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トルコ/古代都市遺跡(エフェソス)

 エフェソスには、次のような建国神話が伝えられている。
 「アテネ王の息子アンドロクロスとその友人たちが、アナトリアへの移住を前にデルフィのアポロン神殿に神託を乞うたところ、『魚と猪が、新都市となるべき場所を示すであろう』との啓示を得た。
 これを信じて旅路についた一行が、この地に着き料理を始めると、鍋から魚が跳ね上がり、火の粉が周りに飛び散り藪が燃えだし、これに驚いた猪が藪から飛び出し、追いかけたアンドロクロスに仕留められた。
 魚と猪、神託は成就した。彼らは此処に新しい町を建設し、神託の成就を記念して、猪を捕らえたところにアテナ神殿を建設した』

 この伝承は、ギリシャ人が西アナトリアのエーゲ海沿岸に進出しはじめたBC11~10世記頃の話であろうという。
 彼らは約400年間にわたりエフェソスの地を統治したというが、それは侵入する異民族との抗争・破壊そして再建の繰りかえしだったと思われる。
 その中で、一つの黄金期だったのがBC6世記で、それを象徴するのがアルテミス神殿の建設(BC560頃)であり、その富を求めて侵入したのがリディア王国のクロイソスだったという。

 しかし、この地におけるリディアの支配は短く、この地の統治者はペルシャ(BC547・キュロス王)、ギリシャ(BC334、アレクサンドロス大王)と変わり、大王の死後、その将軍リシマコスの統治下に入っている(BC287)。

 そのリシマコスが基礎を築いたのが、現在残っている【古代都市遺跡】という。

 これで落ち着いたかにみえたこの地を巡る争奪戦は、その後もめまぐるしく移り変わり、シリアのセレウコス王国、エジプトのプトレマイオス王朝から地元のペルガモン王朝へと変遷し、その首都ペルガモンがローマに遺贈されたことに伴い、自動的にローマの支配下に置かれることになる。

 ローマ時代のエフェソスは、此処にアジア州の首都が置かれたこと、ローマ世界の拡大に伴う女神アルテミスの拡大などを背景に、エーゲ海沿岸部の代表的な都市として繁栄をつづけ、AD1世記中頃からのキリスト教の浸透、AD262年のゴート人の侵入略奪などによって次第に衰微し、最終的にはキリスト教の国教化によって、女神アルテミスの都としてのエフェソスは消えていったという。

※古代都市遺跡

 エフェソスの古代都市遺跡は、エーゲ海沿岸部最大といわれるだけあって見応えのある遺跡といえる。
 案内図によれば、ほぼL字型をした約3kmの道路沿いに40ヶ所に近い数の遺構(ヘレニズムからローマ時代が主)が密集している(右略図)

 今回の旅でみた遺跡のなかでは珍しく保存・補修もすすみ、日本語版の絵地図なども整っていて歩きやすい遺跡とはいえるが、現地を見るかぎり、円柱や礎石の残欠が一面に転がり、また各遺跡が近接していることともあいまって、どれがどの遺跡かわからないという感じは否めない。 

古代都市遺跡・略図(左下の道から入った)

 西方から入っていく(上略図の左下)

 今は海から遠くなっているが、昔は町のすぐ足下まで海が来ていたようで、そこには港が築かれ、幅11m長さ500mの大理石を敷きつめた道【アルカディア通り】が東に向かって伸び、その突き当たりに聳えるバナユル山の山裾には、2.5万人収容できたという巨大な【円形大劇場】(直径154m高さ38mの半円形、遺構の殆どが残っている)が偉容をみせている。

 アルカディア通りの両側には歩廊が設けられ、商店が並び、よるにはかがり火が焚かれていたといわれ、華やかなものだったと思われる。


アルカディア通り
(前方に円形大劇場がみえる) 
 
円形大劇場

 道は大劇場に突き当たって右へ折れ【マープル通り】を通って街中へ入っていく。通りに敷きつめられた大理石には車のわだちの跡が溝状に幾筋か残り、道ばたの敷石には“娼婦の館”への案内標識(女性の顔と赤いハート)が残っている。

 道の右手一帯は古代の市場【アゴラ跡】(一辺110mの方形、AD3世記造、同4世記の地震で崩壊、その後再建という)で、その昔、屋根付きの回廊に沿って商店が軒を連ね、広場では哲学者・雄弁者・政府高官などの彫像が立っていたという。
 今は、回廊を支えた円柱列の一部が残るだけで、ダダッ広い空間が拡がっているだとなっている。
 資料によれば、「ローマ時代のアゴラは市民生活の重要な場所で、半ば神聖な場であった。ローマの哲学者カトーが『農地でのものと同様の服装でアゴラに入るべからず』といったように、それなりの敬意をもって入ることが要求されたという。
 またアゴラでは、青銅や銅製品・陶磁器・香辛料・葡萄酒など多種多様な商品が売られていたという。

