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月神信仰/月読神社(京田辺市)
京都府京田辺市大住
祭神−−月読命・イザナギ尊・イザナミ尊

 JR学研都市線・大住駅の北西約1.2q、大住中学校に北摂する叢林の中に東面して鎮座する。叢林の北には大住幼稚園と小学校がり、道路をはさんで東には田畑が広がる。

※創建由緒
 社頭の由緒には、「月読神社 月読命とその両親イザナギとイザナミを祀り、明治10年に延喜式内の神社として定められた。本社は、平城天皇が大同4年(809)の譲位後、宮殿を平安京から平城京へ遷さんとせられし時、造宮使がその途、大住山において霊光を拝し、ここに神殿を造りしに始まるという」とある。
 当社は、延喜式神名帳に“山城国綴喜郡十四座(大3、小11)”とあるなかの大社・月読神社に比定される古社で、月次新嘗に与る格式の高い神社である。それが明治10年に定められたとは意味不明だが、同じ綴喜郡にあった式内社・樺井月神社との間で、それぞれの比定地について論議があったものを、明治10年に決着させたということだろう。
 また平城天皇は、譲位後、宮殿を平城京に移して平安京の廃止する詔勅を出すなど、後嗣の嵯峨天皇と対立するが、嵯峨帝の抵抗にあい挫折、身を引いて出家している(薬子の変)。由緒にいう「宮殿を平安京(京都)から平城京(奈良)に移そうとした云々」とは、このことを指す。
 由緒は続いて、数度にわたる兵火による被災焼失とその再建・修理の経緯を記し、その間、源頼朝が参詣して神馬奉納・所領寄進(建久6年-1195)があったこと、あるいは幕末の動乱期に、石清水八幡宮が兵火を避けて一時遷座した(慶応4年-1868)ことなどをあげ、当社が格式ある古社であると記している。
 由緒にいう、大同4年創建を云々する材料はないが、当社の前身は下記するように、かつて当地に移住して開発にたずさわった『隼人族』の人々が齋き祀った氏神社であったと思われる。

※社殿
 現在の本殿は、東面する一間流造・銅板葺の建物で、明治26年(1893)建造のもの。拝殿裏の瑞垣に囲まれた本殿の正面に低い白木造りの鳥居が立つという珍しい構造をしている。また、拝殿は昭和58年改築とのことで、まだ新しい。

月読神社・社頭
月読神社・社頭
月読神社・拝殿
同・拝殿
月読神社・本殿
同・本殿

 
※隼人舞伝承地
 参道入口の鳥居右に『隼人舞伝承地』との高札があり、
「九州南部の大隅隼人が7世紀頃に大住に移住し、郷土の隼人舞を天皇即位にともなう大嘗祭のときなどに朝廷で演じ、また月読神社にも奉納して舞い伝えてきた」
と記し、鳥居脇には“隼人舞発祥の碑”との石碑が立っている。高札によれば、今、保存会によって復元された大住隼人舞・隼人踊りが、毎年10月14日の秋期例大祭で奉納されるという。

 隼人とは、古代の薩摩・大隅地方に居住していた人々を指し、大和民族とは異なる民族で、東南アジア島嶼部から南太平洋にかけて分布するオーストロネシア語族に属するというが、確かな証拠はない。5世紀頃には大和朝廷に服属したというが、その後も、度重なる反乱記事が国史に記され、完全服従は8世紀前半ともいわれる。

 隼人の出自について、記紀に記す「海幸彦山幸彦神話」では、天孫ニニギの御子・海幸彦を隼人の祖とする。
 兄・海幸彦(ホデリ命)から借りた釣り針を失い、それを探して海神の宮に行った山幸彦(ホヲリ命、別名:ヒコホホデミ命−天孫ニニギの御子・神武天皇の祖父)が釣り針を見つけての帰国後、海神から与えられた宝珠・潮満珠(シオミツタマ)と潮干珠(シオヒルタマ)をつかって海幸彦を苦しめ、為に海幸彦は「今より以後、汝命の守護人(マモリビト)となりて仕へ奉らむ」と降参した。海幸彦は隼人族の祖であり、隼人族が朝廷に仕え、伝承する隼人舞を舞う(一説では、その舞は、海幸彦が満ちてくる潮に溺れて苦しむ様を写したものともいう)のはこのためである、という。
隼人舞発祥の碑
隼人舞発祥の碑

