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諏訪大社

上社本宮  長野県諏訪市中洲
祭神 建御名方冨命
上社前宮  長野県茅野市宮川
祭神 八坂刀売命
下社春宮  長野県諏訪郡下諏訪町大門
下社秋宮  長野県諏訪郡下諏訪町武居
祭神 八坂刀売命
相殿 建御名方富命・八重事代主命
                                                           2016.10.20~21参詣

 延喜式神名帳に、『信濃国諏方郡 南方刀美神社二座 名神大』とある式内社で、信濃国一ノ宮。
 社名は“ミナカタトミノカミノヤシロ”と読む。

 全国に五千数百社ある諏訪神社の総本社で、戦前までは“官幣大社 諏訪神社”と称していたが、戦後の官幣社制廃止にともない、総本社との立場を明確にするため“諏訪大社と”改称したという(昭和23年11月)

※由緒
 本宮境内に掲げる諏訪大社全体の案内には、
 「御由緒
  我国最古の神社の一つであり、信濃国の国造りをなされたのち、日本国土の守護神としてこの地にお鎮まりになり、信濃国の一之宮として皇室武門および一般の信仰が厚く、全国一万有余の諏訪神社の総本社である。(旧官幣大社)」
と簡単にあるが、

 当社公式サイト(HP)によれば、
 「諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
 信濃国一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、国内にある最も古い神社の一つとされています。
 諏訪大社の歴史は大変古く、古事記の中では、出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。

 諏訪大社の特徴は、諏訪本社には本殿と呼ばれる建物がありません。代わりに秋宮は一位(イチイ)の木を春宮は杉の木を御神体とし、上社は御山を御神体として拝しております。
 古代の神社は社殿がなかったといわれています。つまり、諏訪大社はその古くからの姿を残しております」
と、やや詳しく示している。

 ここで“国譲りに反対して云々”というのは、古事記・国譲りの段に、
 「国譲りを迫る高天原の使者・タケミカツチに対して、オオクニヌシの子・ヤエコトシロヌシは恭順の意を表するが、
 もう一人の子・建御名方神(タケミナカタ)は反対してタケミカツチに力比べを挑み、これに破れて科野国(信濃国)の州羽海(諏訪湖)まで逃げ、追いつめたタケミカツチが殺そうとしたとき、
  『恐し(カシコシ)、我をな殺したまひそ。この地を除(オ)きては他処に行かじ。また我が父、オオクニヌシ神の命に違(タガ)はじ。ヤエコトシロヌシの言に違わじ。この葦原中国は天つ神の御子の命の随(マニマ)に献らむ』
と申した」(大意)
とある神話を指し、ここで諏訪に逃れたタケミナカタを祀ったのが当社という。

 ただ、この神話は古事記にのみの記されたもので、書紀には見えない(オオクニヌシ・コトシロヌシの恭順のみを記す)
 また、古事記ではタケミナカタはオオクニヌシの御子というが、同じ古事記が列記するオオクニヌシの御子神のなかにその名はみえない(書紀にタケミナカタは一切出てこない)
 ただ、先代旧事本紀(9世紀前半)
 「(オオクニヌシは)次に高志(コシ)の沼河姫(ヌナカワヒメ)を娶って一男をお生みになった。
  子の建御名方神は信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座されている」(地祇本紀)
として、タケミナカタはオオクニヌシとヌナカワヒメの御子というが、これは旧事本紀独自の記述で、後世の附加であろうという。

 上記国譲り神話については、従来から幾つかの解釈があり、管見したものとして
 ・本居宣長--古事記伝(1798)
   書紀に、此のタケミナカタの神の故事をば略(ハブ)き棄て記されざるは、いかにぞや

 ・津田左右吉--津田左右吉全集1巻(1963)
   古事記にのみ見えるタケミナカタの神は、オオナムチの命の子孫の名を多く列挙してある此の書のイズモ系の神の系譜には出ていないものであるから、これははるか後世の人の附加したものらしい

 ・松前健--国譲り神話と諏訪神(日本神話の研究所収・1970)
   この話が、公的な史書である日本書紀に見えないで、古事記にだけ見えるということは、この部分の伝承が、出雲の国譲り神話に本来からあったのではなく、史料編纂の途上、特定氏族の強力な介入と圧力により、編纂者(太安万呂)らが、これを文筆的に無理に割り込ませたもの、後世の人為的な挿入物であったらしいことを示唆する。
 この神話が全く中央で架空に創作した政治的な産物であって、出雲とは無関係であるのは確かで、高階氏・太田氏らがいうように、中央における中臣氏が、己の奉ずる鹿島神の神威を称揚し、折から興隆ししつつあったタケミナカタの神威をおとしめるために創作した虚構の神話であろう

 ・加藤茂--式内社調査報告(1986)
   この神話は古来より、天孫出雲両系の間に起こった国土避譲の事実の反映として、多くの解釈がなされている。
 すなわち、古代に於いて諏訪地方は、皇祖側に対する一大勢力をなし、タケミナカタ神は、その勢力の代表者とされた。
 同神が、タケミカツチ神に追い詰められて永く諏訪に留まると誓ったという一段は、この文化現象を逆説的に国譲り神話に持ちこんだものと考えられている

 ・大和(オオワ)岩雄--諏訪大社(神社と古代王権祭祀所収・2009)・諏訪古代史考(1990)
   この話が古事記にのみ書かれ、その古事記のオオクニヌシの神統譜に入っていないのに、強引にオオクニヌシの子として飛び入りで登場するのは、古事記編者の主観的意図によってのことと考えられる。
  ただ、諏訪の地が選ばれたのは、古事記の編者が、信濃国造や諏訪大社下社の大祝(オオハフリ)である金刺氏と始祖を同じくする太氏(多氏)だったからで(両者とも、神武天皇皇子の神八井耳命の後裔)、編者は、同族(である金刺氏)の意向を受けて、オオクニヌシの神統譜に入っていないタケミナカタを、強引にオオクニヌシの子として国譲り神話に組みこみ、諏訪の神としたのであろう
 タケミナカタが国譲りに反対して諏訪に逃げ、この地に留まったという話は、諏訪のミシャグチ神を祀る守矢氏が信濃国造の勢力に敗れ、その祭祀権が上社地域に限定されたことと重なり、諏訪の国譲り神話を拡大したのが、古事記のタケミナカタ神話であろう
などがあり、そのほとんどが、古事記編纂時に外部勢力の介入によって附加された神話であろうという。

 この外部勢力の介入について、高階成章氏は
 ・タケミナカタが古代信濃において次第に神威を高め、その奉齊氏族である諏訪氏・神(ジン)氏が豪族化し、その信仰が旧来の原始信仰から軍神信仰へと移りつつあった時代に、中央における中臣氏が、己の奉じる鹿島の軍神・タケミカツチの神威を昇揚するとともに、台頭してきたタケミナカタの勢威をおとしめようとした産物が、この物語であろう
 ・この物語が書紀に記されていないのは、これが中臣氏がこしらえた私家的な物語であるためだろう(松前・前掲書)

 一方、大和氏は
 ・古事記の編者(太安麻呂)は、信濃国造や諏訪大社下社の大祝・金刺氏と始祖を同じくする多氏(太氏)であり、
 ・その安麻呂が、同族の意向を受けて、オオクニヌシの神統譜に入っていないタケミナカタを、強引にオオクニヌシの子として国譲り神話に組みこみ、諏訪の神としたのであろう(前掲書)
という。

 この諏訪の国譲り神話にかかわって、地元に残る伝承として
 ・大祝信重解状(1249・鎌倉中期)
   「当砌(ミギリ=所)、昔は守屋大臣(大臣--長者あるいは大尽を意味する)の所領なり。
   明神(タケミナカタ)天降りまします刻、大臣は明神の居住を禦ぎ奉り、制止の方法を励まし、明神は御敷地と為すべく秘計を廻らし、或いは諍論を致し或いは合戦に及ぶの処、両方雌雄を決し難し。
   爰(ココ)に明神は藤鎹(イツ=鍵)を持ち、大臣は鉄鎹を以て、此の所に懸け之を引く。明神即ち藤鎹を以て軍陣の諍論を勝得せしめ給ふ。而間、守屋大臣を追罰せしめ、居所を当地に卜し、以来遙かに数百歳星霜を送り、久しく我が神の称誉を天下に施し給ふ」

 ・諏訪大明神画詞(1356・小坂円忠編、南北朝時代)
   「抑もこの藤嶋の明神と申は、尊神(タケミナカタ)垂迹の昔、洩矢(モレヤ)の悪賊(強力な抵抗勢力)、神居を妨げんとせし時、洩矢は鉄輪を持して競ひ、明神は藤の枝をとりて是を伏し給ふ。終に邪輪を降して正法を興す。
   明神誓いを発して藤枝を抛げ給しかば、即ち根をさして枝葉を栄へ花蘂あざやかにして、戦場のしるしを萬代に残す。藤嶋の明神と号する、此ゆえなり」
などがある。

 この伝承は、タケミナカタを奉ずる勢力の侵入に対して、洩矢神を奉ずる在地勢力(守矢氏か)が抵抗するも敗れて国を譲ったことを語るもので、ここでのタケミナカタとモレヤの関係(勝者と敗者)を、タケミカツチを勝者、タケミナカタを敗者に置き萎えたのが、古事記の国譲り説話ともいえる。

 通常、新旧の神が争った場合、敗れた在地の神は消え去るか境内社(摂社・末社)に祀られることが多いが、諏訪の場合は、  ・勝者・タケミナカタを奉じる神氏(ジン)が諏訪大社の大祝(オオハフリ、現人神・下記)となり、諏訪大社を代表する現人神(諏訪明神の化身)として地上的な支配権力を握り、
 ・敗れた洩矢神を奉じる守矢氏が神長(ジンチョウ・大祝に次ぐ神官、神長官ともいう)として祭祀全般、換言すればを非地上的=他界的な権力を掌握するという特異な祭祀形態をとっている。
 これは、敗れたとはいえ、洩矢神を奉じる在地勢力(守矢氏勢力)がタケミナカタ侵入後も一定の力を保持し続けたことを示唆し、地元の古老の言では、“タケミナカタは外向けの神”であって“諏訪の何処にもタケミナカタにかかわる神事はない”という(諏訪明神・2010)

 画詞にいう藤嶋明神の地とは、明神とモレヤ神とが争った地といわれ、今、天竜川西岸に“建御名方神陣跡”(今、荒神塚と称するらしい、岡谷市川岸上)が、東岸に敗れた洩矢神を祀る洩矢神社(岡谷市川岸東)があるという(不参)

◎創建年次
 当社の創建年次は不明だが、創建時期を示唆するものとして次のような記述がある。
 ・諏訪大明神画詞
   「当社明神の化現は人皇15代神功皇后元年なり。同年3月神教ありて、皇后松浦の縣りに至り給ふ。・・・
 又虚空より海上に諏訪・住吉の両将化現す。各一釼を携え弓箭を負ふ。・・・ 仍って棟梁臣武内宿祢奏聞を経て其の故を問ひ給ふ、君他の州へ発向の間、天照大神の詔勅によって、諏訪住吉二神守護の為に参すと答へ給ふ」

 しかし、神功皇后紀には
 「朝鮮出兵に際して、『和魂は王の身を守り、荒魂は先鋒として軍船を導くだろう』との神勅を得たので出兵を決意し、荒魂を招きよせて軍の先鋒とし、和魂を請じて船の守り神とされた」(大意)
とはあるものの、そこに諏訪・住吉の両神の名はなく、たぶん、諏訪の神が軍神として知られるようになった以降に創られた伝承であろう。
 なお、軍神としての諏訪大神は、梁塵秘抄(伝1169)に「関より東の軍神(イクサガミ)、鹿島香取諏訪の宮・・・」とあるように、平安末期には知られていたようだが、その定着は鎌倉時代以降という。

 ・神氏系図序文(諏訪史料叢書1938所収)
   「用明天皇御宇2年(586) 神子社壇を湖南山麓に構ふ」

 ・阿蘇系図・乙頴の項補注(九州・阿蘇神社の宮司・安蘇家に伝わる系図、阿蘇氏と金刺氏とは同祖、諏訪信仰史・1972所収)
   「用明天皇御宇2年(586)丁未3月 神子社壇を湖南山麓に構へ、諏訪大神及び百八十神を祭り、千代田刺忌串を奉り、之を斎す」

