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トルコ/地母神
(チャタル・フユック遺跡)

 トルコのアジア側・アナトリアでは、旧石器時代には人が住みついていたというが、その具体はわからない。
 その中にあって、定住集落として具体の姿を残しているのが、中央部やや南寄りの町・コンヤの東南約52kmに残る新石器時代の遺跡・チャタル・フユック。

※チャタル・フユック遺跡
 当遺跡は、東西二つある丘の東の丘には、BC6500年頃(BC6800年頃ともいう)から同5700年頃にわたって営まれたの定住集落が、12層に重なって残されているという。
 特に、第8層から上には、幾つかのブロックに別れた密集住居跡が確認され、世界最古の都市の一つという名誉が与えられている。
 推定住居延べ1000棟・延べ5000~6000人ほどの人口を擁していたであろう巨大集落遺跡という。

 各ブロックを形成している日干し煉瓦造の住居は、居間・台所・小さな食料貯蔵所など幾つもの部屋をもつ方形の建物で、居間とおぼしき部屋は、天井から床まで石灰質の漆喰で何層にも上塗りされ、定期的に塗り替えがおこなわれた形跡がみられ、案外清潔だったらしいという。

 ブロック内には中庭的な空間が何カ所かはあるものの、通路らしきものは見あたらず、人々は住居の天井に開けられた穴から出入りしていたようで、梯子を使って上り下りしながら、方形の建物が上下左右に連なる密集住宅の間を行き交い、住居の屋根をテラスにも通路にも使っていたらしいという。

 また、この集落全体をとりかこむ防壁はなかったようで、最外側の住居の壁の連続が巧まずして防壁の役目を担い、一旦緩急あるときは、外側に架けられた梯子をはずすことで、集落は一つの大きな塊となって閉じこもり、外敵の襲来を防いだらしいという。


遺跡・推定復元図 
 
住居跡・復元図(薄いピンクは神殿跡)

 この遺跡で最も注目すべきことは、ブロックの各処に『神殿(或いは祭壇)』と呼ばれる特別な部屋があることで、発掘された139の部屋のうち48ヶ所に神殿があったという。
 一軒の家が幾つの部屋で構成されていたかは不詳だが、幾つかのの住居には何らかの祭祀をおこなう場所(神殿)が設けられていたと推測されている。

 この時代、死者がどのように取り扱われたかは不明だが、この遺跡では、居間の床下に人骨が丁重に葬られている例が多く、また、神殿といわれる部屋の幾つかには、火が焚かれた痕跡があり、部屋の中には
 ・人の頭蓋骨が安置され、
 ・壁面には、牛や野生獣などの狩猟図とか、
 ・ハゲタカとおぼしき鳥が“首のない人”を襲っている絵(右図)などが描かれていたという。 

首のない人を襲うハゲタカ

 死者の葬送儀礼がはじまった時期については諸説があるが、遅くとも旧石器時代の中後期にははじまったといわれ、その中には、頭蓋骨と人体とが別々に葬られている事例があり、特に新石器時代のヨーロッパでその傾向が顕著になるという。
 当遺跡に残る死体処理法は、これら古くからの葬送儀礼、なかでも、頭蓋骨を特別なものとして崇拝する風習の継承とみることができる。

 頭蓋骨崇拝について、資料(文化人類学事典・1994)には
  「葬制の一つとしての頭蓋骨保存は、とくにメラネシアを一つの中心としてオセアニアや東南アジア地域に広くおこなわれている。そこにおいては、頭蓋は死者の代表であり象徴であって、困ったときには、これに供物を奉って 祈禱するというかたちで、頭蓋骨崇拝がみられる」
とある。

 また時代は下るが、紀元前数世紀にわたって中央ヨーロッパから西方一帯にかけて活躍したケルト人は、
  「ケルト人は、戦いで倒した敵の首を切り落とし、愛馬の首にぶらさげ、歓びの歌が奏でられるなか、血まみれの死体を従者に手渡し、これを戦利品として運び去る。
 そして、これら戦いの成果である首級を家に釘で打ち付けるのだ、・・・彼らは、彼が倒した最も高名な敵将の頭部をレバノン杉の樹脂に浸して防腐処理を施し、それを注意深く小箱に保存し、客人に披露して得意がるのだ・・・」
という。

 これらからみると、人頭あるいは頭蓋骨というのは魂の象徴であって、これを身近に置き、困ったときに祈ることによって、死者の霊力というか智恵というか、故人がもっていた力を継承できるという観念、あるいは敵対した勇者の首級を所有することで、その勇者がもっていた強力な力を我がものとするという観念、そういったものをみることができる。

 また、ハゲタカが人を襲う、それも首のない人を襲うという壁画が何を意味するのかは不詳だが、鳥は人の魂を天界に運ぶ媒体とされることから、この絵は単に人を襲っているのではなく、死者の魂を天界へと運んでいるのかもしれない。
 後世ヘロドトスは、古代ペルシャで屈強とされたゾロアスター教の葬方について、
  「ペルシャ人の死骸は、葬る前に、鳥や犬に食いちぎらせるという」(歴史)
と記すが、古代ペルシャに近接するこの地でも、その数千年前に、死骸を特定の場所にさらしてその肉をハゲタカなどの猛禽類に食べさせる、所謂・鳥葬の風習があったのかもしれない。

