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戸隠神社
長野県長野市戸隠
祭神--奥社:天手力雄命
       中社:天八意思兼命
      宝光社:天表春命
         九頭龍社:九頭龍大神
         火之御子社:天鈿女命
                                                      2018.05.28・29参詣

 JR信越本線・長野駅の北西約18km、長野市の北方に連なる戸隠連峰の一峰・戸隠山(H=1904m)の南山麓に上記5社が鎮座し、最奥に奥社と九頭龍社、その南、集落内の道路沿いに中社・宝光社・火之御子社が点在する。式外社


戸隠連峰
(資料転写) 
 
戸隠神社・五社案内
(境内掲示)

※由緒
 当社参詣の栞(有料、以下「栞」という)には、
 「戸隠神社は霊山戸隠山の麓にあり、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建二千年余に及ぶ歴史を刻む神社です。
 遠き神世の昔、『天の岩戸』が飛来して出来たと謂われる戸隠山を中心に開かれ、『天の岩戸開きの神事』に功績のあった神々を祭神としてお祀りしています。

 戸隠修験の霊場としては、嘉祥2年(849)に学問行者によって開山され、平安末期には、『四方の霊験所は伊豆の走り井、信濃の戸隠、駿河の富士の山・・・』(後白河法王の撰・梁塵秘抄)と詠われた程でした。

 神仏混淆の時代は、戸隠山顕光寺と称し、“戸隠十三谷三千坊”は、比叡山・高野山と共に“三千坊三山”と言われる繁栄の時代を築きました。
 江戸時代に入り、徳川家康から戸隠神領一千石の御朱印状を賜り、将軍家から手厚い保護を受け、東永山寛永寺の末寺となりました。
 山中は門前町として整備され、奥社参道には杉並木が植えられ、広く信仰を集めました。

 明治維新後、神仏分離によって、戸隠では寺を切り離し、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社となって現在に至っております」
とある。

 また、境内に掲示されている「長野県史跡 戸隠神社信仰遺跡」(昭和54年3月22日指定)には、
 「戸隠神社は、奥社・中社・宝光社の三社からなっている。
 平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊地として知られている。
 『縁起』によると、学門行者が修験を始めた年代を嘉祥2年(849)としていて、これが戸隠寺(奥院)の起源となったという。
 その後200余年を経て、康平元年(1058)に宝光院が、さらに寬治元年(1087)年に中院が開かれたという。
 明治の初めの神仏分離により寺を廃し、奥院・中院・宝光院をそれぞれ奥社・中社・宝光社と名称を改めた。
 中世には、戸隠山は武田・上杉の争乱に巻き込まれ、甲越両軍の戦略によって絶えず危機に脅かされたので、三院の衆徒らは、一時、大日方氏の領内水内郡小川の筏(現小川村)に移り、約30年の歳月をここで送った後に戸隠山に帰った。
 修験山の山の旧態がなおよく保存されている奥社・中社・宝光社及び筏峰三院跡(奥院跡・中院跡・宝光院跡)が史跡指定となっている。(以下略)
とある。


【奥社・九頭龍社】
 両社の創建時期について、
 ・栞--創建以来2000年余り
 ・奥社初頭の案内--創建は前210年、孝元天皇の御世
というが、
 ・先代旧事本紀大成経(以下“大成経”という)との古文書にも
  「孝元天皇5年春 天八意命神(思兼命) 児の大神・手力雄命を将ひて 科野国に天降り 親しく吾道宮(アチノミヤ・現阿智神社に比定-下記)を立て 鎮まり坐す。
   手力雄命 戸隠山に遷る 山深くして人入らず 自ら巌窟を営みて 鎮まり坐す」(巻18)
とあり、江戸時代には、孝元天皇5年創建説が広まっていたと推測される。

 しかし、孝元天皇はその実在が疑問視されている天皇で(欠史9代)、よしんば実在したとしても、その在位年代は3世紀頃と推測され(実在した可能性ありとされる崇神天皇の在位を4世紀前期とみて、その2代前)、弥生時代後期にあたるこの時代に恒常的な神社があった痕跡はなく、孝元天皇5年というは当社を古くみせんがための加飾とみるべきであろう。
 (奥社案内がいう“前210年”とは、神武即位を紀元前660年として、書紀にいう各天皇の在位期間から計算された架空の年次で、これが史実とすれば、弥生時代中期の頃となる

 また栞は、戸隠山の起こりを「神代の時代に天の岩屋が飛来し云々」というが、これは、大成経の
 「時に 天手力雄命 天岩戸の扉を引き開き 瑞朗国(瑞穂国)に投げ下ろす 化して山と成る 今科野国戸隠山是也」(巻6)
をうけてのものであろう。

 ただ、大成経との古文書は、江戸前期の延宝7年(1679)頃に世の出た謎の文書で、そこに伊勢・伊雑宮を日神の社とし、外宮を月神の、内宮を星神の宮とするなど特異な説があることから議論を呼び、幕府によって偽書と認定され(1681)版木が焼かれた(1683)という曰く付きの古文書で、その序文に聖徳太子・蘇我馬子の編纂とあるものの、その内容からみて江戸時代に著された偽書とするのが通説で、その記述をもって当社創建を云々するには疑問があり、当社の創建年次は不明とするのが妥当であろう。(大成経は先代旧事本紀と冠するが、物部氏系史書といわれる先代旧事本紀とは無関係)

