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北河内(茨田郡)の式内社/津嶋部神社
守口市金田町6丁目
祭神−−津嶋女大神・素盞鳴尊・菅原道真
                                                              2009.4.13参詣

 延喜式神名帳に、『・河内国茨田郡 津嶋部(ツシマベ)神社・鍬靫』とある式内社。

 京阪電鉄・古川橋駅の北約2.5km、駅の東・府道15号線を北上した左側(西側)、寝屋川市との市境直近に鎮座する古社。周りは道路沿いに民家が密集した住宅地で、ここだけが緑に覆われている。
 社頭を南北に通る15号線が寝屋川市との境界で、当社は、かつて両市にまたがっていたという。隣の京阪・門真市駅からバス便があるが時間1本のみで、徒歩約1時間弱。

 道路西側の大鳥居をくぐった参道先に拝殿、透塀の中に本殿が建つ。境内に皇太神宮他末社数社あり。

津嶋部神社・大鳥居
津嶋部神社・大鳥居
津嶋部神社・拝殿
同・拝殿

※祭神
 祭神・津嶋女大~(ツシマメ)について、当社由緒略記には、
 「ツシマメ大神は古来より方除けの神として、また女神であることから安産・育児の守り神として崇拝され」
とあるが、その出自についての記述はない。

 ただ当社社名に津島(対馬)を冠すること、その旧鎮座地が対馬江(北東約500m・寝屋川市対馬江町付近)であったことなどから、神祇志料(明3-1871)に、
 「津島朝臣・津島直の族此の地に来たりて住み、其の祖天児屋根命を祀れるならむ」
とある津嶋氏の祖神ともいう。
 津島朝臣(アソン)・津島直(アタイ)とは、新撰姓氏禄(815)
 「摂津国神別 津島朝臣 大中臣朝臣同祖 津速魂命三世孫天児屋根命之後也」
 「摂津国未定雑姓 津島直 天児屋根命十四世孫雷大臣之後也」
とある氏族で、亀卜(キボク、亀の甲を以て吉凶を占う古代呪術)に長けた卜部として宮中神祇官に出仕した対馬県直(ツシマノアガタノアタイ)の後裔という。

 対馬(津島)県直とは、先代旧事本紀に
 「天日神命(アメノヒノカミ・アメノヒノミマタ、天照神-アマテルカミ-ともいう) 対馬県主等の祖」(天孫本紀)
 「津嶋県直−−橿原朝(神武朝)の御代 高魂尊(タカミムスビ、タカノムスブともいう)五世孫・建弥己己命(タケミココ)を改めて直(アタイ、姓・カバネのひとつ)となす」(国造本紀)
とある対馬国の古族で、対馬に残る古代伝承を基にまとめると
 高魂尊−天日神命・・・・建弥己己命・・・対馬県直
となり、それは記紀神話における皇統譜(高皇産霊−日神・アマテラス−天皇家)と似通っている。

 この対馬県直について、日本書紀・顕宗天皇3年夏4月条に
 「日の神が人に憑いて、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に『磐余の田を以て、我が祖・高皇産霊(タカミムスヒ)に奉れ』と告げた。事代は直ちに奏上し、神の求めのままに田十四町を献った。対馬の下県直が、これをお祀りし仕えた」
とあり、日神(対馬・高御魂神社の祭神)の託宣によって大和の磐余に祀られた対馬の神・タカミムスビの祭祀に携わるために、その後裔である対馬県直の一族が上京したことを示唆している。なお、このとき祀られた神社は、今、式内・目原坐高御魂神社(橿原市)に比定されている。
 これは対馬と大和とが密接な関係にあったことを示すひとつの伝承だが、津嶋県直一族は対馬卜部の同族として古代呪術のひとつ亀卜に秀でていたといわれ、延喜式・臨時祭の条にある
 「卜部は三国の卜術に優れた長者を取る(伊豆五人・壱岐五人・対馬十人)」
の一人として、亀卜の技をもって朝廷に仕えていたことは確かという(宮中に亀卜が入ったのは6世紀後半から7世紀初め頃という)
 なお、対馬の日神の後裔という津嶋氏が姓氏禄では中臣氏に連なるとされる由縁は、宮中卜部の一人として中臣氏の支配下に入ったことから、中臣氏の祖・雷大臣を以て祖神としたものという。

