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トルコ/ハギア・ソフィア大聖堂
(現アヤ・ソフィア博物館)

 今のイスタンブールの中心市街地には、ビザンティン帝国時代即ちこの町がコンスタンティノープルと呼ばれていた時代を偲ばせる遺構は殆どない。
 そんな数少ない遺構の頂点に立つのが、ビザンティン帝国の国教・キリスト教(東方正教会)の大本山であるハギア・ソフィア大聖堂である(オスマントルコ朝時代にモスク・アヤ・ソフィアと改称、今は博物館)
 なお、ハギア・ソフィアとは“聖なる叡智”即ち“キリストそのもの”を意味するという。

※略史
 この大聖堂は、AD360年、コンスタンティヌス二世統治下(在位337--340)に完成したが、多分、その父コンスタンティヌス一世(306--337)の時代に建造が始まったものであろうという。
 キリスト教公認直後のこの時期は、各地にキリスト教の聖堂が大手を振って建て始められた時期だが、まだ定まった建築様式はなく、当聖堂も、最初のそれは木造のバシリカ様式(ローマ時代からの長方形の建物の中央身廊の両側に側廊を加えたもの)だったのではないかという。

 この最初の聖堂は404年の暴動によって焼け落ち、415年に再建されたが、これも532年の“ニカの騒乱”によって焼失したという(この時、コンスタンティノープル最古のハギア・イレーネ聖堂も焼失したという)
 この騒乱にいう“ニカ”とは勝利という意味で、宮殿に隣接するヒポロドローム(競技場、今は公園となり、テオドシゥスとコンスタンティヌスのオベリクスと蛇の円座が建っている)での2輪馬車競争に端を発した市民の騒乱が、日頃の鬱憤を晴らそうとする政治的暴動と化し、口々にニカ・ニカと叫んだことからこの名がある。
 この時、騒乱の激しさに耐えかねた皇帝ユスティニアヌス一世が帝位を棄てて逃れようとしたとき、皇后テオドラの「帝位を棄てて生きのびるより、帝衣をまとったままの栄光ある死を選ぶ」といった一言で翻意し、徹底的に弾圧したというエピソードが残っている。
 この皇后テオドラは、若い頃卑しい職業とされた女優であったが、即位前のユスティニアヌスに見初められ結婚したという女性で、帝位に就いた後の夫ユスティニアヌスをよく補佐したという。

 この騒乱平定後、ユスティニアヌスによって再建されたのが(537)、今のハギア・ソフィア大聖堂だが、それは再建というより新たな建設というべきもので、新聖堂の献堂式におもむいた皇帝が「ソロモンよ、余は汝に勝てり」と叫んだと伝えられ、その規模といい内部の造作といい、旧聖堂とは面目を一新する当代随一の豪華絢爛たるものであったという。

 ただ、この大聖堂の内部がどのようなものだったのか、その実体は不明で遺物なども残っていないというが、それは、8世記から9世記にかけて、約120年(途中中断あり)にわたって吹き荒れた“イコノクラスム”(聖像破壊運動、聖像や聖像画などを偶像として排斥した運動-下紀)のせいで(726--83、815--43)、これに巻き込まれて、ハギア・ソフィア大聖堂を飾っていた聖像や壁画などが破壊あるいは破棄されたという。

 この2度にわたるイコノクラスムの嵐を乗りこえ、東方正教会の総本山という本来の姿を取りもどしたハギア・ソフィア大聖堂に降りかかった災難が、第4次十字軍の襲来である。
 本来、イスラム勢力から聖地エルサレムを奪還するための遠征であるはずの十字軍が、第4次遠征(1204)では、同じキリスト教の都コンスタンティノープルを攻略、略奪殺戮を欲しいままにしたあげく、参加していた西方諸王国軍は当地に居座ってラテン王国を成立させている(1204--61)

 ただ、キリスト教会の東西分離から2世紀近く経った当時の社会では、同じキリスト教といっても所詮同床異夢であって、西方キリスト教・ローマンカトリックからみた東方正教会のあり方は、その教義面はもとより儀礼の進み方から聖職者の生活態度に至るまで異なるところが多く、十字軍にとってのコンスタンティノープルは異教の都・異端の地と映っていたのかもしれず、また、その裏には、聖地エルサレムに近いビザンティン帝国が、聖地奪還という聖戦に協力しないことへのいらだちがあったともいわれている。