 ・日本書紀・持統天皇5年(691)8月条に
   「使者を遣わして、龍田風神・信濃の諏訪・水内社を奉祀」
 とあることからみて、それ以前から諏訪の地に諏訪神を祀る社があったのは確かだろうが、その創建年次を用明朝とするのは、上記神氏系図・阿蘇系図以外に傍証となるものはない。

 ・諏訪大明神画詞
   「坂上田村麻呂の安部高丸征討のとき(延暦20・801)、信州太田切で鷹羽の矢を負い葦毛の馬に乗った武将が現れ、当国の住民と名のり先鋒として奥州に向かった。
 奥州に着いてみると、高丸は堅固な城に立てこもり難攻不落だったが、この武将は、、どこからともなく現れた5騎の射手とともに、海上を駆け抜けて城門に近づいて流鏑馬の技を披露し、これを敵味方が見とれている間に、最後の鏑矢で高丸の目を射抜きこれを討ち取り、高丸の首を矛の先に貫いて田村麻呂将軍に献じた。

 田村麻呂将軍が帰洛の途につき大泊の地に着いたとき、武将は装束を改め『吾は諏訪明神なり。今既に賊首を奉る。今更上洛に及ばず。此地に留まるべし』といって姿を消した。
 田村麻呂はこの出来事を天皇に奏上し、天皇は諏訪郡の田畑山野各千町を神領として与え、寅申の干支(寅年と申歳)に当社を造営した」(大意)

 これは、桓武朝(781--806)における坂上田村麻呂の蝦夷征討に諏訪の勢力が与力出兵したことを、諏訪明神の神威譚として語った伝承と思われるが、田村麻呂の蝦夷征討を記す日本後記(841)に是を示唆する記述はない。
 ただ、翌延暦21年正月条の「陸奥国の三神の神階を上げた。征夷将軍から霊験があったと奏上してきた事による」との記事が関係するのかもしれない(ただ、国名が異なる)
 なお、末尾にいう“寅申の干支に当社造営”が、御柱祭と同時におこなわれる式年造営(7年ごと寅歳と申歳に執行)のはじまりともいわれ、この伝承によれば、田村麻呂帰還後すぐの申歳(804)に本格的な社殿の造営がなされたのかもしれない。

◎正史上での諏訪神
 当社に関する正史上での記録としては、持統天皇5年8月条にみえる、
  「23日、使者を遣わして、竜田風神、信濃の諏訪、水内(ミヌチ)等の神を祀らしむ」
を初見とする。
 竜田風神とは大和の龍田大社(奈良・三郷町)で、信濃の諏訪社は当社、同じく水内社は水内郡にある建御名方冨命彦神別神社(祭神:タケミナカタの御子神、長野市)を指すとされる。

 竜田風神は広瀬大忌神とともに風雨の神として、毎年、その順調なることを祈願する祭祀(竜田広瀬祭)がおこなわれるのが恒例で、この年も4月と7月におこなわれたにもかかわらず、8月に上記の祭祀がおこなわれている。
 これは、この年天候不順で4月以降長雨が続き、また各地で風水害等があるなど(5月18日、社寺に止雨祈願の祭祀供養をおこなへとの勅が出ている)豊作が危惧されたことから、改めて竜田風神とともに信濃の神に祈ったのだろうという。

 この年、竜田神とともに遠隔の地にある当社への奉幣がおこなわれたことについて、本居宣長は
  「此の信濃の二柱も、龍田と同じく、風の御祈りのためにぞありけむ。
 此の神に風をしも祈らせ賜ひけむ由縁は、藤原清輔(1104--77・平安末期の歌人)の袋冊子に、『信濃なる岐蘇路の桜咲きにけり、風の祝(ハフリ)にすきまあらすな』と云う源俊頼(1055--1129)の歌につきて、是は信濃国はきはめて風早き所なれば、諏訪の明神の社に風の祝(カゼノハフリ)というものを置いて、春の始めに深く物に籠居(コモリ)て祝して、百日の間尊重するなり。さて其年凡そ風静にて、農業のため吉なり・・・」(古事記伝・39巻)
として、諏訪の神は風の神であり、諏訪社には風祝(カゼノハフリ)がいて、早春の頃、百日間の物忌みをして風神を祀り風害のないことを祈ったという。

 また、持統天皇による諏訪神奉幣について、大和氏は
 ・壬申の乱で多氏に率いられた信濃の騎兵軍団が活躍したように、信濃は軍馬の供給地として重要であり、且つ北方の蝦夷に対峙する最前線でもあった
 ・そのことから、天武天皇は信濃を重視し都城造営を意図したが(天武13年条)、これは成らなかった
 ・また、それに代わるものとして行宮造営が図られたが(天武14年条)、これも天皇の崩御により中断した(何らかの施設はあったかもしれないという)
 ・持統天皇による信濃神への奉幣は、この都城・行宮計画の延長上にあるもので、持統朝における新しい神祇政策に基づくものであろう
というが(大意)、諏訪の地が陸奥進攻の最前線であったことも起因するであろう。

*風の祝(カゼノハフリ・カゼノホフリ)
 風の祝とは、嘗ての諏訪大社にあったという神職で、袋草子(平安末期の歌論書)
  「信濃なる木曽路の桜咲きにけり 風の祝に隙間あらすな」
  (信濃の美しい桜を風が散らさないために、風祝の籠もる室には隙間がないようにしてくれ)
とあり、
  「諏訪の国は風の極めて早き所なり。よりて諏訪の明神社には風の祝なるものを置きて、是を春の初めに深物に籠もり居て、祝して百日の間尊重すなり。然れば其の年およそ風静かにして農事を為すに吉なり。・・・」
とあるように、風祝は、毎年早春の百日間、風の入らない密閉した室に忌籠って、農耕の妨げとなる風害がないことを祈願したとの注釈があるいう。

 しかし、ここでいう早春におこなわれる百日間の忌籠もりとは、上社前宮でおこなわれた旧暦12月22日から翌年3月寅日までの忌籠もり(御室神事・下記)を、風の祝による風鎮の忌籠もりと間違って都に伝わったのだろうという。

 この風鎮神事について、伊藤麟太郎氏は
 「朝廷は、諏訪で頑張っている稲神御左口神を、皇化政策のため、朝廷の祀る龍田風神と同一神として強引に本殿に奉幣しようとしたが、これは失敗した。
 諏訪でも、朝廷の面子を重んじて奉幣を断りはしなかったが、本殿ではなく、風無神袋(カゼナシコウタイ、-カンブクロとも)へ仮殿の社殿を造り、そこでの奉幣を願った」
 「須波神については、持統紀での奉幣の目的は明らかであるが、諏訪では交渉の結果、本殿では奉幣させず、特設の野外斎場、神長邸の上部、風無かんぶくろで奉幣せしめた」
と推測し、風鎮神事は外から持ち込まれたもので(諏訪明神・寺田鎭子他・2010)、それを受け入れるために作られたのが野外の社殿であり、祭祀を所掌する風祝ではないかという。

 ただ、古代の諏訪に風祝なる神職がいて風鎮神事をおこなっていたのは確かなようで、
 その傍証として、鎌倉幕府主宰の御射山御狩(ミサヤマミカリ)神事がおこなわれた上社御射山祭の古絵図(上社古図・天正の古図ともいう)の中央に、大四御庵との穂屋が描かれ、その下に「昔風祝御庵」との書き込みがある(右図丸円内)
(上社古図--天正年間・1573--92の作成といわれるが、守矢史料館の栞には、描かれている社殿の様子から少なくも江戸時代初期・17世紀初頭だろうとある)

 御射山御狩神事とは、秋の収穫前(旧歴7月27日より3日間、今の二百十日の頃にあたる)おこなわれた鎌倉幕府主導の神事で、その神事は今「御射山社祭」として引き継がれている(8月26・27日)

 御射山社祭とは
 「カヤの穂で屋根や壁を作った仮小屋(穂屋)にお籠もりしたところから、穂屋祭りの名で全国に知られる『御射山社祭』は、二百十日を前にして台風被害の少なきことを願い、五穀豊穣・天下太平を祈る諏訪大社の特殊神事の一つである。
 全国に鎮座する御分社の例祭日に起因する大切なお祀りで、鎌倉時代には全国から武将が集まり祭典に参列し、沢山の穂屋ができた。・・・」
といわれ、

上社御射山祭古絵図

 諏訪大社公式HPには、
 「御射山社祭(上社・下社)8月27日
 上社の御射山社は八ヶ岳の山麓(茅野駅の南東約8.5km、諏訪郡富士見町)にあり、下社は江戸時代初期に八島高原から秋宮東北5kmの山中に移された。
 青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典がおこなわれることから穂屋祭ともいう。
 鎌倉幕府は全国の武将をこの神事に参列せしめ、八島高原や霧ヶ峰一帯で武芸を競わせたりして祭事を執行し、参加した武将は、諏訪大神の御分霊を拝戴して任地に赴き御分霊を祀った。
 今では、秋27日に行われ、農作物の豊穣祈願と二才児の厄除け祈願をおこなっている」
とある。

 この御射山祭絵図の大四御庵に“昔風祝御庵”と注記されていることは、今、台風襲来の特異日とされる二百二十日を前にして、この穂屋で、風祝による風鎮め・五穀豊穣の祈願がなされたと思われる。

 風祝職は大祝がこれにあたったとする資料が多いが、それは、金井典美氏が
 「上社御射山の古絵図の中に、神長官・禰宜大夫・権祝・擬祝・副祝の五官祝の穂屋(仮殿)はあるが大祝の庵はなく、風祝御庵がある。つまり大祝が風祝の性格をもって祭事にあたったのではないか」
として、大祝を風祝と見立てたことからのものだが、
 ・上社古図には、大四御庵の右下に“大祝庵”との建物2棟が描かれ(上図右下)
 ・諏訪市史に載る“上社御射山絵図”にも、大四御庵(昔風祝)の下方に“諏訪大祝”との穂屋が描かれている
ことから、金井氏がいう“大祝庵がないから大祝が風祝職を兼務した”という説は成立しない。

 この風祝職を誰が所掌していたかははっきりしないが、信濃国高部故事歴(1920・権祝の末裔・矢島正守編)には、
 「風の祝、後には権大祝。鎌倉時代より権祝諏訪祝と称す。神姓にて氏は八島氏、後に矢島と書す」
とあり、所収する権祝系図には
 「風祝の風無神袋殿の蹟、建御名方富神の御子に池生神、其の御子池若御子神にして其の御子に矢島根神あり、皆国を造りし御左久知(ミシャグチ)の神なり。其の神裔は世々土侯にして威勢ありて、風の祝と称す」
とあり、権祝・矢島氏が風祝を世襲したという。(以上、諏訪大社七つの謎)

 矢島家は風無神袋殿(カゼナシコウタイドノ)と尊称されたようで、その居館は守矢史料館東方の下馬沢川の対岸、現前宮公園の辺りにあったといわれ、今、現地には風祝塚(矢島家先祖の塚という)と御左久知神袋神祠が残存するというが未確認。

*薙鎌(ナギガマ)
 風神祭に関連して、諏訪には『薙鎌』という習俗がある。

 薙鎌について、“神長官守矢史料館のしおり”(平成3年)には
 「諏訪神事の御神体といわれる物に、鉄製の『薙鎌』がある。現在、諏訪神社の御分社の場合、薙鎌を御神体としておわけしているという。
 また今でも御柱祭のとき、上社の本見立をした御柱(決定した御柱)に薙鎌を打って、御神木になったことを表示している。
 (これを尾根鎌打ちと称したが、今は、見立てた御柱に薙鎌を打ちつけ、見立て神事が終了すると、これを取り外して持ち帰るという)
 さらに御柱祭の前、姫川そいの信濃と越後国境方面、北安曇郡各地の諏訪神社には薙鎌が配布され、ことに北小谷村中土諏訪神社には宮司が赴き、例祭に併せて薙鎌祭を行い、一枚の薙鎌を奉納する。
 この翌日、宮司一行は、糸魚川市に下り逆行して信越国境の戸土諏訪神社に至り、社の杉の大木に薙鎌打ち神事をおこなう。
 信越国境の薙鎌打ち神事の起源は不明だが、北安曇の千国諏訪神社には天長5年(828)刻銘の薙鎌が残っている。
   (中略)
 薙鎌について、もっとも古い記録・諏訪大明神絵詞には、『薙鎌衆魔催伏の利劔也』とあり、もろもろの魔(大風・台風・大雨・山崩れなどの災害)を押さえつける効力の剣といっている。
 江戸時代の文献では、『諏訪神の神弊に鎌』とある。古くは魔除けの剣、近世は神弊と考えていた。
 天正の頃には、御柱祭の祭具としていたとみられ、五官祝外、氏子からの奉納薙鎌が現存している。
  (中略)
 薙鎌は風害を除く呪物と考えられ、実りの秋の大敵である大風を、鎌で切って弱めようとする考え方、また陰陽五行説の原理である“金克木”(金は木に克つ)から、風は“木気”であり、風を制するには“金気”がよく、為に、木(木気)に鎌(金気)を打ち込むとする考え方などがある。

