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月読信仰/葛野坐月読神社
京都市西京区松室山添町
祭神--月読尊
                                                       2008.09.11参詣

 延喜式神名帳(927撰上)に、『山城国葛野郡 葛野坐月読神社 名神大』とある式内社で、月次新嘗の奉幣に与る格式高い古社である。元は独立した神社だったが、今は松尾大社の境外摂社となっている。ただ、摂社となった時期は不詳。
 社名は、カドノニマスツキヨミと読む。

 京都市西部を嵐山から南流する桂川の右岸、阪急嵐山線・松尾駅の南西約500mの松尾山山麓に鎮座する。松尾駅の真西にある松尾大社の大鳥居前を左折・南下して約10分ほど。

※祭神
   月読尊(ツクヨミ・ツキヨミ)
 月読尊の出自について、古事記には
  「(黄泉国から帰ったイザナギは、筑紫の日向の橘の阿波岐原で禊ぎ祓いをされたが、その最後に)
  ・左の眼を洗ひたまふ時成りし神の名は天照大御神、
  ・次に右の眼を洗ひたまふ時に成りし神の名は月読命、
  ・次に鼻を洗ひたまふ時に成りし神の名は建速須佐之男命。
 この時、イザナギ命大いに歓喜びて『吾は子を生み生みて、生みの後に三柱の貴き子を得たり』とのたまひて、天照大御神に『汝(イマシ)命は高天原を知らせ(治めよ)』、月読命に『汝命は夜の食国(オスクニ)を知らせ』、須佐之男命に『汝命は海原を知らせ』と事依さしき(委任された)
とある。

 これに対して、日本書紀(5段)本文には、神生みの冒頭に
  「イザナギ尊が、『吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何(イカニ)ぞ天下の主者(キミタルモノ)を生まざらむ』とのたまひ、(イザナミと)共に日の神を生みまつります。大日孁貴(オオヒルメムチ)と号す。一書に曰、天照大神といふ。・・・
 次に月の神を生みまつります。一書に曰、月弓尊・月夜見尊・月読命といふ。其の光採(ウルワ)しきこと日に亜(ツ)げり。以て日に配(ナラ)べて治(シラ)すべし。
 次に蛭子を生む。次に素戔鳴尊を生みまつります」(一部略)
とあり、別伝として
 ・一書1--イザナギが左の手に白銅鏡(マスミノカガミ)を持ちたまふとき化り出る神あり、是を大日孁貴と申す。右の手に白銅鏡を持ったとき化(ナ)り出る神あり、是を月読尊と申す。並に是、質性(ヒトトナリ)明麗(テリウルワ)し、故、天地(アメノシタ)に照らし臨(ノゾ)ましむ(一部略)
 ・一書6--古事記に同じ(但し、治むべき国は蒼海原という)
がある。

 いずれにしても、月読命はイザナギ(書紀本文ではギ・ミ双神)が生んだ三貴神(三貴子)の一柱だが、その月読命の事蹟としては、
 書紀(5段)一書11に、
  「アマテラスがツクヨミに『葦原中国に保食神(ウケモチ)との居るという。行って見てこい』と命じた。ツクヨミが行って見ると、ウケモチは口からいろんな食べ物を出してもてなそうとした。それを見たツクヨミは『口から吐き出した穢らわしい物を食べさせるのか』と怒って、剣を抜いて撃ち殺した。
 高天原に帰ってアマテラスに復命すると、アマテラスは『汝は悪い神だ。もうお前には会いたくない』として、一日一夜を隔てて(昼夜別れて)住まわれるようになった」(大略、以下、殺されたウケモチの身体から稲をはしめ種々の食物が成り出ていたと続く-食物起源神話)
とあるのみで、他には見えない(古事記での食物起源神話はスサノオによるオオゲツヒメ殺しとして出ている)

 一方、民俗学にいう月は、その満ち欠けという現象(盈虚・エイキョ)から“死と復活”と結びつき、月神は“死んでも蘇る”則ち“不死”を掌ると信じられてきた。
 沖縄・宮古島に、
  「お月さま(月神)は人間に不死を授けようとして、使いの者に“変若水”(オチミズ・若返りの水)と“死に水”が入った二つの桶を担がせて地上に遣わした。使いの者が道ばたで休んでいると、蛇が現れて変若水を浴びてしまった。使いの者は、やむを得ず人間に死の水を浴びせて帰った。為に、蛇は脱皮して何時までも若くいられるのに、人間は死ななければならなくなった」
との伝承がある。
 この伝承は世界各地に残る“死の起源を語る伝承”の一つだが、ここでの月神は人間に不死を与えようとした存在として登場する。

