トップページへ戻る

北河内(茨田郡)の式内社/堤根神社
大阪府門真市宮野町
 祭神−−彦八井耳命・菅原道真・若宮大神
                                                             2009.3.13参詣

 延喜式神名帳(927撰上)・河内国茨田郡五座のうち、『堤根神社』とある式内小社である。

 京阪電鉄・大和田駅の北東約300m、駅前から一本北の道を東進した左側(北側)に鳥居が立つ。民家に挟まれた参道の奥に社殿が、社殿手前と奥に末社4祠がある。明治18年の淀川大洪水で崩壊、同26年に再建したが、昭和9年の室戸台風で大被害を受け同10年に改築再建されたという。

 本殿は間口二間二尺・奥行2間五尺の流造檜皮葺きというが、よく見えない。拝殿は間口四間五尺・奥行三間の入母屋造。参道入口に建つ大鳥居は、文政2年(1819)、時の代官・橋川氏の寄進といわれ、高さ3mの明神鳥居。

 境内の北側道路に面して、社殿を挟む形で“茨田堤”(マムタノツツミ)遺構が残る。南側・鳥居前の道は、かつて河内と大和を結ぶ街道で、行基道(奈良時代、行基が作ったとされる古道、守口市高瀬付近から清滝まで通じていたという)とも呼ばれたという。

堤根神社・鳥居
堤根神社・鳥居
堤根神社・拝殿
堤根神社・拝殿

※祭神
 主祭神・彦八井耳命(ヒコヤイミミ命)とは、初代・神武天皇と正妃・イスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメともいう)との間に生まれた3皇子(ヒコヤイミミ・カムヤイミミ・スイゼイ天皇)の長子となっているが、この神については、古事記に、
 『日子八井命(ヒコヤイ命)、茨田連(マムタムラジ)・手島連(テジマムラジ)の祖』
とあるだけで、その事蹟・系譜などは何も記されていない。
 これに対して、日本書紀に記す神武の皇子はカムヤイミミとスイゼイ天皇の2皇子で(他に異母兄・タギシミミがある)、そこにヒコヤイミミの名はなく、皇統譜に混乱がある。が、神武天皇そのものが、その存在を疑問視されているから、その皇統譜を云々しても意味がない。
 また新撰姓氏禄には
 「河内国皇別 茨田宿禰 彦八耳命之後也 男野見宿禰、仁徳天皇御世、造茨田堤」
とあり、当社が鎮座する旧淀川縁の茨田堤築造に大きな功績を残し、その後も堤の管理をしたとされる茨田一族が、その祖神とされるヒコヤイミミを祀ったのであろう。
 ただ、旧淀川の畔に祀られていることからみて、本来の祭神は水神で、淀川の河道安定による氾濫防止と堤防守護を願ったと解することもできる。

 併祭神・菅原道真は、淀城主で当地を領した永井信濃守尚政(1587--1668)が合祀した(1633頃という)もので、若宮大神はヒコヤイミミの御子で、末社に祀っていたものを本殿に合祀したものという(時期不明)

※創建由緒
 社伝などの古文書は、明治18年の淀川大洪水によって全て流失しており、創建年次など不詳だが、当社由緒記には、
 「当神社御創建は約1600年ほど前の仁徳天皇の御世の茨田堤築堤まで溯る。・・・(茨田堤築堤伝承・下記)・・・茨田連衫子(コロモコ)は、大工事を成し得た事は自らの才如によらず、祖先の神助によると、祖神である彦八井耳命を奉祀したのが神社の起源で、堤の中央にお祀りしたため古来より堤根神社と尊称されている」
とある。下記に記す茨田堤築造伝承をうけたものである。

