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棚倉孫神社(京田辺)
京都府京田辺市田辺棚倉
祭神−−高倉下命
                                                   20100102参詣

 延喜式神名帳に、「山城国綴喜郡 棚倉孫神社 大 月次新嘗」とある式内大社。棚倉孫はタナクラヒコと訓む。

 JR学研都市線(片町線)・京田辺駅から西へ住宅地を抜け、府道22号線を右折、少し進んだ左側の高台に鎮座する。

※祭神
 神社由緒によれば、
 「祭神・高倉下命(タカクラジ)は別名を天香古山命(アメノカゴヤマ)、また手栗彦命(タグリレヒコ)と申しあげ、アマテラスの曾孫で、天つ神の直系です。天孫降臨に父命(ニギハヤヒ)とともに降り紀州熊野に住み、神武天皇東征のとき、布都御魂(フツノミタマ)の神剣を奉って大功をたてられました」(社頭掲示の案内には、「祭神・アメノカゴヤマ、別名タカクラジとある)
とあるが、記紀には、“熊野の高倉下”とあるのみで天つ神の系譜には見えず(天つ神とは見ていない)、またアメノカゴヤマ・タグリヒコなる別名も見えない。
 ただ、書紀・第6の一書には、
 「アマテラスの御子・天忍穂尊(アメノオシホ)の御子に天火明命(アマノホアカリ)と火瓊々杵根尊(ホノニニギ)があり、そのアマノホアカリの子の天香山(アマノカグヤマ)は尾張連の遠祖である」(大意)
とあり、このアマノカグヤマをアメノカゴヤマと同一神とする見方もある。
 また両書ともに、神武天皇が熊野で危機に陥ったとき、タカクラジが夢告に従って、タケミカヅチから降されたフツノミタマを神武に奉り、これを助けたとあり、それは由緒と同じである。

 タカクラジの別名をアメノカゴヤマまたはタグリヒコとするのは、物部氏系の史書・先代旧事本紀(9世紀後半成立)で、そこには
 「(ニギハヤヒの)子の天香語山命(アメノカゴヤマ)は、天降った後の名をタグリヒコ命またはタカクラジ命という。ニギハヤヒに従って天降り、熊野邑にいた。アメノカゴヤマ命は尾張連等の祖」
とあり、ニギハヤヒが高天原にいたとき生まれた御子がアメノカゴヤマともいう(天降った後の御子はウマシマジ)

 タカクラジ(アメノカゴヤマ)の父・ニギハヤヒとは、記紀によれば、神武東征に先立って大和に天降っていた神で、物部氏の遠祖という(ニギハヤヒの御子・ウマシマジを物部氏の遠祖とする説もある)。また、神武東征に際して、登美のナガスネヒコに奉されて神武に抵抗するも、最後にはナガスネヒコを討って神武に従ったとされる(ニギハヤヒの御子・ウマシマジが討ったともいう)。ニギハヤヒがもつ神宝を見た神武が、天つ神と認めたとはするものの、その系譜は不明。

 一方、旧事本紀によれば、ニギハヤヒはアメノオシホの御子で、名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテル ヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)と称し、アマテラスから授けられた瑞宝十種をもって天降ったとされ(記紀・天孫降臨にいうホノニニギとは異なる)、これを古事記の天火明命、書紀・一書6の天火明命、一書8の天照国照彦火明命に充てることで、アマテラスの直系の孫とするのだろうが、いずれも、天火明(アメノホヒ)の名をもつことからの同一視であって、本来は別神であろう。

 このニギハヤヒを記紀にいう皇孫・ホノニニギの兄とすること(一書6)から、アマノカグヤマをタカクラジ(アメノカゴヤマ)として、当社由緒では“タカクラジはアマテラスの曾孫”と記すのだろうか、旧事本紀は、もともと記紀とは異なる物部氏系伝承であって、これを記紀の皇統譜と一体化するのは疑問がある。

 タカクラジを祭神とする神社はほとんど見かけないが、著名なものとして、ゴトビキ岩で有名な熊野・新宮の神倉神社(熊野新宮速玉大社の境外摂社、元新宮ともいう)がある。
 熊野の神倉神社は神武東征との関係から、タカクラジを祭神とされるのも納得できるが、当社にタカクラジが勧請された由縁は不明。あるいは、棚倉の地名説話(後述)にいう“田の神を祀る祭場”というのが原点かもしれない。