 一方、戸隠本院昔事縁起(16世紀中頃・室町末期)には、
 「持統天皇5年(691) 勅使が派遣され、新たな社を造営して天手力雄命御戸開富神に賜り、幣帛及び犀角之笏を捧げる」
とあり、これによれば当社の創建は持統朝(686--97)となる。
 これは書紀・持統天皇5年8月23日条の
 「使者を遣わして竜田風神、信濃の諏訪・水内社などの神を祭らせた」
にみえる“水内社”を当社に比定したものと思われるが、水内社は建御名方富命彦神別神社(長野市城山公園内)とする説が有力で、昔縁起が水分社を当社とする根拠は不詳であり、これを以て当社創建時期を云々することはできない。


 今の当社は戸隠神社と称する神社だが、これは明治元年(1868)の神仏分離令によって仏教色を一掃して神社となったもので、それまでは神仏混淆の修験道行場であって、戸隠山勧修院顕光寺(一名:戸隠寺)と称していた。

 顕光寺の縁起は不詳だが、鎌倉後期の古文書・阿裟縛抄(アサバショウ、1275頃、鎌倉後期、天台密教系の仏書)に、
 「嘉祥2年(849・平安前期)の頃、学門(学問とも記す)と名乗る行者(生没年等不明、伝説上の行者)が飯綱山に7日間籠もり、西の大嶽に向かって祈念して独鈷(ドッコ)を投げ、その飛び行く先を尋ねると大きな石窟があった。
 学問門行者がそこで法華経を誦していると、南の方から生臭い風とともに九頭一尾の龍(九頭龍)が出現し、『ここで法華経を誦しているのは誰でしょうか。私はこの寺の前の別当ですが、仏に献じられた財物を流用着服した罪で、こんな姿になりました。
 ここで法華経を誦する人があると、いつも聴聞したのですが、私には害心はないのに、みな私の毒に当たって死んでしまいました。
 今度ばかりは、ありがたくお経を聴聞できました。これで私も成仏できるでしょう』といって岩窟の中に身を隠したので、行者は大盤石をもってその前を封じた。龍を隠したから戸隠寺という」
とある。

 また、戸隠山顕光寺流記(1458、、室町後期、以下「流記」という)との縁起書には
 ・信濃国水内郡戸隠山顕光寺は、迦葉仏(カショウブツ・仏教でいう過去7仏の一仏で、釈迦の一代前に現れたという)説法の霊窟、鎮護国家の霊場である
 ・学門行者という人が此の山を再興しようとして、先ず飯綱山に登り西窟に籠もって祈願し、然る後に金剛杵を投げると、遙か百余町離れた宝窟に留まり光明を発した
 ・行者がその地に行ってみると、聖観音・千手・釈迦・地蔵が湧出していた
 ・その夜、南方から臭風が吹き来たり、九頭一尾の大龍が現れて
 ・当山は破壊已に40余度、吾が寺務を行うこと7度、最後の別当澄範也
 ・仏物を虚用したことから蛇身と化したが、いま、行者の錫杖の音や読経の声を聞き解脱することができた
 ・吾は未来永劫に此の山を守護しよう。汝菩提心を以てすべからく大伽藍を建てよ
 ・この山の峰に五丈の白石ありて両界曼荼羅を現す、故に両界山と云う。前に宝石の蜜壇あり、迦葉仏説法修行の処也
 ・山中に33窟あり。大慈大悲の化現に合す。昼夜万民を擁護し、悪業群類を済度す。故に一度此の山に登れば悪趣苦と永離す
 ・と言い終わって岩窟に隠れたので、大盤石を以て其の戸を閉ざし戸隠山と名付け、金剛杵が光を放ったので顕光寺と号した
とある(原漢文、要点意訳)

 戸隠山には33ヶ所に及ぶ霊窟(岩窟)があったといわれ、その内、学門行者が籠もった第一本窟(本院)が現奥社の前身で、九頭龍が隠れた第24窟が現九頭龍社の前身といわれ、嘗て、旧奥社本殿が雪崩によって倒壊したとき、その後ろに石の詰まった岩窟がみえたという(下記参照)


 以上は参詣の栞及び顕光寺由緒等による当社の創建由緒だが、当社刊の戸隠信仰の歴史(1997、以下「信仰の歴史」という)
 ・原始宗教の一つであるアニミズムによると、すべての山には所謂『山の神』が宿るといわれ、一般に里から眺めて形が美しく秀麗であるとか、逆に奇怪で畏怖を感じさせるとか、何らかの目立つ姿をしているのが普通であり、
 ・ゴツゴツした岩肌や峨々とした山容を特徴とする戸隠連峰は、後者の典型といえる。
 ・戸隠信仰は、この屹立した峰々を、あたかも九つの頭を持つ龍に見立てて『九頭龍神』として崇拝したのが始まりで、
 ・九頭龍神は、後にこの地の地主神と意識されるようになるが、嘗ては“本院権現堂”とも呼ばれていたように、山中における信仰の中心的な位置を占めていたと思われる。
 ・そんな戸隠山に、奈良末期から平安初期にかけて、幾多の山岳修行者いわゆる修験者たちが修行の場として入り込むが、
 ・その象徴としての学門行者が戸隠寺(顕光寺)を開山する以前から、戸隠には水神や農耕神である山の神が信仰されていた可能性が高い。
 ・戸隠山からは10世紀代の出自遺物が出土することから、戸隠山の開発は、古くからの自然崇拝や山岳他界観などを背景とする山岳信仰が母胎となって、平安後期には天台系の修験道場として開山していた可能性が大きい。
 ・中世・近世を通じて、戸隠山への庶民の信仰は、戸隠の自然そのものであり、原始古代信仰の形を残すものであり、
 ・それが九頭龍権現信仰へとつながり、それが農耕神・水神として戸隠信仰の中心となるものではなかっただろうか。
として(大意)、当社の始まりを、戸隠山に坐す山の神すなわち九頭龍神に対する水神信仰・農耕神信仰に求めているが、妥当な見解であろう。

