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皇 大 神 社
俗称--元伊勢・内宮
京都府福知山市内宮
祭神--天照大神
                                                             2018.01.10参詣

 京都丹後鉄道宮福線・大江山口内宮駅の南西約400m、県道9号線西の小高い丘の中腹に鎮座する。式外社。

※由緒
 参詣の栞には、
 「当社は、皇祖・天照皇大神をお祀りする神社で、正式社名は皇大神社(コウタイジンジャ)であるが、一般にその上に元伊勢内宮を冠してお呼びしている。
 伝承によれば、人皇第10代崇神天皇39年(紀元前59年)に『別に大宮地を求めて鎮め祭れ』との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(現奈良桜井市三輪)を出御されたという。それは今を去る二千数十年前のはるかな昔のことであった。

 そして、まず最初に、はるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。
 皇大神は4年ののち、御神蹟をおとどめなされて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、垂仁天皇26年(西暦紀元前4年)に伊勢の五十鈴川上の聖地(今の伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになった。

 しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮内宮の元の宮として『元伊勢内宮』あるいは『元伊勢皇大神宮』・『大神宮さん』などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰が続いています」
とあり、

 また丹後国加佐郡旧語集(1735)には
 「天照大神 此所より 崇神天皇御宇大和国へ遷り 夫より今の伊勢国高間原へ遷宮成り奉る」(漢文意訳)
とあるという(日本の神々7・2000)

 これらの由緒によれば、当社は天照大神の大和から伊勢への遷幸伝承にかかわって創建された神社というが、天照大神の伊勢遷幸について書紀には、
 ・崇神6年--これより先、天照大神・倭大國魂の二神を皇居内にお祀りしていた。
       ところがその神の勢いを畏れ、共に住むことには不安があった。そこで、天照大神を豊鋤入姫に託し、大和の笠縫邑に祀った。
 ・垂仁25年--天照大神を豊鋤入姫からはなして、倭姫命に託された。姫は大神を鎮座申し上げるところを探して、宇陀の篠幡に行った
       さらに引き返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。
とあるだけで、丹波国に至ったとの記事はない。

 しかし、伊勢神道(度会神道とも)の根本経典という神道五部書の一・倭姫命世紀によれば、
 ・崇神6年--倭笠縫邑に磯城の神籬(ヒモロギ・臨時的な祭場)を立て、天照大神と草薙剣を奉遷し、皇女・豊鋤入姫に奉斎せしめた。
 ・崇神39年--(皇女・豊鋤入姫命が天照大神の御杖代となって)但波(丹波)の吉佐宮(ヨサノミヤ・余社宮とも)に遷幸し、4年間奉斎、ここから更に倭国へ求める。
           この年、豊宇介神(トヨウケノカミ)が天降って、大神に御贄を奉る。
 ・垂仁26年--(皇女・倭姫命が)天照大神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留まり、・・・
          高天原に千木高知りて下っ磐根に大宮柱広敷立て、天照大神並びに荒魂宮和魂宮と鎮まり坐し奉る。
として、大和の笠縫邑を出たアマテラスは先ず丹波の吉佐宮に遷幸し4年間留まったとあり、この吉佐宮が当社の前身という(他にも、余佐宮の比定地として、宮津市の籠神社の奥宮・真名井神社がある)

 これに対して、加佐郡誌(大正14・1925)
 「当社は崇神天皇の御代 大和国笠縫の里から当国余依宮へ御遷幸の砌 此の地にも暫く御鎮座あらせられ 垂仁天皇の36年 今の伊勢五十鈴の河上に御遷座あって以来 世俗の此処を元大神宮と称する様になったと古老の口碑にあるけれども 何等旧記がなく考証の資料を得る事が出来ない」
と、古老の口承と断りながら、当社は天照大神が4年間鎮座した余佐宮ではなく、笠縫邑から余佐宮へ到る途上で一時滞在した宮であって、
 「按ふに、勧進の年月は詳でないが、暫時御鎮座の後、大神を斎き祭り年を経るに従って諸人の信仰厚くなり、今日のように社頭興隆するように成ったもののようである」
という。

