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籠 神 社
付--真名井神社
京都府宮津市大垣
主祭神--彦火明命
                      相殿神--豊受大神・天照大神・海神・天水分神                                                                            2018.01.10参詣

 延喜式神名帳に、『丹後国与謝郡 籠神社 名神大 月次新嘗』とある式内社で、丹後国一の宮。
 社名・籠は“コノ”と読むが、古くは“匏宮”・“吉佐宮”(いずれもヨサノミヤ)と称した。

 京都丹後鉄道宮豊線・天橋立駅から北へ、名勝・天橋立を北に抜けて丹後半島へ渡った西、天橋立ケーブルカー乗り場・府中駅の東約100mほどに鎮座する。

※由緒
 当社刊の元伊勢籠神社御由緒略記(2016改訂版、以下「由緒略記」という)には、
 「神代の昔といわれる遠い上代から、今の奥宮の地・真名井原に匏宮(ヨサノミヤ)と申して、豊受大神が御鎮座になっていたが、人皇10代崇神天皇御代39年(BC59年・皇紀602年)3月3日に、天照皇大神が大和国笠縫邑から御遷座になり、豊受大神と共にお祭り申し上げた。 
 呼称は匏宮と申したが、後にこれを与佐宮又は吉左宮・与謝宮とも申した。ヨサはアメノヨサツラの意であり、ヨサツラとは“ひさご”の事である。これは最高神に天の真名井の水を捧げる神聖な器であった。

 天照皇大神は与佐宮に4年間御鎮座の後人皇11代垂仁天皇の御代25年に倭姫命を御杖代として伊勢国伊須須川上へ御遷宮になり、豊受大神は人皇21代雄略天皇の御代に至るまで当地に御鎮座あらせられ、同天皇の御代22年(478)に伊勢国度会郡の山田原に遷らせられた。

 吉左宮の神主家は元初から海部直であり、同氏は大化改新(646)以前は丹波国造家であったが、大化改新以後は祝部(ハフリベ、世襲の神主家)として歴代奉仕した。尚、天照皇大神御巡幸の御杖代となった倭姫命は、当宮宮司家海部氏の外孫と伝えられている。

 大化改新の後、天武天皇御宇白鳳11年(682)に至り、海部直伍佰道祝(イホジハフリ・26代)は、与謝宮を籠宮と改め、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を主神として祭っていたが、元正天皇の御代養老3年(719)に、御本宮を奥宮真名井神社の地から、現今の御本宮の地へ遷し奉り、伍佰道祝の子・愛志祝(エシハフリ)が新たに同氏の祖神・彦火明命(ヒコホアカリ)を主祭神とし、天照豊受両大神及び海神(ワタツミ)を相殿にお祭りし、又、天水分神(アメノミクマリ)も併せ祭られたのである。
 爾来、1,290余年、伊勢根本の宮と云い、又別称を吉左宮とも申し、元伊勢の社として朝野の崇敬が篤い」
とある。

 ただ、当社公式HPには
 「籠神社の創建は奈良時代の養老3年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀がおこなわれるようになったという意味ではありません。
 と云いますのは、籠神社は奥宮・真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、創建されたからです。
 籠神社が創建されるまでの奥宮・真名井神社は、吉佐宮(匏宮・与謝宮・与佐宮などとも表記、“ヨサノミヤ”)と呼ばれておりました。
 神代の時代から、天照大神の孫神であり瓊々杵命の兄神である当社海部家の始祖・彦火明命が、豊受大神をお祀りしていました。
 そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑(カサヌイムラ)からお遷りになり、天照大神と豊受大神を『吉佐宮』という宮号で4年間お祀り申し上げました。
 その後、天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、豊受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢にお遷りになりました」
と簡略化して記されているが、ニュアンスがやや異なっている。

 これらによれば、当社は
 ・当社の神主・海部氏の始祖・彦火明命が現奥宮の地・真名井原に豊受大神を祀ったのが始まり(匏宮・現真名井神社)
 ・崇神天皇39年に天照大神が合祀され4年間鎮座した後大和国に遷座し(その後伊勢に遷座)、豊受大神はそのまま鎮座
 ・元正天皇・養老3年、伍佰道祝が真名井原の地から現在地に遷し、社名を与謝宮から籠宮と改称
 ・その子・愛志祝が、主祭神をそれまでの彦火火出見尊から始祖・彦火明命へと変更し、天照・豊受両大神を相殿に祀る
となる。


 彦火明命の豊受大神奉祀について、当社に伝わる勘注系図の彦火明命傍注には
 ・彦火明命 高天原に坐す時 大己貴神の女・天道日女を娶りて天香語山命を生む 上天して御祖の許に到り、然る後当国の伊去奈子嶽(イサナコノテタケ)に降り坐す
 ・然る後、天祖二つの神宝(息津鏡及び辺津鏡、天鹿児弓矢を副ゆ)を火明命に授け、汝宜しく葦原中国の丹波国に降り坐して、此の神宝を奉斎し、速やかに国土を修造せよ。故に火明命之を受け丹波国の凡海息津嶋(オホシアマオキツシマ)に降り坐す
 ・大宝元年丑辛(701)三月当国に地震あり、此嶋一夜にして蒼茫変して海と成る
 ・故に、彦火明命と后・佐手依姫 共に養老三己未年三月廿二日 籠宮(真名井原か)に天降り給ふ
とあり、彦火明命は、まず伊去奈子嶽に天降り、改めて天祖からの命を受けて凡海息津嶋に遷り、大宝元年その嶋が地震のため水没したため、養老3年改めて籠宮に遷ったという(漢文意訳・勝手読みあり)

 彦火明命が最初に天降った伊去奈子嶽とは、当社の西約16km京丹後市峰山町にある磯砂山(イサナゴ・H=661m、比地山ともいう)に比定され(比定根拠不詳)、その北約5kmに元伊勢を称する比沼麻奈為神社(主祭神:豊受大神)が鎮座する。

