られていた。
 ・桑原郷は、いつの頃(鎌倉時代ともいう)かに上桑原と下桑原に分かれたのにあわせて
 ・神社も分かれて、上桑原に足長神社、下桑原に手長神社が祀られるようになった
という。

 これに対して、神社から頂いた「てながの社」との栞によれば、
 明治33年(1900)に刻版された
  「長野県信濃国諏訪郡上諏訪町字下桑原郷鎮座 郷社手長神社之景」
との絵図(右図)の右下に記す由緒には(□:欠字、[ ]内は原文のまま)
 「祭神 手摩乳命  一伝手長彦命
 本社は創立の年度悠遠にして祥ならずと雖も、口碑に依れば、昔時健御名命、出雲国より信濃国へ退き給ひし時、随従せる神なりと云ふ。
 康生2年の旧記には、太古皇孫瓊々杵尊、君臨干神州、時有大国主神者在、八雲立出雲国八百米杵築宮、詔□□武南方富命、賜科野国、[中略]
 武南方神乃御子神、為蒼生開墾[中略]

手長神社之景

 御船至波合峯、即大日向彦・小日向姫二人□□麻大幟於波上、以奉迎矣、神□停御船、使従神手長神、問所以奉迎者
 又使手長神聚藻采干所々高嶺[下略]と見えて、大に口碑と附合せり。されば其創始神代にあるものの如し。
 然して旧くより、官幣中社諏訪神社三九攝末社の一にして、上諏訪町の内旧下桑原郷の産土神として、厚く崇敬を加え、手長彦神社と尊称したり。(以下略)
とある。

 文意ははっきりとしないが(特に漢文部分)、要点をまとめると
 ・手摩乳命は、建御名方命が信濃国へ退転したとき従ってきた随神
 ・当社は、諏訪大社攝末社39社の一として古来から崇敬さてきた
となろう。

 しかし、建御名方命が諏訪国に逃れてきたとき従者(随神)があったとの記録はないが(建御名方は武甕槌に追われて諏訪に逃れてきたというから、従者があったとは思えない)、諏訪大明神絵詞(1356)・諏訪湖の御神渡り(オミワタリ)の項に、
 「後三条院御宇・延久年中(1069--74)、当所に一生不犯の行者ありけり。願わくば明神御渡の儀を拝せんと祈りて、夜々湖水を渡りて寒氷に臥すこと累日なり。或夜五更に及て千万の軍卒発向の勢いあり。空に声ありて、手長ありや、目汚きもの取りて捨てよと聞こゆ」
とあり、手長神が諏訪明神の随神だったことを示唆し、口碑にも、手長神は諏訪明神の手助けをして神だと伝えているという。

 ただ、下記するように手摩乳命が出雲系の神とすれば、建御名方の従者というのは疑問としても、出雲からやってきた神とみてもおかしくはない。

 また、今、諏訪本宮・攝末社遙拝殿に祀られる39柱の神々の中に当社の神名は見えず、今の当社と諏訪大社との関係は不詳。

※祭神
  手摩乳命(テナヅチ)  別名:手長神(テナガノカミ)

 手摩乳命について、記紀には、素戔鳴尊が天から出雲の簸の川の辺に天降ったとき、童女を中に置いて泣いている翁と媼がいた。尊が訳を尋ねると、翁が
 「吾は国つ神・大山津見神の子で、我の名は足名椎(アシナヅチ・書紀:脚摩乳)、妻は手名椎(テナヅチ・書紀:手摩乳)という。高志の八岐大蛇が、この子(櫛名田比咩・書紀:奇稲田姫・クシナダヒメ)を食らわんとしてやってくるので泣いているのです」
と答えた(古事記)とあり、スサノオの八岐大蛇退治神話の冒頭に出てくる。

 書紀・神代紀8段に、
 「素戔鳴尊は奇稲田姫と夫婦の交わりをされて、子の大己貴神(オオナムチ・大国主命)が生まれた。そこで詔して『わが子の宮の首長は脚摩乳・手摩乳である」といわれた。だからこの二柱の神に名を賜って、稲田宮主神(イナダノミヤヌシ)という」
とあり、大己貴神が高志沼河姫を娶って生まれた御子が建御名方御子であるから、足摩乳・手摩乳は諏訪明神(タケミナカタ)の祖父母にあたる(古事記での大己貴は素戔鳴6代の孫)

 神話にいう足摩乳・手摩乳2神は、別名を足長神・手長神とも呼ばれ、手摩乳を祀る当社も手長神社と称するが、その由縁は不詳。

 この足長・手長について、当社拝殿横に掲げる案内には、
 「手長足長の初見は、紀元前3世紀頃とされる中国の山海経という書で、長臂国・長脚国に住む異郷人といわれ、その姿は異形である。
 春はあけぼので始まる枕草子第21段(20段の間違い)に云々」
とある。