 なお戸隠神社の社紋は、一見“卍”の変形とみえるが(右写真)、その実、農耕に使用する“鎌”を4本組み合わせたものといわれ、そこからも当社が農耕に関係する神社であることが窺われる。


 


【宝光社】
 当社の創建に関して、流記には、
 「後冷泉院の御代・康平元年(1058・平安後期)8月26日、本院から50町(5.5km程)余り下の大木の梢に光りを放ち輝くものがあった。
 衆人が奇異に思って是を見たところ御正体であった。
 その時、12・3歳の童女が悶え苦しみだし地に横たわって気を失った。
 人々が何故かと問うと、『吾は当山三所権現の一・左方に立つ地蔵権現也。然るに彼の処(本院)は女人禁制の結界でであって、女人は閉め出されている。故に此処に女人のための堂を建て吾を安置せよ』とのお告げがあった。
 人々が怪しんで、『真の御神託なら、ここに居る誰かの袖にお移りください』というと、御正体はそこに居た一人の沙門の袖に飛び移った。これを拝すると地蔵菩薩の尊像であった。
 そこで此の地に一堂を建て地蔵菩薩を安置した。初め福岡院と号し、後に宝光院と云う。
 御正体飛来の処を“伏拝”と称する是なり」(漢文意訳)
とある。

 この創建由緒にかかわって、宝光社から火之御子社へ至る参詣道である神道(カンミチ・地道、旧戸隠古道の一部か)の中程に注連縄を張った杉の巨木が聳え、その下に「伏拝所」との黒い石標が立っている。
 傍らの案内には
 「室町時代の古書に、『御正体飛来の処 伏拝と称す』と記しています。
 天暦年間(950年頃)、阿智の祝部(神主)が宝光社の御祭神・天表春命を奥社に合祀しました。
 康平元年(1058)、天表春命の御正体がこの地に飛来し、『奥社は女人禁制にして、冬は登拝が困難である。この地に四季を通じて老若男女がお参りできる社を建てて、吾を安置せよ』と申されました。
 里の人々は、御神意によって宝光社を建立し、御正体をお祀りしたと伝えられている」
とあり、上記宝光社創建由緒にいう御正体(地蔵菩薩)飛来の地が此処だという。 

伏拝所・石標 

石標と神道

 なお、江戸時代までの当社は寺院であって、木造地蔵菩薩半跏像・木造役行者像・木造学門行者座像(いずれも江戸時代の作)などの諸像が祀られていたが、明治の神仏分離に際して、これらの諸像は近くの宝光社集落にある地蔵堂に移されたという。


【中社】
 流記には、
 「後堀河院の御代・寬治元年(1087・平安後期)4月8日、時の別当に「『山は三院たるべし』との瑞夢があり、本院と宝光院の間の四神相応の地に一院を建て、釈迦権現を本尊として富岡院と云う。今中院と称す」
とある(漢文要約)
 なお、中社は“チュウシャ”と読む。

 宝光社・中社の創建について、信仰の歴史には、
  「宝光院の康平元年、中院の寬治元年という年代については根拠ははっきりしないが、戸隠に多くの宗教者が集住し始めた時期が11世紀であり、三院の分立はそれに対応する出来事であったと考えられるから、ほぼこの頃とみて大過ないだろう」
とある。

【火之御子社】
 流記には、
  「宝光院と中院の中間に社頭有り、火御子と号す」
とあるが、以下の漢文が難文で判読できず、創建由緒・時期等は不明。
 ただ、
 栞--「創建は承徳2年(1098・平安後期)と伝えられ、・・・」
 信仰の歴史は--「火之御子社については勧請年代がはっきりしないが、これもほぼ11世紀頃とみてよいだろう」
という。

 記紀をはじめとする公的史料に戸隠山あるいは顕光寺の名はみえず、神階・封戸授与等の記録もないが、これは嘗ての当社が仏寺であって神社とは認められていなかったためで、公的記録から当社創建時期の確認はできない。
 ただ、その他の記録として、
 ・能因歌枕(1038頃、能因法師)--「しなのゝ国 ・・・あさまたけ・こまがたけ・とかくし(戸隠)・・・」
 ・梁塵秘抄(1169、伝後白河法皇編)--「四方の霊験所は 伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士山・・・とこそ聞け」
とあることから、平安時代の戸隠山は修験道の聖地としてひろく知られていたことがわかる。


※祭神
 祭神について、当社HPには、
 ・奥  社  天手力雄命(アメノタヂカラオ)
   日本神話にある天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって天の岩戸をお開きになった神
 ・中  社  天八意思兼命(アメノヤゴコロ オモイカネ)
   素盞鳴尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけをつくった神
 ・宝光社  天表春命(アメノウワハル、面春と書いてオモハルと読むとの説もある)
   祭神は中社祭神の御子神様で、開拓学問技芸裁縫の神・安産の神・女性や子供の守り神として御神徳があります
 ・九頭龍社  九頭龍大神(クズリュウオオカミ)
   天手力雄命が奉斎される以前から地主神として奉斎され、心願成就の御神徳高く特別なる信仰を集め、また古来より水の神・雨乞いの神・虫歯の神・縁結びの神として尊信されています
 ・火之御子社  天鈿女命(アメノウズメ)
       配祀:高皇産霊命(タカミムスヒ)・栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメ)・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
   戸隠山の神様が神仏習合されていた当時も、このお社だけは神社として終始しておりました。
   戸隠神社太々神楽(ダイダイカグラ)は、この神社に仕えていた社人によって古来より伝えられ現在に至っております。
   舞楽芸能の神・縁結びの神・火防の神として尊崇されています。
とある。