 これらの創建由緒は何れも、倭姫命世紀を基に作られたと思われるが、神道五部書は伊勢神道(度会神道とも)の根本経典とはいうものの、伊勢外宮の神官・渡会氏等が、外宮の祭神・豊受大神を内宮の天照大神より上位に置かんがために創作した偽書というのが一般の理解で、その信憑度は極めて低い。
 また、その成立年代についても、各奥書きには奈良時代以前の年次が記されているが、これはまったくの虚説であって、早くても鎌倉時代初期の辺りではないかという。


◎別伝
 一方、当社創建を用明天皇第三皇子・麻呂子親王(マロコ・生没年不明)に結びつけた説があり、丹後州宮津府志(1761)には
  ・鎮座年暦未詳。 一説に云 用明帝の時(585-87) 麻呂子親王の勧請する所也
  ・天橋記に云 今の内外宮は麻呂子親王が当国の凶賊征伐の時、勧請ある所也。内宮外宮の間に公庄金屋という在名あり、是親王の家臣の姓残りて在名となれりとぞ
とあり(日本の神々7)、今表参道の途中に、麻呂子親王お手植えという“麻呂子杉”なる古木が聳えている(樹齢千年以上、元は3本杉だったという)

 麻呂子親王(当麻皇子ともいう)とは、用明帝と葛城直磐村の娘・広子との間に生まれた皇子(聖徳太子の異母弟)で、書紀・推古11年(603)条には、征新羅将軍として出兵した来目皇子が筑紫で亡くなったため、代わって征新羅将軍に任命されたが、赴任の途上、妻の舎人姫王が明石で亡くなったため、亡妻を明石に葬り引き返したとある他に事蹟は見えない。
 しかし、奈良・葛城の当麻寺には、寺の前身となる万法蔵院は麻呂子親王の建立という伝承があり、寺の公式HPには
 「推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂子親王が、兄である聖徳太子の教えをによって万法蔵院を建立したのが当寺の始まりとされている。
 いくつかの異説がありますが、現在、大阪府南河内郡太子町に万法蔵院跡と伝承される場所があります」
とあるが、これは寺の歴史を古く見せるための潤色ともいう。

 宮津府志にいう麻呂子親王の凶賊退治とは、大江山に残る鬼退治伝承の一つで、簡単にいうと
 ・用明帝の頃(585--87)、大江山に英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)・土熊(ツチクマ)という三鬼が居て庶民を苦しめていた
 ・天皇の命を受けて出兵した麻呂子親王は、神仏の加護を得てこれを退治した
 ・鬼退治を終えた親王は、神徳の加護を感謝して天照大神の神殿を営み、その傍らに親王の宮殿を造営し、また丹後国に七ヶ寺を建立して七薬師仏を安置した
というもので、ここでいう天照大神の神殿というのが当社にあたるという。

 当社創建由緒が倭姫世紀にいうアマテラスの遷幸伝承、麻呂子親王の鬼退治伝承にしろ、いずれも伝承に基ずくもので史実性はなく、その意味では当社本来の創建由緒は不明というべきであろう。

 なお、大江山の鬼退治伝承には当伝承の他によく知られたものとして
 ・崇神天皇の弟・日子坐王による土蜘蛛耳御笠退治伝承
 ・源頼光による酒呑童子退治伝承
などがある。

 なお、大江山には古く各種の鉱物資源が多かったといわれ、上記鬼退治伝承は、それらの鉱物資源の支配権・採掘権をめぐっての中央政府と在地勢力との抗争を物語るものではないかともいう。