 山海経(センガイキョウ)とは、戦国時代から秦・漢時代(BC5~AD3世紀)にかけて書き続けられたという中国古代の地理書で、各地の山川や産物とともに、そこに住む鬼神・怪物など空想的且つ怪異なものについて記している。

 その中に
 ・海外南経  長臂国(チョウヒ)は周𩜙国の東にあり、
          魚を水中に捕らえ、両手でそれぞれ一匹をもつ
 ・海外西経  長股(チョウコ)の国は雄常の北にあり。
          その人となり股(アシ)か長く、髪ふりみだす
とあり、晋の人・郭璞(カクハク・276--324)の注に、
 ・長臂人  旧説に云う。その人の手、下に垂れて地に至る
 ・長股人  長臂国の躰、中人の如し、而して臂の長さ二丈(約5m-晋代の度量衡による)、以て之を推してはかるに、この人の股三丈(約7m強)を過ぎるか
とあり、手の長い人物(手長)・足の長い人物(足長)の絵がが描かれている(右図)
 長臂国
長脚国 

 この手長・足長は平安時代には我が国に伝わっていたようで、案内にいう枕草子(清少納言・1000頃)云々とは、その20段に
 「清涼殿の丑寅(ウシトラ)の角(スミ)の、北のへだてなる御障子は、荒海の絵。
  生きたるものどものおそろしげなる、手長・足長などを描きたる。
  上の御局(ミツボネ)の戸をおしあけたれば、つねに見ゆるを、憎みなどして笑ふ」
とあることをいう。

 意訳すれば、
 清涼殿東側の長い廊下の北の隅(鬼門である東北隅にあたる)に障子があり、そこには恐ろしい手長・足長の絵が描かれ、荒海の絵と呼ばれている。
 上の局の戸を開ければ常に見えるもので、女房たちは「憎らしい絵(面白い絵)」だねといって笑っている。
となる。

 荒海の障子に描かれた手長・足長の絵がどんなものかは不詳だが、塵添壒嚢鈔(1532・戦国時代)
 「神輿なんどの水引に、手長足長と云ふ藻のある。[中略]唐の皇居には皆奇仙異人を画けり。されば、千字文にも、宮殿の構へを云ふに、仙霊の怪しき人を画彩と描き彩ると侍り。
 然れば吾が朝の内裏にも、加様の人形あるなり、中にも手長足長を画けるをば、荒海の障子と云う也」
とあり、中国の奇仙異人の絵にならったもので、山海経にみる長臂人・長脚人ではなかったかという。

 手長・足長の絵は幾つか見ることができるか、中国・明代の古書・三才図会(1609)
 「長脚国は赤水の東にあり、その国人長臂国と近く、その人、常に長臂人を負ひて海に入り魚を捕ふ」
とあり、そのような絵も幾つか見られる(一例:右図)

 今、京都御所所蔵の内裏の手長足長の絵には、足長が手長を背負って海に入り、魚を捕る図があるという(右図とは異なる)

 これに対して、上記拝殿横の案内には、
 「諏訪地方にはもディラボッチという巨人伝説があり、互いに協力しあって諏訪湖に入り、生業に励んだとの伝承と結びつけてみると、恐ろしげながらもユーモアのある優しい姿、豊かな感性あふれるもの・・・」
とあり、手長・足長はディラボッチに類する異人ではないかという。

 案内がいうディラボッチとは通常・ダイダラボッチと呼ばれる巨人で、関東・奥州地方に広く分布する伝承で、各地にダイダラボッチが山や湖などを作ったなどとある。

 諏訪のダイダラボッチに関連して、柳田国男は、
 「上諏訪の小学校と隣する手長神社なども、祭神は手長足長という諏訪明神の家来と伝うる者もあれば、またディラボッチだという人もあって、旧神領内には数カ所の水溜まりの、二者のどちらとも知れぬ大男の足跡から出来たという窪地が今でもある。
 手長は、中世までの日本語では、単に給仕人また侍者を意味し、実際は必ずしも手の長い人たることを要しなかったが、いわゆる荒海の障子の長臂国・長脚国の蛮民の話でも伝わったものか、そういう怪物が海に迫った山の上にいて、あるいは手を伸ばして海中の蛤を取って食い、あるいは往来の旅人を悩まして、後に神明仏陀の御力に済度せられたともいう類の言い伝えが、方々の田舎に保存せられている。
 名称の起こりはどうあろうとも、畢竟は人間以上の偉大なる事業をなしとげた者は、必ずまた非凡なる体格をもっていたろうという極めてあどけない推理法が、一番の根拠であったことはほぼ確かである」
という(ダイダラ坊の足跡・1927、一目小僧その他に所収)