*天手力雄命
  天照大神が籠もった天岩屋の戸を引き開けて大神を導き出したとされる力持ちの神で、古事記には
  「天照大神がいよいよ不思議とお思いになって、そろそろと石屋戸から顔を出して鏡を覗かれたとき、戸の傍らに隠れ立っていた天手力雄神が、大御神の御手をとって外に引き出し申した」
とある(講談社学術文庫版・現代語訳、以下同じ)

 天手力雄命の出自について、記紀には記していないが、大成経に
 ・天思兼命の御子で父・天思兼命とともに信濃国に天降り(吾道宮に鎮座)、そこから戸隠山の巌窟に遷座した(上記)
として天思兼命の御子
 ・天手力雄命が投げ下した天岩屋の扉が飛び来たって戸隠山となった(上記)
とあることから当社の主祭神とされたのであろう。

*天八意思兼命
  天岩屋に籠もられた天照大神を呼び戻すための方策を考えた智恵の神で、高皇産霊神の御子。
  古事記には
  「あらゆる神々が天安川の河原に会合して、高皇産霊神の子・思金命に善後策を考えさせた」
とあるのみで(八意とは諸々の智恵を意味する)、当社との関係はみえないが、
 ・先代旧事本紀(9世は前半)・神代本紀に
  「高皇産霊神の児 天思兼命 信濃国に天降った。阿智祝部(アチハフリベ)等の祖である」
 ・大成経に、「信濃国に天降り吾道宮に鎮座した」(上記)
とあることからの奉祀であろう。

*天表春命
  記紀にはみえない神だが、先代旧事本紀・天神本紀(9世紀前半頃)には、饒速日命に従って天降った32神のなかに
  「八意思兼神の子・表春命 信乃(信濃)阿智祝部らの祖」
とあり、父・思兼命と共に信濃国に天降ったとされることからの奉祀であろう。

 思兼命・表春命の後裔という阿智氏とは、諏訪氏・安曇氏とともに諏訪国を三分統治した古代豪族で、諏訪国南部(長野県下伊那郡の辺り)を開拓統治したという(ネット資料)
 その阿智祝氏が祭祀を司ったという阿智神社(下伊那郡阿智村智里・式内社)の由緒には
 「当社は先代旧事本紀に高皇産霊尊、児・天八意思兼命、その児・天表春命とともに天降りまし、信濃国阿智祝等の祖となるとあり、大古越後より信濃にかけて蟠踞する出雲系諏訪族に対抗する天孫系氏族の尖兵として、信濃の国境を押さえる最重要地点・御坂の東麓この地に来たり駐留し、その部曲(カキベ)の民を率いて阿智の地方を中心に伊那西南部一帯の経営開拓にあたった信濃国三大古族の一つ阿智族の本拠で、その祖先神・守護神を祭る神社である」
とある。


 奥社・中社・宝光社の祭神は、明治初年の神仏分離によって神社となった時、戸隠山に残る天岩屋神話関連の伝承から、それらに関係する神々が祭神として表に出たものと思われ、それ以前、当社が顕光寺と称する修験道道場であった頃は、
 ・本院(現奥社)--聖観音菩薩
 ・中院(現中社)--釈迦如来
 ・宝光院(現宝光社)--地蔵菩薩
が本尊として崇敬されていたようで、その頃、これらの神々がどのように処遇されていたかは不明。

 ただ、
 ・善光寺記行(1465、祭神を手力雄とする最古の文献という)
  「戸隠山の社頭は北の峯にさしあたりて東に向かひ、大なる岩屋の内に作り入れたり。彼御神は多力雄にてまします」
 ・大成経(1679)
  「孝元天皇5年春正月、天八意思兼神とともに科野国(伍道宮)に天降り、手力雄命は戸隠山に遷る。この山深くして人入らず、自ら巌窟に鎮座なされた」(上記)
 ・一宮巡詣記(橘一喜・1696)
  「戸隠三社  奥院:多力雄神  中院:思兼神  宝光院:表春命
      外に  火御子社:五男神  九頭権現社:弁才天」
等の資料からみると、中世以降の知識人の間では、天手力雄命・思兼命・天表春命を祀る神仏習合の神社とみられていたことが示唆される。
 ただ、これが一般に流布していたかどうかは不詳で、庶民の間では“観音さん・地蔵さん”のお寺として信仰されていたであろう。

*九頭龍大神
  学門行者が誦する法華経の功徳により解脱した九頭龍(大蛇)を九頭龍権現として祀ったもので、
 社頭の案内には、
 「地主の神で、御鎮座の年代古く、天岩戸が化成したと謂われる戸隠山の守神にして、神代の岩戸隠れの変に御功績を立てました本社の御祭神・天手力男命を当山にお迎えした大神で、水神・水口神・五穀の神として云々
とある。

 龍とは水を司る水神であり、古くから当地一帯の生活・農耕に必要な水をもたらす地主神(水神)として、学門行者による開山以前から祀られていたとみてもおかしくなく(修験道で水神を祀るのに違和感はない)、日本の神々9(1987)
 「近世においても戸隠信仰の実質的な対象は水神であり、現在も農業神としての性格は変わらない。手力雄命以下の神々はいわば名前だけの存在である」
という。