 つぎに遷った凡海息津嶋とは、今、当社の北東約22kmの若狭湾内にある冠島(ネット地図には大島とある)に比定され、この島について勘注系図には
 「古老伝に曰く、往昔大穴持神と少名彦神が此の地に坐しし時、海中の大嶋小嶋を引き集め大嶋と成す。故に凡海(オホシアマ)と名付く」
とある。
 この大嶋は文武天皇・大宝元年3月の大地震で海中に沈み(続日本紀、大宝元年3月26日条に、「丹波国で三日間地震が続いた」とある)、今は島にあった高山2峯のみが海上に出ているといわれ、勘注系譜には
 「大宝元年3月当国地震 三月已まず 此嶋一夜にして蒼茫変して海と成り 高山二峯と立神岩のみ海上に出る 今常世嶋と号す 亦俗に男嶋女嶋と称す」
とある。

 また、彦火明命の御子・天香語山命の傍注には、
 ・天香語山命と天村雲命(天香語山の御子)は、父火明命に従って、丹波国の凡海息津嶋に天降ります
 ・而して、神議を以て国土を修造せんと欲し、百八十軍神を率いて当国の伊去奈子嶽の到る時、母・道日女命に逢い、此地に天降る由を問う
 ・母答えて曰く、此の国土を堅め造らんと欲す、然るに此の国は豊受大神の坐します国であり、大神を奉斎せずば国成り難し。故に神議を以て奉斎すべき清地を定め、此の大神を懇ろに奉斎し国を成せ
 ・ここに祖命、弓矢を天香語山命に授けて曰く、汝宜しく之を発し、其の落ちる清地に行くべし、是は大神の意也

 ・故に香語山命其の弓矢を発すれば、其の矢当国加佐郡矢原山に到り留まる、根生え枝葉青々。故に其地を矢原(矢原は屋布・ヤフ-と訓む)と名づく
 ・ここに香語山命その南東に到れば荒水有り(巽方三里計りに霊水湧出 天村雲命其の泉水を荒水に濯ぎ以て之を和す 故に真名井と称す)、其地に神籬(ヒモロギ)を建て以て大神を遷し祭る
 ・而して始めて墾田を定め 春秋に田を耕し稲種を施す。即ち恩賴四方に遍き人民豊か也、故に其地を名づけて田造と云う(和名抄によれば、現舞鶴市西部に田造郷との村名がある)

 ・然る後に、香語山命百八十軍神を率いて由良の水門に到る時、父火明命に逢い、其の神宝を奉斎して以て速やかに国土を修造せよとの詔有り

 ・其の地を覓(モト)めて当国余社郡久志備の浜に到りし時、御祖多岐津姫命に逢い、此地居ます由を問う
 ・祖命答えて曰く、斯地は国生みの大神伊邪奈岐命が天降り坐す地にして甚だ清地也。故に汝降り来ますを待てり
 ・是に於いて香語山命 此の地が天に連なり、天の真名井の水に通じるを知り、天津磐境(アマツイワサカ)を起こし、始めて其の神宝を奉斎して其地に豊受大神を遷し祭る(分霊を矢原山に奉斎)。是に於いて国成る

 ・其の時此の地に鹿泉湧出す。ここに天村雲命 天真名井の水を汲みて此の泉に灌して其の水を和らげ、以て神饌の料と為す。故に此の泉を久志備の真名井と云う。今の世に謂う比沼の真名井は訛り也(真名井亦宇介井と云う)
 ・此の淂磐境の傍らに天吉葛生ゆ。天香語山命其の匏(ヒサゴ)を採りて真名井の清泉を汲み、神饌を調理して厳かに祭奠す。故に匏宮(匏は与佐と訓ず)という。亦久志浜宮也
とある(漢文意訳)

 天香山命らが天降った凡海息津嶋・伊去奈子嶽の比定地は上記のとおり。
 次の加佐郡矢原とは、当社の南東約19kmの舞鶴市紺屋付近(西舞鶴港の最南部)といわれ、そこにも元伊勢を称する笶原神社(ヤハラ)が鎮座する。
 次の由良の水門とは、当社の南東約10km、宮津市と舞鶴市の境界を流れる由良川の河口付近かと思われる。
 最後の余社郡久志備浜とは、天橋立を北に渡った基部の辺りで、大きくは当社鎮座地一帯を指す。

 これによれば、天香語山命らはまず冠島に天降った後、父神の命により、南西の磯砂山に遷り、そこから東方舞鶴市紺屋付近へ遷り、次に約10kmほど西の由良川河口付近に戻り、最後に北西10kmほどの久志備浜即ち現鎮座地(真名井原)へと遷ったとなる。


 勘注系図(正式名称:籠名神宮祝部丹後国造海部直等氏之本記、伝:仁和年中 885-89成立)とは、これに先行する“籠名神社祝部氏系図”(本系図、伝:貞観13年-871~元慶元年-877成立)とともに当社社家・海部家に伝わる系図で(両系図共に昭和51年国宝指定)、本系図が始祖・彦火明命以下の直系系図(名のみ)を記す(2・3代、4~17代は欠)のに対して、勘注系図は欠損部を補完するとともに詳しい注記が加えられている。
 本系図は、海部氏が丹後国庁の認可を得て大和朝廷に提出した国家公認の系図で、天皇家・出雲家のそれと並ぶ貴重なものというが、その信憑性については諾否両論があり、特に勘注系図については疑問点が多々みられることから、上記の彦火明命・天香山命の巡幸記録は神話伝承上でのこととみるのが妥当であろう。