 そんな異人である手長・足長が諏訪の2社に分かれて祀られている。
 それについて、大和岩雄氏は、
 「手長神社の鎮座地は、かつては諏訪湖畔にあって、古くから諏訪湖の漁労民が祀っていた神が、手長神になったのであろう。
 足長神社の所在地は山寄りで、桑原山の南麓にあり、その近くには御頭御宮宮司社があり、近くの御曾儀平は上社大祝の居館があったとされ、ミシャグチ平とも呼ばれる。ミシャグチ神は山人が祀る神である。
 このような神社配置からみて、湖の魚を捕る漁民が祀っていた社を手長社とし、山の狩猟民が祀っていた社を足長社としたのであろう」
というが(神社と古代民間祭祀・1989)、も一つ判然としない。

※社殿等
 当社は丘腹の高所、長い石段(200段以上という)を登った上に鎮座するが、その主要結構は明治33年の絵図とほとんど変わっていない。

 民家に挟まれて立つ一の鳥居をくぐり参道を進んだ先から石段が始まり、途中の踊り場の前後に二の鳥居・三の鳥居が立ち、三の鳥居から再び石段をあがった上が境内で、社殿が鎮座する。
 本来は下から石段を登るべきだが、三の鳥居前まで車で行くことができる。

 
手長神社・一の鳥居
 
同。三の鳥居
 
同・三の鳥居から社殿までの石段

 三の鳥居から石段を登った上に社殿が建つ。
 正面に唐破風向拝をもつ拝殿が、その左右に片拝殿が延びるが、その長さは諏訪大社に比べて短く(2間)、左片拝殿の左に長い廻廊が続く。

 拝殿について、拝殿前の案内には、
 「18世紀中頃、社寺建築にブームが起きた。色彩を施さず、欅の木目を活かした素木造りの建物がはやり、諏訪から大隅流(伊藤家)と立川流が出て、後世に影響を与えた。
 初代立川和四郎は、江戸の立川小兵衛富房に建築の技法を学び、和四郎冨棟と称した。帰京後、茅野市白岩観音・秋宮・辰野町矢彦神社・天明8年(1788)44歳で手長神社を建てた。

 拝殿は桁行1間・梁行1間・入母屋造屋根・正面に軒唐破風をつける。母屋は三方に切り目縁をまわし、高欄をつける(中略)

 冨棟や伊藤長左衛門が活躍した18世紀の末期は、民衆が冨を貯え始めるとともに、社会文化面に於て、やがて明治維新に向かって動き始めようとする時代である。
 活気に満ちた民衆の好みに応じながら、以前の因習的な彫刻主題の選び方や表現を抜け出して、新しい表現が進んでいった」
とある。

 拝殿背後にある本殿は、拝殿・片拝殿に邪魔されて実見不能。


同・左片拝殿と廻廊 
 
拝殿正面
 
右片拝殿

◎境内社
 拝殿の右に彌栄神社・松尾神社・稲荷社・高尾穂見神社・社名不明の社が並び、その右、一段低くなった所に、末社の小祠が十数社並んでいる。

 彌栄神社は当社旧本殿を移築したもので、案内には
 「右片拝殿右の建物は、手長神社の旧本殿で『彌栄神社といい、宝永6年(1709)大隅流伊藤庄左衛門により造営された。
 木鼻は扁平、虹梁蟇股の彫刻は線彫り模様で写実的ではない」
とある。

 高尾穂見神社(タカオホミ)とは見慣れない神社だが、その総本社は山梨県南アルプス市に鎮座する式内・穂見神社で、祭神は保食神(ウケモチ)というが、それが当社に勧請された由緒等は不明。
 ただ、諏訪市清水にも高尾穂見神社があるというから、当社はそこからの勧請かもしれない。

 右に並ぶ末社は、明治末期の神社整理によって近傍の村々から勧請された小祠で、各祠ともに新しい御柱4本が立っているが、立っていない小祠が数社ある。
 宮司さんの話では、ほとんどの小祠が旧氏子による祭祀が続いているが、御柱のない小祠は祀る人が絶えたものという。

 
境内社・弥栄社(旧本殿)

同・松尾社 
 
同・高尾穂見社
 
同・稲荷社

境内社(社名判読不能) 

同・末社(一部) 
 
同・末社(御柱なし)

◎御柱
 当社も諏訪にある神社ということから、社殿の四隅に御柱が立つ。
 但し、社殿背後の三・四の御柱は山中にあって未確認。


一の御柱 
 
 二の御柱

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