 薙鎌の形の原形は、平安時代の鉈鎌(ナタカマ・かつぱらい鎌)とみられ、蛇体信仰から次第に背に羽根状のウロコをつけたり、クチバシ状をしたり、尾端を折り曲げたりなど変形してきた」
とある。 

     
鉈鎌

 資料(諏訪神社七つの謎・2015)によれば、薙鎌あるいはそれに類する神事は諏訪のみでなく広くみられるもので、
 ・石川県鹿島郡中能都町の鎌宮諏訪神社は本殿がなく、御神木として注連縄を張った老木(タブノキ)があるだけだが、
  「この御神木には、切先を外にした鉄鎌が至る所に打ち込まれ、古いものは樹皮がすっぽりと鎌の身を包んで、単なる突起に化したものもあれば、わずかに尖端のみが覗いているものもある」
といわれ、薙鎌打ちの神事は今も続いている

 ・薙鎌を木に打ち込むのは、薙鎌が諸々の衆魔(災害)を折伏する利剣と考えられているため
 ・甲信地方には、台風シーズンになると、農民が風切り鎌と称して鎌を竿の先に取り付け、風の来る方向に建てる風習があり、薙鎌もそれに通じるもので、薙鎌によって風を切るという発想があった
 ・風切り鎌について、綜合日本民俗語彙には
  「強風が吹いてくると、草刈り鎌を屋根の上とか竿の先に縛りつける風習がある。東北から中国地方にかけて広く分布するが、こうすると風が弱まると伝え、鎌に血が付いていたという古老談もある。強風を何者かの仕業と考えていたのであろう」
とあるという(大略)

 これに関連して、井本英一氏は
  「民俗誌的にみると、風を鎮める際に鎌やナイフを風に向かって振り回すのが、古いしきたりであった。
 諏訪大社では、7年ごとの御柱祭のとき、神官が約10cmほどの薙鎌(ナギカマ)を神木に打ち込む神事がある。諏訪大明神がもっとも古い時代には、風神と見なされた痕跡と考えられる」
という(風神考・境界祭祀空間所収・1985)

 薙鎌とは、鎌の刃先を風の吹く方角に向けて立てることで風を和らげようとする呪術で、“風を薙ぐ(和ぐ)鎌”を意味する。
 この種の民俗例は世界的なもので、
 ・北陸・中部地方では、戸外に鎌を出して風を防ごうとする習俗がみられる
 ・スコットランド高地人は風に向かってナイフを投げる
 ・エストニア人は風を鎌で切りつけるなどの風習があった
 ・風に向かってナイフを投げると、ナイフが風の血で赤くなる
などの伝承があるという(井本・前掲書) 

 この風神祭は、中央政権が諏訪の神を竜田の風神とともに祀るようになって、はじめて諏訪の地に入った官祭で、官祭でなくなるとともに風祝もなくなったが、その名残として残ったのが薙鎌の習俗だろうという。

[蛇足]
 白川静(1910--2006・東洋学者)は、古代中国での風は、甲骨文では“”、篆文では“”と書いたとして、
 「甲骨文字は鳥の形、神聖な鳥であるので冠飾りをつけている。
 天上には龍が住むと考えられるようになり、風は竜の姿をした神が起こすものと考えられ、風の形の中の鳥を取り、虫(竜を含めた爬虫類の形)を加えて、風の字が作られ、“かぜ”の意味に用いられる。
 古代の“かぜ”とは、空気の動きによるものではなく、神聖な鳥や竜のような霊獣の形をした神・風神の動きによると考えられていた」(大意、常用字解・2003)
という。
 薙鎌の形が鳥の形に似ているのは、風という字の中に神聖な鳥(竜)を含んでいるからかもしれない。

 なお、持統5年の記事にある水内神を写本時の誤記とみて、「竜田の風神、信濃の須波の蛟(ミズチ)の神等を祭らしむ」の意ではないかとの説があり、その理由として、タケミナカタトミ・ヤサカトメ双方にかかるトミ・トメが蛟(巳・蛇)を表すように、古代諏訪神は水神と認識されていたからという(諏訪信仰史)
 たしかに、竜田・広瀬両神が風神・水神一対の神として祀られたことからみると、ここでいう諏訪神は風神竜田の神と対となる水神(ミズチの神)として祀られたとみるのも一説だが、かといって水内神を誤記とするには疑問もある。

*神階綬叙
 持統朝での奉幣以降諏訪の神は忘れられたようで、神階は永らく無位のままであったが、約150年経過した承和9年に始めて神階が綬叙され、その後の記録として
 ・仁明天皇 承和9年(843)
   五月丁未 奉授信濃国無位勲八等南方刀美神 従五位下
   十月壬戌 奉授信濃国無位建御名方命前(妃)八坂刀売命神 従五位下--続日本後紀
 ・同 嘉祥3年(850)
   十月乙未 信濃国御名方冨命神、建御名方冨命前八坂刀売命神 並加従五位上--文徳実録
 ・文徳天皇 仁寿元年(851)
   十月乙丑 進信濃国建御名方冨命前八坂刀売命等両大神 階加従三位--同上
 ・同・仁寿3年(853)
   八月庚辰 従三位建御名方冨命、前八坂刀売命神祝 預於把笏(神官が笏を持ってよいという許可)--同上
 ・清和天皇 貞観元年(859)
   正月二十七日甲申 奉授信濃国正三位勲八等建御名方冨命神 従二位
                 奉授従三位建御名方冨命前八坂刀売命神 正三位--三代実録
   二月十一日丁酉 授信濃国従二位勲八等建御名方冨命 正二位
               正三位建御名方冨命前八坂刀売命神 従二位--同上
 ・同 貞観9年(867)
   三月十一日辛亥 授信濃国正二位勲八等建御名方冨命神 従一位
               従二位建御名方冨命前八坂刀売命神 正二位--同上
とあり、時代が降って
 ・朱雀天皇 天暦2年(948)3月 有神位事 諏訪神(タケミナカタ神)授正一位--神階記(1668)
とあるが、これは、将門乱鎮定に当たって諸国の名神の神階を一位昇叙しており(天慶3年)、その時の昇叙ではないかという。

 信濃という京から遠い地にある当社が、仁明から清和朝にかけての22年という短期間に急速に昇叙した理由について史書は何も語らないが、その背景として、大和岩雄氏は
 ・この時期、宮廷に仕えていた科野国造の一族で諏訪郡出身の金刺舎人貞長が、同族である多氏の協力を得ながら、神階昇綬を運動した結果であろう
という。

 金刺舎人貞長とは、仁明~清和朝に仕えた諏訪出身の官人で、三代実録に、
 ・清和天皇貞観5年(863)9月5日
   右京の人・散位外従五位下多臣自然麻呂(ジネンマロ)に姓を宿祢と賜ひ、信濃国諏方郡の人・右近衛将監(ウコノエノショウゲン・近衛府での第4位の官位)正六位上金刺舎人貞長に姓を太朝臣(オオアソン)と賜ひき、並びに是れ神矢井耳命の苗裔なり
 ・同貞観8年(866)正月7日--太朝臣貞長らに外従五位下を授けき
 ・同貞観9年(867)正月7日--外従五位下太朝臣貞長を参河介(ミカワノスケ)と為す
とあるように、地方出身ながら朝廷から重用された人物だが、これは本人の資質もさることながら、古くからの中央官僚・多氏との同族関係によるものであろうという。


◎上社・下社
  延喜式で○○神社二座という場合、一つの神社に祭神二座が祀られているのが通例だが、当社の場合、タケミナカタの後裔という神氏(神別氏族)が奉祀する上社と、神八五耳命(カムヤイミミ)の後裔・金刺氏(皇別氏族)が奉祀する下社の2社で構成され、且つ上社は本宮(ホンミヤ)・前宮(マエミヤ)、下社は春宮・秋宮に別れるという2社4宮体制となっているが、この2社4宮体制が何時の頃に成立したのかは不詳。

 一般に、仁明天皇・承和9年(843)の神階綬叙が、建御名方神(5月)・八坂刀売神(10月)とが別々に授けられていることから(続日本後紀)、この時点で上社・下社に分かれていたとみる説が多い。
 上社・下社大祝の世襲化が平城天皇の御世(806--09・平安初期)にはじまったとすれば(下記)、その時点では上社・下社に分かれていたと思われるが、確証はない。

 なお、公的記録での“上下社”との表記は、吾妻鏡・文治2年(1186・平安末期)3月12日条に
  信濃国  諏方南宮上下社 八条院所領
         同上下社領 白川郷
とあるのが初見という。

2社4宮位置図

 諏訪大社の原点が古来のミシャグチ信仰とすれば、それが色濃く残る上社が本来の社かと思われ、当地に残る伝承に
 ・昔、タケミナカタとヤサカトメは上社に住まわれていたが、ある時、ヤサカヒメが下社に移られることになり、女神は化粧用に温泉を綿に含ませてお持ちになって、下社に移られた(湯玉伝説)
 ・諏訪湖が全面結氷した氷が割れてせりあがってできる氷の道について、地元の人は、男神が女神のもとにかよった通り道だと信じている(御渡り伝説)
などがあることからみて、上社先行とみるのが妥当であろう。

*上社
 上社は、JR中央本線・茅野駅の西北西約3.2km、諏訪盆地西南に迫る山塊の北麓に位置する本宮と、その東南東約1.7kmに位置する前宮から成っているが、その創建の先後関係ははっきりしない。

 資料によれば、
 ・前宮の一帯は、以前は神原(ゴウハラ)と呼ばれ、上社大祝の居館・神殿(ゴウドノ)があった
 ・この居館・神殿は、社例記に「大祝は、夏鹿皮の褥に座し、死穢の服を受けず、故に住宅を以て神殿と号す」とあるように、祭政両権をもつ大祝の居所として、鎌倉時代から室町中頃までは、諏訪地方の祭事・政治の中心地であった。
 ・この神原の地は、神氏系図でいう、大祝の始祖・神子が用明天皇2年に社壇を構えた地とされ、
 ・これが前宮の始まり、即ち諏訪信仰の発祥の地という

  前宮の古態を示すものとして、上社古図の前宮部分(右絵図、現前宮本殿地区)
 ・中央下部に描かれた五間廊と帝屋(ミカドヤ、高床式の社殿)とを結んだ左上に“御左口神”との祠が描かれ、その四周に御柱が立つ
 ・一の御柱と四の御柱を結んだ線上に、“前宮”との祠が描かれ(御左口神の右斜め下)
 ・その位置が脇の方に偏っている
ことから、
 研究者は、この頃の前宮は“ただの祠”であって、四周の御柱の真ん中に描かれた“御左口神”こそが前宮の本義(中心)であろうという。



 

 ・また、前宮には、大祝が即位式を行う鶏冠社をはじめ、諏訪信仰を物語る重要な社があり、
 ・上社最大の祭り御頭祭(大御立座神事下記)をはじめとして、上社の重要な神事の殆どが、前宮にある神殿で行われ、それは今も続いているという(現前宮十間廊)

 これらをうけて、大和岩雄氏は、
 「建御名方神と八坂刀売神の位階は昇っても、上社前宮では相変わらず御左口神(ミシャグチ神)を祀り、諏訪大社の重要な神事は、前宮とその所在地である神原で行われていた。 
 このことは、当時の上社本宮は国司が参加する官祭用のもので、諏訪神祭祀の中心は神原でのミシャグチ神祭祀であったことを示している」
という(神社と古代民間祭祀)

 これによれば、上社は前宮からはじまったとみてもおかしくなく(前宮本殿前の案内には、「前宮とは、上社本宮より以前にあった宮の意」とある)、それが、ある時期に、上社の中心が本宮に移り、加えて、江戸初頭頃に大祝の居館も中洲宮田渡しへ移ったことから、その重要性は次第に薄れていったという。