◎創建年次
 由緒には、当社の創建年次・崇神天皇39年を紀元前59年とあるが、紀元前59年とは、神武天皇即位を紀元前660年とする書紀紀年から割り出された仮想の年次で、弥生時代中期にあたるこの頃には未だ国というものはなく、各地の集落において何らかの神マツリめいた祭事はあったとしても、社殿を有する神社があったはずはなく、この点からも、上記由緒の荒唐無稽ぶりが窺われる。
 また、崇神天皇は4世紀頃の天皇とみるのが一般の理解だが、古墳時代前期に当たる4世紀に恒常的な社殿を有する神社があったとは思えず、当社創建を崇神天皇期に求めるのは、当社の創建を古くに見せようとする仮託であろう。

 これらからみて、当社の創建年次については、当社由緒が倭姫命世紀によっていることから鎌倉時代以降かもしれないが、それを証する資料はなく、また当社への神階授与記録もないこと、延喜式神名帳に列していないことなど、創建年次を推測する資料はない。

※祭神
 参詣の栞には、
  御本殿  天照皇大神(アマテラススメノオオカミ)
    脇宮  左殿(向かって右)--天手力雄命(アマノタヂカラオ)
         右殿(向かって左)--栲機千々姫命(タクハタチヂヒメ)
とある。

 左殿祭神・天手力雄命とは、神々の中で最も力の強い神で、天岩戸神話では、天照大神が岩戸を細く開けて外をうかがったとき、岩戸を引き開け、大神の手をとって外に引き出し、天孫降臨に際しても天孫・瓊々杵尊(ニニギ)に従って天降ったという。
 右殿の栲機千々姫命とは、高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘で、天照大神の御子・天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)に嫁した女神で、天孫・瓊々杵尊の母神に当たる。

 この2神と天照大神との関係から脇宮に祀られたと思われるが、鎮座の詳細は不明。


※社殿等
 当社の表参道は山麓から約300m、山腹に沿った自然石の石段220余段からなるが、石段が折れ曲がりながら断続的に続くためそれほど苦痛ではない。
 石段の途中に石造の神明鳥居(麓から見える)が、石段上の境内入り口に黒木の鳥居(樹皮が付いたままの丸太で造られた鳥居)が立つ。

 
石段・入口部
 
途中に立つ 神明鳥居
 
境内入り口に立つ黒木の鳥居

 石段上の境内正面に社殿3棟が並び、その中央が拝殿(切妻造妻入)


境内全景 
 
中央:拝殿、
左:栲機千々姫社、右:天手力雄社 

 拝殿の背後に接して、唯一神明造の本殿(茅葺)が鎮座する。


拝殿正面 
 
本 殿

左:拝殿、右:本殿 

 拝殿の左に、脇宮・栲機千々姫命社が、右に同・天手力雄命社が鎮座する。


栲機千々姫命社 
 
天手力雄命社

 本社の四周(東西南北)に、小祠群(末社)が列座し、栞には「熊野神社外80社」とある。

 
末社群
 
末社群 

 境外、黒木鳥居の西少し入ったところに『御門神社』(ミカド)との小祠が鎮座し、栞には
  「奇岩窓神(クシイワマド)・豊岩窓神(トヨイワマド)を祀る。この神は四方四隅・上下・八方十方からくる悪邪の厄を防ぎ祓い却け、しかも出入りする者の咎過ちを直してしまわれる厄神さんの本宗である」
とある。
 この2柱の神について
 古事記・天孫降臨段には、「天孫・瓊々杵尊に天石門別神(アメノイワトワケ)を副えて天降らせた
                   この神は亦名を櫛石窓神・豊石窓神と謂う」
とあり、延喜式神名帳・神祇官西院坐御巫祭神に中に
 御門巫祭神八座  櫛石窓神(四面各門各一座)・豊石窓神(四面各門各一座)
とあるように、宮殿等の御門を守護する神という。

 また、御門神社の右に磐座めいた小さな立石がある。傍らの石組みから見て、小型古墳の残跡かと思われるが詳細不明

 更に石段の途中に岩組に囲われた水場があり(水が細々と湧いている)、消えかかった案内文字から推測すれば「真名井の水場」かと思われる。

 
御門神社

正体不明の磐座 
 
真名井の水場か

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