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高千穂神社
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井
祭神--高千穂皇神・十社大明神
                                                                    2017.03.14参詣

※由緒
 頂いた参詣の栞によれば、
  「当宮は初め高智保皇神(スメガミ)と申しあげて、この地に宮居をさだめられた天孫・瓊々杵尊以下三代の神々をお祀りし、千百余年前の承和10年に従五位下、天安2年には従四位上の位を授けられたことが六国史にはっきりと記されており、日向国で一番高い神社でした。
 神武天皇の御兄・三毛入野命(ミケヌ、書紀ではミケイリノ)が高千穂に帰られ、神籬をたてて日向御三代をお祀りされたのが初めで、その子孫が長く奉仕されので、後に三毛入野命御夫妻と八柱の御子とを配祀して十社大明神(ジッシャダイミョウジン)と申しあげました。後更に多くの神々を合祀しています。
 社殿は11代垂仁天皇の御代の創建といわれ、天慶年間(938--47)、豊後国から大神氏が来て三田井家を興し、十社大明神を高千穂八十八社の総社と崇めました。(以下略)
という。

 当社は高千穂皇神社(タカチホノスメガミ)と十社大明神社(ジッシャダイミョウジン)の2社から成っており、諸資料をまとめると、
*高千穂神社
   神武天皇の兄君・三毛入野命(ミケイリノ)が、東征の途中から高千穂の地に引き返し、神籬(ヒモロギ・仮設祭壇)を設けて祖神である日向三代を祀ったのが始まり
*十社大明神社
   三毛入野命の子孫が、自家の祖神・三毛入野命他9柱を祀ったもので、垂仁天皇の御代に初めて社殿を造営した
となる。

 当社は、記紀にいう皇孫・瓊々杵尊が降臨した日向の高千穂は当地だとするものだが、朝鮮半島に残る桓雄(カンユウ)の降臨神話(朝鮮建国神話)などにみるように、神が高峰に天降って国を開いたという伝承は各地に残るもので(北方系神話)、わが国の天孫降臨神話もその一つという。
 なお桓雄神話とは、天帝の御子・桓雄が天帝から天符印を授かって太伯山頂の神檀樹下に天降って国を開き、その子・檀君が国号を朝鮮と定めたというもの(檀君神話)

 ただ、瓊々杵尊が天降ったという日向の高千穂峰の所在地としては、従来から、当地・日向国臼杵郡と大隅国噌於郡の霧島連山の一峯・高千穂峰の2ヶ所があり、双方が天孫降臨の地は此方と主張しあっているが(下記)、神話上の地名を此処だ彼処だといいあっても無意味なことではある。

◎三毛入野命
 当社の創始者とされる三毛入野命とは、日向三代の三代目・鸕鷀草不合尊(ウガヤフキアヘズ)の3男(神武天皇は4男)で、書紀(神武即位前記)によれば、神武天皇とともに大和へ向かうが(神武東征)、河内国日下から紀伊国熊野に迂回する途上、熊野の沖で暴風にあって船が進まなくなったとき、
 「三毛入野命もまた恨んで、『わが母と姨(オバ)は二人とも海神である。それなのにどうして波を立てて溺れさすのか』といって、波頭を踏んで常世国においでになった」(書紀)
とあり、命が当地に帰った(当地に残る伝承では、高千穂の安寧を心配して途中から帰ったという)というのは、後世になって、当地と天孫降臨の地・高千穂を繋ぐために作られた伝説であろう。
 ただ、神とは姿は隠すものの死ぬことはないとすれば、常世国にわたった後、蘇って当地に帰ったとしても可笑しくはないが、いずれにしても神話的色彩の強い伝承といえる。

 なお、この三毛入野命の後裔が、当社の祭祀に携わった高千穂氏(後の三田井氏)という(下記)

◎創建時期
 ・高千穂神社は、神武天皇の皇兄・三毛入野命が祖神を祀ったのに始まるというが、神武天皇が実在したとすれば(大いに疑問あり)、その時期は(10代崇神が古墳前期-4世紀前半ということからみて)弥生時代と思われ、その時代の遺蹟発掘で祭祀に用いられたとおぼしき土器等が出土しているから、何らかの神マツリが行われたとは思われるが、それがどのようなものかは不明。
 ・栞は神籬(ヒモロギ)を設けてというが、神籬とは神マツリに際して、その都度設けられる臨時的な仮設の祭壇で、祭祀終了後は取り壊されたといわれ、神籬を設けての祭祀が現高千穂神社に繋がるかどうかは不詳。

 ・十社大明神社の創建について、案内には垂仁天皇の御代(4世紀中葉)とあるが、古墳前期(4世紀中葉)といわれる垂仁朝期に今見るような常設の神社があったとは思えず
  また、元正天皇・養老2年説(718)とする資料もあるが、信憑性はあるものの他に傍証となる資料はみえない。

 ただ、当社に対する神階綬叙記録として
 ・続日本後紀・承和10年(843)9月19日条--日向国無位高智保皇神に従五位下を授け奉る
 ・三代実録・天安2年(858)10月22日条---日向国従五位上高智保神に従四位上を授く
があることから、9世紀に当社(高千穂神社)が実在したのは確かなようで、これからみると、当社の創建は早くても8世紀頃とみるべきであろう。