 これに対して本宮は、
 ・建御名方神を祀る官祭用の社として創建されたとも思われるが、その時期は不明。
 ・ただ、その社殿配置あるいは磐座(硯石)の存在からみて、嘗ては、背後の宮山(御山とも)および遠く守屋山を神体山とする神マツリが行われたと思われ、それに建御名方信仰を被せたのが本宮かと思われる。
という。

*下社
 下社は、諏訪湖を挟み上社の北東約13kmに鎮座するが、この辺りは科野国造・金刺氏の根拠地だったといわれ、春宮の近辺には諏訪評督の役所が、秋宮周辺には下社大祝の居館があったという。

 下社の創建由緒・創建時期は不詳だが、諏訪市史(上巻・1995)
 「時代を経るにしたがい、当地の官人たちも金刺氏の祖霊祭祀の場を必要とするようになり、その祭場を原始信仰、水霊の坐す砥川のほとりに求めた
 下諏訪方面に存在していた政庁に付属して成立した下社社壇と、下社大祝である売神祝(メガミハフリ)の成立は平安初期とみられ、金刺氏の祭神として建てられたとみてよい」
という(諏訪神社七つの謎・2015)

*売神祝印--国重要文化財(昭和9年指定)
  大同年間(806--10・平安前期)平成天皇からの下賜と伝わる下社の神宝で、嘗て一旦失われたが、秋宮の神池である千尋池から発見されたという。
 印面--縦5.0cm・横4.8cm、つぶれた鶏頭型のつまみをもつ(有孔)
 印文--“売神・祝印”を隷書体の縦書き文字を2行に分け、中央に小点をもつ陽刻
 印筺--笠型の蓋をもつ銅製鍍金の方形で縦横8.5cm高10.3cm。鎌倉時代の作と推定。

 下諏訪町HP・売神祝ノ印には、
 「複雑なつまみの形や印字の書体から、家印の大きさを定めた貞観格(869)の規格を越えていることから、律令制以降の院政期(11世紀)に入ってからの作品と推定される」
とあり、とすれば、社伝にいう平成天皇下賜との伝承と時代があわない(2世紀以上離れている)。 

売神祝印と印筺


 約1km離れて鎮座する春宮・秋宮2宮の創建時期については、春宮が先行するというが詳細不明、また秋宮が分立した由緒・時期等も不明。
 ただ、春期・秋期毎に両宮間で遷座祭(2月1日秋宮→春宮へ、8月1日春宮→秋宮へ)がおこなわれ、祭神に代わる神輿が半年ごとに鎮座地を替えていることからみると、対等の関係にあるといえる(式内社調査報告・1986)

 これらのことから、諏訪大社の上社・下社について、井本英一氏は
  「諏訪大社の場合は上社と下社に分かれるが、上社は前宮と本宮の二つから成り、下社は秋宮と春宮の二社から成る。
 上社の重要な祭儀は、古くはことごとく前宮でおこなわれたが、今は本宮に移り往古の盛況を垣間見ることはできない。
  しかし主立った祭儀は前宮に出向して行われ、上社最大の神事・御頭祭も前宮でおこなわれる。
 諏訪大社も古くは三社形式をとっていたのではないかと思われる。前宮の一時的な衰えに乗じて、本宮を建てたのかもしれないからである」(聖なる伝承をめぐって・1999)
として、元々は上社前宮+下社2社の3社から成っていたのではないかという。


◎祭祀氏族--神氏・守矢氏・金刺氏
 当社にかかわる祭祀氏族として、上社大祝(オオハフリ)・神氏(ジン)と神長(ジンチョウ・神長官ともいう)・守矢氏、および下社大祝・金刺氏があり、
 ・神氏--上社主祭神・タケミナカタの後裔
 ・金刺氏--神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミ)の後裔(大和の多氏と同族で科野国造)
 ・守矢氏--タケミナカタの諏訪浸出に抵抗した在地の神・洩矢神の後裔
と称する。

 諏訪信仰史によれば、
 「下社の大祝家が大和朝廷と比較的密接な関係にある科野国造の系譜をひく金刺氏であることは良いとしても、上社の大祝神氏が、それと同じ家系であるのか、全く別の出自であるのか、今日なお主に3っの説があって定説を見ないのが実状」
で、神氏については大きく
 ①神氏の出自は不明だが、神社発祥以来の土着氏族の家系とする説--宮地直一・伊藤富雄
 ②下社金刺氏とは異なる家系だが、神氏という姓と、近世になって発見された大三輪朝臣の後裔とする文献(詳細不明)などから、大和の大神神社の社家と関係ありとする説--一志茂樹・桐原健
 ③神氏と金刺氏とは同じ家系とする説--小林計一郎・大和岩雄
の3説があるという。

 諏訪信仰史の著者は③説に与しているようで、その根拠として、鎌倉時代の資料(吾妻鏡他)に、執権・北条家に仕えた上社系人物のなかに金刺を名乗る者が二人(金刺盛重-元上社大祝、金刺盛孝)あることから、「わずか2例ではあるが、これはかなり決定的な資料である」という。
 中世の資料を以てそれ以前を推し量ることはできないが、神氏及び金刺氏の系譜(補修 諏訪氏系図所収)によれば、神氏・金刺氏間の系譜は互いに交錯しており、男系のみで神氏直系をたどるのは難しくなっている。
 (金刺氏系図は、一旦消失した系図を地元に残る古資料・伝承などを基に復元したものというが、同じ神八井耳命の後裔と称する阿蘇氏系譜との類似性から信憑性はあるという)

*金刺氏
 上記3氏のうち、記紀等の古史料でその名を確認できるのは金刺氏のみで、
 ・古事記(神武記)--カムヤイミミ命は、意富臣(多臣)・・・阿蘇君・・・科野国造(金刺氏)・・・等の祖
 ・先代旧事本紀(国造本紀)--崇神朝御世 神八井耳命の孫(子孫)・建五百建命(タケイホタツ)を科野(信濃)国造に定む
とある科野国造(シナノノクニノミヤツコ)の後裔という。
 (先代旧事本紀は科野国造叙任を崇神朝というが、この頃に国造があったとは思えず、国造制が定着した雄略朝以降-5世紀後半-とみるのが妥当であろう)

 科野国造が金刺と称することについて、阿蘇系図に、
 ・金弓君(タケイホタツ9世の孫)--磯城島金刺大宮朝(欽明朝)に舎人として供奉 依りて金刺舎人直の姓を負う
との注記があり、欽明朝の頃(6世紀前・中期)、科野国造の子弟・金弓君が欽明朝に舎人(トネリ、皇族・貴族の警護・雑役に従事)として出仕したことから金刺舎人直(カナサシトネリノアタイ)と呼ばれたとあり、
 また、補修諏訪氏系図(1921)所収の金刺氏系図によれば、
 ・麻背(亦名五百足、金弓君の子)--磯城島金刺大宮御宇 科野国造大舎人として之に供奉 依りて金刺舎人造(ミヤツコ)の姓を負う
との注記があり、金弓君・麻背君に発する金刺舎人氏が金刺氏の前身という。

 科野国造(金刺舎人)は歴代朝廷に出仕していたようで、三代実録・清和天皇貞観5年(863)9月5日条に、
  「信濃国諏方郡の人・右近衛将監正六位上金刺舎人貞長に姓・太朝臣を賜ひき。是れ神八井耳命の苗裔なり」
とあり、これ以降太朝臣金刺舎人氏と呼ばれたという。
 ここで太朝臣の姓を賜ったのは、古事記にいうように科野国造・金刺氏が古代朝廷で活躍した多氏と同族であることからといわれ、太朝臣とは多朝臣を意味し、金刺舎人氏が中央で活躍できたのも多氏のバックアップがあったからという(大和岩雄)

 なお、阿蘇氏系図によれば、科野国造9代の孫・麻背の子2人のうち、兄・倉足以下の系譜に諏訪評督(コオリノカミ)、弟・乙頴(オツエイ)以下には諏訪大神大祝との注記があることから、金刺氏はこの頃から2系に別れて、倉足系は諏訪評督職を継承し、乙頴系は神氏に入って上社大祝となったと思われる(神氏倉見君に跡継ぎ不在のため金刺家から乙頴が入ったという、母が神氏出身)
 評督とは、大化の改新にる旧国造制の廃止に代わって設けられた地方行政機構である評(コオリ、大宝律令後は郡と記す)の長官を指し、それまでの国造が任じられることが多かったという。
 なお、大祝・金刺氏は永正15年(1518)の上下社争乱によって滅亡し、その分家・武居氏が大祝の職を継いだという。

*神氏
 神氏はタケミナカタの後裔といわれ、神氏系図でみるかぎり、建御名方から11代の建大臣命の時(景行朝)に洲羽国造に任ぜられ(旧事本紀・国造本紀にその記録はみえない)、その5代後の倉見までは男系で続いているが、何故か、その子として金刺氏の乙頴の名が記されている。
 その理由について、管見したネット資料によれば、
  「倉見が用命朝に敵人に害されて神氏(洲羽国造)の男系が途絶えたため、金刺舎人麻背(科野国造)に嫁いだ倉見の娘(乙比売)が生んだ外孫の乙頴が幼少にして神氏宗家を継いだ」
とあり、男系系譜からみれば、この時点で神氏から金刺氏に変わったととれる。

 乙頴にかかわって、神氏系図序文に
  「科野国造(金刺氏)9世の孫・五百足(麻背の別名)、一日夢に神告有り、汝の妻・兄弟部(洲羽国造・倉見の女)既に妊れり、必ず男子を分娩す。成長せば吾必ず之に憑かんと欲す。汝宜しく鍾愛すべし。
 夢覚めて後、之を兄弟部に語るに、兄弟部も亦同じ夢を見れり。後果たして男子を産む、因りて神子と名付く、亦熊子と云ふ。
 神子八歳の時、尊神化現、御衣を脱いで神子に着せ、『吾に体無し汝を以て体と為す』との神勅有りて御身隠れり。是則ち御衣着祝神氏有員の始祖也。
 用明天皇御宇2年、神子社壇を湖南山麓に構ふ。其の子弟兄子・・・其の子清主、其子有員亦武麿と云う」(漢文意訳)
とあり、
 また阿蘇系図では、ここでいう神子とはタケイホタツ命10世の孫・乙頴(オツエイ)のこととして、その補注に「諏訪大神大祝、一名神子、八歳の時ミナカタトミ大神が化現して云々(神子伝承)、用明2年に社壇を構え云々」
とある。
 序文にいう五百足とは欽明朝で金刺舎人造と呼ばれた科野国造・麻背のことで、その妻・兄弟部とは神氏から嫁いできだ倉見君の女・乙比売という。

 この諏訪大神大祝が上社大祝を指すとすれば、上社大祝は乙頴からはじまるとなるが、諏訪大明神絵詞には
 「祝は神明(タケミナカタ)の垂迹の初め、御衣を八歳の童子に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、我に於て体なし、祝を以て躰とすと神勅ありけり。是則ち御表衣祝(ミソギハフリ)・有員(アリカズ)、神氏の始祖也。家督相次て今に其職をかたじけなくす」
 また上社社例記には
 「平城天皇御宇(806--809)以来 御表衣祝社務 是大祝肇祖」
とあり、タケミナカタが憑依したのは有員で、上社大祝は有員から始まり、以後、世襲したという。

 有員とは、神氏系図序文によれば乙頴8代の後裔で(諏訪氏系図でも同じ)、光仁天皇・宝亀3年(772)に神人部(カントベ)宿祢の姓を賜った(続日本紀・光仁紀には見えない)大祝・清主(別名・豊足)の子という。

 しかし、有員は、神氏が清主の代で男系後継が絶えたので、外から入って後を継いだ人物ともいわれ、上社社例記には、
  「桓武天皇第五皇子八才より烏帽子、狩衣を脱着御表衣祝」
とあり、桓武天皇の第5皇子が入ったという(史料によれば、桓武には10数人の皇子がいるが、これに相当する皇子名はみえない)

  これに対して大和岩雄氏は
  「桓武天皇の皇子というのは信用できないが、このように書かれているのは、桓武天皇の子・平城天皇の御代(806--09)から上社大祝が世襲制となり、その初代が有員だったからであろう」
として、桓武天皇皇子説を否定し、

 続けて
 ・有員以降、上社大祝が世襲となったのは、平成天皇の御代、その側近として重職を歴任した多入鹿(759--816、最終官位・従四位下・参議、多氏は科野国造・金刺氏と同族)の力によったものと考えられる。
 ・しかし、上社大祝を下社大祝と同じ血統にするには抵抗があること、都から寅方位にあるミワ神とスワ神の神格の共通性等から、大神氏(オオミワ)の血筋に神氏を名乗らせ、上社大祝有員が誕生したのではないだろうか(諏訪古代史考、大要)
として、
 有員は、大和の大神神社の祭祀氏族・大神氏(三輪氏)から入った人物ではないかと推測している。

