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豊受大神社
京都府福知山市大江町天田内船岡山
祭神--豊受大神
                                                          2018.01.10参詣

 京都丹後鉄道宮福線・大江高校前駅の北約800m、県道9号線を北上した東側、由良川の支流・宮川西岸との間にある低い丘陵上に鎮座する。式外社
 伊勢外宮の祭神・豊受大神は当社から遷座したとの伝承から、元伊勢外宮豊受大神社とも称する。

※由緒
 当社参詣の栞(以下・栞という)には
 「当社は、旧号を与佐宮(ヨサノミヤ)と称へ、豊受大神を御主神として仰奉り、境内末社には全国の名神大社の神々が奉斎されています。
 大神は人類生存上一日も欠くことのできない衣食住の三大元を始め、広く産業の守護神であり、崇敬者に篤き加護を垂れさせ給う大神に座します。

 皇祖天照大御神は天孫降臨以来皇居に奉斎せられていましたが、人皇第10代崇神天皇の代に至りまして、天皇の御住いと同じ皇居にお祭りしているのは畏れ多いと思召され、即位6年に倭国笠縫邑(カサヌイムラ)に御遷座になりまして、皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)が祭事を掌っていられましたこの地(笠縫邑)に33年間御鎮座になりましたが、別に大宮地し定め給いて大和国笠縫邑より遷座されたのであります。
 当地で始めて宮殿を建立され大御神を奉斎されたのであります。此の時同時に豊受大神を合せ祀られたのが当社の創始でありまして、今から2,041年前のことであります。

 境内を比沼の真名井ヶ原と称え孤立した一丘陵を形成し、御神霊の鎮まり座すに相応しい神秘な霊域で一万余坪の御山であります。

 天照大神は4年間御鎮座になりましたが、更に大宮地を求めて当地を出御されます。
 豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれましたので、途中第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引継ぎになられ、垂仁天皇25年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と定められ御鎮座になったのであります。笠縫邑を出御されてより50年間の歳月を経ております。
 然しながら、豊受大神は鎮座以来移動がなく、この真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されてきました。

 ところが536年後の第21代雄略天皇22年に皇祖天照大神の御神勅が天皇にありまして、その御神勅は、
  『吾すでに五十鈴川上の鎮り居ると雖も一人にては楽しからず、神饌をも安く聞食すこと能わずと宣して、丹波の比沼の真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ』
とのお告げであのましたので、天皇は非常に驚き恐れ給ひて直ちに伊勢国度会の山田ヶ原に外宮が建立され、豊受大神を御遷座になったのであります。今から数えて1,505年前のことであります。
 然しながら、豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続き大神の御分霊を奉斎して、元伊勢豊受大神宮と尊称し現在に及んでいるのであります」
とある。

 栞には、当社は天照大神の大和から伊勢への還幸のとき、一旦当地へ留まられ、そのとき豊受大神も船岡山に合祀されたとあるが、書紀によれば、
 ・崇神6年条--天照大神・倭大國魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りしていた。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鋤入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った
 ・垂仁25年条--天照大神を豊鋤入姫から離して倭姫命に託した。姫は遷座地を探して笠縫邑から宇陀の篠幡に行き、引き返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った
と、天照大神の遷幸経路を記すだけで豊受大神についての記述はなく、また還幸経路に丹波国の国名はない。

 一方、倭姫命世紀(鎌倉時代)との古文書には、皇女・豊鋤入姫命が天照大神の御杖代となって
 ・崇神39年--但波の吉佐宮(余佐宮)に遷幸し、4年間奉斎。ここから更に倭国へ求める
           この年、豊宇介神(トヨウケノカミ=豊受大神)が天降って、(大神に)御饗を奉る
として、天照大神の遷座と同じ年に豊受大神も当地に天降ったとあり、上記の鎮座由緒はこれによるものであろう。

 その時期について、栞は今から2041年前というが、その年次を単純に計算すれば紀元前30年前後、即ち弥生時代中期となる。
 しかし、考古学的知見によれば、弥生時代には各地に集落はあるものの未だ国としてまとまってはおらず、その頃にどのような神マツリがあったかも不明で、由緒がいう鎮座時期は神話・伝承上でのこととみるべきであろう。

 因みに倭姫命とは、垂仁天皇と比婆須比売命(ヒバスヒメ)との間に生まれた皇女で(景行天皇の同母妹)、母・比婆須比売命は、垂仁4年に謀反を起こした兄・狭穂彦(サホヒコ)とともに敗死した皇后・狭穗姫が、死に臨んで天皇に推挙した丹波道主王(タンバミチヌシ)の娘5人の中の一人で、その母(倭姫命からは祖母)は丹波の豪族・河上麻須の娘・丹波之河上之麻須郎女(タンバノカワカミマスノイラツメ)という。