 本来の海幸山幸神話は、海山の豊穣を約束する神々の物語として南九州に伝わるものといわれる。それが記紀に取り入れられる段階で、天孫・ヒコホホデミと結びつけられ、隼人族の服従伝承へと改変されたともいう。因みに、南九州には天孫ニニギやヒコホホデミに関連する伝承が多い。所謂日向神話である。
 この神話そのものには月神との直接的な関わりはない。ただ、山幸彦が海神の館を訪れたとき、門前にある泉の傍らの桂の木に登って海神の娘・豊玉姫を待った話(月には桂の木が生えているという)とか、海神から潮の干満を意のままに操る潮満珠・潮干珠を与えられた話(月は潮の干満を掌る)などは、月神信仰との関わりを示唆するという。
 また南九州に伝わる伝承習俗には、月神信仰に関わるものが幾つかあるという。先述したように、隼人族が南方系海人民族の血をひくとすれば、海の潮を掌る神としての月神信仰を持っていたと思われる。因みに、大隅半島の串良町有里と桜島他に月読神社がある。

※大住と隼人
 当社由緒では“隼人族の当地移住を7世紀頃”とするが、大住にある前方後方墳が「5世紀頃、年代を引き下げても6世紀前半の隼人集団の統率者級の古墳」とみる見解(森浩一)、あるいは時代は降るが正倉院に残る古文書や続日本後記(869)に、当地の居住する隼人族の大住忌寸(イミキ)・阿多忌寸なる人物名が載ることからみて、5世紀とはいわぬまでも、相当古い時代から隼人の人々が当地方に居住していたと思われる。因みに“大住”の地名も“大隅隼人”に由来するという。
 大住の地には、当社や別稿に記す樺井月神社の他にも月読命に関わる神社が幾つか残っている。当社の南約4qの甘南備山(カンナビ、H=217m)には月読神が降臨したとの伝承があり、山頂に鎮座する神南備神社(式内小社)の本来の祭神は月読命という(今の祭神はアマテラス他4柱)。また甘南備山北東山麓の薪神社には注連縄を張った神石(H≒1m)があり、地元では月読神が降臨した磐座・影向石といわれている。
 これらのことからみて、当地に居住した隼人の人々は甘南備山を月読神が降臨した聖地と見、その麓に幾つかの月読社を創建したと思われる。ただ、これらに祀られている月読命は、記紀にいう三貴神の一人としてのそれではなく、潮の干満を左右する月神という土俗的・海人的な月神信仰に基づくものといえる。
(参考文献−−主として大和岩雄著「月読神社」−日本の神々5所載による)

※能楽・宝生座発祥の地
 本殿左手の疎林の中に「宝生座発祥の地」との石碑があり、「月読神社の神宮寺を宝生山福養寺といい、老松の茂る池には亀が遊んでいた(今の大住中学校の地)。この神社と寺に奉納した能楽座を宝生座(古くは外山座とも)と称した」とある。宝生座は観世座の祖・観阿弥の長兄によって始められた大和4座の一座(室町中期)で、特に加賀地方(金沢)を中心として盛んだった(演歌・加賀の人の歌詞に「加賀宝生・・・」と唄われている)

 また境内を出た道路脇の植え込みの中に「宮中神楽発祥の地」との黒御影の石碑があり、「庭燎 深山なる霰降るらし 外山なる まさきの葛 色つきにけり」との和歌が刻されている。ただし、この和歌と神楽との関係は不明。

 宝生座発祥の地・神楽発祥の地の適否は不詳だが、いずれも当地が隼人舞の伝統を曳くことからのことかと思われる。 
宝生座発祥の碑
宝生座発祥の碑

※末社
◎弁天社
 疎林に中に古池があり、簡単な石橋の先に弁天社が祀られている。かつての福養寺庭園跡と思われるが、手入れが行き届いてなく木立の間に蜘蛛の巣が張っていた。
◎御霊神社
 本殿左にある小祠。怨霊としての御霊ではなく、薬の神としてのスクナヒコナを祀る。またクサガミとして腫れ物に霊験あらたかとある。
◎他に、天満宮・金比羅社・稲荷社・足の神さまが祀られているが、足の神さまとはよくわからない。
月読神社・境内古池
古池−左手に弁天社がある
月読神社末社・御霊神社
御霊神社

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