 当地に津嶋氏が居たという直接的な証はないが、当社の旧鎮座地・対馬江が旧淀川に連なる入江(津)にある対馬との交流の一拠点であることから、津嶋氏が当地に居たことが推測され、その津嶋氏が祖神(高魂神あるいは天日神に仕えた巫女神)を奉斎したのが当社ではないかという。

 スサノヲの鎮座由緒・時期は不明。由緒略記には、
 「諸々の罪穢れを祓い清めて生々発展向上を守る神」
とある。何時の頃かは不明ながら防疫神・ゴズテンノウ(京都祇園・八坂神社の祭神)を合祀したものが、明治初年の神仏分離によってスサノヲに変わったのであろう。疫病・災厄をもたらす疫病神を塞ぎ追い払うことと、罪穢れを祓うことは通底する。

 菅原道真は、
 「寛永10年(1633)淀の城主・永井信濃守尚政が、当地を領したとき菅公を合祀し“大宮天満宮”と称し、篤く崇敬した」
という(由緒略記)。尚政は、領内各社の神社に道真を合祀したようで、よほど崇拝していたらしい。

※鎮座由緒
 由緒略記によれば、
 「当社は、今より凡そ1200年前からの当地の氏神で、延喜式の式内社。旧茨田郡一の宮を称した。六国史のひとつ文徳実録(879)に『嘉祥3年(850)12月、加河内国津嶋女神従五位上』と見ゆるは当社のことである。・・・(中略)・・・
 氏地は、現在の守口市と寝屋川市に亘り、境内地は今より広く古松老楠が生繁る荘厳な鎮守の森で、総檜皮葺の本殿・弊殿・拝殿のほか絵馬堂・宝物庫・観音堂等があったが、元和元年(1615)の大阪夏の陣の兵火で焼失、天保7年(1836)社殿復興した。
今の社殿は、明治15年(1882)造営のもの」(大意)
とある。昭和59年(1984)に一間流造瓦葺の本殿を、銅板葺に葺き替えられている。
 なお、江戸時代の神仏習合期には金竜寺・豊蔵寺・大竜寺などの神宮寺があったが、明治の神仏分離で別れ、今では当社の北に位置する金竜寺のみが残っている(由緒略記)

 諸資料によれば、もとは現在地から約500mほど北東の“対馬江”にあったが、大洪水によって被災したことから現在地に遷座したという。大阪府全誌には、
 「大字対馬江−−里伝によれば、往時は今の庭窪村大字金田の郷社・津嶋部神社の鎮座にして、村名は同社名の転訛ならんといふ」
とある。
 かつての淀川の支流・古川の中州が“津島”と呼ばれて、往古の船着場であったことから“津島江”と呼ばれたが、神社と同名を憚って同音の“対馬江”と変えたともいうが、津嶋氏の居住や対馬との交流にかかわって対馬江と呼ばれたとするのが順当か。

◎産屋の風習
 当社辺りの民俗風習として、産婦は家を離れた産所(産屋)に行って子供を産む習俗があったという。
 産屋とは、出産のために建てられた別棟の小屋で、産婦は一定期間この小屋に籠もり、出産および産後の数日間(21間など地域によって異なる)を過ごしたといわれ、西日本の海辺の村などで多くみられた風習で、対馬でも明治20年頃まであったことが確認されているという。
 
 産屋は海辺や川原などに建てられることが多かったようで、海辺・川原は神々が往来する境界の地であることから、祖霊の生まれ変わりである新しい生命の誕生の地として相応しいとされるとともに、出産に伴う赤不浄(出血)を忌むことからくるともいう。

※境内末社
 境内には、皇太神宮・若宮天満宮・厳島神社・山王神社・稲荷社の末社5社が鎮座している。
 大阪府全志によれば、
 「比枝神社(現山王神社)・天満宮・稲荷神社・厳島神社・八幡神社があり、何れも明治5年(1872)付近村より合併遷座せしものなり」
とある。今と比べて八幡神社が皇太神宮に変わっているが、その詳細不明。
 また境内疎林中に、六角形の石の周りを幾つかの石で取り囲んだ石組みがある。正体不明だが、太古の仮設祭場・磐境(イワサカ)の跡かもしれない。

津嶋部神社/末社・皇太神宮
皇太神宮
津嶋部神社/末社・厳島神社
厳島神社
厳島神社/末社・稲荷神社
稲荷神社
津嶋部神社/末社・若宮天満宮
若宮天満宮
津嶋部神社/末社・山王神社
山王神社(旧比枝神社)
津嶋部神社/岩組
正体不明の石組
(磐境址か)

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