 勘注系図の信憑性を度外視すれば、当社の沿革は略以下のようになる。
 ・当社祭祀氏族である海部氏の始祖・彦火明命が、命を受けて丹波国・凡海息津嶋に天降り、その子・天香山命らが豊受大神の奉斎地をもとめて各地を遍歴し、最後に真名井原に遷って豊受大神を奉祀して匏宮(ヨサノミヤ)と号したのが当社の始まりで
 ・その匏宮に、崇神天皇39年、皇女・豊鋤入姫命が天照大神を捧持して大和・笠縫邑から遷り来て、吉佐宮(ヨサノミヤ)と号して4年間奉祀し、その間、豊受大神が大御饌を奉った
 ・4年後、天照大神は大和へ遷られたが(その後、垂仁26年に皇女・倭姫命が奉持して伊勢内宮へ遷座)、豊受大神はそのまま鎮座されていたが
 ・雄略天皇26年、天照大神の神託によって、豊受大神も伊勢の度会の宮(伊勢外宮)に遷られた
 ・奈良時代・養老3年に、真名井原から現在地へ遷座して社名を吉佐宮から籠神社へと改称し、主祭神を彦火明命へと変更した。


 当社主祭神で海部氏の始祖である彦火明命(ヒコホアカリ)とは、
 ・古事記--天照大神の御子・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)の長子(天火明命)で、葦原中国に天降った瓊々杵尊(ニニギ)の兄神
 ・書紀・一書6・8--天忍穂耳命の長子で瓊々杵尊の兄神(天火明命:一書6、天照国照彦火明命:一書8)
とある神だが、記紀共に神名がみえるだけで、その事蹟等についての記述はない。(勘注系図では、天忍穂耳命の第三子となっている)
 なお書紀本文には、天忍穂耳命の御子にその名はなく、代わって瓊々杵尊の三御子の一柱、即ち山幸・海幸神話にみえる彦火火出見尊(ヒコホホデミ)・火闌降命(ホノスソリ)の弟神に火明命の名がみえるが(古事記では火須勢理命とあり、天忍穂耳尊の御子・火明命とは別神という)、この神は天照大神の曾孫にあたり、大神の孫という当社祭神とは別神とみるのが順当であろう。

 彦火明命が奉祀したという豊受大神とは書紀にはみえず、古事記には
 ・神生み段--火神・カグツチを生んだことで火傷を負い苦しむイザナミの尿から成りでた和久産巣日神(ワクムスヒ・穀物・食物の神)の御子・豊宇気毘女(トヨウケヒメ)
 ・天孫降臨段--天孫・瓊々杵尊に従って天降った神々の一・登由気神(トユケノカミ=トヨウケヒメ) この神は度会に坐す神也
とあり、天孫降臨段に「この神は度会に坐す」とあることから、伊勢外宮の祭神・豊受け大神を指すという。

 天照大神の伊勢国への還幸については、
 ・書紀・垂仁25年条--天照大神を豊鋤入姫から離して倭姫命に託した。姫は鎮座地を探して笠縫邑から宇陀の篠幡に行った。さらに引き返して近江国に入り、美濃を経て伊勢国に至った
とあるだけで、丹波国を経過したとは記されていない。

 一方、倭姫命世紀(鎌倉時代)には、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫命が天照大神の御杖代となって
 ・崇神39年--但波の吉佐宮(余佐宮)に遷幸、4年間奉斎。ここより更に倭国へ求め給ふ
           この年、豊宇介神(トヨウケノカミ)が天降りまして、(大神に)御饗を奉る
として、丹波国の吉佐宮に4年間奉斎されたとあり、当社の古称“吉佐宮”とは、この宮を指す。

 因みに倭姫命とは、垂仁天皇と比婆須比売命(ヒバスヒメ)との間に生まれた皇女で、母・比婆須比売命は、謀反を起こした兄・狭穂彦(サホヒコ)とともに敗死した皇后・狭穗姫が、死に臨んで天皇に推挙した丹波道主王(タンバミチヌシ)の娘5人の中の一人で、母は丹波の豪族・河上麻須の娘・丹波之河上之麻須郎女(タンバノカワカミノマスノイラツメ)という。
 この系譜からみると、倭姫命が海部氏の外孫とされることから、その巡幸経路の中に丹波国が加えられたとも邪推できる。

 由緒は、豊受大神は雄略天皇の御代に伊勢に遷られたというが、これも倭姫命世紀にいう
 ・雄略天皇21年、天照大神 倭姫命の夢に教え覚し給はく
 ・「吾一所に坐せば 御饌も安く聞こし食さず 丹波国与佐の小見比治の魚井原(真名井原)に坐す道主の子・八乎止女(ヤオトメ)の斎奉る御饌都神・止由居大神を 吾が坐す国に欲し」と
 ・時に大若子命を差し使ひ 朝廷に御夢の状を申さしめ給ひき
 ・翌年 天皇勅して 大佐々命を以ちて 丹波国与佐郡真名井原より 度会の山田原宮に遷し奉る(大意)
との記事によるものだろうが、垂仁朝に巡幸した倭姫命が約百年後の雄略朝まで生きていたなど、神話上の話とはいえおかしなことである。
 なお、伊勢外宮に伝わる止由気宮儀式帳(804年成立というが、疑問とするものが多い)によれば、
  「その時、大長谷天皇(雄略天皇)の夢に誨覚賜り(オシヘサトシタマハリ)云々」
として、天照大神から雄略天皇に夢告があって、丹波国から伊勢国に奉遷されたとある(雄略紀には記述なし)

 倭姫命世紀とは、伊勢神道の根本経典という神道五部書の一書だが、この神道五部書とは、鎌倉時代、外宮の豊受大神を内宮の天照大神より上位に置こうとする外宮の神官等によって作られた偽書との説が有力で、豊受皇太神御鎮座本紀で
 「天地初めて発する時、大海の中に一物有り、浮かぶ形葦牙の如し。其の中に神人化生、名を天御中主神と号す。亦名豊受皇太神と申す也」(漢文意訳)
として、豊受大神を天地開闢時に最初に成りでた天御中主神(アメノミナカヌシ、古事記)と同神とするなど、伊勢神道独自の主張が多々みられる。


