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北河内(茨田郡)の式内社/堤根神社(改訂)
大阪府門真市宮野町 8-34
 祭神−−彦八井耳命・若宮大神・菅原道真
付−−伝茨田堤・御旅所
                                                   2009.3.13参詣・2021.06.14再訪

 延喜式神名帳(927)に「河内国茨田郡 堤根神社」とある式内社(論社あり)

 京阪電鉄・大和田駅の北東約300m、駅前から一本北の道を東進した左側(北側)に鳥居が立つ。
 境内の北側道路に面して、社殿を東西に挟む形で“伝茨田堤”(マムタノツツミ)遺構が残っており(下記)
 南側鳥居前の道は、かつて河内と大和を結ぶ街道で、行基道(奈良時代、行基が作ったとされる古道、守口市高瀬付近から清滝まで通じていたという)と呼ばれたという。

※由緒
 社伝などの古文書は、明治18年の淀川大洪水によって全て流失しており確たることは不明だが、
 頂いた参詣の栞『浮びの宮 堤根神社』には、
 「当社の創建は、今から約1600年前の古墳時代まで遡ります。
 当地を流れていた北の川(淀川)がよく氾濫することから、日本で最初の堤防・茨田堤が築かれました。
 この茨田防を築いたのが茨田氏と呼ばれる一族で、堤防を築いた後に、その鎮守として祖先である彦八井耳命を祀ったのが、当社のはじまりといわれています。
 平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳』には、当社は河内国五座の第一位に列せられており、門真市最古の神社です。
 江戸時代の寛永年間(1624--45)には、領主だった永井尚政公が崇敬していた菅原道真公を合祀しました。
 現在では、災い除け、運気浮き上がりの宮として、地域住民をはじめ多くの方から信仰を集めています」

 また、北大阪のお宮(2009)には、
 「当神社は、仁徳天皇の御代の茨田堤築堤を起源とすると伝わっています。
 国家事業として当時の最先端技術を持っておこなわれ、堤の完成により農耕文化の発展と経済的基盤が確立したとされ、現在日本の発展の礎といわれています。

 当神社の由緒として次のように伝わっています。
 仁徳天皇の御代、北河内の治水を為し給うに当たり、先ず内外の線の茨田の堤を築かれる。而して堤は既に成りたるも、外堤には尚ニヶ所の断間あり塞ぎ叶わず。潰流内堤に切迫して工事いよいよ困難なり。
 天皇深く之を憂い給う時に神夢あり。曰く『河内皇別茨田連衫子(コロモコ)を召して事に当らせれば必ず成就せん』と。之において天皇直ぐに衫子を探し給いしに神夢のごとく河内にあり。よってこの事を命じ給う。

 衫子謹みて勅命を拝し、第一にその成功を記念せんが為に内堤の当りに祠を建て河神を祀る。
 而して衫子は二個の匏(ヒサゴ)をとり、塞ぎ難き水に臨み請いて曰く、『禍神何ぞ祟る。吾弊となさんが為に今茲に来る』。吾を得んと欲せば先ずこの匏を沈め、而して浮かばしめざれば、即ち吾真神と知り水中に入らん。
 もし匏を沈め得ざれば、吾自ずから偽神と知る。『何ぞ徒に吾身を亡くさんや』と匏投げ入れるや、風忽ちおこるも、匏水中に浮遊して沈まず流れ去る。
 衫子意に介し神助を得て断間を修復し、以て天皇の御慮を奉安、民の困苦を救う事を得たり。

 之全く衫子の才覚をもつて大事を遂行し得たりとも、衫子我の微力に非ず、祖先の神助の致すことなりと、河神を祀りし祠を改築し祖先たる彦八井耳命を奉斎し氏神と尊祟せんにいたる。
 之即ち堤上に修祀する故を以て、往古より堤根神社と尊称する所以なり。(以下略)
とある。

 このように、当社は仁徳天皇の御代に築かれた茨田堤に関連して創祀された古社という。

◎茨田堤(マムタ堤 ・マンダ堤)

 茨田堤とは、5世紀頃のヤマト王朝(河内王朝)が、旧淀川の河道を安定させて氾濫を防ぎ、その後背地の耕地開発を進めようとして造って堤防で、枚方・寝屋川両市の境界付近から大阪市東部の旭区付近まで約28kmほど続いていたという。

