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出雲大神宮
京都府亀岡市千歳町千歳出雲
祭神--大己貴命・三穂津姫命
                                                          2018.01.10参詣

 延喜式神名帳に、『丹波国桑田郡 出雲神社 名神大』とある式内社で、丹波国一の宮。
 当社は今、出雲大神宮(イズモノオオカミノミヤ)と称しているが、近世の諸資料には出雲神社・出雲社とある。俗称:元出雲と称する。

 JR山陰本線・千代川駅の東北東約3km、県道25号線東側の御影山(千年山)山麓に鎮座する。

※由緒
 境内に由緒等の案内なく、頂いた参詣の栞にもそれらしき記述はないが、当社公式HPには
 「当宮は大国主命とその后神・三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主祭神と称え奉り、丹波国に御鎮座なされています。(他に天津彦根命・天夷鳥命を祀るという説もあります)
 殊に三穂津姫命は天祖・高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りの砌、天祖の命により后神となられました。天地結びの神、即ち縁結びの由緒は又ここに発するもので、俗称・元出雲の所以であります。

 日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰も出雲・大和両勢力の接点にあり、此処に国譲りの所由により祀られたのが当社です。
 古来、大平和の御神意により、国と国人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤く、崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇・和銅2年(709)に初めて社殿を造営。
 現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)、それ以前は御神体山の御影山を奉斎し、古来より今尚禁足の地であります。
 又、御影山は元々国常立尊(クニノトコタチ)のお鎮まりになられる聖地と伝えられています」
とある。

 由緒は、“出雲と大和の接点にある丹波国に、国譲りの所由により祀られたのが当社”というが、丹波国が如何なる形で国譲りと関係するのかは不詳。
 憶測すれば、丹波国に進出した出雲勢力が、故地で崇敬してい大国主命(大己貴命)を勧請したのが当社ではなかろうか。

 ただ、徒然草(236段・1330頃)に、
  「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり(出雲大社から勧請された神社で、社殿が立派に造られている)
   しだの某とかやの知る所(支配地)なれば、秋の頃、聖海上人ほか人あまた誘ひて、『いざ給へ 出雲拝みに。かいもちひ召させん』(出雲社の参詣に参りましょう。カイモチヒをご馳走しましょう)とて、具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり」
とあるように、中世の頃には出雲大社からの勧請として知られていたことは確からしい。

 ただ、HP祭神の項には、
  「丹波国風土記によれば、『奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中(708--15)、大国主命一柱を島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社なり』とあります。よって、当社に古来より元出雲の信仰があります」
として、杵築の出雲大社の祭神・大国主命は当社からの遷座だから、当社は元伊勢だという。
 しかし、杵築の出雲大社の由緒からみて、その祭神・大国主命(大己貴命)が当社からの勧請というのは疑問で、当社を元出雲と称する由縁ははっきりしない。
 (現存する風土記逸文に丹波国風土記はなく、確認不能、ただ元明朝の頃に未だ島根との地名はなく、この記事の信憑性には疑問がある。後年の詐称であろう)

 出雲の大己貴信仰の総本社は杵築の出雲大社だが、その信仰は畿内・東海から九州・四国まで広く分布し、神名帳によれば、出雲を冠する神社は十数社を数え、その何れもが大己貴信仰(大国主信仰)と何らかの関係をもつとされ、当社もその一つといえよう。

 当社の国史上での初見は崇神天皇60年条にみえる次の話で、そこには大略
 ・天皇から出雲の神宝を見たいとの要請があったが、神宝の管理者である出雲振根が不在だったので、弟の飯入根が神宝を奉った。
 ・これを知った出雲振根が怒って弟の飯入根を殺した(大和朝廷への神宝の提出は服属を意味する)
 ・それを聞いた天皇は兵を派遣して出雲振根を誅殺した
 ・これを畏れた出雲臣等は出雲大神を祀らなくなった

 ・ある時、丹波・氷上の氷香戸辺(ヒカトベ)の子供に出雲大神が取り憑いて、
  「玉菨鎮石(タマモシヅイシ) 出雲人祭れ 真種の甘美鏡(ウマシカガミ) 押羽(オシハ)振れ 甘美御神の底宝 御宝主 山河の水泳(ミククリ)御魂 静め挂(カ)けよ 甘美御神の底玉 御宝主」と託宣した
 ・この報告を受けた皇太子が天皇に申し上げ、天皇は詔して鏡を祭らせた
とあり、由緒がいう“崇神天皇再興”とは、この事を指すかと思われるが、これが崇神朝での出来事である確証はない。