 一方、古くから潮の干満が月の満ち欠けに影響されることが知られており(太陽も関係するが、その影響力は小さい)、特に漁業・舟運にかかわる海人の人々にとっては、その時期の月齢を知ることは生きていくために欠くべからざる智恵であり、そこから、対馬・壱岐の海人族に、潮の干満を掌るとされる月を神格化したツクヨミ、いいかえれば世俗信仰としてのツクヨミが生まれたという。
 ただ、記紀にいうツクヨミも、書紀・一書6に「ツクヨミは蒼海原を治すべし」とあるように海との関わりをもち、世俗的性格をも併せ持っているともいえる。

 記紀神話にいうツクヨミを祀るのが、伊勢内宮・別宮の月読宮・月読荒魂宮と外宮・別宮の月夜見神社だが、その他の月読社には世俗的な月神信仰に基づくものが多く、当社・葛野坐月読神社(カドノニマスツクヨミ)もその一社である。

※由緒
 当社参詣の栞によれば、
  「日本書紀顕宗天皇3年2月(487)条に、阿閉臣事代(ア゛ヘノオミ コトシロ)という者が勅命を奉じて任那(ミマナ)に派遣されることになったが、月神が或る人に憑依して『我が祖・高皇産霊(タカミムスヒ)、天地を熔造(ヨウゾウ)するの功に預かる。宜しく民地を以て奉れ。我は月神なり。若し請(コヒ)に依り我に奉らば、当に福慶あらむ』との託宣があった。
 事代は都に還りこのことを奏上した。朝廷では月神の請をいれて山背国葛野郡の歌荒樔田(ウタアラスダ)の地を奉られた。そして月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(オシミスクネ)が神社を造営し、祠官として奉祀した。これが月読神社の創祀である」
とあり、
 書紀・顕宗天皇3年条には
  「春2月1日、阿閉臣事代、命を銜(ウ)けて出でて任那に使す。是に、月神人に著(カカ)りて謂(カタ)りて曰はく、『我が祖・高皇産霊、請(コヒ)ひて天地(アメツチ)を鎔(ア)ひ造(イタ)せる功(イサオシ)(マ)します。民地(カキトコロ)を以て我が月神に奉れ。若し請の依(ママ)に我に献らば福慶(サイハヒヨロコビ)あらむ』とのたまふ。
 事代、是に由りて、京に還りて具(ツブサ)に奏す。奉るに歌荒樔田を以てす(歌荒樔田は山背国の葛野郡に在り)。壱伎県主の先祖押見宿祢、祠(マツリ)に侍(ツカ)ふ」
とある。

 月神が降したこの託宣によって創建されたのが当社だが、その月神に奉仕する祠官(神主)が壱岐の海人(アマ)の統率者・県主であるオシミスクネであることは、ここに祀られる月神は、壱岐の海人らが崇拝する世俗的なツクヨミであって、記紀にいうアマテラスに並ぶツクヨミではないことを示している。

 月神信仰には、月の満ち欠けに死と蘇り・あるいは不死をみる信仰、月が潮の干満を掌るとする信仰、月の満ち欠けを農業の指針とするなど様々な要素が含まれていたという。
 特に、海洋を生活の場とする対馬・壱岐の海人たちにとって、月を読み月齢を数えることは不可欠の能力で、そこから月神信仰が定着していたといえる。
 また対馬・壱岐の海人たちに伝わる卜占(亀卜)の技は、月読みをはじめとする自然現象の変化や災厄などから身の処し方を知る技として広く用いられていたという。

 月神の託宣があったのは、顕宗3年(5世紀末頃か)、オシミスクネが任那に使いしたときとある(顕宗帝の実在について疑問視する説もある)。任那とは、4世紀末頃から6世紀にかけて朝鮮半島南部にあったという国(地域)で、わが国との関係は密接だったという。その任那が滅亡したのは欽明天皇の御代(582)だが、任那の存続問題は、顕宗(あるいはそれ以前)から欽明・敏達朝にかけての重要課題のひとつであり、その渡海ルートに位置する対馬・壱岐の重要度は高かったという。

 そんな情勢のなかで、壱岐海人の統率者・オシミスクネが壱岐の月読神社を都近くに勧請し、月読の技・亀卜の技をもって中央祭祀に進出したのだが、月神の託宣とはいうものの、それを求める中央社会の要請があったことからで、その時期は、6世紀中ごろから7世紀にかけての頃ではなかったかという(「葛野坐月読神社」大和岩雄)。