 なお、一宮巡詣記には“弁才天”とあるが、弁才天の原点がインド・サラスバティ川を神格化した水神であることから、九頭龍権現の本地仏としたものだろうが、同じ水神であっても、怖そうな九頭龍権現より、女神・弁才天とする方がより親しみやすかったかと思われる。

*天鈿女命
  天岩屋に籠もった天照大神を呼び戻すために岩屋の前で舞を踊ったという女神で、古事記には
  「天の香具山の日陰葛を襷に掛け、真拆葛を髪にまとい、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天岩屋戸の前に桶を伏せてこれを踏みならし、神がかりして、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部までおしさげ、舞を舞った」
とある。
 当社に太々神楽が伝わっているが(長野県指定無形民俗文化財)、神楽についてHPが
 「岩戸に隠れてしまった天照大御神に再びお出ましいただくために天鈿女命(火之御子社祭神)が舞い踊ったのが神楽の始まりといわれております」
というように、神楽の原点が天岩屋前での鈿女の舞とされることから、太々神楽が伝わる火之御子社の祭神に天鈿女命を充てたと思われる。

 ただ、火之御子(日之御子)との社名と舞姫・天鈿女命との接点はみあたらず、当社が天鈿女命を祀る由縁は不詳だが、信仰の歴史には、
 「火之御子社の祭神は、明治初年の長野県町村誌によると、栲幡千々姫命・天忍穂耳命・高皇産霊命・天宇受女命で・・・」
とあり、そこでの天鈿女命は祭神の末尾に記され、
 また同書所載の戸隠社報(平成8年1月1日号)には
 「火之御子社と書かれる訳は、祭神・栲幡千々姫の又の名が“火之戸幡姫”(ヒノトハタヒメ)と称せられていたことに由来するといわれております」
とある。
 ただ、書紀9段一書6には、「火之戸幡姫は高皇産霊命の娘で、その子・千々姫命が天忍穂耳の后」とあり、これによれば、火之戸幡命と栲幡千々姫とは別神となる。

 これからみると、本来の祭神は現在の配祀神・高皇産霊命以下の3座だったが、戸隠5社の祭神を天岩戸開きにかかわる神々で統一するために天鈿女命を加えてこれを主祭神とし、本来の神々3座を配祀神としたのかもしれない。

 なお、栲幡千々姫とは、天照大神の長子・天忍穂耳命の后であり、高皇産霊命(天地開闢の時に2番目に成り出た神)は后の父神であって、これらの3神と天鈿女命とは神格・出自が異なっており、町村誌がこれら3神と天鈿女命を合祀する由縁ははっきりしない。

 これらの点からみて、一宮巡詣記がいう五男神(アマテラスとスサノオのウケヒにより成り出た5柱の男神で、その筆頭が天忍穂耳命)の筆頭・天忍穂耳命を本来の主祭神(天照大神の御子 則ち日之御子)とするのが、火之御子(日之御子)との社名には相応しい。


※社殿等
【奥社】
 社頭の案内には、
 「創建は前210年、孝元天皇の御代。
 御祭神は、神世の昔、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって岩戸を開いた神で、(中略)
 嘉祥2年(849)開山した学門行者の道場として築いた伽藍が起源とされ、山中33窟の第一窟・本宮(宝宮)の在所です」
とある。

 県道36号線脇に立つ大鳥居を入り、左右に広がる叢林(県指定天然記念物)に挟まれた参道(約2km)の中程に、苔むした茅葺屋根・朱塗りの「随神門」(旧仁王門)が建ち、随神門以北の参道両側は杉(クマスギ)の大木が立ち並ぶ杉並木道となっている。

 随神門の建立について、信仰の歴史所収の年表に、
 ・貞観3年(1223) 本院仁王門の造立
とあるが、その後の建て替え等の経緯は不明。

 随神門脇に立つ“奥社参道杉並木”との案内には、
 「慶長17年(1612)、戸隠山顕光寺(現神社)は千石の朱印地を拝領した。
  以後、顕光寺を中心として大門通りをつくり、坊はその道側に集め、参道には植樹した杉並木をつくり、山の威容を整えた。
 現在の杉並木は、その時代に植樹されたもので約800m」
とあり、今、参道東側(右側)には約150本、西側(左側)には約130本がが立ち並ぶという。


奥社参詣案内図(境内掲示)
 
戸隠神社奥社・大鳥居
 
同・参道
(大鳥居~随神門)

随神門遠望 
 
随神門
 
杉並木

 杉並木の終点左手にある飯綱社(下記)を過ぎたところから石段を登った上に奥社社殿が鎮座する。
 社殿直背まで戸隠山の岩肌が迫り、境内は狭い。


奥社への石段
(どちらからもいける) 
 
奥社・鳥居

 奥社社殿は、中社・宝光社など他の社殿とは異なる形態をしているが、これは、度重なる雪崩により社殿が崩壊したことから(信仰の歴史によれば、奥社は近世以降にも、明治2年・昭和11年・37年・53年の雪崩により崩壊したという)、昭和54年(1979)両側を石垣で固めた鉄筋コンクリート造の社殿として再建したもので、奥社独自の社殿形態となっている。

 なお、戸隠神社5社の社殿はすべて、拝殿と本殿とをひとつの社殿内に納めた構造をとっており、通常の神社にみられる拝殿・本殿を別棟とする社殿構成とは異なっている。


戸隠神社奥社・社殿 

同・内陣
 
同・社殿全景(信仰の歴史より転写)

