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 トルコ/ルメリ・ヒサール(要塞)

 ヨーロッパとアジアを劃し、マルマラ海と黒海を結ぶボスフォラス(ボスボラス)海峡は、現在、イスタンプールの観光スポットしてクルージング船が行きかう平和な海峡であり、北の黒海と南の地中海を結ぶ流通の要衝だが、古く、イスタンブールがビザンチン帝国の首都(コンスタンティノープル)であったときには、キリスト教国家とイスラム国家が厳しく対立する海峡であった。

 海峡の中程にある【ルメリ・ヒサール】は、その対立に終止符を打ち、コンスタンティノープルの攻略を狙うオスマン帝国が、海峡の制海権を掴もうとして建造した要塞である。

※オスマン帝国
 オスマンの出自は、トルコ民族の一支族オグズ族に属するカイゥ部族といわれ、13世記中頃、アナトリア北西部に派遣されたルーム・セルジューク朝の一司令官が勢力を拡大し、君侯国として自立したものという。
 建国後のオスマン・トルコは、その勢力を西方に拡大、ビザンチン領の浸食に専念し、1326年にはアナトリア西部の主要都市ブサルを陥落させて首都とし、数年を経ずしてマルマラ海峡東岸一帯を征圧するまでに勢力を拡大していった。
 その後、ビザンチン帝国の内紛に乗じてヨーロッパ側に進出した(1346)オスマン・トルコは更なる西進を進め、マルマラ海沿岸全域からバルカン半島山岳部を征圧し、現トルコ西北部のアドリアノープル(1369、現エディルネ)に遷都している。

 このように、オスマン・トルコにとっての14世記は、西へ東へとその領土を拡大していった順風満帆、当たるところ敵なしで、大帝国への道をひたすら歩んでいった時代といえる。

 そんなオスマン帝国に降りかかったのが風雲児ティモール(1336--1404)に率いられたモンゴル軍の接近で、折からコンスタンティノープルを包囲中であったバヤズイット一世は急遽アナトリアへと引き返していく(1400)
 このティムール軍の接近が、コンスタンティノープルの寿命を約半世紀引き延ばしたといえる。

 オスマン帝国とティモール軍の直接対決は、翌々年7月20日、現アンカラ近傍でおこり、オスマン軍は皇帝が捕らえられるという壊滅的な大半を喫し、アナトリアにおけるオスマン帝国の覇権は建国当時の領域までに縮小してしまう。
 このアンカラ近傍での大敗は、帝国にとっての挫折だったには違いないが致命傷とはならず、10年余りの雌伏ののち再統一された帝国は(1413)、瞬く間にアナトリアの旧領土を回復し、ヨーロッパにおけるビザンチン帝国領のほとんどを征服し、当時の大国ハンガリーらまで浸出している。

※ルメリ・ヒサール
 1451年、若くして父ムラト二世から帝位を引き継いだメフメット二世(1432--1481)は、最初に征服すべき目標を定めていた。それがコンスタンティノープルである。

 その足がかりとしてメフメット二世が、曾祖父バヤズイット一世がボスフォラス海峡のアジア側に築いた【アナドル・ヒサール】(1393)の対岸、ヨーロッパ側に建造したのが要塞【ルメリ・ヒサール】である(1452、コンスタンチノープル陥落の1年前)

 この要塞は、4ヶ月という短期間で築かれたといわれ、高さ70mの3っの巨塔と9っの小塔が、丘の斜面から水際にかけてに築かれた堅牢な城壁よって結ばれ、それらが海岸沿いに長く連なっている。
 これを築くに際し、ビザンチン皇帝が“牛の皮一枚分以上の土地の使用はまかりならぬ”と申し入れたのに対し、メフメットは“牛一頭分の皮を細く裂いて継ぎ合わせ、それを以て約30k㎡の土地を確保した”という話が残っているが、これは後世付与された一種の頓知話で、実際には、ビザンチン側の抗議などは無視して強行されたものであろう。

 ボスフォラス海峡の両岸に要塞が築かれたということは、マルマラ海と黒海を結ぶボスボラス海峡が、両岸に備えられた大砲によって征圧され、海峡の制海権がオスマンの手に握られたことを意味し、
 黒海から小麦を積んできたヴェネチア船が撃沈され、岸の泳ぎついた船員は斬首され、船長が串刺しの刑に処せられたことに示すように、コンスタンチノープルに対する北からの救援が途絶えたことを示し、これがコンスタンチノープルに対する実質的な宣戦布告だったという。

 今、アジア側のアナドル・ヒサールは、海岸沿いの民家に囲まれ、塔の頭部がちらほらと見えるだけだが、ルメリ・ヒサールは第2ボスフォラス大橋の袂に堂々たる全貌を見せている。
 (今、要塞は博物館となっているが、旅では海峡クルージングの一環としての海側からの見学のみ)
 春たけなわの頃、折から咲き誇るハナヅオウの赤紫の花に囲まれた“強者(ツワモノ)どもの夢の跡”、それが旅でみたルメリ・ヒサールであった。

 なお、ルメリ・ヒサールのすぐ北に架かる第2ボスフォラス大橋(L=1510m、W=39m、主塔H=106m、日本政府の開発援助により建造)は、正式名称を“ファーティフ・スルタン・メフメット橋”と称し、“征服者メフメットの橋”を意味するという。
 この地に要塞を築きコンスタンチノープル征服の足がかりとしたメフメット二世の名が冠されたことは、この橋に相応しいといえよう。

 
ルメリ・ヒサール
 
同  左 

ルメリ・ヒサールと
第2ボスフォラス大橋 
 
アナドル・ヒサール
(人家の背後にみえる塔が遺構の一部)

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