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薪神社(京田辺)
京都府京田辺市薪里ノ内
祭神−−天津彦根命
                                                          20100102参詣

 JR学研都市線(片町線)・京田辺駅を西へ出て府道22号線を北上、途中から一休寺の案内表示を頼りに西へ、酬恩庵一休寺(薪里ノ内102、駅の西方・約1.3km)前を過ぎて、住宅地内を約100mほど直進した突き当たり、小さな丘の麓に鎮座する古社。神社の周りは雑木で覆われ、人の手はほとんどはいっていないようにみえる。

 当社に関する資料はほとんど見当たらず、ただ、割拝殿の通路に貼ってあるネット資料(コピー)に、
 「創建等の由緒不明。同地区にあった八幡宮を天神社に併合して薪神社となる」
との略記と、本社祭神名並びに末社名と祭神名が羅列してあるのみ。
 以下、ネット資料を参考に記す。

※祭神等
 祭神の天津彦根命(アマツヒコネ)とは、天の安川におけるアマテラスとスサノヲとの誓約(ウケヒ)の際、アマテラスが身に帯びていた勾玉から生まれた五柱の男神のうちの一柱(3番目)で、アマテラスの御子とされる由緒ある神だが、記紀ともに、その後の事蹟などは記されていない。
 ただ、古事記によれば、この後裔氏族として12氏族の名が列記され、その中に山城国造がある。当地が山城国であることからみて、その氏族が祖神であるアマツヒコネを祀ったのかもしれないが、あくまでも推測であり、それを証する史料はない。
 また上記資料で、薪神社の旧社名を天神社(アマツカミノヤシロと読むのだろう)ということからみて、アマツヒコネを祀るのはおかしくないが、その天つ神が当社に祀られた由緒などは一切不明。なお、社名・薪とは地名からくる名称だろう。

◎末社
 ネット資料によれば、境内には下記の末社があるというが、その鎮座由緒・時期等は不明。
 ・八幡宮−−応神天皇
 ・住吉社−−住吉三神
   本殿の左右に鎮座している小祠2殿がこれに当たるのだろうが、左右どちらがどの社かは不明。
   八幡社は、上記「同地区の八幡社を併合した」とある宮だが、住吉社の勧請由緒などは不明。
 ・武内神社−−武内宿禰
   八幡宮に係わる社と思われるが、今、これに対応する社殿は見当たらない。
   これに代わって、二の鳥居の右手に小祠があり、傍らの社名を記す木柱には、猿田彦社との文字がかろうじて読み取れる。
   道祖神としての鎮座と思われるが詳細不明。
 ・金刀比羅宮
   拝殿右手に鎮座する小祠だが、勧請由緒不明。

※社殿
 社頭の緩やかな石段を登った上に一の鳥居、その左手、拝殿前に二の鳥居が立つ。
 古びた割拝殿の奥、透塀に囲まれた神域内に一間社流造の本殿が、その左右に末社2社(小祠)が鎮座する。いずれも古びているものの、造営時期など不明。
 末社として、拝殿右手に金刀比羅社が、拝殿前の右手に猿田彦社が建つ。
 正月ということで、注連縄・紙弊など新しくされているから、当社を奉祀する氏子組織はあるらしい。

薪神社/二の鳥居
薪神社・二の鳥居
(奥に割拝殿が見える)
薪神社/割拝殿
同・割拝殿
(中央が通路になった拝殿)
薪神社/本殿
同・本殿
(左右の小祠は八幡宮と住吉社)
薪神社/末社・金比羅宮
末社・金刀比羅宮
薪神社/末社・猿田彦社
末社・猿田彦社

※磐座(イワクラ)
 境内左手、台座の上に注連縄を張った磐座(H:1mほど)がある。
 磐座とは、カミが降臨する聖なる石(依代-ヨリシロ)をいうが、当地の北方、京田辺市大住に鎮座する月読神社には、
 「祭神・月読神は、神社南方約4kmの甘南備山(当社南西にある山)に降臨したが、その依代である磐座は、今、薪神社にある」(大意)
との伝承があり、その磐座がこの石だろう。
 甘南備山には式内社・神奈備神社が鎮座し、この磐座は神奈備神社に係わるものと推測されるが、甘南備山から当地へ移された由緒などの詳細は不明。
(別項・「月読神社」・「神奈備神社」参照)
薪神社/磐座