 この十字軍の侵攻をうけてビザンティン帝国は、アナトリアに逃れ亡命王国としての存命を余儀なくされ、東方正教会も総主教が亡命するなど存亡の危機に瀕したが、ハギア・ソフィア大聖堂も、聖なる祭器などは汚物に中にうち捨てられ、神聖な祭壇は遊女の戯れ歌で冒涜され、堂内を飾っていた聖遺物や宝物類は略奪をうけたという。
 その有様をビザンティン年代記は
 「ムスリムさえも我々の妻や娘を陵辱することはなかった。住民を困窮に突き落とすようなことはしなかった。
 ところがこれが、主の御名のもとに十字軍を組織し、我々と同じ宗教を奉じているキリスト教徒たちがおこなった仕打ちなのだ」
と記しているという。

 この時興されたラテン王国は、約半世紀後、亡命政権ニカイア王国の前に崩壊し、ビザンティン帝国は再興されたものの、コンスタンティヌス一世から連綿とつづいたキリスト教社会の統治者としての栄光は薄れ、東方からひたひたと押し寄せるイスラム勢力の海のなかにポツンと残されたキリスト教の牙城として、コンスタンティノープルとその周辺のみを統治する一地方勢力へと衰微していったという。

 そんな中で迎えたのが、征服王メフメット二世率いるオスマン・トルコの大軍によるコンスタンティノープル攻略戦である。
 1453年5月29日夕刻、ビザンチン帝国最後の皇帝コンスタンティヌス十一世は、身につけていた皇帝の徽章をうち捨て、一戦士として、城内に乱入したトルコ軍のまっただ中に突入していったという。

 コンスタンティノープル陥落直後、メフメット二世は余塵くすぶるハギア・ソフィア大聖堂へと駒を進め、キリスト教の大聖堂からイスラムのモスクへの改造を命じたという。
 これは、コンスタンティノープルがキリストの都からアッラーの都・ムハンマドの都へと大転換したことを示すもので、ハギア・ソフィアからアヤ・ソフィアへの変身であったといえる。

 モスクに改造されたアヤ・ソフィアは、大ドーム上の十字架がイスラムの三日月に取り替えられ、堂内を飾っていたキリスト教の聖遺物は取り外され、壁画のモザイクは漆喰で塗り込められ、堂内には、聖都メッカの方角を示す壁龕(ミラフープ)と大理石造の説教壇が据えられたという。

※訪問記
 訪問時のアヤ・ソフィア博物館は、ドーム補強のための足場が組み立てられ、照明も少なく、堂内を全望することはできなかった。
 また、博物館としての公開のため宗教的な雰囲気はほとんど感じられないが、周りの列柱に取り付けられた8枚の円盤状の額(メダリオン、直径7.5m)が唯一イスラムを感じさせるもので、そこには金色に輝く装飾アラビア文字で、イスラムの唯一神アッラー、預言者ムハンマドあるいは歴代カリフなどイスラム聖職者の名前が書かれている(1849年の改修時に取り付けられたという)
 窓から差し込むかすかな光のなかにボンヤリと浮き上がるアラビア文字、それだけがイスラムを感じさせてくれる。


アヤ・ソフィア博物館 

同・内陣(資料転写) 
 
同・メダリオン

◎ビザンティン期の遺物--壁画
 今残っているビザンティン当時の遺物としては、共和制成立後の整備によって発見され(1932)、表面を覆っていた漆喰が剥がされて姿を現した壁画がある。
 ビザンティン当時といっても、これらの壁画はイコノクラスムが終わった10世紀以降のものが主で、それ以前のものは殆ど残っていない。

*聖母子像
 それらのなかで、最も興味をひくのが、後陣ドーム天井(ミフラーブの真上)に残っている【聖母子像】であった(9世記後半、イコノクラスム終焉直後のもので、当聖堂では最も古いという)
 玉座に座った聖母マリアが幼子イエスを抱いているありきたりの画像だが、暗い後陣のなか、そこだけに当てられた淡いライトに浮き上がった聖母子像には、人々の祈りを真っ正面から受け止めようとする聖母マリアの母なる慈愛と神の母としての威厳を感じさせるものがある。
 と同時に、その斜め下に掲げられたメダリオンの、アッラーとムハンマドを表す装飾アラビア文字の煌めきとが一緒になって、この聖堂がもつ歴史の重みを感じさせるものであった。

