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トルコ/ペルガモン(古代都市遺跡)

 BC1000年紀後半のアナトリア(というよりオリエント全域)は、アレクサンドロス大王とともに動いていく。
 BC1000年紀中頃、バビロンの地で興ったアケメデス朝ペルシャは、東は中央アジアから北西インド、西はアナトリア、南はエジプト・リビアに至るまでの全オリエントに威をふるう大帝国を打ちたてた。

 これに対して、BC336年、20歳の若さで即位したマケドニアの王アレクサンドロスは、翌年、都市国家ポリスの分立抗争に終止符をうってギリシャを統一し、ペルシャ戦争(BC499~BC449の間に3度)の報復を旗印に、BC334年、ダーダネルス海峡を渡ってアナトリアへと進出していく。
 BC333年、大王はアナトリア東南・イッソスの戦いでペルシャのダレイオス三世を破り、翌年にはエジプトをペルシャのくびきから解放し、東へ逃れたダレイオス三世を追って東征を開始する。
 BC331年、メソポタミアのガウガメラでペルシャ帝国の息の根を止めた大王は、中央アジアから西北インドまで進出し、ペルシャ帝国の旧領土をも凌駕する大帝国をつくりあげる。
 所謂ヘレニズム時代、ギリシャ文明と東方オリエント文明の融合のはじまりである。

 しかしBC323年、大王がバビロンで早逝すると、部下の将軍たちの間で後継者争いがおこり(ティアドコイ戦争)、BC301年、大王の遺産は4っに分割されていくが、その中で生まれたのが都市ペルガモンである。

 神話によると、都市ペルガモンのはじまりはトロイ戦争に遡るという。
 「トロい炎上の後、トロイの王子ヘクトールの妻アンドロマケがギリシャ軍に捕らえられ、アキレスの息子ネプトレムスとの間に3人の息子を産む。
 その一人ペルガモスが建設したのが“ペルガモンス”で、それがペルガモンからベルガモへと変わった」
というが、ペルシャ帝国以前の痕跡はほとんど残っていないという。

 創建神話はともかく、ペルシャの支配からアレクサンドロス大王統治下へ移ったこの地は、大王の死後の遺領争いのなかで将軍ベルガマが領有することとなる(BC287)
 彼はこの地に都市の建設をはじめるがシリアで戦没し、ペルガモンは彼の部下フィレタイオスに簒奪されていく。
 フィレタイオスはこの地をペルガモン王国の首都と定め、小国とはいえ西アナトリアにおける独立王国の一つとして一時代を画していく。
 言い方を変えれば、ペルガモン(現ベルガマ)の歴史は、アレクサンドロス大王の死によって始まったといえる。

 ペルガモン王国は、6代・147年にわたり独立王国としてこの地を統治し、エウメネス二世(4代)からアタロス三世(6代)の時代(BC2世紀頃)、哲学・数学・文学・天文学などの学問から機械・造船・皮革加工といった商工業の分野で名声を馳せ、ペルガモンは神殿や記念建造物などで美しく飾られた人口約12万人を擁するエーゲ海沿岸部の中心都市として最盛期を迎えるが、BC133年アタロス三世のあと後継者が途絶え、ローマへの治世権委譲という形で姿を消したという。

 ローマ統治下のペルガモンは、自由都市としての地位を保ち、多神教信仰を擁するヘレニズム文明の中心地として繁栄していくが、キリスト教の伝来とともに“悪魔の巣窟”として排斥され、古の栄華を失い次第に衰微していったという。

 最盛期のペルガモンは、城壁で囲まれた約6平方㌔の領域に、王宮・神殿・劇場といった幾多の建物を配して繁栄を誇ったというが、発掘調査はほとんど進んでいない。

 今、観光地として見聞できるのは、標高333mの小高い山頂と中腹・裾野の3ヶ所に別れている遺跡のうち、山頂にあるアクロポリスを中心としたそれであり、それも、独立王国時代というよりローマ統治時代の遺構が主となっているという。
 

左が山頂のアクロポリス跡

※トラヤヌス神殿

 ペルガモンのアクロポリスでます゜目に飛び込んでくるのが、ややピンクかかった白大理石の柱列が群青の空に突き刺さるように建っている【トラヤヌス神殿】。

 この神殿は、独立王国時代の王宮跡に、ローマ皇帝トラヤヌス(13代、AD98~117)の勅許を得て建設をはじめ、ハドリアヌス皇帝(14代、AD117~138)の時代に完成したという。

 神殿は、周囲を列柱に囲まれた周柱式の建物で、コリント式の柱が6×10本建ち並び、3方を柱列式回廊が取り囲んでいたというが、
 今残っているのは、神殿の柱数本と北回廊の一部のみとなっている。 

 ただ、アクロポリスの最高部に建ち、平野の何処からでも仰ぎみることができた神殿は、さぞかし華麗なものだったろうと想像できる。

想定復元図

トラヤヌス神殿 
 
同・反対側より

神殿前の遺構 

 ローマ帝国時代、皇帝の名を付した神殿を建てることは、その都市のステータス・シンボルであり、各都市とも皇帝の勅許を得るために鎬(シノギ)を削ったというが、この神殿もご多分にもれず、隣接都市エフェソスやスミルナといったライバル都市との競いあった末にトラヤヌス帝の勅許を得たものであろう。