 奥社社殿は背後の岩肌に接して(一部組み込んでいるらしい)建てられており、
 社殿左側--巨岩が積み重なった岩肌が社殿に接して切り立ち、その下部に岩窟が口を開いている。
         これが学門行者が修行したといわれる第一窟で、聖観音出現の霊窟かと思われるが、案内等なく詳細不明。
         高さは低く人が入れるようにはみえないが、明治の社殿崩壊の時、「背後に岩石で埋まった岩窟がみえた」とあるのが是で、長年の経過の中で殆どが埋まってしまったと思われる。
 社殿右側--切り立った山肌を石垣で補強してあり、それと一体化したように社殿右壁部分にも石垣が続いている。

 
社殿左側の岩肌
(下部に岩窟がみえる)

第一窟と思われる岩窟 
 
社殿右側の岩肌

 なお、現在の奥社社殿は他の4社とは異なる形態をしているが、嘗てのそれは三間社流造(一間向拝付き)の社殿だったようで、信仰の歴史には下の写真・図面が載っている。
 ただ、雪崩災害を防ぐためとはいえ、昭和54年の再建時に、何故、旧来からの流造社殿にしなかったのか疑問が残る。


昭和初年頃の奥社 
  昭和53年に崩壊した最後の木造社殿

【九頭龍社】
 奥社の左手、低い石段を下りた狭い境内に鎮座する。左横に奥社社務所がある。
 境内の案内には
 「御祭神 九頭龍大神
 地主の神で、御鎮座年代は古く、天岩戸が化成したといわれる戸隠山の守護神にして、神代の岩戸隠れの変に御功績をたてました本社の御祭神である天手力雄命を当山にお迎えした大神で、水分神・水口神・五石豊熟・魔除けの神・虫歯の神・縁結びの神として霊験あらたか・・・」
とある。

 当社殿も背後の岩山に近接して建てられており、樹木に隠れてよく見えないが、社殿奥から右手に向かって長い廊下があり、これが九頭龍大神の坐す岩窟に達しているという(信仰の歴史)

 
九頭龍社・社殿
 
同・内陣
 
九頭龍大神
(資料転写・部分)


 奥社参道に沿って幾つかの祠等が点在する。大鳥居側から
◎一龕龍王祠(イッカン リュウオウ シ)
 大鳥居を入ったすぐ左手の小高くなった処に鎮座する小祠で、参道脇から石段が延びる。
 道ばたに自然石に一龕龍王祠と刻した石碑が立つが、達筆すぎて判読困難。
 案内ガイドの話では、戸隠神社東方の黒姫山の麓にある種池にあったもので、何時の頃かに現在地に移ったものという。

 “龕”(カン・ガン)とは仏像を納める厨子を指す言葉だが(広辞苑)、一龕龍王の意は不詳。憶測すれば、“龍王の坐す祠”として一龕を冠したのかもしれない。

 
一龕龍王祠
 
同・石碑

◎旧院坊屋敷跡
 今、随神門から奥社へ至る参道の左右には下草が生い茂った叢林が広がっているが、嘗てのこの地一帯には僧侶等が居住する院坊が立ち並んでいたといわれ、信仰の歴史所載の配置図には、参道の左側、随神門側から妙智院・仏性院など九つの院坊がみえ、参道右手奥社寄りに東泉院の名がみえる。

 参道脇に立つ 案内には、
 「奥社院坊跡  
 奥社随神門の内側道側左右にある。嘉祥3年(850)以降、戸隠権現に奉仕した院坊の跡である。
 明治維新後神社となり、国有境内地となった為、ここにあった院坊は中社・宝光社に住所に移した」
とあり、信仰の歴史には
 「これらの院坊の規模は天保2年(1841)の“本坊ならびに三院衆徒分限帳”に記載されているが、正徳年間(1711--16)からは冬期の積雪のために、中院・宝光院に里坊が置かれ、明治の神仏分離政策によって里坊の地に移転し、当地には院坊跡を留めるだけになった」
とある。


旧院坊跡 
 
同 左

◎法燈国師母公祈願観音堂跡

 旧坊院跡の途中、参道左脇に「法燈国師母公祈願観音堂跡 宝篋印塔入口」と記した木柱が立ち(右写真)、その側面に
 「法燈国師(1207--98)は信濃国神林村に生まれ、19歳で出家、東大寺で受戒の後入宋、無門の法を嗣ぎ、帰国して由良興国寺に住持、慈母を招いて孝養し、母の没後32年間跣足で墓参し、92歳で没した。
 法燈国師の母公が筑摩郡神林村から此の地にあった観音様に詣でて祈願し、国師が生誕したと伝えられている。 
 観音堂跡に、昭和9年7月、奥田正造師が法華経一巻の写経石を埋経して塔を建てた」
とある。

 奥社参詣案内図によれば、観音堂跡・宝篋印塔は参道から西へだいぶ入った先にあるようで、今どうなっているかは不明。 

◎飯縄社(イイツナ)
 参道杉並木が終わった左手に素木の鳥居が立ち、その奥、石段の上に“飯縄社”との小祠がある。
 案内なく詳細不明だが、顕光寺(戸隠寺)を開山した学門行者が7日間飯綱山に籠もり修行したとの伝承などから、飯綱山に坐す飯縄権現を勧請したものとも思われ、
 流記には、飯縄権現が
 「吾は是れ、日本第三の天狗なり。願わくば此の山の傍らに侍し、九頭龍権現の慈風に当たり三熱の苦を脱するを得ん。須く仁祠の玉台に列すべし。当山の鎮守と為らん」(漢文意訳)
と告げたとある。