 
聖母子像(右下-メダリオン)
 
同・拡大

*キリストと賢帝レオ六世--9世記後半
 中央玉座に座るキリストは、左手に「汝に平和を、吾は世界の光なり」と書かれた書物をもち、左右の園内には聖母マリアと大天使ガブリエルとが描かれており、受胎告知とキリスト受肉の秘蹟を表すという。
 キリストの膝下には、賢帝といわれたレオ六世が膝まついて神の代理人としての叙任をうけている。

*聖母子と皇帝コンスタンティヌス一世・ユスティニアヌス一世--10世記後期
  幼子イエスを抱く聖母マリアの右に、首都コンスタンティノープルを聖母に捧げるコンスタンティヌス一世が、左にハギア・ソフィア大聖堂を捧げるユスティニアヌス一世が描かれている。

*キリストと皇帝コンスタンティヌス九世(モノマコス)・皇后ゾエ--11世記中葉
  キリストの左に立つ皇帝が持つ金貨の袋はキリストへ全てを捧げることを意味し、頭上には「神なるキリストに守られたコンスタンティヌス、信仰厚きローマ人の王」とあり、右の皇后は教会への寄進を記した巻物を持っている。
 皇后ゾエは3人の皇帝を夫とし、その都度皇帝の顔を描き換えさせたといわれ、ここに描かれているのは最後の夫モノマコスという。

 
キリストと賢帝レオ六世
 
聖母子と
皇帝コンスタンティヌス一世・ユスティニアヌス一世
 
キリストと
皇帝コンスタンティヌス九世・皇后ゾエ

聖母子と皇帝ヨハネス二世・皇后イレーネ--12世記初期

キリスト。聖母マリア・洗礼者ヨハネ--13世記後半~14世記初頭
  壁画の下半分以上が失われているが、復元図によれば、中央キリストは、右手を胸の前に挙げて祝福を示し、左手には福音書を持って玉座に掛け、心持ち頭を下げた両側の二人(左:マリア・右:ヨハネ)は、罪深い人々の許しを請う敬虔な仲介者としての姿を示すという。
 キリストの毅然とした顔には、慈愛と厳しさをもった神と云うより人間としての気品があふれているという。
 13世記後半以降、ビザンティン帝国再建後のものといわれ、ビザンティン壁画の最高傑作の一つという。

 
聖母子と
皇帝ヨハネス二世・皇后イレーネ
 
キリスト・聖母マリア・洗礼者ヨハネ
(下の絵は復元図)
 
同左・復元図

 これら一連の壁画は、神に守られたビザンティン帝国、キリストと聖母マリアに捧げられたコンスタンティノープルという大都市と大聖堂、それらを維持していくべき皇帝のあり方・責務といった、当時の社会の宗教観を示すものとして興味のあるものである。

[追記]
※イコノクラスム(聖像破壊運動)
 イコンという聖絵画がある。小さな板に泥絵具で描かれたマリア像、あるいは家庭の祭壇に置かれた小さなキリスト像などをイメージするが、正しくは、ギリシャ正教・ロシア正教といった東方聖教の聖堂で、祭壇のある内陣と一般信者席を区切る一種の間仕切り壁に描かれたキリスト像・聖母マリア像などの聖絵画を指す。

 いまヨーロッパを中心とするカトリック世界の宗教画をみるとき、そこに描かれているキリストにしろ聖母マリアにしろ、それらは見る人に抵抗なく受けいれられる自然な姿で描かれ、それを描いた画家が解釈するキリストの姿なりが描かれている。

 これに対して、イコンに描かれているキリスト像なりマリア像は、どれをみてもほとんど同じ顔をしており、そこでのキリストは、正面を向いた引き締まった顔で、救世主としてのイメージを強く表した顔といえる。

 イコンに描かれた聖画は、その容姿・構図・色彩・持ち物など全てに意味があり、例えば、手を挙げているのは神からの恩寵を頂く姿、巻物は神の啓示を明らかにする姿、十字架を手にしているのは殉教者の姿と決まっているという。
 聖書に書かれているキリストの姿を忠実に表すこと、それがイコンに求められている聖像であって、時代の要請や画家の解釈などによって変えられるものではなく、伝統的な描き方で描かれるべきものとされている。