 大和の大神氏とは大物主神の後裔とされる氏族で、大和の大神神社(桜井市)の祭祀氏族だが、大神氏進出以前の三輪山祭祀には多氏がかかわっていたといわれ、多入鹿が大神氏関係の人物を以て上社大祝・有員としたのもあり得ることだが、下社大祝・金刺氏は多氏系の氏族であることから、有員は下社大祝である金刺氏一族から出たとみることもできる(大和氏がいうように、両社大祝をあからさまに同じ血統の者から出すことに抵抗があり、大和の大神氏を名乗ったのかもしれない)

 上社大祝の肇祖・神子が乙頴なのか有員なのかは不詳だが、ほとんどの資料には大祝は有員から始まったとあり、これは大和氏がいうように、有員が上社大祝世襲の初代であったことによるのであろう。

*大祝(オオハフリ又はオオホオリ)
 大祝とは諏訪大社神官の頂点に立つもので、大明神(タケミナカタ)が憑依した八歳の童子(オグナ)・神子を以て肇祖とする伝承(以下、神子伝承という)から、神そのもの・現人神(アラヒトカミ)・生き神さまとして崇敬され且つ畏れられたといわれ、決定版・諏訪大社(2010、以下、決定版という)によれば、鎌倉時代半ばの史料・大祝信重解状には、
  「大祝をもって御体となす事
 右大明神御垂迹以降、現人神御国家鎮護眼前たるの処、機限に鑑み、御体隠居の刻、御請願にいふ、『我別体なし、祝をもって御体なるべし、我を拝まんと欲すれば、すべからく祝をみるべし』と。仍りて神字を以て祝の姓に与え給う云々」
とあるという。

 大祝は上社・下社の両社それぞれに存在し、平城朝(806--09)以降、上社では神氏、下社では金刺氏がその地位を世襲しているが、通常は、上社大祝を以て諏訪大社を代表する大祝とし、下社のそれはやや格下と解されたという。

 世襲化以前の大祝は、神子伝承にならって、神氏ないしその一門から8歳前後の童子(15歳以下ともいう)を選んだといわれるが、その就任式(大祝職位式)を差配するのは神長・守矢氏だったという。

 童男を大祝につけることを“職位”や“即位”あるいは“位付け”などと呼んだ。
 その即位手順がわかるのは建武2年(1335)の頼継(ヨリツグ)からで、大祝職位事書(オオハフリシキイコトガキ・1538)によれば、
 ・大祝候補の童子は、まず内御玉殿の真澄鏡の前で八栄鈴を振って祈禱し、
 ・次いで、神長に導かれて、上社境内からやや離れた鷄冠社西脇の、周りを葦の簀で囲った小さな神殿に至り、柊の木の下にある要石(平らな巨石というが、今は無くなっている)の上に立つ。
 ・立烏帽子のみを残して衣服を脱ぎ、要石の上に立立ったまま、神長から所定の装束(御衣)に着替えさせられる。
 ・装束が整えられると、神長に手を引かれて、立って四方を拝し、神長から家伝の秘法が授けられ、
 ・その後、境内の小社をめぐり、内御玉殿で
  『我が身は既に大明神の御正体と罷り成り候ひぬ。清器(清い食器)申し給はりて定めなり、今よりは不浄のことあるべからず』
と宣言して、大祝として正式に即位したという。
 (ただ、職位式は候補者と神長だけでおこなわれるため、その式次第の詳細は不詳。
 また、上記の即位式次第は14世紀の記録であることから、そこで授けられる家伝の秘法とは密教的色彩が強く、これが古来からのものかどうかは不詳という)

 ここで8歳の童男が選ばれるのは神子伝承を承けたものだが、俗諺に「(子供)7歳までは神の内」というように、純粋無垢な幼童には神が憑依しやすいとの観念からのものと思われ、幼児をもって宗教上の後継者とすることは、チベット仏教のダライ・ラマあるいはネパール仏教のクマリ(幼女)なとと同じといえる。

 古来から、衣服にはそれを着た人の霊魂が籠もるといわれ、神子伝承で、神が神子に御衣を着せたということは、神霊を神子に付けたということで、職位式で童子に新調の装束を着せることは、その再現ということになろう(大嘗祭での天孫ニニギが包まった真床負衾、古代ペルシャ王国での即位式での初代王・キュロスのマントなど同種の事例は多い)
 ただ、8歳前後で即位した大祝が何歳ころまで大祝として在位したかは不明(世襲化後は存命中在位したらしい)

 ここで童子に憑く神霊はタケミナカタの霊とされるが、大祝就任神事を差配するのがミシャグチ神を奉齊する守矢氏であり、古代諏訪信仰ではミシャグチ神信仰が優勢であることから、ミシャグチ神とみるべきかもしれない(上記の「タケミナカタは外向きの神で、諏訪にはタケミナカタにかかわる神事はない」という古老の言とも一致する)

 また、大祝となる童子が要石の上に立つことについて、五来重氏は
 「これは、この石に乗れば人間が神になるということを表したもので、ここに極端な自然石崇拝を見ることができる。
 これを石に神の魂が籠もっているとみるか、人を神とする呪力を石が持っているとするかは、にわかに決定することはできないが、石を神として崇拝することから、石仏や石神(イシカミ・シャクジン)の信仰が出てきたわけで・・・」
という(石の宗教・2007)

 なお、諏訪市博物館に“大祝即位式場”の復元模型(右写真)が展示され、案内板には
 「文政9年(1526)の図をもとに、天明元年(1781)の図を参考に復元。
 江戸時代には、八角形の神殿の中で、大祝は神長官により御衣を着せられ、秘法を授けられて神となった。 
 即位式は天保12年(1841)まで行われた」
とある。

 “神長官守矢史料館のしおり”によれば、神長が執行する神事は一子口伝の秘法とされ、そのなかに「大祝が前宮のカエデの樹の下で行う即位式」との一条があり、大祝即位式は、その都度、周りを囲った仮設の小神殿において執行されたという。

*守矢氏
 伝承で、タケミナカタの諏訪進出に対して、これに抵抗した在地の神・洩矢神の後裔と称する在地氏族で、洩矢神--守宅神--千鹿頭神(チカト)--児玉彦命--と続く系譜を口伝によって伝えられてきたが、76代・守矢実久によって文字化され(神長守矢氏系譜)、現在で 78代(守矢早苗氏)を数えるという。

 神長官守矢史料館に掲げる「守矢家について」との案内には、
  「今から千五・六百年前の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよぶ以前からいた土着部族の族長で、洩矢神と呼ばれ、現在の守屋山を神の山としていた。
 しかし、出雲より進攻した建御名方命に天龍川の戦いに敗れ、建御名方命を諏訪明神として祭り、自らは筆頭神官つまり神長(後に神長官)となり、中央勢力に敗れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聴いたり、山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治維新の時まで持ち続けた」
とある。

 守矢氏は、神長(ジンチョウ・大祝に次ぐ筆頭神職、神長官ともいう)として上社神事のすべてを差配したといわれ(下社とは無関係)、神事の具体的な手法は秘法として、真夜中、火の気のない祈祷殿のなかで一子相伝により“口うつし”で伝承されてきたが、明治5年、神長職の世襲が廃止されたことから(76代・実久の時代)、秘法の伝承も縮小され、77代・真幸を以て終焉を迎えたという。

 なお、守矢氏は洩矢神を祖とする古くからの在地氏族というのが通説のようになっているが、これに対して、諏訪明神(カミ信仰の原像、寺田鎮子他・2010)は、
 ・諏訪周辺の古墳の発掘からみると、①土着社会、②フネ古墳に代表される5世紀王国、③6世紀になっての新流入族によるものという3層がある
 ・この3っの層の成り立ちについては幾つかの解釈があるが
 ・5世紀王国は守矢氏が外から流入して作ったもので、6世紀に神氏と金刺氏が流入してきた、という見方も成り立つ、
その理由として、
 ・諏訪大明神絵詞にいう伝承で、「尊神垂迹の昔、洩矢の悪族・・・」とあるが、守矢氏が自らの祖を“悪族”とするのは奇異であり、洩矢神とは別の土着民を指している可能性がある
 ・守矢氏系譜には、その始祖として洩矢神・洩宅神・千鹿頭神という三代があるが、これらは始祖ではなく、先住部族を指している可能性がある
 ・フネ古墳が、縄文の拠点であった神野・諏訪東南地区でなく、どちらかというと日照に恵まれず平地も狭い南西地区(西山)にあることも、守矢=非土着民ということを物語っているように思われる、
 ・地元には、洩矢という氏族が支配権を握っている祭政体がしはらく(3代)存在したが、守矢氏は洩矢氏を諏訪の外に追いやり、その後を継いだという伝承がある
という(大略)

 この諏訪明神(カミ信仰の原像)は、諏訪の在地史家によってまとめられたもので、何らかの伝承等によるものとも思えるが、そのなかで
 ・守矢氏が自家の祖神を“洩矢の悪族”というのは奇異だという
 ・これが守矢氏の伝承であればそのとおりだが
 ・これが神氏に伝わるものであれば、抵抗する洩矢神を悪族としもおかしくはない
 ・ただ、古代にあっての“悪”には今にいう“悪い”という否定的な意より、“猛々しい・勇猛な”といった肯定的な意が強く、洩矢の悪族とは、洩矢神を奉じる勇猛な一族と解され、とすれば守矢氏が自家の祖神を悪族と呼んでもおかしくない
 ・その意味では、これを以て守矢氏を外来氏族とするには難があろう。

 また、守矢家には途中から大連・物部守屋の子孫が入ったとする伝承があり、神長守矢氏系譜・武麿(洩矢神より27代目)の注記には
 「一云 弟君(オトギミ)
  31代用明天皇御宇 物部守屋大連身を河内国澁川館に殯す。子孫葦原に隠れ或は逃亡(崇峻紀に同意文あり)
  長子美濃に入り 次子武麿信濃洲羽に来たりて 諏訪氏の女を娶り長職を嗣ぐ」
とあり、続けて
 「守屋氏 物部の一男・弟君と号る者 森山に忍び居て 後神長の養子となる。・・・森山に守屋の霊を祀り 今守屋が岳と云ふ」
なる古文書(信濃奇勝録)を引用している。

 ネット等で見る物部氏系譜で守屋の子供の名を記すものは見うけないが、その子孫と称する一族が各地にいたといわれ、例えば、岡崎市真福寺町にある天台宗寺院・真福寺に伝わる縁起によれば、守屋には5人の子(真政・真福・真通・真隆・秀真)があり、次男・真福(マサチ)が当寺建立の本願施主という(四天王寺の鷹・2006)。ただ、その中に弟君に相当する人物はみえない。

 この真福寺縁起の信憑性には疑問もあり、これを以て弟君の実在を云々できないが、弟君が守矢家に養子として入ったというのは、守矢・守屋が同訓・モリヤであることから、自家系譜に中央豪族の血を入れて飾らんとする牽強付会であろう。

 なお、神長屋敷内に神長官裏古墳という円墳があり(高:2m、径::9mほど、推定7世紀頃の築造)、史料館の栞には、
  「この古墳は、千二百年以上前の遺物で、用明天皇の御世の我が祖先・武麿君の墳墓」
とある。
 物部本葬家の滅亡が6世紀末(587)といわれ、この古墳の築造が7世紀初頭とすれば、武麿すなわち弟君の墳墓としても何とかつじつまはあうが、伝承以外にそれを証するものはない。

※祭神
 今の当社の主祭神は、
 ・上社本宮--建御名方富命(タケミナカタトミ)
 ・上社前宮--八坂刀売命(ヤサカトメ、タケミナカタの后)
 ・下社春宮・秋宮--八坂刀売神
となっているが、タケミナカタは表向きの神で、本来の神は古来からの神・ミシャグチだともいう。

◎建御名方富命
 タケミナカタトミ命は、国譲りに反対して武甕槌神に抵抗し、破れて諏訪国まで逃げた神として登場し、大国主の御子というが(古事記)、この神の出自については判然としない。