 また、上記綬叙記録には日向国とのみあってその所在地は明記していないが、三代実録の同じ条に「日向国霧島神に従五位下を授く」とあることから、高智保皇神と霧島神は別神であって、ここでいう高智保皇神(高智保神)は臼杵郡の当社とみて間違いはなかろう。
 ただ、日向三代という皇祖神を祀った神社にしては神階が低く、また延喜式神名帳(927)にも列しておらず(当社と同じく日向三代を祀る鹿児島の霧島神社は式内社に列している)、朝廷からはさほど重要視されていなかったと思われる。

◎祭祀氏族
 当社の祭祀氏族は三田井氏というが、その起こりについて、高千穂古今治乱記(1802・江戸後期)に、
  「抑も三田井の家系を尋ぬるに、地神・鸕鷀草葺不合尊の御子・太郎の尊の御後胤なり。・・・6代目に男子なく御子孫是まで絶えざりしが、此の時に至って尊き御血脈絶えぬること惜しい哉。爰に豊後の国大神大太惟基(オオガダイタコレモト)の一男を貰い受け、育て上げ嫡男となし、家系相続あって高千穂太郎政次(タカチホタロウマサツグ)とこそ申しける」
とあるという(ネット資料、ただ、古今治乱記は江戸後期の史書であり信憑度は低いという)

 ここでは、三田井氏はウガヤフキアヘズの御子・太郎尊の後裔というが、この太郎命とは、十社大明神の一として祀られているミケイリノ命の御子・太郎命のことかと思われ、とすれば、三田井氏はミケイリノ命の後裔という通説と整合する(ただ姓氏録には高千穂氏・三田井氏の名は見えず、傍証となる資料はない)

 古今治乱記で高千穂氏の始祖とされる太郎政次が何時頃の人かははっきりしないが、姓氏類別大観(ネット資料)にみる豊後大神氏の家系図によれば、
 ・大神惟基の長子に政次なる人物があり、そこに[高千穂]と注記されていることから、政次から高千穂氏が始まったのは世に認められていた系譜であろう
 ・また、惟基の4代前の大神良臣について、三代実録・仁和2年(886・平安前期)正月16日条の任官記録のなかに、「外従五位下行左大史大神朝臣良臣(オオミワノアソンヨシオミ)を肥後介と為し」とあることから
 ・その4代後の惟基及びその子・政次は平安中期頃の人物と思われる(古今治乱記には950年頃とあるというが未確認)
 (ネット資料によれば、「良臣は仁和2年に豊後介に任じられて当地に入り、その子孫が当地に根付いた」というが、実録の記録では肥後介であり豊後介ではない)

 当地に高千穂氏なる一族が居たことは、源頼朝が全国に守護・地頭を置いたとき(1185)、高千穂の地頭として在地の豪族・高千穂氏を任じていることから確かなことで、その後、一族が広がったことから惣領家が三田井と改姓したといわれ、その時期は鎌倉後期ではないかという(13世紀末頃か、なお南北朝時代の資料には、南朝方の武将として三田井氏の名があるという)

 高千穂氏の始祖が豊後大神氏から入った高千穂太郎政次というのは略確からしいが、政次入り婿以前のミケイリノの子孫が何と名乗っていたかははっきりしない。

※祭神
 参詣の栞には次のようにある。
  ・高千穂皇神(タカチホスメガミ) 
    天津彦根火瓊々杵尊(アマツヒコネ ホノニニギ)・木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
    彦火火出見尊(ヒコホホデミ)・豊玉姫命(トヨタマヒメ)
    彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケ ウガヤフキアヘズ)・玉依姫命(タマヨリヒメ)
  ・十社大明神
    三毛入野命(古事記:ミケイリヌ、書紀:ミケイリノ)・鵜目姫命(ウメヒメ)
    御子 太郎命・二郎命・三郎命・畝見命(ウネミ)・照野命・大戸命・霊社命(レイシャ)・淺良部命(アサベ)
  ・合祀神
    事勝国勝長狭神(コトカツクニカツナガサ、天孫・瓊々杵命に国を譲った神)
    ・猿田彦命(サルタヒコ、降臨する瓊々杵命を道案内した神)・天鈿女命(アメノウズメ)
    ・稲飯命(イナヒ、神武の兄)・五瀬命(イツセ、神武の兄)・神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ、神武天皇)
    ・大年神(オオトシ、穀物神)

*高千穂皇神(高智保皇神)
  瓊々杵尊以下日向三代の神々とその妃の総称で、三毛入野命が神籬を設けて初めてこれを祀ったという。

*十社大明神
  三毛入野命とその妃・鵜目姫命及び御子神8柱の総称。
 三毛入野命の子孫(高千穂氏、後に三田井と改姓)がその祖神を祀ったものだが、三毛入野命とその妃は分かるとしても太郎命以下の神々が如何なる神々かは不明。(ただ、高千穂氏のことを高千穂太郎氏ともいうから、その始祖が太郎神かもしれない)
 熊野の沖から常世国に行ったという三毛入野命に妻子があったとは可笑しな話でまた御子の名に太郎・二郎・三郎などとあること、神名に“大明神”とあることをみれば、これらの神名は神仏習合が進んだ奈良時代以降に作られた神名かと思われる。