 これについて、松前健氏は
 ・丹波桑田郡の出雲大社は、崇神60年条にみえる、丹波氷上の人・氷香戸辺の子に出雲大神が突如憑き移り、託宣したという記事とおそらく関係した社であろう
 ・この託宣は、尸童(ヨリマシ)の口走る言葉であるから、迷語的で意味は不明であるが、神聖な鏡や玉を押し振り、また神殿に掛け鎮めて、出雲の大神を、出雲人が祀るようにせよとの意味であるらしい
 ・この託宣などは、おそらくそのまま史実であったのではなく、丹波の出雲社に古くから伝わる出雲系巫覡(フゲキ)の託語であったのであろう
 ・書紀によれば、この事件の後、出雲大社の大己貴祭祀が一時中絶したのを、この小児の託語によって再興したという
 ・しかし、出雲人による出雲大社の祭祀について、わざわざ「出雲人祭れ」という必要もないし、またこれを遠い丹波の人が言うのもおかしい
 ・真相は、丹波の出雲社の創立について、丹波にいた出雲系の巫覡が、こうした託語を発したのであって、これを崇神朝のことに付託したのであろう
として、当社祭祀の始まりにかかわる話ではないかというものの、これが崇神朝での出来事いうのは否定している(日本神話の形成・1970)

 なお、松前氏のこの見解に対して 、大林太良氏は
 「同じ丹波でも氷上は西の端で、神社のある東の端の亀岡盆地とは遠く離れており、これを以て出雲神社の創祀とみてよいか否かは疑問」
として、賛否を保留している(私の一宮巡詣記・2001)

 由緒は、当社の創建時期を元明天皇・和銅2年(709)という。
 これは、社蔵の古文書・関東御教書(天福2年・1234)及び社領榜示絵図によるものといわれ(日本の神々7・2000)
 鎌倉執権から山名陸奥入道に出された御教書(天福2年・1234)には
 「丹波出雲社は元明天皇和銅2年に社殿を建てられてより以来、神領の諸所・御蔭山は一条入道太政大臣家重ねて下知せられぬ。云々」
とあり(私の一宮巡詣記)、和銅2年社殿造営説は鎌倉以前から流布していたといえる。
 ただ南桑田郡誌(1972復刻)は、
 「此の年月は後世の鑱入(ザンニュウ)なるべく、書風其他より見て、鎌倉時代に作成せられたるものなるべし」
と、和銅2年創建説に疑問を呈している。(式内社調査報告・1984)
 また天福2年の絵図には、神体山を背景に一基の鳥居が描かれており、原始的信仰(神奈備山信仰)の名残を伝えるものという(日本の神々7・2000)

 今の当社は本殿・拝殿等を有する通常の神社形態を整えているが、背後の御陰山中腹或いは本殿裏にある磐座などからみて、本来のそれは、背後の御影山を神体山(神奈備山、国常立命が鎮まるという)として崇敬する古来からの信仰に発し、山麓に神籬(ヒモロギ)を設けておこなった神マツリが当社の始まりかと思われ、
 丹後口碑集(1975)には、大正末頃の話として
 ・昔は、この社は本殿がなく、社背の御影山の前に鳥居が立っていたきりであったそうで、御神体は山それ自身であり、拝殿はあるが本殿はなかったという
 ・神社の7・8町手前に大門という字が残るが、そこに昔は楼門があったらしいと伝えているから、社域はかなり広大なものであったらしい
とあり(私の一宮巡詣記)、和銅2年の社殿造営というのは本殿ではなく、神籬を常態化した拝殿だったのかもしれない。