 マープル通りの終端右手には【セルシウス図書館】が堂々たるファサードを見せている。
 AD2世記のはじめ、アジア州知事だったセルシウスの死後、父を記念して息子たちによって建てられた霊廟を兼ねた図書館(AD117)で、発掘によって、西側下にあった大理石造の石棺からセルシウスの遺骨とおぼしきものが発見されたという。

 かつて、約11×17mあったという図書館は、装飾性豊かな大理石で覆われ、壁面には12000巻ともいわれる図書(巻き本)が納められていたというが、今では前面の壁の一部のみが残っているだけとなっている。

 2階建ての図書館正面には、コリント式柱頭飾りをもつ円柱が2本一組となって4組、それが上下2層になって並び立ち、全体で7っの間(マ)を形成している。 
 その柱間一つおきに設けられた壁龕にはセルシウスの“知性・学識・聡明・高潔”を象徴する4躰の女神像が飾られ、残りの3間が出入口となっている。

 この図書館は、既設の建物の間に割り込んで建てられたため、建物をより大きくみせようと、中央柱を両端部の柱より大きくするとか、2階の柱をやや細めに造るなど遠近法を取り入れた工夫がなされているそうで、正面からみる景観は堂々たるもので、エフェソスを代表するモニュメントの一つといえる。

 
セルシウス図書館・正面
(右手2つの門はマツェウスとミスリダデスの門)
 
同・中央2間
 
同・女神像

 図書館の向かって右手(北側)に接して、アゴラに入る【マツェウスとミスリダデスの門】と呼ばれるアーチ門が残っている(上写真、図書館の右手にみえる門)
 門には、“皇帝アウグストゥス一家の奴隷であった二人が、解放後、自由の身になったことを感謝して皇帝一家に献上した”ことを綴った銘板が残っているという。

 今の世では公然とはあり得ないことだが、古代にあっては、自由市民が奴隷を所有することは当然のこととして認められていた。
 ローマ時代の奴隷といえば、コロシュウムで野獣と戦わさせられる奴隷剣闘士といったイメージだが、実体は、皇帝の側近として官僚的役割をなす奴隷から、貴族の子女の家庭教師や召使い、職人の下働き、農場での集団労働、劣悪な条件下での鉱山労働など様々な分野にわたって存在し、奴隷なくしてはローマ社会は立ちゆかなかったともいう。

 一方、ローマ市民の間では、“奴隷とは劣悪人種であり、奴隷として使役されるのは自然の理にかなっている”という認識と、“奴隷は残酷に取り扱うべきでなく、積極的に解放されるべきだ”とする姿勢があったといわれ、一生を奴隷のまま送った者が殆どだったとはいえ、解放された奴隷が多数あったのも事実で、彼らは、その能力あるいは経済力によって市民の一員として迎えられ、そこには全身による差別はなかったという。

 マツェウスとミスリダデスの門を皇帝に捧げた二人は解放奴隷であって、その前身が皇帝の奴隷という恵まれたものであったといえ、自由を束縛される奴隷という身分から解放されたということは最大の歓びであり、それを感謝して建てて元のご主人様に捧げたのがこの門だという。


 図書館前から緩やかな弧をえがいて東・ヘラクレス門まで伸びる大理石の道が【クレテス通り】で、道の北側には小高い山が迫り、山裾に沿った 道の両側には柱列が並び、多くの遺構が密集しているが、雑然としていてその詳細は不明。
 なお、クレテスとは、神話に出てくる半神の名で、後にエフェソスの神官を指すようになったという。


クレテス通り(東より望む) 


同・柱列の一部

 クレテス通りに入って、まず目に入るのが【ハドリアヌス神殿】(AD138頃)
 いま、前後二つの門を構えたファサード周りが復元されているが、前門のアーチには運命の女神テュケーの半身像が、奥に建つ後門のアーチ部には両手を拡げたメドゥーサの浮彫で飾られ、その左右に連なる小壁には、エフェソスの創建神話に題材をとった浮彫、神々とアマゾンたちの行列、オリンポスの神々などが4っに別れて飾られている(但し、現地はコピー、オリジナルは博物館蔵)

 メドゥーサといえば、髪の毛が蛇で、見る人を石にしてしまう邪眼をもつ恐ろしい女神として知られるが、今回の旅では各地でみることができた。ということは、単に恐ろしいだけの女神とは異なる別の面をもっているとも思われる。