 また栞は、豊受大神は雄略天皇の御代に伊勢に遷られたというが、雄略紀にそのような記事はなく、ただ、止由気宮儀式帳(延暦23,年・804年成立というが異論あり)との古文書に
 ・雄略天皇の夢に天照大神が顕れ
 ・「吾はひとりで居るため寂しく また食事も楽しく食すことができない 丹波国比治の真名井原に坐す御饌都神・止由居大神を 吾が坐す国に来て欲しい」と告げた
 ・おどろいた天皇は、直ちに度会の山田原に宮居を建て、止由気大神を丹波国真名井原から遷し奉り、天照大神に朝夕の御饌を奉るようになされた
とあり(漢文意訳・大意)、上記由緒はこれによるものと思われる。(倭姫命世紀にも、倭姫命に対する夢告として同意の神話が載っている)

 当社は、これらの伝承から伊勢外宮の元宮と称しているが、江戸時代には広く知られていたようで、
 丹後風土記(近世というが成立年代不明)には
  「此地を与謝の比沼の魚井原といへり、真奈井とも与謝宮とも云。祭神豊受大神宮鎮座初の地にして、雄略21年神託ありて、翌年勢州山田原に遷座なし奉ると云」
とあるという。しかし、古代の当地が与謝郡に属していたどうかは不詳。

 なお倭姫命世紀とは、鎌倉時代に生まれた伊勢神道で根本経典とされる神道五部書の一書だが、神道五部書そのものが、豊受大神を天地開闢時に最初に成りでた天御中主神や国常立神と同躰となすことで、外宮の神・豊受大神を内宮の天照大神より上位の神格として位置づけようとする外宮の神官等によって創作された一連の文書というのが一般の理解で、そこに史実性・信憑性は認められないという。

 当社の創建時期は由緒からすれば崇神朝となるがこれは神話・伝承上でのことで、延喜式内社にも列しておらず、また当社に対する神階授与記録もなく、創建時期を推測する資料はない。
 ただ、当社の創建由緒が倭姫命世紀に拠っていることからみると、創建時期は神道五部書が成った鎌倉時代以降かとも推測される。

 なお、当社由緒は、豊受大神は雄略天皇22年、伊勢に遷座するまで当社に鎮座していたというが、これに対して、加佐郡誌(大正14年・1925)には
 「当社は雄略天皇の22年、天皇親しく天照大神の神誨(オシエ)を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に遷し奉った時、暫く河守庄天田内の里である船岡山に鎮座ましましたのに起因する由、碑に残っている」
として、当社(船岡山)は豊受大神の伊勢遷座の途上に暫く留まった経過地であって、元から当地に鎮座していたのではないという。

 これは、止由気宮儀式帳にいう丹波国真名井原を丹後国丹波郡の比沼麻奈為神社(ヒヌマナイ・京丹後市峰山町)に比定する説によるものといわれ、豊受大神が鎮座していたという比沼の真名井の比定地として、当社以外にも、真名井神社(薦神社奥宮・宮津市)・比沼麻奈為神社(京丹後市)・藤社神社(フジコソ・京丹後市)・奈具神社(京丹後市・宮津市)などがあり定説となるものはない。

 なお栞には、
 「一説に、第31代用明天皇に御代(585--87)に皇子・麻呂子親王が凶賊を退治し給う時、当社に賊徒平定の祈願を籠められ、御神威によって無事に事変が鎮定した奉賽として社殿その他の建物をも併せて造営せられ、専ら伊勢国外宮神宮に模倣して本殿別宮その他の建物をも併せて増祀あらせ給うたといいます」
とある。
 これと同様の伝承が丹州宮津府志(1761)に、当地・大江山に伝わる鬼退治伝承として
 ・用明帝の頃、大江山に英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)・土熊(ツチクマ)という三鬼が居て庶民を苦しめていた
 ・天皇の命を受けて出兵した麻呂子親王は、神仏の加護を得てこれを退治した
 ・鬼退治を終えた親王は、神徳の加護を感謝して天照大神の神殿を営み、その傍らに親王の宮殿を造営し、また丹後国に七ヶ寺を建立して七薬師仏を安置した
とあり、これを当社に関連つけたと思われるが、府志には、麻呂子親王が造営したのは天照大神の神殿とあることから、元伊勢内宮を称する皇大神宮を指すと思われる。


※祭神
  主祭神--豊受大神
  相殿神--日子番能邇々杵尊(ヒコホノニニギ)・天児屋根命(アメノコヤネ)・天太玉命(アメノフトタマ)