 このように、当社由緒のうち天照大神に関する部分が倭姫命世紀に依っているとみられることから、この由緒は鎌倉時代以降に作られたとも思われるが、国史上での当社関連記録として
 ・嘉祥2年(849)2月25日  奉授丹後国籠神 従五位下(続日本後紀)
 ・貞観6年(864)12月21日  授丹後国従五位下籠神 正五位下(三代実録)
 ・ 同 13年(871)6月8日  授丹後国正五位下籠神 従四位下(同上)
 ・元慶元年(877)12月14日 授丹後国従四位下籠神 従四位上(同上)
との神階授叙記録があり、9世紀にあったことは確かなことで、とすれば当社本来の創建由緒は現由緒とは異なっていたとも推測される。 

 当社由緒は、籠神社の摂社・真名井神社(旧匏宮)の鎮座地を、豊受大神が鎮座していた比沼(比治)の真名井原というが、その比定地としては、当社以外にも豊受大神社(福知山市)・比沼麻奈為神社(ヒヌマナイ・京丹後市)・藤社神社(フジコソ・京丹後市)・奈具神社(ナグ・京丹後市・宮津市)などがある。
 真名井とは、高天原にある神話上の聖なる清泉であり(アマテラスとスサノオのウケイに際して、それぞれの物実を真名井の水で濯いで云々とある)、それを地上に移した呼称であることから、その比定地が数所あっても可笑しくはないが、それにしても数が多すぎる。


※祭神
 ・主祭神--彦火明命
 ・相殿神--豊受大神・天照大神・海神(ワタツミノカミ)・天水分神(アメノミクマリノカミ)

 当社諸祭神について、当社公式HPには次のようにある(『 』内)
*彦火明命
 『天照大神の御孫神で、邇々芸命(ニニギ)の御兄神に当たられます。
 邇々芸命は天照大神の御神鏡をお持ちになって日向の高千穂に天降られましたが、彦火明命は豊受大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって現在の丹後に天降られ、丹後・丹波地方を開拓し、豊受大神をお祀りになった神様です。
 彦火明命は穂赤命(ホアカ)とも呼ばれ、稲作に関係する側面と太陽神としての側面を持ち合わせています。

 別名を天火明命(アメノホアカリ)・天照御魂神(アマテルミタマ)・天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリ)とも云います。
 また社伝によれば、上賀茂神社の賀茂別雷神(カモワケイカヅチ)と異名同神であると伝えられ、その御祖の下鴨神社の賀茂建角身命(カモタケツヌミ)も併せ祀っていると伝えられています』

 ここで、彦火明命は豊受大神の御魂代である神鏡を持って丹波国に天降ったというが、記紀には天火明命の降臨についての記述はなく、勘注系図には二つの降臨伝承
 ①彦火明命が高天原に坐す時、大己貴命の女天道日女命を娶りて天香語山命を生む。上天して御祖の許に到り、然る后に当国の伊去奈子嶽(イサナコノタケ)に降り坐す。
 ②天祖二つの神宝(息津鏡及び辺津鏡に天鹿児弓・天羽々矢を副えて賜る)を火明命に授け、汝葦原中国の丹波国に降り坐して、此の神宝を奉斎して速やかに国土を修造せよと詔す。火明命此れを受けて、丹波国の凡海息津嶋(オホシアマノオキツシマ)に降り坐す。(漢文意訳)
が記されている。

 これによれば、彦火明命は先ず伊去奈子嶽に天降り、更に、改めて凡海息津嶋に天降ったと思われるが、いずれにしても、天降りに際して豊受大神を捧持したとはなく、その豊受大神について、勘注系図には
 「往昔 豊受大神が当国の伊去奈子嶽に坐しし時、天道日女命等が大神に五穀及び桑蚕等の種を請い、其の嶽に真名井を掘り水を灌え以て水田陸田を定めて植えた。大神が之を見て大いに喜び、阿那邇恵志(アナニエシ)面植彌之与田庭(読み不明)と詔した」
とあり、彦火明命が天降る以前から伊去奈子嶽に鎮座していたともとれる。


 記紀皇統譜における火明命は、上記のように
  古事記及び書紀一書6・8によれば、天照大神の孫神(天火明命・一書8では天照国照火明命)で瓊々杵尊の兄神とあるが、、
  書紀一書6・8に「天火明命は尾張連の遠祖である」とあるのみで、その事蹟についての記述はない。

 また書紀は、火明命は尾張氏の遠祖というが、当社社家・海部氏も彦火明命を以て始祖とし、勘注系図には
  彦火明命--天香語山命--天村雲命--倭宿禰命 ・・・ 
と続く係図が残され、海部氏は籠神社祝部を世襲し、現在まで80数代を数えるという。
 ただ、勘注系譜の初代から10数代までの神名が、先代旧事本紀にみえる尾張氏係図の神名と略同じことから、海部氏は尾張氏と同族ではないかともいうが、確たることははっきりしない。


 上記案内は、彦火明命の別名として天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命をあげるが、
 *天火明命--古事記及び書紀・一書6にみえる神名
 *天照国照彦火明命--書紀・一書8にみえる神名
で、いずれも瓊々杵尊の兄とある。

 *天照御魂神(アマテルミタマ、アマテルミムスヒともいう)
  天照御魂神とは通称・アマテル神とも呼ばれる自然神(太陽神)で、大王家および各地の豪族らによって奉祀された日の神をいう。
  大王家で奉斎されていた日神・アマテル神が天照大神へと昇華して皇祖神ととなったことから、その他のアマテル神の名は記紀から消え、アマテル神を奉祀したいた神社は祭神を火明命へと変更したという。

 一方、先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)によれば、天照国照彦火明命の本名は“天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊”(アマテルクニテル ヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)で、その別名を饒速日命(ニギハヤヒ)というとあり、物部氏及の遠祖・ニギハヤヒと同神というが、これは物部氏が己の出自を皇統譜に結びつけるために作られた偽系図ともいう(この長々しい神名は、同じ氏族とされる尾張氏と物部氏の、それぞれの祖とされる天火明命と饒速日命を合体して作られた神名ともいう)