 ただ、神殿とはいうものの、そこに祀られているのは“神となった皇帝”であって、一般庶民が崇拝する所謂オリンポスの神々ではない。
 いずこの古代社会でも同じだが、王という者はその権威の源泉を神に求め、神の委託をうけて統治するという姿をとり(王権神授)、その死後も、己が神として崇められることを求めている。
 ローマでも、カエサルが死後神となった(本人の意志かどうかは不明)のを嚆矢として、歴代皇帝は死後神として祀られるようになるが(元老院の承認が必要)、それが信仰の対象としての神であったかといえば疑問がある。
 当ペルガモンでの神殿も、勅許を与えた皇帝トラヤヌスを神として祀ったというより、都市の力を誇示するステータス・シンボルとして建造された“皇帝の名をつけた神殿”だったのかもしれない。

※円形劇場
 アクロポリスの西側斜面を利用して造られたヘレニズム期の円形劇場で、約1万人を収容したという。
 82段を数える観覧席は、自然の地形をほぼそのまま利用しているため傾斜がきつく、本来半円形になるべき観覧席が、上に向かって扇形に拡がっている。

 最下段には、横に細長い木造の部隊が設置されていたというが、その北端に建つ【ディオニソス宮殿】(BC32世紀頃)への眺望を妨げないようにと、舞台が終わる毎に解体されたという。
 また、最上部はアーチと龕を備えた壁が取りまき、豪華な雰囲気と音響効果を高めていたというが、今は、その端に建っていたとおぼしき角塔を除いてその痕跡を求めることはできない。

 急斜面の観覧席に立つと、転がり落ちそうな恐怖感がわいてくるが、眼下には緑なす田園風景とベルガモの町が大きく広がり、古代人も眺めたであろう壮大な眺望を堪能することができ、それがこの遺跡最大の見せどころかもしれない。


円形劇場 
 
(右写真の反対側から)
 
想定復元図

※ゼウスの祭壇跡
 円形劇場を南にまわった処にあるのが【ゼウスの祭壇】とよばれる遺跡。
 とはいっても、当時の姿が残っているわけではなく、やや平たい山腹に崩れた石積みで囲われた土壇の一部が寂しく残っているだけで、大きく枝をひろげた2本の大木が、かろうじて、かつての祭壇の存在を示してくれるだけ。

 この祭壇は、王国の黄金期をつくったエウメネス二世(BC197~159)が、宿敵カラティヤ人との戦いに勝利したことを感謝して、オリンポスの主神ゼウスとペルガモンの守護神アテナに捧げた祭殿で、白大理石に囲まれた祭壇(36f×34m)の外壁は、オリンポスの神々と巨人族との戦い、主神ゼウスと守護神アテナあるいはアポロンやアルテミスなど、神話に題材をとった神々の浮彫で飾られていたという。

 今、これらの古代建築と芸術の傑作といわれるゼウス神殿のすべては、発掘者によってドイツに運ばれ、ベルリン・ペルガモン博物館の目玉の一つとなっているという。


ゼウス祭壇跡 
   
想定復元図

◎犠牲祭祀
 この祭壇でおこなわれていたのは、神々の目の前で犠牲(イケニエ)の獣を殺し、それを灼いて神々に捧げる祭祀だったという。

 犠牲祭祀について、BC2000年頃のバビロニアで語られていた“ギルガネッシュ叙事詩”に次のような一節がある。
 「そこで私は四つの風に鳥のすべてを解き放ち、犠牲を捧げた。 
  私は山の頂で御神酒を注いだ。七つの酒盃を置き その台の上に葦と杉の木と香木テンニンカを置いた。
  神々は その香しい香りをかいで 蠅のように犠牲のもとに集まった」

 これは、協約聖書の“ノアの方舟”に先立ってバビロニアに残されている“洪水神話”の一節で、神々が洪水をおこそうとしていることを叡智の神エアに知らされたウトナビシュティムは、エアの指示通りに方舟を造り、7日間にわたる大洪水の中を漂った末、水が引き始めてニシル山の頂に留まった方舟の窓から鳩を放ち、3度目に放した鳩が帰ってこないのを確認した後、ウトナビシュティムは山頂に立ち、神々に犠牲を捧げる。
 先の一節は、その祭祀の有様と、それに群がる神々の姿を歌ったものである。

 そこには、神の意志とはいえ、洪水によって人間が滅ぼされ、食べ物にありつけずに飢えていた神々が、久しぶりに捧げられた犠牲から立ちのぼる香に飛びかかっている浅ましい姿が描かれている。

 また、バビロニアの創世神話“エヌマ・エリシュ”には
 「遠い昔、神々は自らが生きるために働かなければならなかった。神々は皆、自分たちの日常の糧を得るために額に汗して働かなければならなかった。ところが神々は皆、それをひどく嫌がっていた」
と記され、これをうけて神々の主マルドゥクは次のように宣言している。
 「わたしは最初の人間、“人”を造ろうと思う。
  神々の代わりに夫役が人に課され 神々は心が和もうというものだ」
 ここでマルドゥクは、神々の世話をさせ、供義を捧げさせるために“人”を創造したといっている