 とすれば、そこには“他界”あるいは“死後の世界”という観念、そこへ死者の魂を導く“聖なるもの”の存在といった観念が生まれていて、それがハゲタカという猛禽の姿であらわされているのかもしれない。


※アナトリア文化博物館
 このような神殿の一例が、首都アンカラのアナトリア博物館に想定復元されている。

 神殿正面に、“両腕を挙げ両脚を大きく開いた女性像(女神像)”が浮き彫りされ、その真下には巨大な角をもつ“牡牛の頭部”が3頭並び、横の壁からは牛頭が大きく突きだしている。
 他にも、女性の全体像の代わりに、女性の乳房だけが飾られている神殿とか、乳房から動物の牙や鳥の嘴が突きだしているもの、あるいは牛頭の代わりに先のとがった石筍が壁面を飾っている神殿などもある。

 
神殿・想定復元
 
同左・部分
 
想定復元模式図

 この両手両脚を大きくひろげた女神像は、この像が“生命を生み出す女神”であり、また、彼女が生んだ生命(子供たち)が、最後に“彼女のところへ戻ってくる”、そういう“母なる女神”であることを示している。

 生命誕生の前提が死であるとすれば、母の胎内から生まれた生命(子供)は、死んで母の体内に帰り、そこから再び生まれ出てくる(再生)ともいえるわけで、ここに示された女神像は、女性がもっている生と死という二つの機能を示しているともいえる。
 そして、その女神が生んだ子供であるとともに、死んで母の胎内に入ろうとする生命を象徴するものが、下に並ぶ牛頭であり、とともに、その大きな角は、女神を孕ませる男根そのものを表しているとも解される。
 これらは、いずれも“生命のシンボル”としての女神像であり牛頭であるわけで、それらを組みあわせることによって、古代人たちは“多産と子孫繁栄”を祈ったものと思われる。

※地母神
 これに関連するかのように、チャタル・フユックからは、石または焼成粘土で造られた女性像が、部屋の中や床下に設けられた墓の中から数多く出土している。
 それらは、若い女・老女・出産する女・子供を抱く女など様々な姿をしているが、その多くは乳房や臀部が極端に強調されたもので、そこには、わが国の縄文土偶に通じるものがある。

 これらの女性像のなかで有名なものに、【大地母神像】あるいは【太母像】と呼ばれる小像(H=20cm強)がある。
 この小像は、BC6000年紀前半頃の穀物容器の中から発見されたもので、それは、この女性像が、収穫されて死んだ穀物の新たな稔り、穀神の死と再生、ひいては生命あるものの再生を司る女神であって、人々は、この女神像に向かって、年々歳々の豊穣と多産を祈ったものと思われる。

 
正 面
 
側 面
 
背 面

 この像は、豊満な乳房をもった極端に肥満し身体をゆったりと椅子の預け、両側に侍る動物(ライオンあるいは豹)の頭に両手を乗せ、豊かに臀部は椅子から大きくはみだしている。
 女性像の両脚の間にみえる丸いものは、産み落とされた赤児だといわれ、この女神が豊穣の女神であるとともに、“生命を生み出す女神”であることを示しているという。

 ライオンあるいは豹といった野生獣を従えた女神は、古く“キュベレ”と呼ばれ、アナトリアを含む東方世界で広く崇拝されていた古代の女神・地母神である。

 本来は“豊穣と多産の女神”といわれるが、次第に狩猟の神であるとともに野獣の保護者として、エジプトのイシス、ギリシャのアルテミス、ローマのディアーナ(英語読みがダイアナ)、最後に聖母マリアと、幾たびかの変身を繰りかえしながら生き延びていった“母なる大地の神・大地母神”の原始の姿という。

 アナトリア博物館には、この地方における旧石器時代以降の考古学上の遺物を年代順に要領よく展示しているが、そこに並べられている女神(地母神)たちをおっていくのに精一杯で、他は余り眼に入らなかった。

 

キュベレ像
(BC1000年紀後半)

◎キュベレ

 チャタル・フユック出土の女神像、あるいはヴィレンドルフのヴィーナス(BC2500頃)などに代表される古代の女性像は、地母神と総称される女神像で(時代は下るが、わが国の土偶も、この範疇に入る)、古代の吟遊詩人ホメロス(BC8世記)
 「私たち すべての母
  この世で最も古いもの 
  石のように堅く 堂々としており
  この地から生まれた ありとあらゆるもの
  それを産んだのは 彼女であり
  大地のために 私は歌う」(大地の賛歌)
と歌うように、その胎内からすべての生き物を産みだし、死したものを受けいれる生命の根源であり、大地の母という。

 これらの地母神は、時代の経過とともに、所を変え、姿形を変えながら連綿と継承されていくが、文字の発生とともに神話のなかにイナンナ(シュメール神話)・イシュタル(アッカド神話)などといった名をもって登場してくる。