 タケミナカタという神名について、本居宣長は古事記伝の中で、
 「建または御は例の称号(尊称)なり。・・・和名抄によれば、阿波国に名方郡(ナカタノコホリ)名方郷があり、神名帳に、その郡に多祁御奈刀弥神社(タケミナトミ)あり(奈の下に方の字が脱したるにあらねや)
と記し、太田亮氏は
 「建と富とは尊称であり、御名方の名義は祥かならざれども、恐らくは御は敬語にして名方は地名ならんか。
 名方なる地名は全国に2・3あれど、こは阿波国名方郡か。何となれば、延喜式同郡に多祁御奈刀弥神社を乗せ、建御名方命を祀れりと伝ふればなり。・・・
 名方の郡名は筑前灘県(ナガノアガタ)より来たりたるものにして、此地は安曇氏族の有力なる一根拠なること種々の方面より伺われるを以て、命か此の地名を負ひ給へることは、其の妃・八坂刀売命が安曇氏の女なるが故ならんと考察される也。
 思ふに、命は妃の命との縁故より安曇氏の奉ずる処となり、嘗て此の地に駐りその地名を御名に負ひ給ひとならんか」
という。
 (多祁御奈刀弥神社--徳島県名西郡石井町鎮座、「元諏訪」と称して、諏訪大社は宝亀10年-779-当社からの遷座という)

 これを受けて大和岩雄氏は、
  ・阿波の名方郡に南接する勝浦郡・那賀郡・海部郡を総称して“南方”(ミナカタ)という
  ・続日本後紀・承和9年(842)5月条に、信濃国諏訪郡無位南方刀美神従5位下とあり、この神名の南方は阿波の南方と関係があるのだろう
  ・信濃の式内社には、安曇氏の祖・穂高見命を祀る穂高神社など、安曇氏に関係する神社が数社あり、この安曇氏を媒介として信濃と阿波とには共通性がある。
  ・下社の祭神・八坂刀売命も、安曇系海神の女とする説がある(栗田寛・吉田東伍・宮地直一他
として、信濃国と阿波国は古来から関連性があり(間に伊勢国が関わるともいう)、タケミナカタの神名は阿波の名方に関係するのではないかという(前掲書)

 これらからみると、タケミナカタとは諏訪在地の神ではなく、外部からやってきた新来の神となるが(諏訪の国譲り伝承とも整合する)、そのタケミナカタが諏訪の地に定着した時期について、
 ・古事記成立の奈良朝を余り遠ざからぬ前代であろう(宮地直一)
 ・諏訪神(ミシャグチ神)から南方刀美神(建御名方神)に、古墳末期の8世紀を境にして神格が交代したもののようである(藤森栄一)
など、奈良末から平安初期にかけてのことだろうという。

 なお、これに対して、西郷信綱氏は
 ・タケミナカタのミナカタは「水潟」の意で、タケミナカタの名も、20余の河川が流れ込む諏訪湖が、沖積土による潟を有する湖であったことと不可分に結びついていたはずである
 ・古事記に、タケミナカタはタケミカツチに追われて諏訪国に至り云々とあるのは、たまたまその地まで逃げ延びたかに受け取れるが、彼はむしろ郷国へ逃げ帰ったということだろう
として、タケミナカタの本貫は諏訪湖の辺だろうという(諏訪の神おぼえがき・古代人と死1999所収)
 ただ、この説は、諏訪に残る国譲り伝承(上記洩矢神と明神との抗争伝承)などとの整合性に欠け、タケミナカタは外来神とするのが妥当と思われる。

◎八坂刀売命
 ヤサカトメ命はタケミナカタ命の妃というが通説だが、記紀等の古史料にその名はない。
 ヤサカトメの出自について、管見のかぎりでは
*伊勢の神麻績連(カムオミノムラジ)の祖・八坂彦命の後裔説
  八坂彦命(天物知命ともいう)とは、先代旧事本紀(天神本紀)に、饒速日命に扈従して天降った32神の一で、そこには
   「八坂彦命  伊勢・神麻績連(カムオミノムラジ)の祖」
とあり、新撰姓氏録には
   「右京神別(天神) 神麻績連  天物知命(八坂彦命)之後也」
  姓氏類別大観(ネット資料)には
    神皇産霊尊--角凝魂命・・・・・天白羽鳥命--天物知命--八坂刀売命
との系図がある。

 この説の信憑性は判断できないが、宮地直一氏は
  「和名抄に伊勢国多気郡と信濃国伊那郡・更級郡に麻績郷(オミノサト)があることから、八坂刀売命を八坂彦命の後裔とする説は、単なる神名の共通による学者の臆説たるに止まらず、相当合理的根拠を有するといひ得る」
として、ある程度信用できるのではないかという。

 今の当社で、八坂刀売命の出自をどう見ているのかは不詳だが(いただいた「諏訪大社」との栞には祭神についての記述はない)、諏訪文書の一・諏訪国一宮諏方本社上宮御鎮座秘伝書(時期不明)には
  「天孫前(妃)八坂刀売命 天孫降臨供奉32神之中、八坂彦命の後也」
とあるが、他に確証となるものはない。

*安曇系海神(ワタツミ)の女説
  上記のタケミナカタ阿波の名方出自に伴う説で、阿波の名方地域を根拠とした安曇氏と関係づけたものと思われ、阿波国・信濃国に安曇郡があり、安曇氏の居住があったと思われることから、栗田寛(新撰姓氏録考証)・吉田東伍(大日本地名辞書)・飯田弘太郎(諏訪氏系図補記)・宮地直一(諏訪史)など、これを提唱する識者は多い(未確認)
 また、信濃国安曇郡の式内・川会神社の社伝にも、
  「海神綿津見神を祀る。建御名方命の妃は海神の女なり。
  太古海水国中に氾濫、建御名方とその妃は治水のために水内山を破って水を流し越海へ注ぎ、始めて平地を得た。神胤畜殖し因ってここに祀る」
とあるといわれ、信濃国では古来から、ヤサカトメはワタツミ神の女と認識されていたらしい。

 いずれにしろ、ヤサカトメ命もタケミナカタ命と同じく、諏訪在地の神ではない外来神で、8世紀頃には定着したと思われる。

◎ミシャグチ神
 諏訪地方古来からの神といわれるミシャグチ神の実体はよくわからない。
 
 シャクジン信仰は、西は伊勢・志摩から東は武蔵に至る広い範囲で見られるもので、シャグチ(ミは敬称)・シャグジ・サクチ・サグジ・サゴジ・ジャグジン・シャモジなど多くの呼称があり、社宮司・射宮司・社護・遮軍・左口・尺地・杓子などいろんな字が充てられ一定していない(以下、漢字表記の場合「御左口神」と記す)

 上社・前宮本来の祭神はミシャグチ神ではないかというように、諏訪地方で古来から祀られている神で、
*今井野菊氏(諏訪の郷土史家)の調査(1975)によれば、
 「長野県には御左口社が675社、そのうち諏訪郡には109社がある。
 御佐口神の祀られる所に古樹があるが、その木の根元に祠があり、ご神体として石棒が納められているのが典型的な御佐口神のあり方」
という。

*洩矢神(ミシャグチ神)の後裔と称する守矢氏の「神長官守矢史料館のしおり」には、
 「諏訪の御政体は、ミシャグチ神という樹や笹や石や生き神様・大祝に降りてくる精霊を中心に営まれます。家ではミシャグチ様と呼んでいました。
 そして、一年に75度ある神事が、中世までは前宮と大祝の住む神殿(コウドノ)、そして冬期に掘られた竪穴である御室(ミムロ)や十間廊、八ケ岳山麓の御射山(現諏訪郡富士見町)で行われました。
 そのミシャグチ神の祭祀権をもっていたのが神長であり、重要な役割としてのミシャグチ上げやミシャグチ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切っていました。
 この地方の伝承によれば、元々は何柱かの土着神がいたようですが、それが次第にミシャグチに集合されていったと考えられています。
 現在は、神格として蛇神(山神)兼狩猟神となっていますが、古くはモレヤ神が木石の神、チカト神が狩猟の神、ソソウ神が蛇神として別々に祀られいました」
とある。

 諏訪のミシャグチ神については諸説があり定説となるものはないが、管見した主な資料として以下のものがある(要点列記)。
*諏訪旧跡志(1857)
  御左口神、此神諸国に祭れど神体しるべからず。或三宮神・社宮司・社子司など書くを見れど名義詳ならざるゆえに書も一定せず。
 或説に曰く、此神は以前(ムカシ)村々縄入の時、先ず其祠を斎ひ縄を整へ置て、しばしばありて其処より其縄を用て打始て服収(マツロヒ)むとぞ。
 おおかたは其村々の鎮守大社の戌亥にあるべし。此は則ち石神也。これを呉音にて石神(シャクジン)と唱へしより、音はおなじなれど書様は乱れしなり。

*藤森栄一(1911--73・諏訪生まれの考古学者)
 ・記紀に主役をつとめるような神ではなく、自然神で、食物、生産または土地についての強い権限をもっていた。
 ・多くは小単位の集落、つまり村々の神で、村の台地の上や谷口にあり、はじめは社殿をもたず、巨木・巨岩・尖った石・立石などに降りてくるナイーブな自然神であったようである。
 ・神体は石棒や石皿・石臼である場合が多い。新しく作り出されたリアルな、一見男根状のものもまれにはあるが、立石状自然石や、明瞭な石器時代の石棒類がもっとも多く、その石棒も縄文後期以降のものも多い。

*精霊の王(2003)--中沢新一
 ・ミシャグチ神が出現するのは、水稲栽培がはじまった弥生時代後半から古墳時代の初期にかけての事と推察されている。
 ・ミシャグチ神は本来社殿をもたない神で、石棒を祀った小さな祠があり、それを大事に抱きかかえるようにして、桧や桜といった立派な樹木が石神を背後から護っている。
 ・ミシャグチ神の御神体は、石棒で表現されるのが一番古い形で、それに石皿という縄文時代からの生産用具が一緒に祀られ、小さな丸石が添えられていることがある。
 ・神長官家に伝わる洩矢神祈祷殿の御神体は、若々しいペニスを連想させる石棒と、エロチックな溝を真ん中に穿った石皿の対でなっている。
 ・石棒と一緒に石皿や丸い石を祀ってあることもあるが、石皿は女性をあらわし、丸石は幼児を象徴しているといわれている。

*諏訪明神(2010)--寺田鎭子他
 ・ミシャグチ神は諏訪信仰の古態にあるカミである。廻湛え(マワリタタエ)で神使が神事を行うのは、多くミシャグチ神の祠であった。
 ・そのミシャグチ神の本社が前宮であり、それを統括的に祭祀するのは、神長・守矢氏の役割だった。
 ・ミシャグチ神は、しばしば石棒=男根として象徴されるが、それは一つの表現であって、より広く捉えるならば、生命力を励起するパワーのようなものといえる。
 ・それは「湛え」の神事にもみられるように、「降ろし」たり「憑け」たりするものであった。
 ・大祝の即位式において、神氏の少年は鶏冠社の柊の木の下で、平たい磐座に立ち、着衣の儀礼を行うが、この際、ミシャグチは木を伝わって少年の身体に入ったという。
 ・またミシャグチは空からやってくる。それは大気に充満するエネルギーであり、それが大地と交わることで生物の命が育つ。
 ・ミシャグチはあらゆる処に遍満しているが、大樹や巨石などの特別な場にも集まりやすい。 
 ・またミシャグチは人間の操作によっても引き寄せられる。鉄鐸を鳴らす、激しく舞う、呪文を唱える、などといった行為によってもそのパワーは降りてくる。精進潔斎して、籠りによって充電した人間にも取り憑く。
 ・ミシャグチの信仰と祭祀は、もともと土着的なものであり、守矢氏や諏訪上社が独占できるのではない。
 ・いまだにあちこちの木立や屋敷で、小さな祠や石棒として、ミシャグチ神は祀られている。ある意味では、誰もが祀れるカミであって、特別な祭祀資格が必要なものではない。