*豊受大神
 書紀には豊受大神の名はなく、古事記には
 ・神生み段--火神・カグツチを生んだことで火傷を負い苦しむイザナミの尿から成りでた和久産巣日神(ワクムスヒ・穀物・食物の神)の御子・豊宇気毘女(トヨウケヒメ)
 ・天孫降臨段--天孫・瓊々杵尊に従って天降った神々の一・登由気神(トユケノカミ=トヨウケヒメ) この神は度会に坐す神也
とあり、トヨウメヒメの名で出ているが、「この神は度会に坐す」とあることから、外宮の祭神・豊受大神を指すという。
 ただ、瓊々杵尊に従って天降ったというものの、その降臨先は記載なく、瓊々杵尊の降臨先が日向の高千穂であることから、トヨウケヒメも日向に天降ったとみるのが順当であろう。

 一方、当社が準拠していると思われる倭姫命世紀には、天照大神の当地への遷幸のとき、豊受大神も一書に当地に天降ったというが、これも当社由緒と同じく神話・伝承上のこととみるべきであろう。

 ただ、丹後国風土記(逸文)・奈具(ナグ)の社条に、
  「丹後国丹波郡比治の里にある比治山の頂上にあった真名井に天女8人が降って来て水浴びをしていた。
 その時、和奈佐老夫・老婦(ナグサノオキナ・オウナ)という老夫婦が、一人の天女の衣装を隠し、為に帰れなくなった天女に、「私共には子供がないので、私共の娘になって欲しい」と嘆願し、嫌がる天女を無理に連れ帰った。・・・
 この天女は酒を造るのに長けていて万病に効く酒を造ったので、その酒を多く人々が買い求めた為に、老夫婦の家は富み栄えた
 10年ほど経った時、老夫婦は「お前は私の子ではない。暫くの間仮に住んでいたたけなので、早く出て行った欲しい」いった
 天女は「私が来たのは貴方たちが願ったためでしょう」として留まることを頼んだが、老夫婦が早く立ち去ることを求めたので、涙を流して家を出、各地を放浪したあげく、竹野郡の奈具の村に至り、「ここに来て私の心は奈具志久(ナグシク・安まった)」として、そこに留まった
 これが奈具の社に坐す豊宇賀能売命(トヨウガノメ=トヨウケヒメ)である
との地名伝承があるように(大意)、何故か丹波国にはトヨウケヒメに関わる伝承が多く、当社もその一つといえる。

*相殿神
  相殿神として天孫・瓊々杵尊以下3神を祀る由縁は不明。
  古事記に、トヨウケヒメは瓊々杵尊に従って天降ったとあることから、降臨の主神・瓊々杵尊とともに、尊に扈従して天降った天児屋根命・天太玉命を祀ったのかと思われるが、栞に説明なく詳細不詳。


※社殿等
 県道9号線の東側丘陵上に鎮座する当社は、山麓から70余段の石段を上った上に鎮座する。

 石段を上った右手、横長の建物の左に立つ黒木の鳥居(樹皮の付いたままの丸太で造られた鳥居、鳥居の最古形ともいう)をくぐって境内に入る。

 
神社への石段
 
境内への入口
(左に黒木の鳥居が立つ)
 
黒木の鳥居

 一段高くなった境内正面に拝殿が、その右に別宮(切妻造平入・銅板葺)・土の宮、左に別宮・多賀宮が鎮座し、拝殿背後に接して本殿(唯一神明造・茅葺)が鎮座する。


境内正面 
 
中央:拝殿、右:土之宮、左:多賀宮


 
拝 殿
 
本 殿(西より)

◎別宮
 栞には、四所別宮として 多賀神社・土之神社(扁額には土之宮とある)・月読神社・風之神社の4社を挙げているが、多賀神社・土之神社は拝殿の左右に並んで鎮座し、月読神社・風之神社は境内北側の末社群の両端に鎮座する(社殿は他の末社よりやや大きい)
 この4社は、伊勢外宮に祀る別宮を当社に勧請したものと思われ、祭神は外宮では
  ・多賀宮--豊受大御神荒御魂
  ・土 宮--大土乃御祖神(オオツチノミオヤ)・・・外宮の地主神
  ・月夜見宮--月夜見尊(ツクヨミ)・月夜見尊荒御魂
  ・風 宮--級長津彦命(シナツヒコ)・級長戸辺命(シナツヒメ)・・・風の神
とあり、当社もこれに準じていると思われる。


多賀宮 
 
土之宮

◎末社
 境内の東西及び北側には、覆屋のなかに数多くの小祠が並んで鎮座し、栞には
  「末社37社  全国の名神大社の神々を奉斎する」
とある。

 
北側末社(左端:別宮風之宮)
 
末社(中央やや大きいのが別宮月読宮)
 
東側末社

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