※茨田堤(マムタ堤 or マンダ堤)
 茨田堤とは、5世紀頃のヤマト王朝が、旧淀川の河道を安定させて氾濫を防ぎ、その後背地の耕地開発を進めようとして造って堤防で、枚方・寝屋川両市の境界付近から大阪市東部の旭区付近まで約28kmほど続いていたという。
 日本書紀・仁徳11年条(5世紀前半頃)
 「冬10月、宮の北部の野を掘って、南の水を導き、西の海(大阪湾)に入れた。その水を名づけて堀江(現大川の前身)といった。亦(マタ)北の川(旧淀川)の塵芥(コミ・氾濫)を防ぐために、茨田(マンダ)の堤を築いた」
とある。
 ただ、旧淀川の河道安定のための堤防築造は4世紀頃から何度も試みたもので、そのうちで渡来系技術を使ったそれが、伝承として仁徳朝にまとめて記載されたのでは、ともいう。

 その位置についての確証はないが、現淀川近くに位置する寝屋川市木屋・太間(タイマ)の辺りから南下し、同市池田・高柳を経て、門真市宮田町(堤根神社の辺り)に至る間に、それらしき痕跡が点在しているという。太間から宮田まで凡そ6.5〜7kmで、おおまかにいって寝屋川市・門真市を流れる古川に沿っている。

 因みに古代の茨田郡(マムタのコホリ)は、大略、今の守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲で、この辺りは河道が定まらない旧淀川と河内湖(潟)に挟まれ、一面に“牟田”(ムタ・湿地)が広がっていたため“万牟田”(マムタ)と呼ばれ、そこから茨田・マムタの郡名が生まれたともいう。
茨田堤・推定位置図
茨田堤・推定位置図(赤線部)
(,寝屋川市・門真市内)

 その工事中の挿話として、日本書紀・仁徳11年条に、
 「北の川の塵芥を防ぐために茨田堤を築こうとしたが、築いてもすぐに壊れてしまう処が2ヶ所あった。
 天皇の夢に神が顕れ、『武蔵人強頸(コワクビ)と河内人茨田連衫子(コロモコ)の二人を、河伯(カワノカミ)に奉れば塞(フセ)げるであろう』と告げた。
 そこで二人を捜し出して、人身御供とした。コワクビは泣き叫びながら川に入り、その部分は完成した。

 一方コロモコは、瓢2個を川に投げ込んで、
 『神が本当に我を得ようとするのなら、このヒサゴを沈めてみよ。ヒサゴが沈んだら神の意志として川に入ろう。しかし、沈めることができなかったら偽りの神だから、我は犠牲にならない』
といった。
 すると、旋風が巻き起こってヒサゴを水中に引き込もうとしたが、ヒサゴは波の上を転がるばかりで、沈まずに遠くへ流れ去っていった。
 こうしてコロモコは死ななかったが、堤は完成した。
 時の人は、この2ヶ所を“強頸の断間(タエマ)”・“衫子の断間”といった」(大意)
とある。

衫子断間の図(河内名所図会1801)

 この伝承は、旧淀川の河道を安定させることで耕地開発を進めようとする古人の努力と、その困難さを語るものだが、堤を造って川の流れを押さえ込もうとする人間の企てに怒った河の神が、築かれた堤を壊し人身御供を求めたのに対して、それまでのように無条件に従うのでなく、空洞のヒサゴは水に沈まないという智慧をもって抵抗したというもので、理不尽な神の祟りを排除するようになった時代風潮(人智の進歩)を示す伝承でもある。

 なお、日本書紀には、上記伝承に続いて、
 「この年、新羅人の朝貢があった。そしてこの工事に使われた」
とあり、古事記・仁徳条にも
 「秦人を労役に充てて、茨田堤と茨田屯倉(ミヤケ)を造り、・・・」
とあり、いずれも朝鮮半島からの渡来人(秦氏ともいう)がもつ先端技術によって茨田堤が築かれたことを示唆している。
 武蔵人コワクビなど東国人の労力と、コロモコに代表される畿内人の知力と、渡来人(秦人)の技術が集まって造られたともいう。