*諏訪神社七つの謎(2015)--皆神山すさ
 ・諏訪上社の冬から春にかけての祭の中心には、常にミシャグチがいた。
 ・ミシャグチは木や笹・葦などの植物、石棒や石皿・自然石等の石、さらには人に憑いたりする。
 ・それらのものはミシャグチが宿る聖なる容器であり、ミシャグチが憑いたときには、ミシャグチの実体として崇拝の対象になった。
 ・神使巡行時の湛(タタエ)神事は各里のタタエの木(ミシャグチの木)の下で行う。タタエには湛の字を充てているが、そこには神霊が出現するという意味がある。
 ・折口信夫は七本湛(ナナホンタタエ)について、「これら七木は、桜なり柳なりの“神タタリ木”という義が忘れられたもので、大空より天降る神が、目的を定めた木に憑りいるのがタタルである。即ち至現(顕現)して居られるのである」という。
 ・一方では、諏訪周辺の集落の辻々や道端に立つ石祠には、ミシャグチ神の御神体として石棒が納められているという現実がある。
 ・土着信仰として残存している御左口神の神体は、主に縄文中期の祭祀に用いられたであろう安山岩製の石棒・石皿であった。それぞれ男女の性器を表現したものであろう。
 ・ミシャグチの降ろし・昇げ・付けなどは、神長の専一の神事とされたが、その神長邸内の御頭御左口総社の御神体も石棒と凹石の陰陽石だという。
 ・ただし、それには異論もあって、宮地直一博士は、ミシャグチとその神体石棒とは発生の起源を異にし、石棒は本来の神体ではなかったといわれ、諏訪以外の他県では自然石をミシャグチといっている例がある。
 ・郷土史家の今井野菊さんは、長野県を中心に関東・東海地方では、古樹の根元に祠があり、御神体として石棒が納められているのが典型的な御左口神のあり方という。
 ・また、ミシャグチは今では子供の守護神、風邪・咳・夜泣き・安産子授け・腰から下の病気の神、または入学成就の神とされ、村の産土神・氏族の祝神として祀られるなど、さまざまであるという。
 ・時代の推移のため、大部分のミシャグチは由緒もわからないまま、土俗信仰によって守られ、「古い草分けの神」「あらたかな神」と伝えられ、由緒不明のまま埋没したように見える。

 これらによれば、ミシャグチ神とは
 ・縄文時代からの自然神信仰の流れをくむもので、自然界に潜在する精霊といってもいい
 ・その御神体しては、石棒・石皿といったものが多く、この組み合わせは生命の根源・生殖を象徴するという
 ・諏訪におけるミシャグチ祭祀は神長・守矢家のみが所掌する神事で、諏訪の現人神・大祝も、守矢氏がミシャグチ神を憑けることで誕生した
といえる。

 なお、ミシャグチ神についての考証は柳田国男の石神問答(1910)を嚆矢とするが、そこには諸説が記されているものの結論めいたものは記されていない。

※特殊神事
 諏訪大社には特殊神事と称する神事がある。その幾つかを記す。
◎御柱祭(ミハシラ・通称:オンバシラ)
 諏訪大社では4社それぞれに各4本の柱が立っているが、これは7年ごとに巡りくる寅(トラ)・申(サル)の歳に立て替えられ、これを御柱祭という(最近ては平成28年・20016催行)
 御柱祭の次第については多くの資料があるが、そもそも“柱”とは何か、“柱を立てる”ということが何を意味するかを論じた資料は少ない。

 諏訪大社刊の栞・諏訪大社には
 ・柱を建てる理由については多くの説がありますが、主なものとして、
 ・祭場の標示、本殿の代わり、社殿建替えの代わり、神様のお降りになる柱などが言われております
とある。

 管見した柳田国男の“諏訪の御柱”・“勧請の木”(大正4年・1915、神樹篇所収)は次のようにいう。
 ・御柱の祭は古くから寅・申の両歳、七年目ごとに行われた。
 ・上社・下社ともに柱の数は8本で、採取の日も場所も一定していた。柱の木は常に樅樹(モミノキ)で、山出し、里曳き等の作法はいたって荘厳なものであった。
 ・今日かの地の古老の信ずるごとく、この祭は桓武天皇の御世から制定せられたもので、本来式年造営中の一行事であったということは、必ずしも確定の説とみることを要せぬ。
 ・守矢文書の天正6年(1537)起請文には、「諏訪上宮七年一度の御修理、年来退転について、旧規を露し仰せ付けられ候云々」とあり、延文元年(1356・北朝年号)の奥書があったという。
 ・諏訪大明神絵詞の縁起の巻にも、「寅・申の干支に当社造営あり」とあり、御柱の年は同時に造営の年でもあったとは言い得るのである。
 ・各地で立てられる柱は、単に松明または旗や御幣を高く掲げるだけの目的ではなく、神々の性質から推測しても、結界占地を標章していたものであることは証し得るかと思う。
 ・民家の建築においても地鎮のために柱を立てる。いわんや神のために清浄の地を取り分たんとするには、この類の記号を明らかにするのはもっとも自然のことで、
 ・その結果として神が柱に憑ると考えるに至ったか、または神は蕎木(キョウボク)の頂きに降り給うという信仰から、その地に高いものを建てるに至ったかは、容易に決しかねるとしても、柱の起源が折口君のいわゆる標山(シメヤマ)にあることは争われまい(大意)

 柳田がいう“折口君の標山云々”とは、折口信夫の“鬚籠(ヒゲコ、祭で使用する祭具、竹などで籠を編んで、編み残しの端を長く垂らしたもの、神霊が籠もるともいう)の話”(大正4年)にいう
 ・避雷針のなかった時代には、何時何処に雷神が降りるか決まらなかったと同じく、天降り著く神々に、自由自在に土地を占められては、如何に用心しても、何時神の標めた山を犯して祟りを承けるかも知れない。
 ・其故に、神々の天降りに先立ち、人里との交渉の少ない比較的些少な地域で、さまで迷惑にならぬ土地を、神の標山(神降臨の山)と勝手に決めて迎え奉るのを最も完全な手段と昔の人は考えたらしい。
 ・その場合、何を神案内の目標とするかというと、後世には、人作りの柱・旗竿なども発明せられたが、最初はやはり、標山中の最も神の目に触れそうな高山の蕎木などが選ばれたことと思う。
をいう(大要)

 古くから、神は神社などに常住すのではなく、いつもは虚空にあって、神意あるいは人々の勧請によって、神マツリの場に降臨するという(神社拝礼での拍手は、神に降臨を願う儀礼といえる)
 その時、神降臨の目標(メジルシ)となるのが自然の高木、あるいは人が立てた高柱であって、これらは、神からみれば依代(ヨリシロ)であり、人から見れば招代(オギシロ)といえる(磐座などもこれに当たる)

 神が降り来る依代としての柱は、イザナギ・イザナミ双神が始原のオノコロ島に立てた高柱(記紀)、あるいはアブラハムの孫・ヤコブが夢に見た「先端が天まで届き、天使達が上り下りしている階段(柱)(創世記)などにみるように、天と地を結ぶ聖なる宇宙樹でもあった。

 当社に立てられる御柱は、一義的には神降臨に際しての目印となる標木(シメギ)とみて間違いなく、ある意味では神そのものともいえる。
 加えて、柱が各社神域の四隅(上社本宮はやや不整形)に立つことからみると、神域への邪霊・悪霊の侵入を遮る結界の標木ともいえる。
 (今、上社御柱の頂きに幣帛が立てられていて-下社御柱にはみえない、これが御柱が神降臨の標木であることの標しと思われるが、地元の方の話では、幣帛を立てるのは近年になって始まったことで、昔はなかったという)

 [蛇足] 
 白川静氏は、古代での“柱”は篆書で“”と記されたとして、
 「音はチュウ。旁(ツクリ)の“主”は燭台の形で、鐙(アブラザラ)の中で燃えている炎を加えている形である。
 燭台は直立した形のものであり、木の直立するものを(チュウ)といい、“はしら”の意味となり、ものの中心となるものの意味にも用いる」
という(常用字解・2003)

◎蛙狩神事
 上社では正月一日に蛙狩神事が行われる。上社本宮の社前を流れる御手洗川の氷を割って蛙二匹をとり、篠竹の小矢で射抜き、矢串に刺したまま新年初の御贄として神前に供えるという。

 諏訪大明神絵詞には
  「御手洗川にかへりて漁猟の儀を表す。七尺の清滝氷閉て一機の白布地に敷けり。雅楽数輩、斧鉞を以て是を切りたれば、蝦蟇五つ六出現す。毎年不闕の奇特なり。壇上のカヘル石と申事も故あることにや。
  神使小弓をもて是を射取て、各串にさして棒もちて生贄の初とす」
とある。

 この神事について、井本英一氏は、
 ・三輪(諏訪大社著者)は、この神事の由来を五つ挙げ、その三番目に“狩猟あるいは農耕の豊穣を祈る儀式であるとする”が、一般には諏訪神の正体である竜蛇神に供える生贄の儀式であるともいう
としたうえで、
 ・この神事で供えられる二匹の蛙は古い神で、社に祭られる祭神の他我であった
 ・祭神が年末になって活力が衰えたとき、祭神の他我があの世からやってきて祭神に食べられ、祭神に新しい力を与えた
 ・同時に、祭に参加した人間も、直会(ナオライ)に際して祭神の他我である蛙をいただき、自然の法である神と同調して新しい出発をした。これは諏訪の古い神人共食の姿であった
 ・古くは上社の前宮で、ミシャグチ神事といって、大祝が年末に土中の穴に藁で作った蛇と共に冬籠もりした。
 ・正月に蛙が供えられることは、蛇の好物である蛙をミシャグチの神・蛇の再生のために供義したことになる
 ・諏訪上社の境内には御沓石・蛙石・御硯石の三つがある・・・蛙石は蛙形を供える石である
 ・今、三つの石はばらばらになった観があるが、前者二つの石は入口に置く手形や馬蹄、あるいは沓・草履と同じように境界の表象で、蛙石も入口に寄ってくる習性のある蛙を供義する石であった(入口は他界と現世の境界である)
 ・新年と柱と蛙の複合は欧州にも残っている。5月1日のメイ・デイは北欧の新年の名残だが、その前夜はワルブルギスの夜といわれ、ブロッケン山で魔女の供宴があり、そこでのご馳走が蛙である。
 ・魔女は山の神あるいは大地母神のなれの果てで、蛙は山の神・大地母神の他我で、新年に際して神々を活気づけるために現れ、神々と人々に食べられたのである
 ・諏訪の始原の祭神も神体山の山の神であったと考えられ、蛙を食べる行事は、山の神の再生のためであった
 ・上社本宮の社叢である神体山に自然の磐座である苔むした蛙石がある。禁足地であるので立入はできないが、地上に出ている部分は長さ2m高さ1mは十分にあるという
という(大意、蛙神事の源流・2004-神話と民俗のかたち所収)

 また、松前健氏は、
 ・藤森氏が、諏訪神社の伝承には、神長守矢氏が蛙で、征服者の大祝が蛇だとする説話が多いと指摘されているように、諏訪大神が蛇形であるという伝承は古くからのことであり、上社で元旦の早朝おこなう蛙狩の神事とは、おそらくこれに関係があろう
 ・蛙狩神事で、神前に蛙を供することは、一種の『水神が水神を圧服する』儀礼であることを推察せしめる
 ・諸国の蛇退治儀礼が、蛇の持つ雨水の支配力を、より高次な神仏の内性に吸収させ、以て雨水の豊多を希求しようとしたのと同じく、
 ・蛙の持つ水霊としての験力を、大神である蛇体の神に吸収させ、灌漑用水の潤沢を祈願したのであろう
という(松前前掲書・大意)

 この両論は、表現は異なるものの、新春にあたって、下位の神が上位の神を活性化するために供義されるという点では同じで、それが人間社会の豊穣に連なると解されていたことを意味している。

 そこで、何故蛙が選ばれるのかについて、諏訪信仰史(1982)は、
 ・諏訪明神が水神たる龍蛇神の性格のあることから、蛇の好物である蛙をとって生贄にする
 ・古代は蛙を実際に食用にしたので、贄として神前に供えた
 ・白雪地を覆い堅氷川を閉ざした地中に、生気籠り春を迎えて動かんとすることを表現した神事
 ・上社物忌令に
  「陬波と申事ナミシズカナリとよめり。蝦蟇神(ガマカエル)荒神と成りて天下を悩まし、
    大明神之を退治し坐す時、四海静謐の間、陬波と云ふと口伝之有」
  とあり、これが蛙狩神事の起源というが、これは荒神である蛙を狩り、蛇神である大神への贄とする信仰による
 ・蛙は水陸双方に生息する動物であり、春の訪れとともに大地から姿をあらわし、冬とともに地にもぐって冬眠する蛙は、大地や水の精霊であると、古代人にみなされていたのではなかろうか
との諸説があるという(縄文時代の祭式土器に蛙を浮き彫りにしたものがみられ、聖なる動物とされていたことが伺われる)