 当社の祭祀氏族・壱岐氏(後の松室氏)について、参詣の栞は
  「押見宿祢の子孫は世襲祠官として永く神社に仕え、本貫地の壱岐を氏の名とした。この壱岐氏は、後に壱岐国の県主(島造)となった名族で、押見はその祖に当たる人である。
 壱岐は地理的に大陸に近い関係で壱岐氏は早くから中国の亀卜の術をわが国に伝え、これを中央に伝播した氏族の一つで、神祇官にあった卜占の事に関与し卜部氏を名乗った。
 卜占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分らの祖神と仰ぐ“月神”に、氏族の安泰と繁栄を記念すべく奉齊したのが、そもそも当月読神社の創祀ではなかったろうか」
とあるが、
 壱岐氏の出自について、新撰姓氏録は
  「右京神別  壱岐直  天児屋命九世孫雷大臣之後也」
として中臣氏系氏族という。
 雷大臣(イカヅチノオミ)とは、神功皇后9年、皇后が神託を求めたとき、神託を聞いてその意味を解釈する“審神者”(サニワ)として登場する中臣烏賊使主(ナカトミノイカツオミ)と同一人物で、幾つかの氏族の祖とされ、その子の一人・壱岐直真根子(イキノアタイマネコ)が壱岐直の祖という(応神紀9年条に「壱岐直の祖・真根子」とある)

 壱岐氏の本貫地・壱岐島が大陸あるいは朝鮮半島との交流で重要な位置にあることから、本来の壱岐氏は渡来系氏族と思われるが、それが中臣氏系氏族とされたことは、壱岐氏が卜占を職掌する卜部であったことから、宮廷祭祀を統轄した中臣氏と密接に関係し、その支配を受けていたことから、中臣氏系譜に組みこまれたのであろうという。

 今、長崎県壱岐島には当社の本宮というべき月読神社(壱岐市芦辺町国分触)があり、これをは延喜式神名帳にある壱岐の月読神社(名神大社)に比定されている。ただし、同じ芦辺町に残る箱崎八幡宮(箱崎針の居触)とする説もある。

 当社最初の鎮座地・歌荒樔田について、“歌”とはかつての“葛野郡宇太邑”を指すというが、その比定地は不詳。
 参詣の栞は
  「現在も月読の地名が残っている桂川左岸にあったとも、右岸の桂上野の辺りともいわれているが定かでない」
というが、今、桂上野との地名は当社の東約150kmの辺り(桂川右岸)にあるが、左岸にあるという月読の地名はみえない。

 また、社伝・葛野坐月読大神宮伝記(成立時期不明)
  旧記曰。顕宗帝三年 依神託献山背国葛野郡歌荒樔田十五町、以為月読神地。按歌荒樔田在大堰川之西南。松尾之東南地是也。今上野村之西有月読塚。是旧地也。上野村古名神野邑、則月読神社田代也 南有桂里
  旧記曰。往昔 月読尊天降山背国葛野郡歌荒田桂木杪以上係風土記 於是神席 而後桂木長茂 而在河浜 依以為河名 亦為里村之号 桂里東有桂川 水源出大堰川 南流至鳥羽 而会淀川也 故於今桂木為神樹
とあるように、上野(神野・カンノ)と桂の両説があったもという。

 上野とは上記の桂上野の地で、桂とは当社の東南にある“上桂”の辺り(桂川とは離れている)を指すと思われるが、伝記に「(桂川の)河浜に在り」とあることからみて、桂川近くにあって古く“神野”(カンノ)と書いた“桂上野”の辺りが有力という(大和岩雄・前掲書)

 なお、月読尊天降云々とは、山城国風土記(逸文)
  「桂の里 月読尊が天照大神の勅をうけて豊葦原中国に降り、保食神(ウケモチ)のもとにおいでになった。その時一本の湯津桂(ユツカツラ)の樹があった。そこで月読尊はその樹に依ってお立ちなされた。その樹のあった処を、今も桂の里という」
とある伝承を指す。
 この伝承は、上記の書紀一書11にいうツクヨミのウケモチ殺し(食物起源神話)が当地でおこなわれたことを示唆するものだが、そこに桂の樹が登場するのは、月中には桂の巨樹があり、その桂樹は何度伐り倒されも直ちに再生するという神話(中国・呉剛伐桂神話)を承けたもので、それは当社のツクヨミ奉祀に連なるといえる。

 なお、現在地への遷座時期について、文徳実録(879)・斉衡3年(856)3月3日条に
  「移山城国葛野郡月読社 置松尾之南山社近河浜 為水所噛 故移之」
とあり、度重なる桂川の氾濫を避けて松尾山麓の当地に遷ったという。

 また、社頭右手にある石碑・“押見宿禰霊所遺跡”(右写真)との碑文にも、
  「9世紀に入り、水害のため神社を奉じてこの地に移って、松室氏と改称した(それまでは伊岐氏)
とある。
 石碑は、オシミスクネの子孫である松室同族会が、遠祖顕彰のために、かつてオシミスクネの霊所があった当地に建立したもの、とある(昭和42年建立)