◎茨田堤の碑
 今、寝屋川市太間(タイマ)町内を通る淀川左岸堤防上に、“茨田堤”と刻した自然石の碑がある(昭和49年10月建立)。傍らの説明には、
 「当時淀川は水量も多く、平流れに広い土地を河道としていたが、それを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤で、一は現在とあまり変わらず西南流し、一は南流して生駒山の西あたりで大和川と合していた。
 その分岐点が、この碑の立つ辺りと考えられる」
とある。旧淀川に幾つかの川筋があり、この辺りで、西南流する本流(1896年に開削した新淀川に連なる)と南流する古川に分かれ、その古川沿いに築かれたのが茨田堤である。

茨田堤・記念碑
 今、当石碑のすぐ北に、淀川から別れた“寝屋川導水路”との水路が南東方へ向かって流れ、寝屋川に連なっている。その合流点近くに古川の起点があるので、この導水路の辺りが昔の南流する旧古川で、それを改修して寝屋川と結んだのかもしれない。

◎衫子断間(コロモコのタエマ)
 “衫子断間”について、大阪府全志(大正11年1922)
 「大字木屋より九個荘村大字点野に至る間の本地に属せる九町余の所を、古の衫子断間の址なりと伝ふ」
とあるが、具体の位置比定は不能。

 上記石碑より少し下流の現淀川左岸堤防の南、民家に囲まれて鎮座する“太間天満宮”(京阪・香里園西約1200m)の鳥井脇の説明には、
 「茨田連衫子が機知をもって生贄となることを免れた現場(衫子断間)は、ここから、400m東方」
とある。当天満宮の400mほど東とは太間東町の辺りで、上記寝屋川導水路が東南流している。一帯が住宅地と化しており、昔の堤防があったという面影はない。
 因みに、太間(タイマ)とは衫子断間の“断間”に起因する呼称で、タエマがタイマに転じたものという。
 また“強頸断間”(コワクビのタエマ)は、現大阪市旭区千林付近と推定され、千林商店街近くの民家に“強頸断間之跡”との石碑があるという(位置は少し移動しているらしい)

◎茨田連(マムタノムラジ)
 茨田連は、その氏名からみるように茨田郡を拠点とする古代氏族と思われるが、その実態はよくわからないが、新撰姓氏禄(815撰上・当時の紳士録的文書)に茨田を名乗る氏族名が幾つか載っている。

@右京皇別−−茨田連、多朝臣(オオアソン)同祖。神八井耳命男彦八井耳命之後也
 ここでのヒコヤイミミは、古事記にいう弟・カムヤイミミの御子とある。日本書紀の皇統譜によるものか。
 また“多朝臣”は、左京皇別項に「多朝臣 神武天皇より出たカムヤイミミ命の後なり」とあり、茨田連と同祖となっている。“太朝臣”とも記し、古事記を編纂した“太安麻呂”は多朝臣の出身。
A河内国皇別−−茨田宿禰(スクネ)、多朝臣同祖、彦八井耳命後也。男野現宿禰、仁徳天皇御世 造茨田堤
 ここでは、ヒコヤイミミの後裔で、野現宿禰が仁徳の御代に茨田堤を造ったとある。この茨田野現宿禰が茨田堤を築造した直接の統括者だろうが、茨田連衫子との関係は不明。“コロモコを捜し出して”というから、野現宿禰が氏族長でコロモコは氏族員の一人であろう。なお、姓(カバネ)・宿禰は天武朝に定められた姓(カバネ)で、連氏族の有力者に与えられたという。
 まお、野現宿禰を土師氏の野見宿禰(ノミノスクネ)とする説もあるが、“現”を“見”と呼んだ誤りで別人。ただ、土師氏も古代の土木技術に無関係ではない。
B山城国皇別−−茨田勝 景行天皇皇子息長彦人大兄瑞城命之後也
C山城国皇別−−茨田連 茨田宿禰同祖 彦八井耳命之後也
D河内国諸蕃(渡来人)−−茨田連 呉国王孫皓之後 意富加牟枳(オオカムキ)君也
E左京未定雑姓(種別不明)−−茨田真人(マヒト) 敏達天皇孫大俣王之後也