 また“御魂”は一般には“ミタマ”と読むが、“ミムスヒ”とも読む(山城国・木嶋坐天照御魂神社など)。“ミ”は美称であって、“ムス”は“魂”・“産”とも記し“生成する”・“繁殖する”ことを、“ヒ”は“霊”と記すように“生成力”・“霊力”を意味する。

 そこからアマテルミタマ神とは、万物を産みだし生育する“ムスヒ(産霊)の神としての日神”であり、アマテラスが皇祖神として伊勢の地に祀られる以前から、各地(特に畿内)に祀られていた日神・太陽神(男神)だが、この神名は記紀には一切登場しない(神社と古代王権祭祀・大和岩雄)

 アマテルを冠する式内社は畿内以西に8社あり、そのうちアマテルミタマ社は4社を数え、その4社(大和国:他田・鏡作、山城国:木嶋および当社)は全て畿内に鎮座し、これらアマテルミタマ社4座は、いずれも“日知り”の地に鎮座する。
 日知りとは“日読み”であり、太陽の動きによって冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬といった季節の節目を知る(読む)ことをいう。
 古代の権力者は、太陽の動き即ち日を読むことによって一年の始まりや、農耕の開始及び収穫の時期を知ってマツリゴトをおこない、四季の順調な循環を神に祈るとともに、統治の手段としたという。

 当社が彦火明命を主祭神とすることからみると、当社は元々、在地の豪族(海部氏かどうかは不詳)が日神・アマテル神を祀り日知り神事をおこなったことに発し、何時の頃かに彦火明命による豊受大神奉祀へと変わり、更にアマテラスの伊勢遷幸神話が加上され現在の姿になったのかも知れない。

 なお上記案内は、当社祭神を賀茂神社の祭神・賀茂別雷神・賀茂角身命と異名同神というが、その根拠は不明。

*豊受大神
 『伊射那美神(イザナミ)の御子・和久産巣日神(ワクムスヒ)の御子神で、天孫降臨の際に天火明命(彦火明命)と共に天降られた神様です。
 神代の昔、丹後国(京都府北部)に天降られ、丹後の総氏神・最高神として彦火明命(籠神社海部氏始祖)によってお祀りされました。
 雄略天皇22年、伊勢神宮にお祀りされている天照大神の御神意により、天照大神の食事を司る御饌津神として伊勢神宮外宮の主祭神に迎えられました。
 五穀豊穣の祖神でありますが、特に衣食住守護、産業繁栄、水の徳が顕著で、生命守護神でもあらせられます。
 豊受大神は別名を天御中主神(アメノミナカヌシ)・国常立神(クニノトコタチ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘売神(トヨウケヒメ)・豊受比売と云います』

 豊受大神は、上記したように、古事記に“イザナミの御子・ワクムスヒの御子・豊宇気比売”とある女神で(神生み段)、天孫・瓊々杵命に従って天降ったとあり(同・天孫降臨段)、当社由緒が準拠する倭姫命世紀では、天照大神の吉佐宮遷座の時に天降って大神に御饌をたてまつったという。
 これに対して、当社由緒では、天孫降臨に時、海部氏の始祖である彦火明命に奉斎されて天降り真名井神社(匏宮)に祀られたとあり、真名井神社が当社の前身であることから、その祭神を相殿神として祀ったものであろう。
 ただ由緒略記・勘注系図などによれば、豊受大神は彦火明命降臨以前から丹後国に祀られていたと思われ、所謂地主神として祀られたのかもしれない。

 また、豊受大神は天地開闢の際に最初に成りでた天御中主神(古事記)・国常立神(書紀)の異名同神とし、勘注系図には
 ・豊受大神 古記云 亦名天照豊受皇大神 亦名天照大神和魂
         一云 豊受姫命 亦名天御中主尊
とあるが、これは伊勢神道(神道五部書)で豊受大神を天照大神より上位に置こうとして詐称したものという。

*天照大神
 豊鋤入比売が奉祀する天照大神が当地(吉佐宮)に4年間留まられたとの伝承(倭姫命世紀)にもとずくものであろう。

*海神(ワタツミ)
 『社伝によると、当社の海神は山幸彦である彦火火出見命(ヒコホホデミ)の后神の豊玉毘売(トヨタマヒメ)と伝えられています。
 航海安全・漁業満足・潮の満ち引きを司られる神様です』

 豊玉毘売とは、失った兄神の釣り針を探しに海神の宮にやってきた彦火火出見命と結ばれ鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアヘズ、神武天皇の父)を生んだ海神の娘で、古事記にいう天火明命からみると甥嫁に当たる。

 その豊玉毘売が相殿神とはいえ当社に祀られるのは、夫神・彦火火出見命の兄弟神に火明命がいる縁(兄嫁に当たる)かともおもわれるが、この火明命は、天照大神から見ると曾孫に当たり、大神の孫である彦火明命とは別神であることから、当社と豊玉毘売との関係は見えず、毘売が当社に祀られる由縁は不明。
 ただ、勘注系図に、「彦火明命 一云 穂瓊々杵尊御子 亦名穂々出見命(彦火火出見命)」とあるなど、火明命の系譜上での位置づけに混乱があることが関係するのかもしれない。

*天水分神(アメノ ミクマリ)
 『奥宮・真名井神社にお祀りされている水戸神(ミト)の御子神です。天上からの水の徳によって諸々の水利・水運・水道など水に関することを司られる神様です。
 奥宮の水戸神と罔象女命(ミヅハノメ)は共に神代以来最古の水神です』

 天水分神とは、古事記・神生みの段に、 
 ・「国を生み終えて更に神を生みき。生みし神の名は・・・次に水戸神、名は速秋津日子神・速秋津比売神。この両神が生みし神の名は、・・・天之水分神、次に国之水分神・・・」。
 ・古事記伝(本居宣長・1798)に、「天之水分神 国之水分神 名の義 久麻理(クマリ)は分配(クバリ)なり、書記に分をクバルとも訓り」
とある神で、HPにはいろんな神格を並べているが、一般には山麓の水口にあって水 特に農業用水を分配する神という。
 水分神が当社に祀られる由縁は不詳で、古資料にみえる水分神主祭神説(下記)から連なるのかもしれないがはっきりしない。