*合祀神
  天孫降臨にかかわる神々(事勝国勝長狭神・猿田彦大神・天鈿女尊)と三毛入野命の兄弟神(神武天皇・稲飯命・五瀬命)であり、本殿内に祀られていると思われるが詳細は不明。
  ただ、素戔鳴尊の御子である大年神が含まれる理由は不明。穀物神として別途に合祀されたのかもしれない。

 なお、当社祭神については、次の異伝があるという(ネット資料)
*八幡宇佐宮御託宣集(1313)
   高千穂明神は神武天皇の御子・神八井耳命の別名で、阿蘇大明神の兄神

 ここでいう神八井耳命(カムヤイミミ)とは、神武天皇と皇后・伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)との間に生まれた3皇子の次男で、皇位を弟・神渟川耳尊(カムヌナカワミミ・綏靖天皇)に譲り、己は神事を司って天皇を助けたといわれ、多臣・火君・大分君・阿蘇君等19氏族の祖という(古事記)

 阿蘇大明神とは、阿蘇氏系譜によれば神八井耳命の御子・健磐龍命(タケイワタツ・神武の孫)のことで、命を主祭神とする阿蘇神社の由緒略記には、
  「健磐龍命は初代神武天皇の勅命によって九州鎮護の大任に当たられた。命は紀元76年春2月に阿蘇に下られ、草部吉見神(神八井耳命)の娘・阿蘇都比咩を娶り、矢を放って居を定められ、四方統治の大計を樹て、阿蘇の国土開発を始められた。
 当時、大湖水であった阿蘇火山湖を立野火口瀬より疎通し、阿蘇谷の内に美田を開拓せされ、住民に農耕を教えられた」
とある。

 神八井耳命は当社祭神の一である三毛入野命の甥にあたり、託宣集が高千穂明神を神八井耳命とする理由は不明。
 また、神八井耳命は阿蘇大明神(健磐龍命)の父であって兄神ではない。父神の誤記か。

*平家物語(緒環-オダマキ段)
   「豊後国片山里に住む女の所へ夜な夜な男が通ってきて身ごもったので、母の指図で男の狩衣に糸を付けた針を刺し、明朝その跡を辿ると、男の正体は日向国との国境にある祖母岳(ウバガタケ)の岩屋に住む大蛇であった(三輪の苧環神話と同じ)
 姫の呼びかけに応じて姿をあらわした大蛇の首には姫が刺した針が残り、大蛇は「生まれる子は古今無双の勇者になるであろう」といって姿を隠した。
 この大蛇は
   「日向で崇められ給へる高知保の明神の御神体」
であって、生まれた御子・あかがり大夫は豊後の緒方氏の祖である」(大意)

 ここでいう“あかがり大夫”とは、成長した子の手足にアカギレが絶えなかったことからの渾名で、通説では大神大太惟基のことといわれ、その子・政次が当社の祭祀氏族・高千穂氏(三田井氏)の始祖であることから、家系に神秘性を持たせるために、その遠祖を祖母山の大蛇すなわち高知保明神に求めた伝承であろう。
 (同じ昔話が祖母岳にも残るが、そこでの大蛇は祖母岳大明神の化身であって高千穂明神ではない、ただ、高千穂峰を祖母岳に比定すれば同じことといえる)

※社殿等
 当社は、高千穂町市街地の西に迫る低い丘の麓に鎮座する。
 県道203号線の脇に立つ大鳥居を入り、杉の大木に挟まれた表参道を少し進んだ先の石段(30段ほど)の上が境内。

 境内正面中央に、唐破風・千鳥破風をもつ拝殿(入母屋造か)が建つ。拝殿の後方から廊下が左右に伸び、その端部に鍵型になって小殿が連なり、鳥が翼を広げたような特異な姿をしている(拝殿は頭部に当たる)

 拝殿とそれに続く弊殿の後に近接して本殿(五間社流造)が建ち、傍らの案内には、
  「本殿 国指定重要文化財
       安永7年(1778)建替
  九州南部を代表する大規模な五間社本格建築で、地方色も健著に有している」
と簡単にあるのみで、詳細不明。

 瑞垣に囲まれていて詳細は見えないが、資料によれば、当社は高千穂皇神を祀る一の御殿と十社大明神を祀る二の御殿から成るというから、本殿内部には二つの神殿が並置されているのかもしれない(神職によれば、高智保皇神と十社大明神は別々に祀られているという)

 
高千穂神社・大鳥居
 
同・参道石段
 
同・拝殿正面
 
同・拝殿側面
 
同・本殿

◎境内社
 境内左手に、「荒立神社四皇子神社」(国指定重要文化財)との合祀殿が建ち、傍らの案内には、
  「荒立神社の御祭神は猿田彦大神と天鈿女命で、交通安全・縁結び・芸能の神様として信仰されている。
   四皇子神社は神武天皇とその御兄弟四柱の神(五瀬命・稲氷命・三毛入野命・佐野命-神武天皇)が祭られ、日本建国に功績を残された神々です」
とある。

 荒立神社は天孫降臨にかかわる猿田彦・天鈿女の二神を祀るものだろうが、その神徳は所謂道祖神のそれに類似している。
 資料(Wikipedia)によれば、明治末期の神社統合政策によって高千穂村の村社であったものを合祀したもので、その時、村社にあった神像4躰(町指定有形文化財)が当社に移されたという。
 今、荒立神社は元の地に複社している(当社の東北方)