 これらの氏族をみるとき、茨田堤に関連するのはAの茨田宿禰と解されるが、全てを同一氏族とみるには本貫地・姓が幾つもあり、どれが本流かはよくわからない。
 また、Dの茨田連が渡来人となっていることからみると、ヒコヤイミミまたはカムヤイミミの後裔と称するものの、もともとは渡来人だった可能性も無視できない。

◎堤根神社付近の現状
 今、茨田堤の遺構とされる築堤が堤根神社を挟む形で東西2ヶ所に別れて残り、東部分は昭和49年に、西部分は同58年に大阪府史蹟に指定されている。
 東部分(L=約80m、H=2〜3m)は、かつての堤形をほぼ保ち、堤上には樹齢500年以上といわれる楠の大樹2本が聳えているが、周りを柵・塀で囲まれていて中に入ることはできない。
 西部分は距離が短く大分痩せている。昭和の初め頃までは西側から南方向に向けてずっと残っていたという。

茨田堤・遺構(東)
茨田堤遺構(東部分)
茨田堤・遺構(東)
同 左
茨田堤・遺構(西)
同(西部分)

※境内末社
 拝殿前の左手に末社3祠 「九頭八幡社」・「蛭子社」・「稲荷社」が並び、社殿裏に 「三宝宅神社」が鎮座している。

◎九頭八幡社(クズハチマン)
 祭神−−九頭大神(クズ)・八幡大神
 やや横長の祠の中に梵字を彫りこんだ石祠2基が並んでいる。由緒記に「旧横地村より遷座」とあるが、時期不明。
 九頭大神とは所謂“竜神”で、地元の人が、淀川の治水と四季の順調な巡りを祈願した祠であろう。

◎蛭子社(ヒルコ)
 祭神−蛭子大神
 ヒルコ大神とは“エビス神”のことで、地域の商い繁盛を願って西宮社から勧請した(昭和32年)ものという。

◎稲荷社
 祭神−−末鷹大神・熊吉大神
 伏見稲荷・奥山の第一峯から勧請したものという。末鷹・熊吉大神とは奥山に祀られている稲荷神の神名。


左より、稲荷社・蛭子社・九頭八幡社
◎三宝宅神社(サンポウタクシン)
 祭神−−火産霊神(ホムスヒ・火の神)・句々廼馳命(ククノチ・木の神)
       ・水速女命(ミズハヤノメ・水の神)・彦狭智命(ヒコサチ・木匠の神?)
       ・闇淤加美神(クラオカミ・水の神)・闇御津羽神(クラミツハ・水の神)
 まだ新しい祠の中に、“三宝神”・“宅神”と刻した石碑2基が収まっている。
 祭神は、いずれも“火”や“水”といった身近な生活に係わる神々で、“三宝神”とは台所などに祀られる所謂“三宝荒神”で、“宅神”も竈神など台所・水場などの守護神を指すのだろう。由緒記には「台所火鎮め・トイレ・風呂の守護神」とある。

「付記」
 上記以外に、門真市内稗島(ヒエジマ・正字−−クサカンムリに稗)にも“堤根神社”(祭神:天照坐皇大神-アマテラシ マス スメオオカミ・素盞鳴命・大己貴尊)を称する神社があり、その御旅所と称する小祠が北島町にある。
 門真市南部の古川右岸(西側)に稗島神社(大阪市地下鉄・鶴見緑地線・南門真が近い)、その少し北の左岸側に御旅所が位置する。

 明治41年(1908)に稗島神社と改称した神社で、それまでは山王神社とか両社神社とか社名が変遷し、祭神も古くはスサノヲ・オオナムチの2座で、江戸時代に皇大神が合祀され3座になったという。

 一部には、当社をもって延喜式にいう式内社とする説もあるが、古い社名・祭神名などからみて疑問という。山王神社と称したことからみると、比叡山の日吉大社と関係するのかもしれない。

堤根神社(稗島)・拝殿
堤根神社(稗島)・拝殿
堤根神社(稗島)・御旅所(北島町)
同・御旅所(北島町)

トップページへ戻る