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トルコ/カッパドキア/洞窟修道院

 トルコ・アナトリアのほぼ中央に位置するカッパドキアは、今、幻想的な天然の造化を売り物とする観光地として知られているが、古代にあっては東西交通が行き来する要衝の地に当たり、この地の支配権を巡って幾多の古代国家が興亡を繰りかえしてきた。
 紀元前3000年頃には、この地の富や地下資源を求めてアッシリア商人たちが幾つかの集落を造ったといわれ、その後もヒッタイト王国時代(BC2000年紀)→小国櫛立時代→ペルシャ帝国時代(BC6〜4世紀)→アレクサンドロス王国時代(BC334--323)→セレウコス王国時代を経て、ローマ皇帝トラヤヌスの東方遠征(AD113)によつてローマ帝国領に組み入れられるまで、入れ替わり立ち替わりやってくる古代国家間の争奪戦の波に翻弄されてきた。

 この地にキリスト教が入ったのが何時かはっきりしないが、1世紀後半のアナトリアでは、キリスト教徒が住民の半分以上を占めていたという。
 4世紀になると、カッパドキア東部の町・カイサレア出身のバシレイオス(AD329--79)が提唱する新しい修道院活動−−統制のとれた規則正しい共同生活の中で積極的に礼拝と勉学・労働に励み、その中で、周りの住民たちとともに信仰生活を送る活動−−がこの地に入り、これに同調する修道士たちが社会の中に溶けこんだ修道院活動を押し広げ、8世紀にはカッパドキアだけでも10万人にも達する修道士たちが居たという。
 その活動の拠点となったのが、カッパドキア各地に見られる洞窟修道院だが、そこに残されている壁画などからみて10世紀以降のものがほとんどで、11〜12世紀が最盛期だったという。

  一方、当時のカッパドキアは、ビザンチン帝国と東から迫るイスラム勢力が直接対峙する紛争の地であり、形勢が次第にイスラムへと傾く中で、修道院は修行の場であるとともに、戦乱を避け、異教徒との衝突を避けるための一種の隠れ家的なものだったともいう。

 洞窟修道院は、その名のとおり岩山を穿って造られた聖堂あるいぱ修行の場で、岩山の中に祈祷・読書・布教など宗教活動のための聖堂部分と、居間・食堂・寝室・倉庫などの居住部分が穿たれているが、その佇まいをみるとき、全てがキリストへの祈りに連なる必要最小限なものだけで、厳しい環境の中で生きていく厳しさを如実に示している。

 これらの洞窟修道院の中で、観光地として公開されている一つが「屋外博物館」と名づけられた「ギョメレの修道院群」である。

※ギョメレの洞窟修道院
 ギョメレの洞窟修道院は、周りを茶褐色の岩山に囲まれた山麓からギョメレの谷への降り口にかけて位置する。ここに幾つの修道院があるのかは不明だが、壁画が描かれているものだけで35ヶ所といわれ、そのうち11〜12世紀頃(推定)に造られた幾つかが公開されている。

ギョメレ洞窟修道院・景観
カッパドキア/ギョメレの洞窟修道院 カッパドキア/ギョメレの洞窟修道院 カッパドキア/ギョメレの洞窟修道院

 洞窟修道院の中は、いろんな壁画で飾られているが、修道院内は暗くて写真撮影は不可能。下記の写真は、現地入手の資料を転写したもの。

エマール・キリッセ(リンゴの聖堂)

 円形バジリカ形式の聖堂で、中央ドーム天井に“4人の福音書記者に囲まれたキリスト”、後陣には“聖母マリアとキリスト”など、キリスト伝を中心としたフレスコ画が描かれている。
 推定:11世紀
福音書記者に囲まれたキリスト
福音書記者に囲まれたキリスト
キリストと聖母マリア
キリストと聖母マリア

カランルク・キリッセ(暗闇の聖堂)
 円形バジリカ形式の聖堂。洞窟が深く穿たれ且つ開口部が少ないため、内部は暗闇に近いが、それが幸いして、“天使らに囲まれたキリスト”、“キリスト聖誕”・“キリストのエルサレム入場”・“最後の晩餐”・“キリストと聖母マリア”などのフレスコ画は、良好な状態で保存されている。推定12世紀

天使に囲まれたキリスト
天使等に囲まれたキリスト
キリストと聖母マリア
キリストと聖母マリア
キリスト聖誕
キリスト聖誕
エルサレム入場
エルサレム入場
最後の晩餐
最後の晩餐
(左端:キリスト、右端:ユダ)
イランル・キリッセ(蛇の聖堂、別名:聖ゲオルギュウスの聖堂)
 蒲鉾型天井をもつ聖堂。“蛇(竜)を退治する聖ゲオルギュウス”の壁画がある。
 キリスト教にあっては、蛇、それが変形した竜はサタンの化身・悪の権化として退治されるべき存在である。聖人あるいは天使による蛇(竜)退治は、悪に対するキリストの勝利を意味するといわれ、これをモチーフとした絵画は、ギョメレの修道院以外でもキリスト教社会の至るところで見ることができる。

◎トカール・キリッセ(バックルの聖堂)
 新旧二つの部分からなる大聖堂で、前面の旧聖堂の奥に新聖堂が設けられている。
 いずれも、天井・壁面のほとんどにキリスト伝・天使像・預言者像・聖人などのフレスコ画が描かれている。資料によれば、この聖堂は10世紀以前にも使われていたそうで、イコノクラスム期(聖像崇拝を禁止した時期)の抽象的文様を、聖像崇拝が復活したときに、あらためて書き直したのではないか、という。
 洞窟の一画にカタコンベ(地下礼拝室兼墓室)がある。推定:10世紀末頃

キリスト処刑の図
キリスト処刑
キリスト聖誕と3博士の来訪
キリスト聖誕と3博士の来訪

 上記以外にも、抽象的文様が描かれたバルバラ・キリッセ(聖バルバラの聖堂)、高い所にあって梯子であがるチャクル・キリッセ(サンダルの聖堂)、聖エウスタキウスの聖堂などを見ることができる。

 これらの洞窟修道院に描かれている壁画は、今から800年から1000年あるいはそれ以前のものだから、条件によっては、その間の自然剥離があるのは当然としても、それ以上に人為的な損傷が目につく。キリストをはじめとしてほとんどの人物像は、その顔面、特に眼のあたりが抉られたように傷つけられている。11世紀にはじまったイスラムの侵入と、それに伴う暴挙ともいう。
 ただ、我々異教徒からみると暴挙だが、彫像あるいは人物像といった具象絵画などのすべてを偶像として排除してきたイスラムにとっては当然の行為であって、彼らは、顔面あるいは“霊が籠もるところ”とされる眼を壊す・傷つけることによって、その像を聖像から単なるデクノボウへと化せしめ、そこに込められているキリスト者の祈りを無力化したのではないか、とも考えられる。

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