 四皇子神社は神武4兄弟を祀るものだが、その創祀由来・時期等は不明。

 また、境内右手に大きな建物があり神楽殿という。毎年11月22・23日に催される高千穂神楽催行の場であろう。


境内社・荒立社・四皇子社合祀殿 
 
神楽殿 

 なおWikipediaによれば、境内には稲荷社・門守社・八坂神社・御霊社・羽居高天神・比波理天神・鎮守社などがあるというが、参詣時、それらの小社には気づかなかった。

◎三毛入野命の鬼八退治

 本殿右奥の脇障子に「三毛入野命の鬼八(キハチ)退治」を浮彫にした彫像がある(右写真)
 傍らの案内には
  「当宮の御祭神・三毛入野命が霜宮鬼八荒神を退治なされたものと伝えられます。
 荒振神(アラブルカミ)どもを平らげ、農業や産業の道を拓かれた三毛入野命は、厄払いや産業の神としても深い信仰があり、鬼八退治にちなんた猪懸祭は12月3日に行われ、神道祭祀の原型をとどめた故事として有名です。
 鬼八塚は町内に三ヶ所あり、そのなかの首塚は現在ホテル神州の東北にあります」
とある。

 この鬼八伝承には幾つかのバリエーションがあるようだが、その一つ、高千穂峡で入手した「宮崎の神話伝承」(2007)によれば、
 ・三毛入野命は東征に参加されたが、高千穂の安寧を心配して途中から帰ってこられた
 ・その頃の高千穂には、鬼八という魔性の者がいて思いのままに振る舞い
 ・高千穂の祖母嶽明神の娘・稲穂比売の子・鵜ノ目姫(またの名・阿佐羅姫)という美しい姫を無理やりに攫って鬼ケ岩屋というところに隠していた

 ・ある時、ミケイリノが御塩井の谷を歩いておられると、水面に美しい姫の姿が映っているのに気づかれ、訳を聞くと、姫は鬼八に連れてこられたと話し「助けて欲しい」と頼んだ
 ・ミケイリノは、田部左大臣・冨高右大臣ら家臣等を引き連れて退治に向かわれた
 ・鬼八は妖術をつかって高千穂から阿蘇・肥後へと逃げ回りながら抵抗したため容易に討つことができなかったが、命は神馬を駆使して追い詰め、左大臣・右大臣と取っ組みあいになったところを、剣を振るって斬り殺した
 ・鬼八の体は埋められたが、一夜のうちに生き返るので、その身体を三つに切り離して埋めたところ、さすがの鬼八も生き返ることができなかった。それで鬼八の墓は三つあるという
 ・それでも、鬼八の霊は時々目を覚まして、地下で唸り声を上げ、高千穂の里に霜をふらせて里人を困らせたので、里人は人身御供を差し出してこれを鎮め祀った
 ・戦国時代になって、岩井川領主・甲斐宗摂の命により人身御供の代わりに猪を供えるようになり、それ以後、この祭を「ししかけ祭り」(猪々掛祭)と呼ぶようになった
という。

 なお、当社の縁起書・十社旭大明神記(1189)によれば、鬼八を討伐したのは神武天皇の皇子・正市伊(読み不明)で、その後、正市伊とその子孫を十社大明神として祀ったというが、神武の御子に正市伊なる皇子はみえない。

 在地の神々が新しい神の登場によって悪神・邪神とされて排斥されたという伝承は、岡山・吉備津神社の宇羅伝説にみるように各地に残っており、この鬼八伝説もその一つであって、その実態は、田畑を荒らす自然現象(特に霜害)を鬼八の仕業としてこれを退治したもので、その霊を鎮めるために始まったのが当神社の猪々掛祭(シシカケサイ・12月3日)の原型であろう。
 なお、猪々掛祭とは、神前に猪を供え、両手に持った笹を左右に振るだけの簡単な動作で、高千穂神楽の原型ともいう。

◎夫婦杉
 拝殿の左前に聳える2本の大杉で、傍らの案内には
  「この二本の杉は夫婦杉と申しまして、根元が一つになって如何なる事があっても別れられない形を現しております。
  この廻りを手を繋いで三回廻ると、夫婦友人仲睦まじく家内安全で子孫は繁昌の三つの願いが叶うと伝わっております」
とある。
 2本の杉は近接して聳えてはいるが、根元が一本とはなっていない。各地の神社等にある雙樹伝承の一つであろう。

◎鉄造狛犬一対(国指定重要文化財・1971指定)
 拝殿から左右に伸びる廊下に置かれているため細かいところは見えないが、傍らの案内には
  「鎌倉時代、幕府から寄進されたものと伝えられ(源頼朝寄進という)、鎌倉時代の雄渾な気風が漂っています。
   阿像(右):54.7cm  吽像(左):62.6cm」
とある。

◎鎮石(シズメイシ)
 境内右奥にある囲いのなかにある丸石で、案内には
  「鎮石の由来  第11代垂仁天皇の勅令により、わが国で始めて伊勢神宮と当高千穂神社が創建された際に用いられた鎮石と伝えられます」
とある。
 表面がやや平たいことから、古代の掘立柱の基礎石かとも思われるが具体的な用途は不明で、当社創建時に云々というのは後世の付会であろう。
 それにしても、当社創建を伊勢神宮創建と同時というのはおこがましい。


夫婦杉 
 
鉄造狛犬(阿像・国指定重要文化財)
 