ヴィレンドルフの
ヴィーナス

縄文の
ヴィーナス

 時代が下って、ギリシャ神話のなかに登場するのが“女神キュベレ”である。。
 その出自については諸説があるが、アナトリア北部のフリュギアにあるディンデュモン山を聖地とする女神といわれ、野性的な山の神で、常にライオンとかヒョウといった野生動物を傍らに侍らせている“獣の女主人”であり、古代オリエントを代表する豊穣の女神・偉大なる大地母神である。

 ギリシャ神話のなかのキュベレにはいろんなバリエーションがあり、その始原の姿を求めるのは困難だが、いずれの神話でも、男神・アッティスを主人公とする神話のなかに述べられている。
 アッティスとは、キュベレの恋人とも息子ともいわれる神で、メソポタミア神話のドゥムジやナタムズの系譜をひく穀物神である。

 キュベレとアッティスに関する神話として、次のような話がある。
 「ある時、大神ゼウスが熟睡の間に精を漏らされ、それが大地に落ちて、月満ちて一人の嬰児が生まれた。これが後のキュベレで、生まれたときには男女両性を備えていたが、神々が寄ってたかって男根を切り取り女性とした。
 ところが、この男根を埋めたところから一本の桃の木が生え、花が咲き、実をつけた。

 たまたま通りかかった近くの河神の娘ナナがその実をつまんで懐に入れると、不思議なことにその実が消えて、彼女は身重になり、一人の男児を産み落とした。これがアッティスである。
 母親は事の成り行きを畏れて、この子を山に棄てたが、牝山羊がこれを育てた。

 アッティスは成長するにつれて世にもまれな美少年となり、それを見つけたキュベレに愛されるようになった。アッティスも女神の愛に感じて決して愛を裏切るまいと誓っていたが、成人するにつれ、その美しさに言いよるものも多く、彼はいつしかニンフのベッシーヌスと懇ろになった。

 これを知ったキュベレが、二人の仲を妬み、ベッシーヌスが籠もる木を切り倒して命を奪ったため、アッディスは気がふれてティンデュモンの山に駆け上り、刃物や石で身を傷つけ、狂乱の末に禍の元となった男根をもぎとってしまった」

 ここで女神キュベレに愛されたアッティスとは、冬には枯れることによって死に、春とともに蘇ってくる植物の精霊(穀物神)といわれ、それが、女神キュベレと一体となることで植物の生死を左右することは、キュベレがもつ生死を司る地母神としての性格を証明するという。

 女神キュベレの信仰は、このアッティスの故事に因んだ狂乱的要素をもち、祭司や信徒たちは激越な叫び声を上げながら群れをなして狂い回り、角笛を吹き鳴らし、シンバルを叩き、夜は松明をかざし、熱狂のなかで手当たり次第に刃物で身体に傷つけて血を流し、時には狂乱した祭司たちが恍惚状態のなかで己の男根を切り取ってキュベレに捧げたという。

 この女神キュベレ信仰は、その庶民的熱狂的な性格から、フリュギアからアナトリア全域へ、ついでギリシャ各地へと広がり、遂にはローマ多神教世界の一画を占め、更には北上してガリアとよばれていたヨーロッパ中西部へと伝播し、その土地々々の地母神を吸収しながら偉大なるおお地母神としてキリスト教の伝来まで生き延び、その後、聖母マリア信仰へと姿を変えながらしぶとく生き延びた普遍的な大地母神信仰であったという。

 このキュベレ信仰がローマに伝わったときのこととして、
 「カルタゴのハンニバルがローマに侵入した第二次ポエニ戦争の時、カルタゴの脅威にさらされていたローマの巫女シビュラの神託によって、アナトリアかのベルガモンから女神キュベレとされていた聖なる黒い石(キュベレは黒石として顕現したとの伝承がある)をローマに勧請した(BC205)
 その時、女神キュベレは「偉大なる女神である吾は、ローマに行くに相応しい」と自らローマ行きを宣言し、ローマに勧請されるや、直ちに神威を発揮してカルタゴ軍を撃破してその力を証明した」
と伝えられ、それまでの獣の女主人・豊穣の女神という神格に戦いの女王・勝利の女神という神格が加上され、ローマ軍団の守護神へと変化していったという。

 この時、女神キュベレに従ってきた男女祭司が執りおこなう狂乱的な祭祀は、人々を恍惚状態に誘いこむ野性的なもので、爛熟した文明に浸っていたローマ人たちに強烈な衝撃を与えたという。

 この時勧請された女神キュベレ神殿の跡に、後世、カトリックのサン・ピエトロ大聖堂が建てられたといわれ、これが事実であれば、地母神を魔女として拒絶したキリスト教の中心となる大聖堂が、憎むべき地母神神殿の上に建てられたのは皮肉なことだといえる。
 (古い聖地の上に新しい神殿が設けられたことは多々あることで、サン・ピエトロ大聖堂の地下深くに古い祭祀の場が埋まっているのは事実という)

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