※社殿等
 松尾大社の大鳥居から南下して約10分、道路の脇に朱塗りの大鳥居が立つ。石段上の楼門をくぐった清楚な境内には拝殿を兼ねた舞殿があり、その奥、山麓の叢林に囲まれて本殿が鎮座している。また本殿両側には末社が並ぶ。
 ハイキングのついでに立ち寄る人はいても、この神社を目的としてやってくる人は少ないらしい。

 
葛野月読社・鳥居
 
同・楼門

同・拝殿 
 
同・本殿

◎御船社--祭神:天鳥船(アメノトリフネ)

 本殿左の疎林の中に小さな祠がある。社名の表示はないが、『御船社』と思われる。
 当社資料によれば、
 「水上交通の守護神。松尾大社の御幸祭のとき、今も社頭において渡御の道中安全を祈願する祭儀が行われる。現在、松尾大社の末社」
とあるが、松尾大社の御幸祭に際して、当社から御輿に代えて朱衣に飾られた唐櫃が出されるという。唐櫃は船を意味するか。

 祭神・アメノトリフネとは、イザナギ・イザナミの神生みによって生まれた船の神。“船”は神の乗り物であり、“天”は高天原と葦原中国の往来を、“鳥”はその速さを表すという。
 当社のアメノトリフネは月神が乗って渡御する御船を意味し、当社のツクヨミが、元もと海人に信仰されていたことを示唆するという。
 

◎聖徳太子社--祭神:聖徳太子

 本殿右手にある小祠で、学問の神として聖徳太子を祀ったものという。
 参詣の栞には
  「葛野郡一帯は、早くから帰化族の秦氏の勢力圏であったから、当然当社も松室氏も秦氏の厚い庇護を受け親密な関係にあった。このことは、当社の世襲祠官であった松室氏が、秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉祀していたことでも明らかである」
とあり、当社あるいは祠官・壱岐氏と秦氏との関係から、秦氏が近侍した聖徳太子を祀ったと思われるが、詳細は不明。


◎月延石(ツキノベイシ)

 本殿右手の『聖徳太子社』の右、石柵の中の一抱えほどの黒石の上に、浅い椀を伏せたような黒褐色の石が乗っている。この黒褐色の石が月延石であろう。
 この石は、神功皇后の朝鮮出兵の際、臨月だった皇后が霊石を腰に挟み、帰還後の出産を祈願したという所謂“鎮懐石伝承”に基づくもので、甕州府史(1684、江戸前期)によれば、「欽明天皇2年(630)8月に伊吉(壱岐)公乙等を筑紫伊都県に遣わして、神石を求めさせ、当社に納めた」(意訳)とある。

 俗信では、満ち欠けする月には人の出産を早めたり延ばしたりする霊力があるとされ、それが鎮懐石伝承と結びついて、月神を祀る当社に奉納されたのであろう。
 この石は安産に霊験があるとして信仰され、今も、月延石の上や周りには、子授けや安産を祈る素朴な願文、あるいは子供を授かったお礼文を記した白い石が数多く乗っている。

 鎮懐石伝承とは、筑前国風土記・逸文にいう
 「恰土郡児饗(コフ)の野に二個の石がある(大きさ一尺、重さ四十斤)。昔、息長足姫尊(神功皇后)が新羅に遠征しようとしてこの村においでになった。妊娠しておられ、産まれそうになったので、この二個の石をとって腰に挟み、祈って『私は、西の国境を定めようとしてこの野に着いた。孕んだ皇子が本当に神の子なら、凱旋した後で誕生なされるとよいだろうに』といわれた。ついに西の境界を定め、還ってからお産みになった。いわゆる誉田の天皇(応神天皇)がこれである。
 当時の人は、その石を名づけて“皇子産(ミコウミ)の石”といった。今は訛って“児饗の石”といふ」
との伝承を指す。
 わが国では、古く、妊婦の安産祈願の2個の小さい石を入れたお守り袋を、妊娠5ヶ月目に締めはじめる岩田帯に挟む風習があったという(今も残っているかもしれない)。メソポタミア神話でも、わが子(夫でもある)タンムズを迎えに冥界に降ったイシュタル女神は、腰に二個の石(子産み石)をつけて降り、迎えをうけたタンムズは母でも妻でもあるイシュタルに導かれて地上に再生した、という。
 二個の石とは“ご神体”であって“男女の神”とも“死と再生の象徴”ともいわれる。子供の誕生は先祖の生まれ変わり(再生)でもある。その際、ご神体である石を身につけて安産を祈るのは、洋の東西・時の古今を問わない母親の願いである。

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