 今の主祭神は彦火明命だが、古くには諸説があったという。
 *彦火火出見尊--由緒略記
   匏宮最初の主祭神で、養老3年の籠神社への遷座に伴い、彦火明命に変更したとある。
   彦火火出見尊は、皇統譜によれば天孫・瓊々杵尊の御子神で(書紀)、現祭神・彦火明命の一代後の神(甥)だが、この神と海部氏との関係はみえず、これを主祭神とした由緒は不明。
   ただ、勘注系譜に「始祖彦火明命  一云 亦名穂々手見之命(火火出見尊)」とあり、之に依ったのであろうが、記紀に見る限り、この両神は別神であって別名というのはおかしい。
   なお、由緒略記にも「彦火明命の別名とも伝えられる」とあり、同尊が「籠船(カゴフネ)にて竜宮(海神の宮)へ行かれたとの伝に依って籠宮と云う。養老元年以前は同尊が主神とされていたが、その後彦火明命が主神として祭られる」とある。

 *豊受大神--籠大明神縁起秘伝

 *伊弉奈岐大神(イザナギ)--丹後風土記・丹後国式社証実考
  丹後国風土記・逸文にある天の橋立伝承によるもので、そこには
  「国をお生みになった大神のイザナギ命が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた。それ故に天の椅立(ハシダテ)といった。
   ところが、大神がお休みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備(クシビ・神異)のことなりと不思議にお思いになった。それ故に久志備の浜といった。・・・」
とあり、天の橋立はイザナギが真名井原に天降ったときの梯子が倒れ伏したもので、その縁から天橋立の基部に鎮座する籠神社の主祭神をイザナギ尊とするのであろう。

 *天水分神--古事記伝・神名帳考証(度会延経・1733)・特選神名牒・神社明細帳・与謝郡誌
  古事記伝--丹後国与謝郡の籠神社は天之水分神なりと云ふ
  神名帳考証--水分神  一宮記に云 住吉同躰と
 とあるが、何れもその根拠は記されていない。

  ただ特選神名牒(1876)は、祭神・天之水分神とはいうものの、
  「度会延経考証また神名帳などに天水分神とあり、古事記伝にも天水分神なりと云ひ、平田篤胤も師説にもたれて云るは誤れり。
   水分神とは祝詞にも見えたる如く、山々の口より下したまう水とあるに、此の社前は直に海で後ろは成相山なり、府中七村は田面少なく水分神の有るべき所には非ず」
として、
  「この神社は風土記に見えたる天橋立の縁起に依りて、その神霊を鎮め祭りたるなるべし」
として上記風土記にいう天橋立伝承を記し、
  「故に籠神社は其の神霊を祭りしならんとは思ふなり」
としてイザナギ尊祭神説を有力視している。

 *住吉三神--大日本一宮記・丹哥府志
  大日本一宮記(室町時代)--籠神社 住吉と同神なり
  丹哥府志(1841頃か)--籠神社は蓋し表筒男命・中筒男命・底筒男命(伊弉諾尊の皇子住吉の三所大神と称す)に豊受皇大神を合せ祀る也
とあるが、これに対して神祇志料(1871)
  「本社祭神は火火出見尊また海神また天水分神など云う説もあれど 一宮記又土人伝説に住吉三神を祭ると云る、拠あるに似たり。
   昔 海部直氏なりし者 丹波国造の同族の由縁に因て此国に住し 其祖天火明命を本社に祭りたりけむを 後に同祖なる津守氏の住吉神主たりしいはれを以て 住吉神をも合わせ祭りしより 終に住吉神を主神の如く言伝えしなるべし」
として、当社本来の主祭神は豊受大神だが、海部氏と津守氏が天火明命より出た同族であることから住吉三神が勧請され、後になって主祭神のようにみられたという。

 *国常立命--宮津府志
  宮津府志(1761)--祭神は豊受皇大神とするものの、社記に曰くとして「与謝郡一の宮籠の神社は神代の鎮座にして 御神体は国常立尊也」とある。
 主祭神を国常立尊とするのは、神道五部書で豊受大神と国常立尊とを異名同神とすることからのもので、国常立尊説は豊受大神説と同じとみることができる。

 *大綿津見命(オオワタツミ・海神)--籠神社誌・府中村誌
  資料の実見不能のため、当説の根拠は不詳。


※社殿等

 
籠神社・社殿等配置図(部分)

 道路脇の一の鳥居を入り、短い石畳の参道の先に二の鳥居が立つ。

     

 二の鳥居の先、低い石段を上がった上に横長の神門が建ち、左右に伸びた回廊に囲まれた中が境内。
 境内正面に横長の拝殿が、その奥、弊殿に続いて同じく千木・勝男木をあげた神明造の本殿が鎮座する。

 参詣の栞には、
 「御本殿は伊勢神宮と同様の唯一神明造りで、御本殿の勝男木は10本、千木は内削ぎになっています。心御柱や棟持柱があり、・・・
 神明造りのお社は他にもありますが、規模・御社格とも伊勢神宮御正殿の様式に近似しているお社は当社以外になく、当社と伊勢神宮が古代から深い繋がりがあったことを物語っています」
とある。(雨中での参詣のため細部は実見せず)


神 門 
 
拝 殿

本 殿 

◎境内摂末社
 拝殿の左(西)に攝末社4社が並ぶ(拝殿側より)
 ・天照大神和魂社(摂社)--天照大神の和魂、或は荒魂とも伝えられる。(由緒略記より、以下同じ)
 ・春日大明神社(末社)--武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
                 古代には建甕槌社と呼ばれたと伝える
 ・猿田比古神社(末社)--猿田彦大神
                古来大世多大明神と呼ばれる。之は大佐田大明神(猿田彦の別名)の意であろう
 ・真名井稲荷神社(摂社)--宇迦之御魂大神・保食大神・豊宇気毘売大神
       古代から明治末期まで奥宮・真名井原に祭られていたのを平成3年本社境内に再建、豊受大神直系の神社