鎮 石

【追記】 高千穂峰
 当社は天孫・瓊々杵尊の降臨地(高千穂峰-当社の北約14kmの祖母山-H=1756mに比定、南西方の二上山とする説もある)が当地であるとして、皇孫・瓊々杵命以下の日向三代を主祭神として祀ったものだが、記紀によれば、
*古事記
 ・筑紫の日向(ヒムカ)の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ・槵触岳)
*書紀(9段)
 ・本文 --日向の襲(ソ)の高千穂の峰
 ・一書1--筑紫の日向の高千穂の槵触峰
 ・一書2--日向の槵日(クシヒ)の高千穂の峰
 ・一書4--日向の襲の高千穂の槵日の二上峰
 ・一書6--日向の襲の高千穂の添(ソホリ)の山の峯
とあり、“日向の高千穂”との表現は共通しているが、細部では少しずつ異なっている。

 これについて、松前健氏は
  「山の名が少しずつ異なっていることは、ひょっとすると、元々は神話上の架空の地名ではなかったかと思わせる節々があるが、新唐書(1060)・日本伝に『初王は天御中主と号す。彦瀲(ヒコナギサ)に至るおよそ32世、みな尊をもって号となし、筑紫城におる』とあることから、後世には、少なくとも筑紫島、即ち九州の何処かの山を指すように信じられてきた」
という(日向神話の形成-日本神話の形成・1970)

 当地を瓊々杵尊の天降り先とするのは、日向を日向国として、そこにある高千穂峰に天降ったとするものだが、日向という地名については、従来から2説があり、本居宣長は次のようにいっている。
  「日向は二つの義あるべし。一つは比牟加比乃(ヒムカヒノ)と訓て、日の向ふ地(トコロ)を云るなり。
   今ひとつは比牟加乃(ヒムカノ)と訓て、即日向の国のことなるべし」(古事記伝巻6・1798)

 ここでいう“日の向かう地”とは、“朝日夕日が真っ直ぐに照らす聖地”という意味の普通名詞であり、古代人は、その地を聖なる儀礼の地として選び、それを日向・ヒムカと呼んだのだとするもので、その意味では、日向の地とは南九州の日向国のみではなく、他に数多くの日向の地があってもおかしくはない。

 これに関連して、日向国風土記(逸文・713頃)・日向の国号条に
  「纏向の日代の宮に天下を治められた景行天皇の世に、児湯郡に行幸されて丹裳の小野にお遊びになり、左右の人に『この国の地形は真っ直ぐ扶桑(東方)の方に向かっている。日向(ヒムカ)と名付けるが良い』と仰せになった」
とあるように、当地を日向国と呼ぶのは東方に向かって開けた国(朝日が真っ直ぐに差す国)だからという。

 これに対して、
 ・当時の南九州は未開・荒蕪の地で、隼人・熊襲などが盤踞する土地であったことから
 ・皇孫が、そうした荒蕪の国に天降るのはおかしい
として、文化が進んでいた北九州に天降ったとして、筑前・糸島半島の高祖山などに比定する説もあるという(松前前掲書)

 今ひとつは、日向国(現宮崎県)という特定の地域を指すとするもので、日向国風土記に
  「臼杵郡の内、知鋪(チホ)の郷。天津彦彦火瓊々杵尊が天の磐座を離れ、天の八重雲を押しわけて道別道別て(チワキチワキテ・威風堂々と)日向の高千穂の二上の峰に天降りなされた。
 時に天は暗く昼夜の別もなかったが、大鉗(オオクワ)・小鉗という二人の土蜘蛛の建言に従い、命が千穂の稲を揉んで投げ散らし給うたところ、たちどころに天は晴れ日月は照り輝いた。それで高千穂の二上の峰といった。後の人は改めて知鋪と名付けた」
とあるように、日向の地とは日向国の臼杵郡知鋪郷を指し、この地に瓊々杵尊は天降ったという。
 なお和名抄によれば、臼杵郡には氷上・智保(知鋪)・英多・列多の4郷があり、智保郷は現高千穂町一帯に比定されるという。
 (高千穂が知鋪に変わったのは、和銅6年・713-5月の“郡郷の名称は、好き字を選んで付けよ”との勅令によるものだろうという)

 ただ、古代の日向国は南九州全体(現宮崎県・鹿児島県)を占めていたといわれ、そこから大宝2年(702)に薩摩国が、和銅6年(713)に大隅国が分離されているから、記紀にいう“筑紫の日向”という記述だけでは臼杵郡の高千穂町と特定はできない。

 また、高千穂峰についても古来から2説があり、本居宣長が
  「此の山の事、二処に有りて、いとまぎらわし。
  其の一は、今も高千穂の嶽と云ひて、かの風土記に見えたる臼杵郡なる是なり。和名抄にも日向国臼杵郡智保の郷あり。
   此の山は、日向国の北の極にて、豊後国の堺に近し。其の辺りを今も高千穂荘と云とぞ。
  今一つは、諸県郡(モロカタノコホリ)にありて霧島山と云ふ。神名式に日向国諸県郡霧嶋神社とあり。
   此の山は、日向国の南の極(ハテ)にて大隅国の堺なり。峯二つあり。西なる峯は大隅国に属せり
  皇孫の命の天降坐し御跡は何れならむ、定めがたし」(古事記伝・巻15)
というように、宮崎県臼杵郡の高千穂峰(当地、以下「臼杵高千穂」という)と、宮崎・鹿児島両県の県境に連なる霧島連山の一・高千穂峰(H=1,574m、以下「霧島高千穂」という)の2ヶ所が候補地となっている。

