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北河内(茨田郡)の式内社/高瀬神社
守口市馬場町
祭神--天御中主命
                                                             2009.4.13参詣

 延喜式・神名帳(927撰上)の河内国茨田郡五座のうち、『高瀬神社』とある式内社。

 京阪電鉄・土井駅の東南約300m、駅前から南へ向かう商店街が大通りへ抜ける角にある鎮座する。神社の先は“市場前ロータリー”。
 古く、この辺りは高瀬川と旧大和川が運ぶ土砂が堆積した低台地状の土地だったといわれ、大阪府全志(大正11年1922)には、
 「本地は古来茨田郡に属し、もと高瀬郷内の小高瀬荘に属し、世木村・大枝村・馬場村を明治18年(1878)に合併して高瀬村と称す。旧郷名は和名抄に“茨田郡高瀬”とあることから“高瀬の里”と、里を巡る川を“高瀬川”・“高瀬の淀”と呼び、古来から歌枕として名高い」(大意)
とある。
 また当地にからんで、播磨国風土記・賀古郡条に
 「景行天皇が印南別嬢(イナミノワキイラツメ)を妻問いされたとき、摂津国の高瀬の渡し(高瀬の済-ワタリ)まできて、川を渡ろうとして渡し守を頼んだ。すると渡守の紀伊国人・小玉(オダマ)は、『私は天皇の贄人(ニエビト・家来)ではない。渡して欲しかったら渡し賃を賜りたい』と云った。天皇は頭につけていた弟縵(オトカズラ)を与えて、川を渡った」(大意)
との説話がある。
 古く、旧淀川東岸にあった摂津国高瀬の渡しが当地の辺りと比定され、南へ大きく曲流して当地辺りを流れていた旧淀川は高瀬川と呼ばれていたらしい。

 神社正面は南側のロータリーに面し、大鳥居をくぐった参道奥に社殿が鎮座し、商店街は南側入口に面し、境内左に稲荷社が鎮座している。

高瀬神社/大鳥居
高瀬神社・大鳥居
高瀬神社/拝殿
同・拝殿
高瀬神社/末社・稲荷社
同・末社・稲荷社

※祭神
 今、当社の祭神は天御中主命(アメノミナカヌシ)となっているが、古くから、“大物主神”(オオモノヌシ=三輪山の神・神祇宝典-1646)、“神日本磐彦命”(カムヤマトイワレヒコ=神武天皇・河内式神私考)または“茨田連の祖の茨田宿禰”(マムタノスクネ・同)、当地に居住した“高瀬氏の祖”といった諸説がある。

 “アメノミナカヌシについて、新撰姓氏禄・大和国神別条に、
 「服部連  天御中主神の十一世孫天御鉾命の後なり」・
 「御手代首  天御中主神の十世孫天諸神命の後なり」
とあり、服部連(ハトリベノムラジ)・御手代首(ミテシロノオビト)の祖神というが、それが当社の祀られた経緯は不明。

 古事記によれば、アメノミナカヌシは天地開闢に際して混沌の中から最初に成り出た神だが、最初に生まれたというだけで、その後裔系譜・事蹟など一切記されておらず、この神を祖神とする氏族も主神とする神社も見当たらない。
 ただ中世になって、記紀神話が見直されるなかで宇宙の中心神とみなされ、同じ神格をもつ道教の鎮宅霊符神(チンタクレイフ)や仏教の北辰妙見菩薩と合体して、“神道系の妙見社”に主神として祀られていることが多い。
 アメノミナカヌシの事蹟が一切ないことから、神話伝承に縛られないという自由度の高い神であることから、当社の祭神・由緒が分からなくなった時点で新たに持ちこまれた祭神と思われる。

 また服部連と当社あるいは当地域との関わりもまた不明。
 しかし摂津国神別条に、
 「服部連--熯之速日命の十二世孫麻羅宿禰の後で、19代允恭天皇から機織部司に任命され諸国の機織部を統括した」
とある(この服部連創建とされる神社として、高槻市に式内社・“神服神社”-カムハトリ-がある)
 古く、中国から機織技術を持ち伝えた渡来系部族をハトリと呼んだことからみて、それを統括した服部連もまた渡来系部族と思われるが、その服部氏が当地辺りに居住したとの確証は見当たらない。

 祭神としては、当社所在地の“高瀬”を名乗る“高瀬氏”の祖神というのが妥当と思われるが、高瀬氏の出自もまた不明。

※創建由緒
 当社は延喜式・式内社であることからみて10世紀以前からの古社だが、社頭に掲げる案内には、
 「この神社は延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社で、祭神は天御中主命。旧世木・馬場村の氏神。天正年間(1573--92)に織田・三好の兵火で社殿焼失するも、その後再建。現在の社殿は江戸中期頃の造営」(大意)
とあるだけで、創建時期・由緒など記載がない。

 大阪府全志には、
 「社記によれば、聖武天皇(724--49)の勅願によりて高瀬里高瀬川の辺に鎮座せり。故に高瀬神社と号す。神殿その他全備せる大社にして付近十七ヶ村の崇敬する所たりしが、天正年間(1573--91)織田・三好の兵火に罹りて社殿等悉くく烏有となり、後世木・馬場両村より社殿を造営してその産土社たりしと。河内志には“小高瀬荘世木村、今八幡と称す”と記せり」
とある。祭神がアメノミナカヌシという見知らぬ神であることから、流行神である八幡神の社とされたのであろう。

 古代の当社付近には、“長柄船瀬”という旧大阪湾東端の津(港)があったといわれ、淀川と大和川が交わる交通の要衝であったという。かつて社前を流れていた高瀬川について、「高瀬川は淀川を指す。後世河道北に移り、今水を去る八町」と記す古文書もあり、奈良時代には僧・行基が勧進した“高瀬大橋”があり、大和へ通じる行基道の起点でもあったという。

 これらのことからみて、当社は川・津の守護神を祀ったのが始まりで、多分に水神的神格を有する神だったのであろう。
 諸資料には、当社が難波からみて“艮”(ウシトラ・北東方)・“鬼門”の方向にあり、鬼門を護る神として祀られたとあるが、これは後世(江戸時代)になっての付会であろう。

◎歌枕
 平安初期の当地付近は、交差する川の淵や瀬の趣き、淀みに繁る水草、水鳥の風情、里の風物など、詩情豊かな所であり、当時、和歌の神として親しまれていた住吉大社の領有地であったこともあいまって歌枕の地として知られ、歌人文人の旅遊の地として多くの和賀が詠まれたという。
 今、境内には和歌の神刻した石碑2基が立っているが、1基は彫りがはっきりせず読み取れない。
  さしのぼる高瀬の里のいたずらに 通う人なき 五月雨の頃   衣笠内大臣
   (衣笠内大臣とは藤原家良-1192--1264-のことで、続古今集撰者の一人)

※高瀬川跡
 かつての当社前には、高瀬川が流れていたというが、今は暗渠化し、社前は交通量の多い幹線道路と化し、かつての風情を偲ぶよすがはない。道路をはさんだ向かい側のロータリーには“高瀬川跡”の記念碑が立ち、周りは川を模した石組みをもつ植え込みとなり、風情のない橋が架かっている。

高瀬川跡・記念碑
高瀬川跡・記念碑
川を模した植え込み
川を模した石組みがある植え込み

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