 神々と犠牲とのかかりは、インド最古の宗教聖典“リグ・ヴェーダ”(BC1000年以前)にも記されている。
 そこには、神々が
 「これを与えることにしよう。それではない。彼には牝牛を与えよう。あるいは馬にしようか。はて、私は彼からソーマ酒を貰ったかな」
と、犠牲を貰ったかどうかを恩恵を与える条件としている。
 これに対して、人々は
 「われに与えよ。しからば、われ汝に与えむ。汝はわれに与えよ。われ汝に捧げむ」
と唱えながら、神々に犠牲を捧げたという。

 古代の神々は、人が犠牲の獣を灼き供義を捧げることによって腹を満たし、その反対給付として人々に祝福と豊穣を授けるのであって、そこにあるのは、神と人との間で取り交わされるgive and takeの関係ともいえる。

 古代インドの人々は、祭祀を正しく執りおこない神々に供義を捧げることによって、宇宙の諸現象を正しく支配することができる。神々さえも、祭祀がもつ不思議な力に束縛される。
 人々が正しい祭祀儀礼によって祈願すれば、神々はそれを欲するか否かにかかわらず、必ず人々に恩恵を授けなければならない、と考えていたという。
 神々は人間による供義を求め、人々は神の恩恵を期待し、それを仲立ちするのが“犠牲を捧げて祈る”という祭祀儀礼だったという。

 オリエント神話にしろ、ギリシャ・ローマ神話にしろ、神話・伝承の類をみると、人々は何かにつけて神に犠牲を捧げている。
 ユダヤ教でも、すべての民の父アブラハムは、神の命によって一人息子イサクを犠牲として捧げようとしたし(創世記)、レビ記には、牛・羊などの動物を神の前で殺し、皮を剥ぎ、祭壇で燃やして、その煙を神に捧げる犠牲祭祀の手法が詳しく記され、そこには
 「これが焼く尽くす捧げものであり、燃やして主に捧げる宥めの香である」
とある。

 古代の犠牲祭祀は、今考えるような野蛮な行為ではなく、彼岸と此岸、聖界と俗界を繋ぐ行為であって、神と人との間にあって絶対に必要な儀礼であったといえる。

 このゼウス神殿は、使徒ヨハネがペルガモン教会に当てた手紙の中で、
 「私は、あなたの住んでいる所を知っている。そこには“サタンの玉座”がある」
と書いているように、犠牲祭祀の場としての神殿であったが、それを唾棄すべきサタンへの信仰・野蛮なものとして否定し撲滅したのがキリスト教である。

 確かに、キリスト教の祭祀では、犠牲としての動物を殺すという行為はない。
 しかし、古代の犠牲祭祀が、①特別に設けられた聖所で、②参列者の前で、③特定の祭司が、④犠牲の動物を殺すことでおこなわれたように、キリスト教でも、①教会という聖所で、②信者の前で、③司祭が、④キリストの身体の象徴であるパンを裂く、という儀礼をもっている。
 そこには姿形こそ変われ、古代の犠牲祭祀の底に流れていた古代からの観念・風俗が脈々として流れているともいえる。

 キリスト教教会で執りおこなわれる祭祀儀礼のなかに嘗ての犠牲祭祀と同じものが残っていること、あるいは犠牲の動物に血塗られた異教の聖所跡にあえて教会を建て十字架を掲げたということが、多神教信仰が染みこんでいた地中海世界にキリスト教が受けいれられ拡大していく一つの契機となったといえよう。

 雑多な神々を祀る多神教世界のすべてを否定し、唯一なる絶対神信仰を旗印として推し進められたキリスト教拡大の裏にも、新旧宗教が衝突したときに常におこる、二つの宗教の習合がおこっていたといえる。

※その他の遺構
 当アクロポリスには、上記以外にもヘレニズム期の主要な遺構として以下のものがあるという。
*アテナ神殿跡(BC4世記)
  ペルガモンでは最古の周柱式神殿で、6×10本のコリント式柱が並んでいたという。今は礎石の一部が残るだけ。
*ペルガモン図書館跡(BC2世記)
  エジプトのアレキサンドリア図書館に次ぐ蔵書数(約20万巻)を誇ったといわれ、アレキサンドリア図書館が世界第一という地位を保つためにパピルスの輸出を禁止したので、これに代わるものとして羊皮紙が考案されたという。
*王宮跡
*上のアゴラ跡(集会場・市場)
などがあるというが、いずれの遺構も、今は台座や礎石などの幾つかが散在するのみで、ガイドから示されてはじめて気がつくものとなっている。

 ただもBC4世紀頃に山頂部を中心に建造され、その後に拡張された【城壁】の残骸が各処に残り、往時の偉容の片鱗を垣間みせてくれる。


城壁跡 
 
城壁跡(王宮跡ともいう) 

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