 この2ヶ所のうち皇孫が天降られた高千穂峰がどちらかということについては従来から諸説があるが、本居宣長は
  「天孫が初めに坐しし高千穂宮とは笠沙御崎なる宮なるべし、
  又、御陵も高千穂山の西に在りとあれば、笠沙御崎なるとは別にして、大隅国にて高千穂山に近き処とこそ聞こえたれ。
  さて此の高千穂は霧島山を云なり」
として、瓊々杵命が最初に宮を営んだ地が薩摩国の笠沙御崎(カササノミサキ、鹿児島県南さつま市に比定)とされること、その御陵(可愛山陵-エノミササギ・鹿児島県薩摩川内市に比定)も大隅国の高千穂峯に近いところとされることなどを根拠に、霧島高千穂説を説きながらも、
  「皇孫命初めて天降坐しし時、先ず二つの内の一方の高千穂峰に下り給ひて、それより今一方の高千穂に移りしなるべし。
  その次第は、何れが先かは知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留り給へりし路のついでを以て思へば、初めに下り給ひしは臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧島山に遷り坐して、次いで其山を下りて空国を通りて笠沙御崎に至りしなるべし」(古事記伝巻17)
として、天孫は先ず臼杵の高千穂峰に天降り、そこから霧島の高千穂峰に遷り、さらに笠沙御崎に遷って宮を営んだ、という折衷案を提示している。


 以下、諸資料を参考にしながら論点をまとめると以下のようになる。
◎風土記にみる高千穂
*日向国風土記(逸文)の知鋪郷条
   「天津彦彦火瓊々杵尊が天の磐座を離れ、天の八重雲を押しわけて、稜威の道別道別(イツノチワキチワキ・威風堂々と)日向の高千穂の二上(フタガミ)の峰に天降りなされた。
 時に天は暗く夜昼もわかれず人は通るすべもなく、物の色も判然としなかった。ここに土蜘蛛で名を大鉗(オオクワ)・小鉗なるものが二人いて、皇孫の尊に申しあげるに、『あなた様のお手をもって、稲を千穂を抜いて籾とし、四方に投げ散らしなさるならば、かならず明るくなるでしょう』といった。
 そこで尊が大鉗らがもうしたように千穂の稲をもんで籾として投げ散らかし給ふたので、たちどころに天は晴れ日月は照り輝いた。
 それで高千穂の二上の峰といった。後の人は改めて知鋪と名付けた」

 ここにいう知鋪郷とは現西臼杵郡高千穂町一帯を指すとされ、喜多貞吉氏(1871--1939)が、
  「風土記編纂当時、日向在地の人々あるいは京洛の当局者や学者の間では、天孫が降った高千穂峰は日向国臼杵郡の高千穂峰であるとの認識があったことを示している」
というように(日向国史・昭和4年)、臼杵高千穂説の有力な根拠として認められている。
 (ただ、日向国史は記紀神話を絶対とした戦前の書であり、その分割り引いて読む必要がある)

 今、高千穂町に知鋪に類する地名はないが、高千穂峡周辺一帯には“千穂”という表示が散見される。

*薩摩国風土記(逸文)・竹屋(タカヤ)村条
  「皇祖瓊々杵尊が、日向国噌於郡(ソオ)・高千穂の槵生(クシフ)の峰に天降りになって、ここから薩摩国の阿多郡(アタ)の竹屋村に移り給ふて、土地の人・竹屋守の娘を召して、その腹に二人の男子をおもうけになったとき、その所の竹を刀に作って臍の緒(ヘソノオ)を切り給うた。その竹は今もあるといっている」

 ここでいう日向国噌於郡とは鹿児島県大隅半島北部一帯(鹿島市・曽於市・霧島市一帯)を指す古称で、霧島連山の高千穂峰もこの郡に属することから、霧島高千穂説の有力な根拠とされる(書紀にいう“襲の高千穂”)

 ただ、風土記には日向国とあることから、喜多氏は、続日本紀・和銅6年(713)4月3日条に、
  「日向国から肝坏・噌於・大隅・姶羅の四郡を割いて、初めて大隅国を設けた」
とあり、その一月後の同年5月2日に風土記編纂の勅令が出されたことから、風土記を編纂した国司らがこれを知らないはずはないとして、
  「風土記に日向国噌於郡と記したのは、後年になって、地理の実際に暗い中央人士が軽率に記述したものであろう」
として、これを以て霧島高千穂説の根拠とすることを否定する説もある。

 しかし、書紀9段・一書3には、瓊々杵尊の3皇子誕生の折、「竹刀で御子の臍の緒を切った。その捨てた竹刀が、後に竹林となった。そこでその所を名付けて竹屋という」
とあり、書紀編纂時には、薩摩国阿多郡・竹屋の地で瓊々杵尊の皇子の臍の緒を竹の刀で切ったという伝承が中央まで知られていたことを示唆し、風土記にいう日向国は大隅国とすべきということのみから、霧島高千穂説を否定することには疑問がある。