 そういう世界に“イコンは偶像であり、イコンを崇拝することは異端である”という理念が持ちこまれ、起こされたのがイコノクラスムである。
 この根底にあるのは、
 「あなたには、吾をおいて他に神があってはならない。あなたは、いかなる彫像、いかなる像(カタチ)をも造ってはならない。・・・あなたは、それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」
という十戒の言葉であり、聖像破壊とは“初心に戻れ”ということだったかもしれない。

 一般にキリスト教は西欧社会の宗教であると受け止められるが、本来のキリスト教は、ユダヤ教やイスラムと同じく東方オリエント社会、中でも特に厳格な一神教信仰をもつセム系民族のなかか生まれた宗教であり、
 その神は、全知全能で近寄りがたい超越神であって、人間にはその意志を計り知ることはできず、
 ましてや、その姿を描くなど不謹慎そのものとされてきたし、神の姿を描くこと自体が神への冒涜であって、当然のことながら偶像崇拝など厳しく禁じられていた。

 これに対して、初期キリスト教が根付いた古代ローマ社会、その流れをひくビザンティムの地はヘレニズムの地であり、そこでの神は、古代ギリシャ神話に代表されるように、人間の形をもち、人間と同じような感情を持つ神であり、不死であることを除けば、人間とさほど変わらない存在であった。
 ですから、それを図像に表現することに対する拒絶反応はなかったといえる。というより、より積極的に表現されてきた。
 そんな図像表現の伝統をもつ社会に受けいれられたキリスト教が、その数百年にわたる流れのなかで、抽象的な表現が具象的なそれに変わっていく、十字架がキリスト像という具象的なものに変わっていくのは無理からぬことだったといえる。

 そんななかで起こったのがイコノクラスム・聖像破壊運動で、イコン崇拝は可か否かについて大げさにいえば生死をかけた論争が繰りかえされたという。
 それは、ギリシャ神話に代表されるヘレニズム的な文化土壌と、それに反発するユダヤ教的の伝統をひくヘブライズム的文化のせめぎ合いともいえるし、見方を変えれば、初期キリスト教が永年にわたる議論してきた、所謂“三位一体”論議の姿を変えた再現ということもできる。

 キリスト教は、ニカイア(325)からカルケドン(451)の公会議まで一世紀以上をかけて、人として此の世に顕れたイエスの“人性”と、神の子としてのキリストの“神性”とを如何に調和させるかということに苦慮し、最終的に、“イエスは神性において父なる神と同じであり、人性においては我等と同じであり、その二つは混同も変化も分離もしない。キリストは神性と人性を兼ね備えた救い主である”と定義され、これを無条件に信ずるのがキリスト者であるとして、これに反するものを異端として排除してきた。

 イコノクラスムで争われたのは、簡単にいえば、このキリストの神性と人性という二つの性格のどちらをより重視するかという争いともいえる。
 イコン禁止派はキリストの神性を重視する立場で、“神としてのキリストは表現不可能であり、それを人キリストとして描くことはキリストの神性否定に連なり、必然的に偶像崇拝につながる”と主張し、

 これに対するイコン崇拝派は、“キリストは神が人として顕れた(受肉した)姿であり、キリストの人性は神の意志によってもたらされるものであるから、キリスト像を描くことに何らの問題はない”として、これを肯定している。
 彼らによれば、“イコンをとおして、われらが救い主キリスト、われらの汚れなき御母などの対象を眺めることが多くなれはなるほど、その奥にあるものに対してより深い敬愛の念を懐くようになる。
 われわれがイコンを讃えることは、イコンの奥にあるものを讃えることになるのだ”というわけである。

 最初のイコン禁止令は、726年、ビザンティム皇帝レオ三世(717--41)によって発せられている。
 この時期、突如としてイコン禁止令を発した皇帝の心底には、教義上の問題もさることながら、当時、毎年のようにコンスタンティノープルの膝下まで攻め寄せてくるイスラム教徒の強さを、偶像崇拝を否定するイスラムの教えに忠実な彼らの信仰心に求め、これに対抗するため、キリスト教徒としても初心に返るべしという気持ちがあったともいう。

 イコノクラスムは、レオ三世につづくコンスタンティヌス五世(741--75)の統治下で絶頂を極め、その死後開かれたニカイア公会議(787・コンスタンティヌス六世)で一旦は復活するものの、815年、次のレオ五世(813--820)統治下になって再び嵐が吹き荒れ、最終的には、843年、ミカエル三世(842--67)主宰のコンスタンティノープル公会議において承認される、という経過をたどっている。

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