飯縄社・鳥居 

同・覆屋 
 
同・社殿
 飯縄権現の正体は不詳だが、信仰の歴史所載の「木造飯縄権現立像」(戸隠神社蔵、右写真)の説明には、
 「飯綱権現は、飯綱山で修行し神通力を得、天空を飛行することができた修験者とされる。
 その面貌は、鼻を突き出した天狗の形相で(烏天狗形)、左手に 羂索、右手に宝剣を執り、背中に双翼、火炎を背負って白狐の背上に立つ」
とある。

 飯縄権現は「世に伊豆那(飯縄)の術とて、人の目を幻惑する邪法悪魔あり」(茅窓漫録)とあるように、天狗や狐などを使役して、人の目をくらまして災禍をもたらす呪術・幻術をおこなうとして畏れられたというが、一方では、戦勝の神として中世の武将たちに信仰されたといわれ、上杉謙信の兜の前立は飯縄権現像だったという。

◎磐座
 飯綱社の少し北、木々に囲まれて巨岩(磐座)があり、下部の窪みに古い小石仏4躰が座っている。
 奥社参拝の案内図に“石仏”とあるのみで、詳細不明。

 
磐 座
 
石 仏


【中社】
 戸隠集落の北寄り、Y字型に分岐する道路突き当たりの叢林の中に鎮座する。
 社頭に掲げる案内には、
 「祭神  天八意思兼命
 御鎮座年代は古く、人皇73代堀川天皇の寬治元年(1087)に奥社より遷祀し奉斎す。
 神話に名高い天照大神が、御弟神・須佐之男命の度重なる非行をお怒りになり天岩屋戸にお隠れになった時、神楽を創案し、万民をして安んじせしめたと言う知恵深い神で、学業成就・試験合格・商売繁盛・学業隆盛・家内安全・開運守護の外、諸々の災難を祓う厄除消除の神として、国民の弥栄の上に高大なる御神徳を恵み給う大御神です」
とある。

 道路脇の小広場の奥に大鳥居が立ち、一段目(20数段)・二段目(50数段)と二つの石段を上った上が境内。

 
中社境内案内図(境内掲示)
 
中社・大鳥居

同・二段目石段 

 境内正面に、唐破風付向拝を有する入母屋造の社殿が鎮座し、その左に社務所、右に青龍殿(結婚式場他)との建物がある。
 社殿天井には、狩野派絵師・河鍋暁斎(1831--89・幕末から明治初期)作の「龍の天井絵」があるが(平成15年復元)、外からは見えず、正式参拝で社殿内に入らないと実見できない。


中社・境内全景 

同・社殿 
 
同・内陣

 大鳥居を中心に一段目石段の上と大鳥居の左右に杉の巨木(戸隠の三本杉)が、又境内に入ったてすぐ左にご神木の杉が聳えている(案内図参照)

 戸隠の三本杉について、傍らの案内には
 「三樹各72m間隔の正三角状にある。
   石段上---目通り7.3m、高さ目測37m
   大鳥居右--目通り9.4m、高さ目測42m
   大鳥居左--目通り16m、高さ目測38m
 この三本杉には八百比丘(ヤオビク)の伝説があり、古来より御神木として崇められている」
とある。 (石段上の大杉は幹が3本に別れているため、これを三本杉と勘違いすることがある)


三本杉・石段上 
 
同・大鳥居右
 
同・大鳥居左
 
境内の御神木

 なお、案内がいう“八百比丘”の伝説とは、
 ・若狭国の漁師が入り江の奥で水浴びをしている美しい女性を見つけたが、その女性にはウロコがあった
 ・漁師は「これは人魚であろう。捕まえて見世物にしよう」と思い、持っていた網で女性を捉えた
 ・漁師は命乞いをする人魚を殺してしまい、肉を家に持ち帰った
 ・明くる日、漁師が漁に出ている間に、腹を空かした3人の子供らが、この肉を食べてしまった
 ・人魚の肉を食べた者は人魚になってしまうとの言い伝えの通り、子供らの身体にウロコが現れ、遂には死んでしまい、漁師は為すすべもなく眠れない夜を過ごした
 ・ある日、一瞬まどろんだ時、「漁師よ、剃髪して出家して、子供を救うため戸隠大権現に詣でて神に祈り、三本の杉を植えよ」
と夢告があった
 ・漁師は子供と妻の位牌を身につけて戸隠大権現に赴き、名を「八百比丘」と改め、現世の滅罪と永代の繁栄を祈りつつ、正三角形に杉を植えた(概略)
との話という。

◎女人堂跡
 当社には西参道があり、西鳥居(前に駐車場あり)を入り、なだらかな参道を通って境内に入れる。
 又、西鳥居前から、叢林の中に幅2m弱ほどの地道が西へ延びており、嘗ての戸隠古道の一部であろう。

 その西端、一般道への合流点の手前に「女人堂跡」との標識が立ち、傍らの案内には
 「此処には元 奥社遙拝所がありました。
 明治までは、これより奥は修行地として女性は入れませんでした。この禁を侵して入ろうとした尼僧が石になったといわれ、『比丘尼石』(ビクニイシ)が近くにあります。 
 明治になって(明治3年・1870)、この禁もなくなり、御堂も取り払われました」
とあり、
 信仰の歴史には
 「仏教では出家者の守るべき規範が数多くあり、その最も重要なものの一つが不淫戒で、僧寺に女性が、尼寺に男性がむやみに入ることを禁じていたが、当初は性的な差別とは無縁であり、戸隠寺は当初から僧寺であったから、女性の入山を拒否するのは当然であったわけである。
 しかし、信心深い女性の中には禁制を犯して僧寺に参詣することが多くなり、おそらく、戸隠にも多くの女性達がやってきたと推測され、こうした女性達のために出来たのが女人堂であり、更に女人禁制を破った女性が石に化したという伝承を有する“比丘尼石”が、戒めのために置かれた」
とある(概略)
 各地の霊山には比丘尼石と称する石が多々みられるが、いずれも女性が禁制を犯して霊山へ入ろうとして神の怒りに触れ、石に化したという伝承が残っている。

 ただ現地でみるかぎり、女人堂あるいは比丘尼石が何処にあったのかははっきりしない。

 
中社・西鳥居
(これから緩やかな参道が境内に延びている)
 
旧戸隠古道?