 なお、当社に対する神階綬叙記録としては
 ・弘仁9年(818)12月16日  丹波国桑田郡出雲社を名神に預かる(日本紀略)
 ・承和12年(845)7月辛酉  丹波国桑田郡無位出雲神に従五位下を奉授 国司解状に依る也(続日本後紀)
 ・貞観14年(872)11月29日  丹波国従四位下出雲神に従四位上を授く(三代実録)
 ・元興4年(880)6月21日   丹波国従四位下出雲神に正四位下を授く(同上)
 ・延喜10年(910)8月23日  丹波国出雲大神(桑田郡)に正四位上を授く(日本紀略)
などがみえ、
 その後の授与記録として、HPには
 ・正応5年(1292)  正一位授叙(西園寺相国実兼公日記・正応5年12月2日条、実兼公は鎌倉後期の公卿・1249--1322)
   万寿2年(1025)、日照りが続き農作物に影響が出たため、当宮の領家・西園寺家が留守所に仰せて雨乞いを祈祷せしめたところ、忽ち雨が降ったことから、御神威いよいよ顕らかに、正応5年には正一位に昇る
とある。
 ただ、雨乞い祈祷から250年ほど後に正一位が授けられたというのは疑問で(年月があきすぎる)、多分に、鎌倉時代以降の神道界を壟断していた吉田神道宗家に、当社から万寿2年雨乞いの功徳を申し立てての授与(有料)かもしれない。
 なお、万寿2年の雨乞いについては、左経記(平安後期の貴族・源経頼の日記・1016--1035)万寿2年7月1日条に、“旱天がつづき田畑に悪影響がでたので僧9人に大般若経を読経させたところ、大雨が降り田畑は豊潤となった”とある(大意)

※祭神
 今の祭神は、大国主命・三穂津姫の二座だが、
 ・大日本国一宮記(室町時代)--三穂津姫命 或は大己貴命
 ・神名帳頭注(1503)--天津彦根一座 三穂津姫一座
 ・神社覈録(1870)--三穂津姫命
 ・神祇志料(1871)--大己貴命 三穂津姫命
 ・特選神名帳(1876)--大己貴命・三穂津姫命
との古資料もあり、いずれも三穂津姫命を挙げていることから主祭神は三穂津姫であって(延喜式での祭神は一座)、大国主命(大己貴命)は後に付加されたとの説もあるという。

 三穂津姫とは、書紀9段・一書2に、
 国譲りが終わって大物主神と事代主神が恭順の意を表しに高天原に上ってきた時、大物主神に対して高皇産霊神が下した詔に、
 「お前がもし国つ神を妻とするならば、、吾はお前がなお心を許していないと考える。それで、わが娘の三穂津姫をお前に娶せて妻とさせたい。八百万の神たちを引き連れて、永く皇孫のために守って欲しい」
と出てくる姫神のことで、高皇産霊神が大物主神に娘・三穂津姫を娶したという。

 しかし参詣の栞には
  「三穂津姫命は高皇産霊尊(タカヒムスヒ)の娘であり、国譲りの際に大国主と結ばれし后神です」
とある。
 これは大物主を大国主の別名とみてのことで、書紀7段・一書6に
  「大国主神は、大物主神とも国造大己貴神ともいう・・・」
とあり(古事記にはない)、同8段には、
  「一緒に国造りをした少名彦神に去られて困っている大己貴(大国主)のもとへ海を照らしてやってきた神が、
   『吾が居なかったらお前は国を平定できなかったであろう』と告げ、『お前は何者だ』との大己貴の問いに、
   『吾はお前に幸いをもたらす不思議な魂-幸魂・奇魂-で。大和の三諸山(三輪山)に住みたい』と答えた
    大己貴は『確かに吾が幸魂・奇魂である』として、三輪山に宮を造って鎮まった、これが大三輪の神(大物主命)である」
とあり、また新しく就任した出雲国造が朝廷に奏上する出雲国造神賀詞(イズモクニノミヤツコノカンヨゴト)
  「大己貴が、その和魂を八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛𤭖玉命(オオモノヌシ クシミカタマ)と名を称えて、大御和(大三輪)の神奈備に坐せ・・・」
とあることから、由緒は大国主と大物主を異名同神とみて、三穂津姫は大国主の后と記すのであろう。
 ただ、記紀によれば、大国主には因幡の八上姫以下多くの后があったというが、その中に三穂津姫の名はみえず、また大国主の御子たちの中にも三穂津姫を母とする御子はみえず、記紀でみるかぎり三穂津姫と大国主(大己貴)の間に直接的な接点はない。
 ただ、島根県松江市に鎮座する美保神社(式内社)に、大国主の御子・事代主命とともに祀られているから、大国主と何らかの関係があるかと思われる。