◎記紀にみる瓊々杵尊関連地名
 天降った後の瓊々杵尊の行動について、書紀には
 ・本文--日向の襲(ソ)の高千穂峯に降られ、槵日(クシヒ)の二上の天の梯子から、浮島の平らな所にお立ちになって、痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて、吾田(アタ)の長屋の笠沙崎(カササノミサキ)にお着きになった
 ・一書2--日向の槵日(クシヒ)の高千穂峯に降りられて、膂宍(ソシシ)の胸副国(ムナソウクニ・痩せた不毛の地)を丘続きに求め歩いて、浮渚在平地(ウキジマノタイラ)に立たれて・・・
 ・一書4--日向の襲の高千穂の枙日(クシヒ)の二上山の天の浮橋に至り、ウキジマノタイラにお立ちなって、膂宍の空国(ムナクニ)を丘続きに求め歩いて、吾田の長屋の笠沙の崎に着かれた
 ・一書6--日向の襲の高千穂の添(ソホリ)の山峰に降りられて、吾田の笠沙の御崎においでになり、そして遂に長島の竹屋(タカヤ)に登られた
とある。
 なお古事記には、「瓊々杵尊は『筑紫の日向の高千穂の槵振岳(クシフルタケ)は韓国(カニクニ)に向ひ、笠沙の御前(ミサキ)に真来通(マキトオホ)りて、云々』と詔りたまわり」とあるのみでその行動は詳記していない。

*襲の高千穂
  書紀には瓊々杵尊が天降った所を“襲の高千穂”とする記述が多いが、この襲とは大隅国噌於郡を指すというのが有力で、これを以て霧島高千穂説の有力な根拠という。
 霧島高千穂説で瓊々杵尊が天降ったとされるのは、宮崎県と鹿児島県の県境(大隅半島北部)に跨がる高千穂山(1,574m、鹿児島県霧島市・宮崎県小林市・高島町に跨がる、山頂は小林市)を指すが、この山は所謂・霧島連山の一峯(火山)で、山頂に東西二つの峯をもつことから、書記がいう二上山にも該当するという。

 これについて松前健氏は、
  「ソとは明白に南九州の地名で、景行紀に見える襲の国のことである(景行紀・熊襲討伐の条に「13年夏5月、ことごとく襲の国を平らげられた」とある)。古くは日向国に属し、のち和銅6年4月に日向から分立して大隅国の一郡となり、噌於郡と呼ばれた。
 日向国風土記(上記薩摩国風土記)逸文の記事内容が、どのくらい古いものかは不明であるが、ある時代に高千穂が噌於郡にありと意識されていたことは確かで、襲国は、古くは日向国のソ(襲・曾)、またはソオ(噌於)と呼ばれていたのである」
という(日本神話の形成・1970)

 霧島の高千穂山は火山という(休火山か)。古代人にとっての火山は、神が坐す聖地であり、噴火は神の怒りと解されていた。その意味では、火山である高千穂山(続日本紀・延暦7年-788-7月4日条に、太宰府から「去る3月4日、大隅国噌於郡曾乃峯の頂上辺りで、火災が盛んに吹き上がった」との報告があったとある)を邇々芸尊降臨の地と解することは自然であろう。

  これに対して喜多貞吉氏は
  「“ソ”とは“背”の義なるべく、人の背を“ソビラ”(背平)と云ひ、山陰を“ソトモ”(背面)といふ。ソは蓋し“山の背に当たれるが如き高地”の称なるべし。されば古語に襲の高千穂といふもの、之を阿蘇の高千穂の義と解しても、意亦通ずべきなり」
として、大隅半島に限られるべきではなく、奈良時代には高千穂峯は臼杵郡にありとされていたという。
 また加えて、
  「今西臼杵高千穂の北に祖母の高峯あり、豊後に跨がる。高千穂峯の名、書紀一書に“高千穂の添山(ソホリヤマ)”ともある。“添”は蓋し“祖母”の古称を伝えたものにあらざるか」
として、臼杵の高千穂峯とは祖母山(1,756m、宮崎県高千穂町・大分県豊後大野市・竹田市に跨がる)ではないかという(喜多前掲書)

 なお松前健氏は、この貴田説を紹介したうえで、
  「高千穂と呼ばれた地は、和名抄を見ると、古く肥後国阿蘇郡知保郡・同郡南郷谷の南・上益城郡にもあった。鎌倉時代の高千穂荘は日向から広く肥後・豊前の境域に及んでいたらしい。高千穂は決して一地点のみには限らず、ソの国もかつては大隅国の一郡ばかりでなく、のちの日向国の全域をも含めていなかったとはいえない。
 ひっとすると、皇化が南九州に及ぶに従って、“背の国”の領域も次第に押し詰められていったのかもしれない。そうすれば襲の高千穂峯も二説あってもよいはずである。この名は、おそらく非皇化地域・異族の国の襲国の高山を指す語であったのであろう」
という(前掲書)