 また、拝殿の右に小祠一社が鎮座する
 ・蛭子神社(摂社)--彦火火出見尊・倭宿禰命  恵美寿神社とも呼ばれる(祭神とエビス神との接点なく、当社が恵比須社と呼ばれるのは疑問)

 
天照大神和魂社
 
春日大明神社
 
猿田比古神社
 
真名井稲荷神社
   蛭子神社

*倭宿禰命像(ヤマトスクネ)

 境内摂社・真名井稲荷神社の左に、亀に乗った古代人の彫像が立ち、倭宿禰命像という。

 傍らの案内には
 「倭宿禰命  別名 珍彦(ウズヒコ)・椎根津彦(シイネツヒコ)・神知津彦(カンシリツヒコ)
  籠宮主祭神天孫彦火明命第4代
  海部宮司家4代目の祖

  神武東遷の途次、明石海峡(速吸門・ハヤスイノト)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速・河内・大和へと進み、幾多の献策により大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰の称号を賜る。外に大倭国造・倭直とも云う

  亀に乗ったお姿は、応神朝の海部の賜姓以前、海人族の始原の一面を語り、又海氏(アマウジ)と天系(アメケイ)との同一出自をも示唆するようである」
とある。 


倭宿禰命像

 倭宿禰とは海部氏系譜のみにでてくる名で、
 古事記(神武東征段)には、
 ・神武天皇が吉備の高倉宮(岡山県玉野市付近に比定)から出立され速吸門まで来られた時、亀に乗って釣りをしながら両袖を振ってやってくる人に逢われた
 ・天皇が呼び寄せて「お前は誰か」とおたずねになると、「私は国つ神です」と答えた(書紀では珍彦)
 ・また「お前は海路を知っているか」とお尋ねになると、「よく存じています」とお答えした
 ・そこで槁(棹・サオ)をさし渡して御船に引き入れて、槁根津日子という名をお与えになり水先案内とされた(書紀では椎根津彦)
 ・この人は大和国造らの祖先である(書紀では倭直らの祖)
とあり、槁根津日子(サオネツヒコ)として出てくる。
 なお速吸門の位置についは、
 ・古事記では、吉備高島宮出立の後に出てくることから、地理的には明石海峡を指すとおもわれるが、
 ・書紀では、東征出立の直後に出てくることから豊予海峡とされる(岩波文庫版・古事記の注にも、豊予海峡が正しいとある)

 また書紀(神武紀)には椎根津彦の名で登場し、速吸門における出現伝承(椎根津彦)の他に
 ・神武が宇陀の高倉山の頂きから国中を眺めると、賊軍が満ち満ちていて道が塞がれていた
 ・天皇が神に祈ってやすまれると、夢に神が顕れ、『天の香具山の土をとって、平瓦80枚と御神酒を入れる瓶をつくり天神地祇を祀り、身を清めてウケヒ(占いの一種)をすれば、敵は自然に伏するだろう』とのお告げがあった
 ・天皇は椎根津彦(シイネツヒコ)と弟猾(オトウカシ)に香具山の土を採ってくるように命じ、二人は老翁・老婦に化けて敵中を抜け土を採ってきた
 ・天皇は、その土で沢山の平瓦(ヒラカ)と御神酒を入れる厳瓮(イツヘ)を造り、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀り賊を平定した。(大意)
とあり、神武天皇の大和入りに際して大いなる功績があり、その功によって神武即位後に大和国造に任じられたとある。

 倭宿禰の出自について
 海部氏本系図では
   始祖彦火明命(天忍穂耳尊第三御子)(2世欠)-三世孫倭宿禰命・・・
と簡単に記すが、勘注系譜には
   始祖彦火明命(后:大己貴神の娘・天道日女命)--天香語山命(后:穂屋姫命)--天村雲命(后:伊加里姫命)--三世孫倭宿禰・・・
とあり、その傍注には
  「倭宿禰命  亦名天御陰命 亦名天御陰志楽別命 母伊加里姫命
   神日本磐余彦天皇(神武天皇)の御宇に参り赴き、祖神伝来の天津瑞神宝を献じ(息津鏡・辺津鏡是也)、以て奉仕す」(漢文意訳)
と、速吸門での出現とは異なる伝承(伝来の神宝を献上しての服従説話であって、そこに水先案内人の面影はない)が記されている。
 (天御陰命とは、先代旧事本紀所載の尾張氏係図に天村雲命の長子とあることから、勘注系譜で同じ天村雲命の御子である倭宿禰命に充てたものと思われる。天御陰志楽別命は天御陰命の別名)

 また、勘注系図には
  別伝  彦火明命--彦火火出見命--建位起命(タケイタテ・タケイキ)--倭宿禰命・・・
  一云  彦火明命--建位起命--宇豆彦命(ウズヒコ・珍彦)--倭宿禰命・・・
と本系図とは異なる系図もあり、海部氏内部でも倭宿禰命の位置づけに異論があったことを示唆している。

 更に、先代旧事本紀には
  皇孫本紀
   彦火火出見尊は彦鸕鷀草葺不合尊をお生みになった。次に武位起命(タケイタテ・建位起命)をお生みになった。これが大和国造の祖である。
  国造本紀
   (速吸門に現れた海人が)「私は皇祖・彦火火出見尊の孫で、椎根津彦です」と名乗った。
   (神武天皇は)椎根津彦命を大倭国造に任じた。すなわち大和連らの祖である。
とあり、これを系図化すれば、
  彦火火出見尊(后:海神の娘・玉依姫)--武位起命(建位起命)--椎根津彦命 →大和連(大和国造)
となる(勘注係図にいう別伝と略同じ)
 これによれば、椎根津彦と彦火明命との直接的な繋がりはないが、勘注系図に「彦火明命 亦名彦火火出見尊」とあるように、両神の間には混乱がある。