 なお上記由緒には「天津彦根命・天夷鳥命祭神説がある」とあり(丹波国風土記によるものらしいが確認不能)、神名帳頭注には祭神・天津彦根命とある。
 *天津彦根命(アマツヒコネ)
   アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成りでた5男神の第3子で、書紀6段本文に「凡川内直・山代直らの祖」とあるだけで、その事蹟等についての記述はなく、この神が当社の祀られる由緒は不明。(出雲国造の始祖とされる天穂日命の誤記か)
 *天夷鳥命(アメノヒナトリ・古事記では建比良鳥命)
   アマテラスとスサノオの誓約によって成りでた5男神の第2子・天穂日命(アメノホヒ)の御子で、出雲国造の祖という。
   記紀に特段の事蹟はみえないが、出雲国造神賀詞には、“父・アメノホヒの命を受けて経津主とともに葦原中国に天降り、荒ぶる神々を平らげ、大己貴命をなだめて国譲りを承諾させた功労者”とあることから、出雲国造との関係から元出雲を称する当社に祀られたのかもしれないが、詳細不詳。
 なお、今の境内にこの2神を祀った痕跡はみえない。

※社殿等

 
境内案内図

 駐車場脇に立つ一の鳥居を入り、参道を進んだ先に二の鳥居が立ち、その奥が境内。

 
社 頭
 
一の鳥居
 
二の鳥居

 境内正面に入母屋造の拝殿(舞殿兼用か)が、その奥、少し離れて中門・瑞垣に区画された本殿域の中に流造りの本殿が鎮座する。
 本殿について、参詣の栞には
 「社殿創建は和銅2年(709)10月21日
 三間社流造りの社殿は鎌倉時代にもので、貞和元年(1345・北朝年号)に足利尊氏、後にも細川勝元により修造され現在に至ります」
とある。


拝 殿 
 
本 殿
 
中門と瑞垣

◎末社等
 本殿の背後山腹の小道沿いに(西から)
 ・磐座--本殿裏の御影山(千年山)を御神体として岩や水に運気が宿っています(参詣の栞)
 ・春日社--建御雷之男神(タケミカツチ)・天児屋根命(アメノコヤネ)
   春日社というものの社殿はなく、朱塗りの囲いの中に注連縄を張った磐座が鎮座するのみ
 ・稲荷社--宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
が鎮座し、磐座と春日社間の少し奥に小古墳の石室部が露出し小さな入り口が開いている。

 また、稲荷社前から右へ、小道を道なりに東に辿ったところに
 ・上の社--素盞鳴尊(スサノオ)・櫛稲田姫尊(クシイナダヒメ)
が鎮座する。

 
磐 座
 
春日社
 
稲荷社
 
古 墳
 
上の社

 二の鳥居から拝殿までの境内東側に(北から)
 ・笑殿社(ワライド)--事代主命・少那毘古名命
 ・崇神天皇社--第10代崇神天皇
 ・大国恵比寿社--大国主命・恵比寿神
   社殿創建1300年を記念し、伝統工芸信楽の2像をお祭りいたしました。
   御祭神大国主命は縁結びの神様、七福神の恵比寿様は笑殿社に祀られている事代主命・商売繁盛の神様です(案内)
が鎮座し、その南に
 ・夫婦岩--当宮の縁結びの御守りには赤い糸が付いています。御守りは常に身につけ、糸を夫婦岩のまわりに結んでください。神様が幸せなご縁を結んでくださるでしょう(参詣の栞)
 ・真名井の水--御神体山から絶えることなく湧き出る水は古くから真名井の水と呼ばれ、霊験あらたかな水として近隣の田畑や人々の暮らしを支え、万病から護ってくれました(参詣の栞)
が並ぶ。


笑殿社 
 
大国恵比寿社

夫婦岩 
 
真名井の水

 なお、崇神天皇社、境外西の黒太夫社(大山祇神・猿田毘古神)、表参道西の辨財天社(市杵島姫命)は不参詣。

【神体山と磐座】
 当社背後の御影山は、悠久の昔から国常立尊が鎮まる神体山とされ、参詣の栞には
 「この山自体が国常立尊がお鎮まりになる御神体として信仰があったのは、社殿創建より遡ること一万年以上ともいわれており、山・川・岩・水などの自然そのものが神からの恵みであると伝えられてきました」
とある。