 日本書紀・仁徳11年条(5世紀前半)
 「冬10月、宮の北部の野を掘って、南の水を導き、西の海(大阪湾)に入れた。その水を名づけて堀江(現大川の前身)といった。
 亦(マタ)北の川(旧淀川)の塵芥(コミ・氾濫)を防ぐために、茨田(マムタ)の堤を築いた」
とある。
 ただ、旧淀川の河道安定のための堤防築造は4世紀頃から何度も試みたもので、そのうちで渡来系技術を使った成功したのが、伝承として仁徳朝にまとめて記載されたのでは、ともいう。

 その位置についての確証はないが、現淀川近くに位置する寝屋川市木屋・太間(タイマ)の辺りから南下し、同市池田・高柳を経て、門真市宮田町(堤根神社の辺り)に至る間に、それらしき痕跡が点在しているという。
 太間から宮田まで凡そ7kmで、おおまかにいって寝屋川市・門真市を流れる古川に沿っている(右略図)。 

茨田堤略図 
(赤線−推定経路)

 因みに古代の茨田郡(マムタのコホリ)は、大略、今の守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲で、この辺りは河道が定まらない旧淀川と河内湖(潟)に挟まれ、一面に“牟田”(ムタ・湿地)が広がっていたため“万牟田”(マムタ)と呼ばれ、そこから茨田・マムタの郡名が生まれたともいう。

 その工事中の挿話として、日本書紀・仁徳11年条に、
 「北の川の塵芥を防ぐために茨田堤を築こうとしたが、築いてもすぐに壊れてしまう処が2ヶ所あった。
 天皇の夢に神が顕れ、『武蔵の人・強頸(コワクビ)と河内の人・茨田連衫子(コロモコ)の二人を、河伯(カワノカミ)に奉ればきっと防ぐことができるだろう』といわれた。
 そこで二人を探し求めて得られ、河伯に人身御供とした。コワクビは泣き悲しんで水に入れられ、その場は完成した。

 コロモコだけは丸いヒサゴ2箇をとって、防ぎにくい川に臨み、その中に投げ入れて、神意を伺う占いをして、『河神が祟るので、吾が犠牲にされることになった。吾を必ず得たいのなら、このヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ、そうすれば吾も本当の神意と知って水の中に入ろう。もしヒサゴを沈められないなら、偽りの神と思うから無駄にわが身を亡ぼすことはない』といった。
 俄に旋風が起こってヒサゴを水中に引き込もうとしたが、ヒサゴは波の上に転がるばかりで沈まなかった。速い流れの水に浮き躍りしながら、遠く流れ去った。
 コロモコは死ななかったが、その場は完成した。これはコロモコの才智でその身が助かったのである。
 それぞれ強頸の断間(タエマ)・衫子の断間といった」
とある。

 この挿話について、河内名所図会には、
 「茨田故堤(マムタノフルツツミ)
 池田村より太間・伊加賀に至って、故堤僅かに残れり。日本紀云、仁徳天皇11年、茨田堤を築かしめ、淀川の大水を防しめ給ふは此所也。衫子の故事、次に見えたり」
として、下の図絵を載せている。

 

 この挿話は、旧淀川の河道を安定させることで農地開発を進めようとする古人の努力と、その困難さを語るものだが、堤を造って川の流れを押さえ込もうとする人間の企てに怒った河の神(河伯)が、築かれた堤を壊し人身御供を求めたのに対して無条件に従うのでなく、空洞のヒサゴは水に沈まないという智慧をもって抵抗したもので、理不尽な神の祟りを排除するようになった時代風潮(人智の進歩)を示すものでもある。

 なお、日本書紀には、上記伝承に続いて、
 「この年、新羅人の朝貢があった。そしてこの工事に使われた」
とあり、古事記・仁徳条にも
 「秦人を労役に充てて、茨田堤と茨田屯倉(ミヤケ)を造り、・・・」
とあり、武蔵人強頸など人々の労力と、衫子に代表される畿内人の知力と、渡来人(秦人)の技術が集まって造られたことを示唆する。