※創建由緒
 神社由緒によれば、
 「棚倉孫神社紀(大永6年・1526)によれば、『推古天皇31年(623)9月に、相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命を勧請する』とある」
という。
 ネット資料によれば、京都府下に棚倉と呼ばれる地は、相楽郡山城町と当地との2箇所あるというが、今、当地以外に相楽郡木津町に相楽との地名がある。ただ相楽郡に、延喜・式内社(6社)でタカクラジを祭神とする神社はなく、推古朝に相楽郡・棚倉庄より勧請とする詳細は不明。
 古くから、この辺りを棚倉野と呼んでいたのは確かのようで、その意味では、当社の原姿は当地一体の産土神として奉祀されていた社だろうという。

 神社由緒によれば、
 「清和天皇・貞観元年(859)、畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に棚倉孫神社が従五位下から従五位上の神位を賜る」(三代実録)
とあり、延喜式制定以前からの古社であることは確かである。

◎棚倉の由来
 棚倉(棚倉孫)の由来については諸説があり、管見のかぎりでは
 ・祭神・タカクラジの別名・タグリヒコが訛ってタナクラヒコとなったとする説。
 ・穀物を収納するに湿気を避けるため、床を棚造りにすることからとの説。
 ・この地は養蚕が盛んであったことから、蚕棚を意味するとの説。
 ・当地方には棚状になった水田が多く、タナクラとは田の谷であり、田の神の降臨地(祭場)を意味するとの説。
などがあるが、いずれも切り札となる決め手はない。

※社殿等
 道沿いに参道の坂道を登り、少し降った先に大鳥居が立ち、その奥に拝殿が、その奥、朱塗り(だいぶ薄くなっている)の透塀に囲まれた神域内に朱塗り本殿が建つ。

 本殿は、一間社流造・祖皮葺で、大棟(屋根の最上部)のみは瓦葺きとなっている。神社由緒によれば、文徳天皇・仁寿2年(852・平安前期)の造営で、3度の焼失・再建を経て、今の本殿は明応2年(1493・室町後期)田辺城主・田辺伯耆守繁昌の再建とある。昭和63年(1988)に半解体修理している。

 その前に建つ拝殿は、唐破風を有する切妻造・銅板葺(昭和55年・1980、檜皮葺きから改造)の建物で、棟札には明和5年(1768・江戸中期)再建とある、という。

棚倉孫神社/参道
棚倉孫神社・参道
棚倉孫神社/鳥居
同・大鳥居
棚倉孫神社/拝殿
同・拝殿
棚倉孫神社/本殿拝所
同・本殿拝所

◎末社
 拝殿右に、五社殿との一殿がある。
 祀られている五社とは、正一位宝蓮稲荷大明神(伏見稲荷より勧請)、紅梅殿・老松殿(菅原道真由縁の境内社)、春日大明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩(室町末期から江戸末期にかけて信仰された三社託宣信仰に係わる境内社)、多賀神社、稲荷神社で、いずれも境内にあったものを一棟の社に収めたものだろう。明治末期の神社統合整理に際して集められたとも思われるが、詳細不明。
 境内左に、絵馬殿(天保10年・1839年以前の建物か)・瑞饋神輿倉(ズイキミコシ)が建つ。また石段下の左に金比羅神社があるが、当社との関係は不明。

※瑞饋神輿(ズイキミコシ)
 明治中期頃に始まった民俗神事で担がれる神輿で、神輿の屋根・鳥居・欄干などにズイキを被せて飾り、神輿各処を草花・果物などで飾った神輿をいう。
 この神輿は、大人用と子供用の2基があり、大人用は隔年作成、子供用は毎年作成という。今回見た神輿は屋根のズイキが萎んでいたが、何時作成されたのかは不明。

 ズイキとは里芋の茎(葉柄)のことで、通常は芋茎と書く。里芋は親芋の周りに子芋や孫芋が沢山つくことから、子孫繁栄の縁起物ともされ、それにあやかって里芋の茎・ズイキで神輿を飾ったのであろう。
 京都・平野天満宮に瑞饋神輿が出るズイキ祭があり、当社に菅原道真縁故の境内社を祀ることから、この神輿が造られたとも推測される。
棚倉孫神社/ズイキ神輿
ズイキ神輿(大人用)

※松寿院跡(ショウジュイン アト)
 石段下の左手に社務所がある。江戸時代までの神仏習合期、当社の神宮寺であった梅香山松寿院(天保15年改築の建物)の跡という。
 松寿院は、明治の神仏分離により廃された寺で、その建物は今、当社・社務所として使用されているが、安政5年(1858)から明治4年(1871)まで寺子屋として使用され、学制発布により田辺小学校仮校舎として使用、明治6年(1873)の田辺小学校開校により社務所に替わったとの歴史をもつ。

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