 なお、この蛙狩神事について、かねてから動物愛護を標榜する団体から動物虐待であるとして廃止が申し入れられ、2016年1月の神事に際しても反対のデモがおこなわれたという。
 これらの行為は、彼らが正義として振りかざす現代の常識(動物愛護)をもって古来からの神事を云々するもので、神事の何たるかを理解しようとしない行為は、ナンセンスという以外に云いうる言葉はない。

◎御室神事(大巳の祭-オオミノマツリ)
 上社前宮でおこなわれた特殊神事だが、中世以降は廃絶している。

 今、国道152号線・前宮前信号から前宮参道を南下、十間廊(左)・内御玉殿(右)の間を過ぎて石段を登った右手、ケヤキの大木の根元に“御室社”との小さな石祠がある。
 傍らの案内(安国寺史友会)
 「御室社  中世までは諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られ、現人神の大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇形の御体と称する大小のミシャグチ神とともに、『穴巣始』(アナスハジメ)といって、冬ごもりした遺跡地である。
 旧暦12月22日に『御室入り』をして、翌年3月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行され、諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は惜しくも廃絶した」
とある。

 この神事が行われる御室とは、古絵図をみると社殿ではなく、諏訪大明神絵詞が
 「12月22日御室に入り、大穴を掘り、その内に柱を立て、棟を高め萱を葺て、棟の垂木を支へたり。・・・冬は穴に住みける神代の昔は、誠かくこそありけめ」
というように、古代の竪穴住居のようなものだったという。

 その大きさは、萱畳24帖が敷ける程度の広さと推測され、その北寄りに“萩組の座”と呼ばれる特別な一画があったという(全体で16坪ほどとか)


 この神事は、旧暦12月22日から翌年の3月寅日まで続いたといわれ、その次第は資料によって些少の違いがあるが、要約すれば、

御室想定復元図(資料転写)

 ・12月22日[一の御祭] 大祝・神長・神官などが所末戸社(トコロマツトシャ・現所政社)に詣で、神事・饗宴の後御室に入る
                 御室に、“笹のミシャグチ神”(神を憑依させた笹)を入れ、これを“第一の御正体”という
 ・ 同 23日[擬祝神事] 御室に、小蛇の作り物3体をを入れ、これを“第二の御正体”という
               (小蛇3体はソソウ神ともよばれる女神で、諏訪湖から渡ってくるという)
 ・ 同24日[大巳祭]   饗宴の後、御室の一画・萩組の座に、左から笹のミシャグチ神を、右からソソウ神(小蛇3体)を入れ、
                 ソソウ神が諏訪湖から御室へ至る道順を述べる申立て(祝詞の一種)を行う
               (これは第一の御正体であるミシャグチ神と、第二の御正体であるソソウ神との聖婚を意味するという)
 ・ 同 25日[大夜明祭] 朝のうちに御占・饗宴を終え、大蛇の作り物3体(長さ5丈5尺・太さ2尺5寸)を御室に入れる
               (この大蛇3体は、小蛇が一夜の内に異常成育、ミシャグチ神との聖婚によって懐胎したことを意味し
                それを祝って舞曲20番が御室の前で演じられたという)
 ・その後、翌年3月寅の日まで何らかの祭祀が行われたというが、詳細は不明

 この御室に籠もるソソウ神(大蛇3体)は“ムサテ”とも呼ばれ、古記断簡に
  「或人曰く、ムサテは12月の祭日より次年3月祝日まで籠もる。蛇の形なりと云ふ人もあり」
とあるように、翌年の3月寅日(廻湛神事での神使の帰参日)まで御室に籠もったといわれ、それはミシャグチ神とソソウ神との聖婚による懐妊の籠もりであり、冬の間、穴巣(御室)に籠もっていたミシャグチ神が、春になって再生することを意味するという。

◎御頭祭(オントウサイ、酉の祭)廻湛神事(マワリタタエシンジ)
 御頭祭は4月15日(嘗ては旧暦の3月酉の日)に行われる上社最大の神事で、
 当社公式HPには、
  「本宮で例大祭の神事執行後、神輿行列を仕立てて前宮に赴き、十間廊で古式による祭典が行われる。
 古くは、3月酉(トリ)の日に行われたので“酉の祭”ともいわれ、農作物の豊穣を祈って、御祭神のお使いが信濃国中を巡回するのに際して行われたお祭りで、“大御立座神事”(オオミタテマシ)ともいう。
 特殊神事として鹿の頭をはじめ鳥獣魚類等が供えられるため、一部では狩猟に関係したお祭りともいわれている。
 今は、鹿肉とともに剥製の鹿頭をお供えするが、昔は75頭の生首が献じられたこともあり、中には必ず耳の裂けた鹿があって高野の耳裂鹿といい、七不思議の一つに挙げられている」
とあり、

 式内社調査報告には、
  「上社例大祭に引き続き、当日午後本宮から行列を召立て、神輿が前宮へ渡御して行われる上社第一の祭である。
 現在は、本宮から発進した神輿を前宮十間廊上段に据え、鹿頭・菱餅其の他の神饌を献じ、桧枝・ジシャの小枝・柏の葉と矢一手を加えた四寸角七尺の桧柱に五色を結んだ御杖柱を幣帛として捧げて祭事を執行する」
とある。

 なお、この神事を御頭祭と呼ぶのは、“鹿の頭を供えるから”というのが一般の理解のようだが、これは誤解で、諏訪市史によれば、
 「中世には、氏人や信仰者が輪番で祭事の費用・労力を負担し、これを頭番役または頭役と称し、この祭事を御頭といった」
とあり、大御立座神事や廻湛神事といった祭事の執行を担当した人、あるいは祭事そのものをいう。

 この神事(大御立座神事・オオミタテマシ)は、御室神事から続く一連の神事と思われるが、今は神事次第も簡略化しているようで、その古態はよくわからない。

 諏訪大明神絵詞(*印)を元に、諸資料を参照すれば次のようになる。( )内は説明
 *旧歴3月初午の日--神使(オコウ)二人、神事の後、外諏訪郡に発向、神事酉日と同じ
   (外県は遠いため、外県へ廻る神使2人は酉の日の3日前に出立したという)
 *酉の日、神殿神原廊(現前宮十間廊)にして神事饗膳あり。禽獣の高盛り、魚類の調味美を盡す。
   (この饗膳は、古くは神原廊上段に座す大祝の前で行われたが、明治以降は大祝不在のため、それに替わるものとして、大祝の代わりである諏訪大明神の御霊代-諏方正一位南宮法性大明神との御神号らしい-を乗せた神輿を十間廊上段に据え、その前で行われるという)
   (神前に供される神饌は、鹿頭-捕獲した鹿の頭、今は剥製3・4頭を供える-はじめ禽獣魚類が主体で農作物がないことから、狩猟神の遺風を伝えるものともいう)
   (この神饌の主体は鹿頭で「鹿の頭75体を並べた」という。この75という数は、「鹿頭は諸郡の狩人其の他の人々の献上により、自然に75頭の数が揃った」-上宮神事次第大観-というように、定まったものではなかったらしいが、 菅江真澄-1754--1829、江戸後期の旅行家-の紀行文によって75との数が一般に流布したともいう)
 *参籠の面々、所持の榊を献じ、神長とり調べて一束に合わせ、御杖と号して捧ぐ。又、御宝(大鈴という)を錦の袋に納て頸に懸く。
 *内県への神使二人着座、大祝玉鬘を結びて神使の頸に懸く。神長御杖を神使にわたす。小県二人進退此の如し。
 *此の間に神使の鞍馬を引き出し、四人共に庭上に立つ。大祝同じく出でて、大祝言を読みあげ、神使口まねをす。
 *その後御手払い(拍手)す、群衆是に従う。その声しばらくやまず、内外の龍蹄動揺す。
 *静まりて後、神使皆馬に乗りて打立つ。この時神長酒を馬上に捧ぐ、神使各四度是を受く。その後、門を出ず。
  (神使-幼童2人が登場し新しい衣服を着したというが-御衣着・ミソギ神事、これは御室のなかに籠もっていた蛇体の神-ミシャグチ神が、春になって再生し、氏人の面前で幼童に憑依することを意味するという)
   (ここで大祝が玉鬘を神使の首に懸け
-頭に乗せたともいう、神長が御杖を渡すのは、神使である幼童が大祝と同じ生き神・ミシャグチ神となったことを意味し、その後、生き神と化した神使は、玉鬘を首に懸け御杖を背負って馬に乗り、御神酒を頂いて廻湛に出発したという)
 *三道巡礼共に山路をへて往行三日・五日を送る。廻湛と称して村民是を拝す
 *寅の日 国司の使(祭使)が在庁官人を引率して宮中正面の廊に着座、神物を奉り、・・・大祝に対した幣帛を奉る・・・
        此の日小県神使帰参 六人共に会合す
  (各神使たちは出立から内県4日小県5日・外県8日をかけて各地の湛を廻り、寅の日までには全員帰着し廻湛神事は終了したという)

  諏訪大社の神領は大きく3っ(外県・内県・小県)に区分され、それぞれ正月元旦の御占によって選ばれた新しい神使6名(地域毎に2名)が、大祝に代わって各地域の湛(タタエ)と呼ばれる聖所(湛・ミシャグチ社)を騎馬で廻り、各湛に付属する神田を知行する祠官に迎えられてミシャグチ降ろしの神事を行っうもので、
  大祝から授かった玉鬘に象徴される稲霊(ミシャグチ神)を、在地のミシャグチ神に憑け(冬の間衰弱したミシャグチ神に、御室神事によって再生したミシャグチ神を憑けることで活性化したともとれる)、神長が与えた御杖を以て土地神の御霊を鎮め和らげ、その年の豊穣を祈願する神事だという。

  ここでいう県(アガタ)3地域は、内県-上社から湖南・八ケ岳の裾野にかかる辺りで、上社大祝の直轄領が多く、小県-下社を含む湖北一帯、外県-今の上伊都郡を指し、神長以下5神主の経済的基盤だったのだろうという。

 今の御頭祭は、大祝不在のため(明治以降廃止)、神輿渡御を以てそれに替えるなど変形して行われているが、廻湛神事はなくなっている。

[耳裂鹿]
 当社HPには、「昔は75頭の生首が献じられたこともあり、中には必ず耳の裂けた鹿があって高野の耳裂鹿といい・・・」とあるが、菅江眞澄(1754--1829)の紀行文・「すわの海」(1784)に、
 「前宮という所に、十間間口の直会殿がある。そこにはなんと鹿の頭が七十五、真名板(マナイタ)の上に並べられていた。その中に、耳の裂けた鹿がある。この鹿は神様が矛で獲ったものだという」
とあるように、当社の神が狩猟にかかわることを示すという。

 この耳裂鹿について、柳田国男は
 ・諏訪神社の七不思議の一つに、耳割鹿(ミミサケシカ)の話があった。
 ・毎年酉の日の祭に、俗に御俎揃え(オマナイタソロエ)と称する神事が前宮で行われ、本膳が75、酒が75樽、15の俎に75首の鹿の頭を載せて供えられる。
 ・その75首の鹿の頭の中に、必ず、一つだけ左の耳の裂けたのが混じっていて、「かねて神代より贄に当りて、神の矛にかかれる也」ともいって、これだけは別の俎の上に載せた。
 ・(鹿の耳を裂けていることは、その鹿が神によって選別されたことを示す標であって)耳割鹿でなければ最上の御贄となすにならなかったことが窺われる。
として(鹿の耳・昭和2年・大意)、供犠される75頭の鹿頭の中でも、耳の裂けた鹿頭こそが神へ供える最上の御贄だったという。

[湛の木]
 タタエ(湛える)とは、一般には“水などが満ちあふれること”をいうが(広辞苑)、折口信夫は、
 ・諏訪上社の神木に、桜タゝイ木・檀タゝイ木・・・があり(諏訪七本)、タゝイは『湛』の字を宛てる由、尾芝古樟氏は述べられた
 ・此等七本は桜なり柳なりの“神タゝリの木”という義が忘れられたものである
 ・大空より天降る神が、目的(メド)と定めた木に憑りいるのがタゝルである。即ち、示現して居られるのである
 ・神のタゝリ木・タゝリの場には、人相戒めて近づいて神の咎めを蒙るのを避けた
として(幣帛から旗さし物へ・1918)、タタエ(湛)とはタタル(祟る)であって神の示現を意味し、諏訪に7本あったという“湛の木”とは、ミシャグチ神が天降り憑く聖なる樹木を指すという。

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