◎茨田堤の碑
 今、寝屋川市太間(タイマ)町西を通る淀川左岸堤防上(京阪・香里園駅の西約1.2km)の大樹の下に、自然石に“茨田堤”と刻した石碑が立ち、傍らの説明には、
 「日本書紀に茨田堤の築造は仁徳天皇11年とあり、これは河川堤として本邦最初のものである。
 築造は難工事で、強頸断間・衫子絶間の伝説がよくそれを語っている。
 当時淀川は水量も多く、平流れに広い土地を河道としていたが、それを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤で、一は現在とあまり変わらず西南流し、一は南流して生駒山の西辺りで大和川と合していた。
 その分岐点が、この碑の立つ辺りと考えられる。また土佐日記でいう『わたの泊りの分れの所もこの地点としてよいだろう」
とあり、石碑の裏面には、
 「淀川百年記念  題字:女鹿悦子書 名張川産石  昭和49年10月建立」
とある。
 旧淀川には幾つもの川筋があり、この辺りで、西南流する本流と南流する古川に分かれ、その古川沿いに築かれたのが茨田堤という。


茨田堤の碑・全景 
 
茨田堤の碑
 
茨田堤の碑

◎衫子断間(コロモコのタエマ)
 “衫子断間”について、大阪府全志(大正11年1922)
 「大字木屋より九個荘村大字点野に至る間の本地に属せる九町余の所を、古の衫子断間の址なりと伝ふ」
とあるが、具体の位置比定は不能。

 上記石碑より少し下流の淀川左岸堤防の東、民家に囲まれて鎮座する“太間天満宮”の鳥井脇の案内には、
 「茨田連衫子が機知をもって生贄となることを免れた現場(衫子断間)は、ここから、400m東方ということです」
とある。
 当天満宮の400mほど東とは太間東町の辺りにあたるが、一帯は住宅地と化しており、昔の堤防があったという面影はない。

 太間天満宮(寝屋川市太間町、京阪本線・香里園縁の西約1.2km)
   祭神−−菅原道真・茨田連衫子
 境内には衫子断間跡の案内石碑はあるものの、天満宮そのものの案内はなく、創建由緒・年代等は不明。
 ネット等を勘案すれば、大略
 ・かつては衫子断間を完成した衫子を祀る小社であった
 ・近傍の三井若山にあった天満宮が焼失、その再建にあたって論争が起こり2社に分離し、その一社が当社に合祀された
 ・明治42年に友呂岐神社に合祀されたが、昭和42年に独立複社、現祭神を奉祀
ということらしいが、詳細不明。


太間天満宮・鳥居 
 
同・社殿
 
同・社殿(側面)
 
同・内陣
 
衫子断間跡・案内石碑

 因みに、地名・太間(タイマ)とは衫子断間の“断間”に起因する呼称で、タエマがタイマに転じたものという。
 また“強頸断間”(コワクビのタエマ)は、現大阪市旭区千林付近と推定され、千林商店街近くの民家に“強頸断間之跡”との石碑があるという(位置は少し移動しているらしい)

◎茨田連(マムタノムラジ)
 茨田連は、その氏名からみるように茨田郡を拠点とする古代氏族と思われるが、その実態はよくわからない。
 新撰姓氏禄(815)に茨田を名乗る氏族名が幾つか載っているが、その内の
 「河内国皇別−−茨田宿禰(スクネ)、多朝臣同祖、彦八井耳命後也。男野現宿禰(ノミノスクネ)仁徳天皇御世造茨田堤」
とあるのが当社に関わる氏族で、ここでは、ヒコヤイミミの後裔で、野現宿禰が仁徳の御代に茨田堤を造ったとある。

 この野現宿禰と茨田連衫子との関係は不明。“コロモコを捜し出して”というから、野現宿禰が氏族長でコロモコは氏族員の一人かもしれない。(彦八井耳命については下記)
 姓(カバネ)・宿禰は天武朝に定められた姓で、連氏族の有力者に与えられたという。
 なお、ノミノスクネといえば、土師氏の祖といわれる野見宿禰が有名だが、河内皇別・茨田連にいう野間宿禰とは別人。