女人堂跡
(左奥に白くみえるのが現在の一般道) 

 なお、大鳥居前から右へ延びる道の脇に五斎神社・宣澄社との小社があるが、時間の都合で参詣せず。

【宝光社】
 戸隠集落の南より、道路から北へ少し入った高台に鎮座する社で、戸隠神社五社のうち最も南に位置する。
 社頭の案内には、
 「祭神  天表春命
 御鎮座の年代は古く、第70代後冷泉天皇の康平元年(1058)に奥社より遷祀奉斎されました。
 御祭神は、中社の御祭神・天八意思兼命の御子神さまで、技芸・裁縫・縁結び・安産・厄除け・家内安全などの御神徳があり、婦女子や子供の守り神としての霊験もあらたかにして、広く万民にお恵みを給う大神様です」
とある。

 道路から石段を上がった上に鳥居が立ち、参道先から270段の石段(途中に踊場あり)を上がって境内に入る。

 
宝光社・社頭
 
同・鳥居

同・石段 

 境内中央に彫刻で飾られた社殿が鎮座し、右手の神輿倉には華麗な神輿2基が納められている。

 社殿について、傍らの案内には、
 「宝光社の社殿は、戸隠神社五社のうち最も古く文久元年(1861)に建てられたものである。
 神仏習合時代の面影を残す寺院建築の様式を取り入れた権現造りで、拝殿周りは宮彫師・北村喜代松による見事な龍・鳳凰・麒麟・唐獅子牡丹・象の木鼻・十二支などの彫刻で飾られている。
 間口は五間、奥行七間、屋根は入母屋造・妻入・銅板葺きである。
 この奥行の深い構造は社殿建築では極めて例が少なく、貴重な遺構と言える」
とある。
 これらの装飾彫刻が彩色されていたら華麗なものだったと思われるが、彩色の有無は不明。


宝光社・社殿 
 
同・社殿側面

同・内陣

社殿周りの彫刻(一部) 
 
同 左
 
同 左

神輿倉 
   
神 輿


【火之御子社】
 中社と宝光社の中程の叢林の中に鎮座する。
 石段下の鳥居脇に立つ案内には、
 「創建  承徳2年(1098)
  主祭神  天鈿女命
  配  祀  高皇産霊命・𣑥幡千々姫命・天忍穂耳命
 社伝によると、『天の岩戸前にて天鈿女命神楽を舞う』とある。
 戸隠が神仏習合の時代にあっても、終始神社としての姿を保ってきた。
 古来より舞楽芸能の神・火防の神・開運の神・縁結びの神として尊崇され、その道を志す人たちの信仰が篤い。
 境内には、有名な西行桜がある」
とある。

 当社は昔から神社として存続したというが、信仰の歴史には
 「三院衆徒が社僧化するなかで、ひとり神社(社家)として存続したのは、火之御子社に奉仕する栗田氏で、室町・戦国時代の戦乱を避けて三院衆徒らが余所に退転したときも、ひとり戸隠に残留し、朱印領のうち200石を宛がわれ、神官として当社に奉仕した」(大意)
とある。

 鳥居先の短い石段上の叢林の中に社殿のみが寂しく建つだけで、社務所等なく無人。
 祭祀・管理等は宝光社(あるいは中社)で執り行っているらしい。


火之御子社・鳥居 
 
同・境内
 
同・社殿正面
 
同・社殿側面

同・内陣 

 社殿の右手に「西行桜」と称する桜の木(オオヤマザクラ)があり、傍らの案内には、
 「西行法師が、ある年の5月、善光寺参詣に続いて戸隠にも詣でようと参道を歩いておりました。
 ちょうど火之御子社に差し掛かると、地元の子供らが遊んでいましたが、西行を見るとするすると桜の木に登っていってしまいました。
 子供好きな西行は、いたずら心から『猿稚児とみるより早く木に登る』(猿のような子供たちだな、と思う間に木に登ってしまった)と木の上の子供たちに声をかけました。すると、『犬の様なる法師来たれば』と答えるではありませんか。
 実は、これより先、一の鳥居でも子供達をからかったつもりが逆にやり返されていた西行は、子供たちの賢さに驚き、また、戯れ心を起こした自分を恥じて、『これ以上神域に立ち入ったら、どんな恐ろしいことが起こるかわからない』と火之御子社から戸隠山を遙拝し、引き返したといわれています」
とあるが、西行が戸隠に来たという資料は見当たらない。西行と桜との関係が深いことから作られた伝承かもしれない。
 今の西行桜は未だ若木で、何代目かの桜であろう。

 また、社殿の左手に注連縄を張った杉の大木(樹齢500年という)が聳え、その根元に小さな石祠が座っている。
 この杉の巨木は当社の御神木だが、幹が根元から2本に別れているため“夫婦杉”と呼ばれているという。


西行桜 
 
御神木(夫婦杉)
 
同・根元の石祠

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