 神体山に鎮座する国常立尊の聖蹟は、『大八洲国国祖神社』(オオヤシマノクニノミオヤ)と呼ばれているようで 本社境内には
 「皇祖より壱万年以前  
   大八洲国国祖神社
  又 而して御神体山御影山は国常立尊の真蹟なり 出雲姫年久しく奉祀する 出雲姫薨じて三穂津姫命と諡される」
と記した社標板が立っている。 
 

 御影山頂上近くには大小数基の岩塊からなる磐座群が鎮まり、磐座群脇に立つ案内には
 「この磐座群は、御神体山『御影山』に鎮まる国常立尊(クニノトコタチノミコト)の象徴として、皇祖より一万年前からこの地に鎮まっております。
 伝承によりますと、国常立尊は丹波国の桑田の宮に天の御舎を立て、ここにお遷りになられたことが述べられています。
 今尚、禁足の地であるこの磐座は、まさに国常立尊の聖蹟であると伝えられています」
とある。

 国常立尊とは、天地開闢の時、
 ・古事記--別天つ神(コトアマツカミ)5柱に続く神代七代(7柱・最後が伊弉諾・伊邪奈美)の最初に成り出た
 ・書紀本文--天地開闢の始めに、天地(アメツチ)の中にある物が生じ、間もなく神となった。国常立尊と申し上げる
とある神だが、記紀ともに身を隠したというだけで、その事蹟についての記述はない。

 この神は、元々観念上の神であって具体的な事蹟は伴っていないが、中世以降、書紀で最初に成りでた神ということ、その神名などから、国土形成の始原神・根源神として重要視されたという(中世の吉田神道・近世の大本教など)

 上記案内の中段にいう“伝承云々”が如何なる資料によるものかは不詳だが、宮下文書と総称される古文書のなかに
 ・太古において国常立尊が田場の真伊原に天降り、桑田(当地方の旧称)の宮を築き、国の半分を農業を主として理想的に統治された
 ・尊は、亡くなられた後、田羽-田場-出雲御神体山(御影山を指すという)に葬られ、出雲児女皇女らによって神体山の麓に祀られた(拝殿脇の社標にいう出雲姫か)
 ・この出雲児女皇女も亡くなられた後同じ神体山に葬られ、三穂津毘売と諡(オクリナ)されて祠に祀られ、出雲大神と呼ばれるようになった
とあるといわれ(ネット資料)、これを指すのかもしれない。

 宮下文書とは山梨県富士吉田市の旧家・宮下家に伝わる古文書といわれ、神武天皇以前の超古代に富士山麓にあったという富士高天原王朝に関する伝承等が記されているが、その中核部は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えるなど、信憑性皆無に近い偽書という(ネット資料)
 この古文書は、その文体・記述内容などから幕末頃に成立したと推測されているが、原本の実見困難のため内容の確認は出来ない。

 当社背後の御影山あるいは境内に磐座が点在することから、当社の原点は、これら磐座を神が降臨する聖地として崇拝した古代の磐座信仰にあることは確かで、そこに降臨する神を特定する際に、記紀等に事蹟不記のため自由度の高い国常立尊を充てただけのことで、荒唐無稽な伝承等を持ちこむ必然性はない。

 御影山へは、末社・上の社東側から境外へ出て案内に従って入山できるが(片道10~15分ほど)、神体山であることから自由入山は禁止されており、社務所で氏名・住所等を届け、貸してくれる白い“たすき”を掛けて入山する。

※磐座群等
 本殿背後の上の社から小道を東へ進んだ処に神体山(御影山)へ至る〆鳥居が立ち(これより先へは社務所への届出が必要)
 参道の途中に注連縄を張った磐座が鎮まる。
 参道の突き当たり、神体山頂が国常立尊が鎮まるという聖域だが、石灯籠2基があるものの社殿等はなく、樹木に覆われた山中に数基の磐座が群をなして鎮座している。

 
神体山参道入口に立つ〆鳥居
 
参道途中にある磐座

磐座群正面 
     

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