*吾田(アタ)・笠沙御崎(カササノミサキ)・長屋の竹島(タカシマ)
 記紀共に、瓊々杵尊は最終的に吾田の笠沙御崎に至ったという。
 この笠沙御崎について、本居宣長は
  「此の地は、書紀に吾田の長屋の笠沙の碕とも吾田の笠沙の御碕ともある。吾田は薩摩国阿多郡阿多なり。又長屋之竹嶋ともある。竹島も孝徳紀に“薩摩之曲(クマ)竹嶋之門”とあるに依るに、長屋も薩摩なることしるければ、笠沙も彼国なるべし。[今も薩摩の川辺郡に竹島といふ処ありと云り]
 [薩摩の国人云々、今本国の阿多郷に加世田御碕といふ処あり。これ笠沙御碕なり。其処に続きて宮崎といふ処もあり。京之原といふ処もあり。其の辺りに此の地に生まれた三柱の皇子を祀る竹屋明神といへり]」
として、笠沙御崎・吾田・長屋の竹島は薩摩国にあったと云い、加えて
 [書紀の口決に、笠沙碕は宮崎也と云るは、おしあて(推測)なるべし。又日向国那珂郡に日御碕といふ処あり。これ笠沙崎なりと云も、おぼつかなし]
として笠沙御崎が宮崎にあるとする説を否定している(古事記伝15巻、[ ]内は原注)
 (孝徳紀4年7月条には、「唐への使者・高田根麻呂らが薩摩の曲と竹島の間で船が衝突して沈没して死んだ。ただ5人だけが胸を板に託して竹島に流れ着いた」とある)

 宣長が吾田(阿多とも記す)の地という薩摩国阿多郡阿多郷とは、薩摩半島西岸南部に位置した郡郷で(鹿児島県南さつま市一帯)、阿多隼人(アタハヤト、薩摩隼人ともいう)の根拠地といわれる地だが、古くは薩摩半島の中心地であったといわれ、大和朝廷は8世紀以前から進出していたようで、大宝2年(702)に置かれた唱更国(ハヤヒトノクニ)が薩摩国の前身という(8世紀以降に薩摩国と改称)

 また、笠沙御崎とは、阿多郡に南接する川辺郡にある野間半島(古くは阿多郡に属したという、南さつま市笠沙町)に比定され、長屋の竹屋は和名抄には阿多郡(後に川辺郡)鷹屋の辺りとあり、野間半島基部に位置する南さつま市大浦町に比定されるという
 なお、笠沙町の東に隣接する加世田町に長屋山(513m)との小山があるが、半島中央部の山地にあり、これを長屋とするのは無理であろう。

 これに対して喜多氏は、笠沙御崎を、日向国児湯郡妻郷(現宮崎県西都市妻)の西都原地方に求め、それは笠沙大略記(1818--30)との江戸後期の資料によるという。
 しかし笠沙御崎は岬とあるように海岸部にあたと思われ、内陸部にある西都原地方をあてるのには無理がある。

 ただ、西都市南方の日南市鵜戸には鸕鷀草葺不合尊誕生の地という伝承があり、同尊を祭神とする鵜戸神社があるように、宮崎県の東部海岸一帯には日向三代に関する伝承・遺構が散在するが、これらを以て臼杵高千穂説の根拠とするには無理がある。
 なお、妻の北方にある西都原古墳群内にある男狭穂塚(オサホツカ・L=約175mの帆立型古墳)が邇々芸尊の、女狭穂塚(メサホツカ・L=約180mの前方後方墳)が木花咲耶姫(神吾田鹿葦津姫)の陵墓参考地として指定されているが(明治28年)、この両古墳は5世紀前半中頃と推定されていることから時代的に整合しない。

 なお、吾田の地を、高千穂地方から東流する五瀬川河口部右岸に位置した臼杵郡英多郡(アガタ)に比定する説があり、現延岡市一帯に比定され、市内にある阿賀多町との町名はその痕跡で、同町の南方にある愛宕山は古くは笠沙山と称したという。
 これは、吾田を“吾の田→ワガタ→アガタ”と読んでのことらしいが、アガタとは古代の朝廷直轄地・県のことでもあり、県が佳字変換によって英多とされたともとれ、この地を記紀にいう吾田とする根拠は不詳。

*日向三代と吾田(阿多)
 ・古事記に、「邇々芸尊が笠沙御崎で麗しき美人(オトメ)に遇ひたまひき。『誰の女(ムスメ)ぞ』と問ひたまへば、『大山津見の女、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、またの名は木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と謂ふ』と申しきとあり、尊はこの比売を娶って3柱の御子が生まれた
 ・古事記に、神武天皇が「日向に坐しし時に、阿多の小椅君(オバシノキミ)の妹、名は阿比良比売(アヒラヒメ)を娶りて生みし子・・・」
とあるが、これら妃名のアタとは阿多郡阿多地方一帯を指しており、阿多郡出身の女性と思われること(阿多隼人出身)
 ・瓊々杵尊の御子・火火出見尊にかかわる山幸海幸神話の中に、海神の鱗の宮や干満珠が出てくるが、これも九州の海岸地方に伝わる伝承らしい特徴をもち、これも隼人の昔話と結びついていること
 など、天孫降臨説話と隼人族との関係は深く、松前健氏は
 「ホノニニギの物語の骨子は、先ず南九州のソの山に天降り、隼人の住む未開な蕃地(ソシジノムナクニ)を通って、その中心地であるアタ(阿多)の地で、その隼人の首長に国土を献上され、ここを宮地と定め、当地の隼人出身の女性と婚し御子を生んだとなる。
 天孫降臨神話は、実は隼人族と結びついているのである」
という(前掲書)

 以上、臼杵高千穂説・霧島高千穂説にかかわって管見した資料を並べたみたが、霧島説がやや有利かとは思えるものの確証はなく、高千穂峯の所在地は何れとも判断しがたい。

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