 この磐座は、鹿児島線大隅地方にみられる“オツッドン”に相当するともいう。オツッドンとは、古く、同地方に伝わる民俗信仰(古代隼人族から伝わるという)で、“田に、自然石・立木・笹竹を立ててご神体とし、村毎に祀った月神信仰”において“月神の依代”とされる磐座をいう(神社と古代王権祭祀・大和岩雄・1987)
 当地の辺りは、古く大隅隼人・阿多隼人の居住地だったといわれることから、彼らが崇敬した月神の依代として祀ったのが、この磐座(オツッドン)かもしれない。

※能楽発祥之地(伝承)
 境内右手に、自然石に『能楽発祥の碑』と刻まれた石碑(H=2mほど)が立ち、台座の岩(右横)には、
 「能楽は薪能即ち金春能に始まり、次に宝生能 観世能は大住に、金剛能は大和に発祥した。昭和61年11月文学博士志賀剛」
との碑文が刻まれている。
 能楽は、古く、田楽や散楽・猿楽と呼ばれた民俗芸能から発展したもので、金春・宝生・観世・金剛各流は大和4座と呼ばれる流派の一。この4座は、いずれも大和(奈良県)の猿楽座から生まれたといわれ、金春流(猿楽・円満井座)は磯城郡・田原本町、宝生流(外山座)は桜井市、観世流(結崎座)は磯城郡・川西町、金剛流(坂戸座)は生駒郡・斑鳩町とするのが普通。
 しかし、大和から山城にかけて、“○○流発祥の地”との伝承をもつ地は多く、例えば前記・月読神社にも“宝生流発祥の地”との石碑が立っている。

 当地を能楽発祥地とするのは、下記の伝承によると思われるが、これをもって発祥地とするのは疑問がある。
薪神社/能楽発祥の地・石碑

◎薪能金春芝跡の碑
 薪神社の手前、酬恩庵一休寺山門前の狭い緑地のなかに、『薪能金春芝跡』との石碑が立ち、傍らの案内には、 
 「この附近で、金春禅竹(コンパル ゼンチク、1405--70)が一休禅師に猿楽の能を演じ、観覧に供したと伝えられている。・・・応仁の乱(1467--77)の際、一休が酬恩庵に難を避けていた間、禅竹も薪の多福庵に移り、二人の間に交流があったとされる。・・・」(大意)
とある。

 金春禅竹は、金春座(円満井座)の太夫・金春弥三郎の子で、観世・世阿弥の娘婿となってその芸風を引き継ぐとともに、世阿弥亡き後は観世・音阿弥とともに斯界の双璧として活躍し、金春座中興の祖ともいわれる。 
薪能金春芝跡の石碑
薪能金春芝跡の碑

 一休禅師(1397頃--1481)は、後小松天皇の皇胤説もある臨済宗大徳寺派の禅僧で、大徳寺住持を務めるなどした名僧だが、奇行も多かったといわれ、一般には“一休さんの頓知咄”で知られる。
 一休は康正年間(1455--56)、荒廃していた宗祖・大応国師由来の薪の妙勝寺を再興、宗祖の遺風を慕って酬恩庵と命名、これを拠点として活躍し、文明13年(1481)当庵で没している(酬恩庵内に一休の廟堂がある)
 一休の酬恩庵居住期と金春禅竹の老年期とが交差することから、この二人が薪の地が交流を深め、禅竹が薪能を見せたというのは事実であろう。なお、薪神社で薪能が行われたともいう、あり得ることだが真偽は不明。

 通常、薪能とは、主として夏場の夜、野外の仮設能舞台の周囲にかがり火を焚いて演じられる能をいうが、禅竹が一休に見せたという能がどんなものだったかは不明。

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