【真名井神社】
 籠神社の前身・匏宮(吉佐宮)の後継社で、本宮北東の森の中に鎮座する。

 由緒略記には、
 奥宮境外摂社 眞名井神社(古称 匏宮・吉左宮・与謝宮・久志濱宮、別称 豊受大神宮・比沼真名井・外宮元宮・元伊勢大元宮)
 *磐座主座(上宮) 豊受大神 亦名 天御中主神・国常立尊・その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。
    天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀豊穣の祖神である・・・
    相殿に罔象女命(ミズハノメ)・彦火火出見尊・神代五代神を祭る
 *磐座西座 天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美太神
    この磐座は日之小宮(ヒノワカミヤ)と申し、主神は天照太神であらせられる。
    奈岐・奈美二神は大八洲をお産みになり、奥宮境内真名井原の磐座に降臨され、天橋立(天地通行の梯)をお造りになされた大神であります(丹後国風土記逸文に見える)。
とあるだけで(参詣の栞より)、由緒等についての記述はない。
 なお、この二つの磐座は社殿背後の林の中に座っており、右が磐座主座、左が磐座西座という。他にも幾つかの磐座があるらしいがはっきりしない。

 ただ、当社公式HPには
 「天橋立北浜にある真名井原に鎮座する真名井神社は、元伊勢神宮であり、古代には匏宮・吉佐宮と呼ばれていました。
 匏宮は天照大神の孫神であり海部氏の始祖である彦火明命が創祀した宮で、丹後の最高神である豊受大神をお祀りしていました。
 その御縁故により、第10代崇神天皇39年に皇女・豊鋤入姫命が御杖代となって、天照大神を倭国笠縫邑から当地の真名井原にお遷しになり、豊受大神と天照大神を並び併せて吉佐宮と称して4年間お祀りもうしあげました。
 つまり吉佐宮とは、神代から豊受大神をお祀りしていた宮、或いは崇神天皇の御代に真名井原において豊受大神と天照大神を一緒に4年間お祀りした宮のことを云います。
 天照大神は最終的には垂仁天皇26年9月に、皇女・倭姫命が伊勢の地にお鎮め申し上げました。

 その後、およそ480年経った第21代雄略天皇21年に、倭姫命の御夢に天照大神がお現れになり、『吾、天之少宮(アメノワカミヤ)に坐しし如く、天の下にしても一所に坐さば御饌も安く聞こし食さず、丹波国の与佐の小見の比沼の魚井原(マナイハラ)に坐す道主(丹波道主)の子・八乎止女(ヤオトメ)の斎奉る御饌津神(ミケツカミ・食事を司る神)・止由気大神(豊受大神)が我が坐す国へ坐さしめむと欲す』とお告げになりました。
 それによって、豊受大神は雄略天皇22年7月7日に、天橋立北側にある真名井原から伊勢の地にお遷りになりました。

 両大神が伊勢にお遷りになった後、飛鳥時代に宮名を吉佐宮から籠宮と改め、奈良時代に奥宮の地から現在の籠神社が鎮座する場所に遷宮いたしました。
 遷宮した後の吉佐宮においても祭祀は続けられ、真名井神社と呼ばれるようになりました」
とある。

※社殿等
 真名井神社は籠神社本宮の北東に鎮座する。
 神社へは、一旦、本宮境内の外に出て東側回廊に沿って北へ進んだ先の注連縄をはった一の鳥居(〆め鳥居)をくぐって右に折れ、しばらく進んだ左手の二の鳥居、樹木に覆われた参道を進んだ先の三の鳥居を入り、石畳の参道を進んだ先が境内となっている。本宮から約10~15分ほど。
 ただ参詣時、社殿解体修理(平成30年秋完了予定)のために全体がシートに覆われていて社殿等全体は実見できず、小さく開けられたシートの隙間から社殿背後にある磐座(石柱に天照大神と見えるから磐座西座らしい)の一部が覗き見できただけ。

 
一の鳥居(〆め鳥居)
 
二の鳥居
 
参 道
 
三の鳥居(この奥が境内)
 
磐座西座の一部
 
社殿配置図

 社殿及び背後にある二つの磐座は、社殿解体修理のため実見出来ず、下の写真は参詣の栞からの転写。

 
真名井神社・社殿
 
磐座主座

磐座西座 

 三の鳥居・社殿間の西側に
 ・ご霊水 天の真名井の水
 ・真名井水神社
がある。
 天真名井の水について、参詣の栞には
  「この水は籠神社海部家三代目の天村雲命が天より持ち帰った御神水です。
   天村雲命はその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、その後丹波国の吉佐宮(当社)の井戸に遷しました。
   その後倭姫命が伊勢外宮の上御神社の井戸に遷されたと伝えられています」
とあり、
 豊受皇太神御鎮座本紀にも
 ・食国(オスクニ)に天降られた皇孫命(瓊々杵尊)が天村雲命を召して、「食国の水は未だ熟れておらず荒水であるから、御祖・天照皇大神の御許に行って、この由を申し上げよ」と詔された
 ・天村雲命は高天原に上がって、御祖・天照皇大神に子細を申し上げた
 ・天照皇大神は、高天原にある天忍石の長井(アメノオシハノナガイ)の水を取って八盛して天村雲命に与え
 ・この水を持ち下って、皇太神の御饌に八盛して献じ、残りは天忍石水として食国の水に加えて朝夕の御饌に献じ奉れ と教えられた
 ・天村雲命は、この水を日向の高千穂宮の御井に据え奉り
 ・後に、丹波の真名井に移し鎮め、水戸神が仕え奉った
 ・その後、真名井原から止由気宮(伊勢外宮)の御井に移し奉った(漢文意訳)
とあり、当地・真名井原の水は高天原からもたらされた聖なる水だという。


天の真名井の水 
 
真名井水神社

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