 
ハドリアヌスの門
 
前門のアーチ装飾
女神テュケー像というがよくわからない
 
後門のアーチ装飾
メドゥーサ像

 クレテス通りの中程、やや小高い山裾に【トラヤヌスの泉】と呼ばれる遺構がある(AD110頃造)
 道からやや奥まった処に、三角形の破風を頂く門柱列とその周りが復元されている(右写真)

 かつては、中央奥にーの壁龕に皇帝トラヤヌスの像が立ち、その台座下から泉が湧き出し、中央に設けられた貯水槽に流れ込んでいたというが、今、一見するかぎりでは何処がどうなっているのかよくわからない。

 

 少し帰って、図書館とハドリアヌスの門との間、図書館寄りの一画に【娼婦の館】と呼ばれる遊郭跡がある。
 マープル通りに案内表示が描かれてい遊郭だが、今は、壊れた壁の一部などが雑然と残っているだけで、その全容をうかがうことはできない。

 娼婦あるいは売春婦といえば世界最古の商売といわれるが、はじめから春をひさいで銭を稼ぐ商いとして始まったのではなく、古代祭祀に絡んだ次のような話がある。
 「たとえばバビロンでは、女たちは誰でも、富める者も貧しい者も、一生に一度はミュリッタの神殿、つまりイシュタルの神殿で外来の異人の抱擁に身を委ね、その聖化された行為で得た金銭を女神に捧げねばならなかった。
 この習慣は、決して淫蕩なものではなく、かの大地母神への礼拝で執りおこなわれる厳粛な宗教的義務と見なされていた」(金枝篇・フレイザー著)

 女性たちが一生に一度、おそらく年に一度の祝祭時に、神殿で見知らぬ男に身を任せ、与えられた金子は神殿に納める(この行為が終わらなければ家に帰れなかったともいう)
 そこにあるのは、娼婦という呼称からうける暗いものではなく、フレイザーがいうように、凡てのものの母なる女神への崇拝を示す行為で、原始のはじめにおける万物創造の再現に連なる聖なる行為だったという。

 昔から、人間の生活は天から降る雨、地上を流れる水、耕地に育つ穀物、子を産んで増える家畜や動物に依存してきた。そして、それらを産みだしたのは太古の昔におこなわれた男神と女神の交合とされていた。
 その神々の交合を再現し、生きとし生けるものの豊穣を願うのが、年の初め、神殿でおこなわれる王と女神のとての王妃あるいは女祭司との“聖婚”であり、この聖婚儀礼を恙なくおこなうことによって、その年の豊穣が保証されるという、神聖にして重要な祭祀だったという。

 それが、女性らによる一生に一度の聖なる交合へと拡大し、次ぎに神殿に常駐する神殿娼婦をうみ、次第に金銭のみを重視する売春へと変わっていったというが、それは、原初の豊穣に連なる母権主義の社会から、力によって主導する男権社会への変化としてとらえることもできるという。


 クレテス通り東端から先には、一部が復元された次のような遺構があるが、他は円柱の残欠や建物基礎などが雑然と転がっているだけで、全貌はわからない。

 ・【ヘラクレスの門】--クレテス通りの東端に立つ門で、西端の柱2本に獅子の皮をまとうヘラクレスが浮き彫りされている。
 2世紀頃のもので、他にあったものを5世紀頃に現位置に移されたという。
 ・【ドミティアヌス神殿】--エフェソスに建造の勅許を与えたドミティアヌス皇帝の名のついた神殿で、皇帝名のついた神殿の嚆矢。
 8段の階段を登った基壇上に神殿(24×34m)の周囲には8×13本の柱をもつ周列式神殿が建ち、中央に皇帝像が立っていたという。
 ・【メミウスの記念碑】--東端から見つかった銘文に、「救済者カイウス・メミウス、その息子ネリウス・スラの孫」とあり、浮彫の人物はカイウス・メミウスの親子と思われるが詳細不明という。

 
ヘラクレスの門
 
ドミティアヌスの神殿
 
メミウスの記念碑

 その先の右手に【アゴラ跡 】(AD1世記の集会広場)、左手に【ブリタネイオン】(何らかの公共施設という)があるが、その詳細は不明。

 アゴラ跡の向かい側、ドミティアヌス神殿の先に
 ・【音楽堂オデオン】--東の端近くにある小さな円形劇場で、AD2世記、エフェソスの名家夫妻が会議場として建てたもの。
 階段状に招集者席、半円形の舞台などを備え、議事堂としても音楽堂として機能していたという。収容人員約1400名、
 ・【バリウスの浴場】--アゴラから少し離れた処にある浴場跡。
 冷水・ぬるま湯・熱湯などの各種浴場を備えた典型的なローマ式浴場で、ローマ時代に建造、ビザンチン時代に改修されているという。

 
音楽堂オデオン
 
バリウスの浴場 

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