 なお姓氏録には、上記氏族の他に次の4氏族がみえるが、どの氏族が本流かははっきりしない。
 ・右京皇別−−茨田連、多朝臣(オオアソン)同祖。神八井耳命(カムヤイミミ)男・彦八井耳命(ヒコヤイミミ)之後也
 ・山城国皇別−−茨田勝(スグリ) 景行天皇皇子息長彦人大兄瑞城命之後也
 ・山城国皇別−−茨田連 茨田宿禰同祖 彦八井耳命之後也
 ・河内国諸蕃(渡来人)−−茨田連 呉国王孫皓之後 意富加牟枳(オオカムキ)君也


※祭神
   彦八井耳命(ヒコヤイミミ)・若宮大神・菅原道真

 主祭神・彦八井耳命(ヒコヤイミミ命)については、古事記と書紀とで異なっている。
・古事記
 「(三輪の大物主神の御子)伊須気余理日売命(イスケヨリヒメ)の家、狭井川の上にありき。神武天皇その許に幸行(イデマ)して一夜御寝しましき。
 後に日売宮にの内に参入(マイ)りまして、然して生れましし御子の名は、日子八井耳命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)三柱なり。
 日子八井耳命は、茨田連・手島連の祖先である」
とあり、ヒコヤイミミ命は神武天皇3人の御子の長子で、茨田連等の祖先というだけて、その事蹟についての記述はない。

・書紀
 「辛酉春1月1日、天皇は橿原宮にご即位になった。正妃(媛蹈鞴五十鈴媛)を尊んで皇后とされた。
 皇子神八井耳命・神淳名川耳尊を生まれた」
とあり、ここには彦八井耳命の名はみえない。

・新撰姓氏録
  右京項別・茨田連の項に、「神八井耳命男彦八井耳命」とあり、ここでは神八井耳命の御子となっている。

 このように彦八井耳命の系譜については混乱があるが、いずれにしろ、当社が鎮座する旧淀川縁の茨田堤築造に大きな功績を残し、その後も堤の管理をしたとされる河内国皇別の茨田連一族が、その祖神とされる彦八井耳命を祀ったのであろう。
 ただ、旧淀川の畔に祀られていることからみて、本来の祭神は水神で(衫子伝承にいう河伯)、淀川の河道安定による氾濫防止と堤防守護を願ったと解することもできる。

 この八井耳命について、当社HPには、
 「神武天皇の第一皇子
 神話では、彦八井耳命は火の玉(乾珠・カンジュ)と水の玉(満珠・マンジユ)の二つの玉をもって、高千穂より阿蘇の地に降りられたとあります。
 この二つの珠は、雨と太陽を表し天気を自在に操るもので、阿蘇の地に農業を広めました。
 その後、九州鎮護と東征という神武天皇による国土統一の大事業を補佐されました。
 やがて彦八井耳命の子孫は茨田氏となり、日本最古の堤防・茨田堤を築きました」
とある。
 これによれば、彦八井耳命は、同じ神武天皇の御子であっても九州に居られたとき(神武即位前の神日本磐余彦時代)に生まれた御子と解され、それを神武天皇第一皇子というのには疑問がある。また、乾珠・満珠神話の出所も不明。

 ・若宮大神−−ヒコヤイミミの御子で、末社に祀っていたものを本殿に合祀したという(時期不明)
 ・菅原道真−−江戸前期の淀城主で当地を領した永井信濃守尚政(1587--1668)は菅原道真を篤く崇敬し、領内の各地に勧請しており、当社もその一社であろう(1633頃という)



※社殿等
 南側道路(旧行基道)に面して多くの提灯が下がり、そのすぐ後に一の鳥居(文政2年・1819、時の代官から寄進、H=3m)が、長い参道の途中に二の鳥居が立ち、参道奥の低い石段を上って境内に入る。


堤根神社・社頭(前は旧行基道) 

同・一の鳥居
 
同・二の鳥居

 境内正面に、入母屋造・銅板葺き・横長の拝殿が、その裏、塀で囲まれた中に、弊殿を介して千鳥破風を有する流造・銅板葺きの本殿が、南面して鎮座する。
 本殿は塀に囲まれているため、外からは屋根が見えるだけだが、拝殿内陣の奥に本殿とおぼしき社殿が鎮座する。


同・拝殿 
 
同・内陣
 
同・本殿

※境内末社
 境内へ入る石段の左手前に末社3祠 左から「稲荷社」・「蛭子社」・「九頭八幡社」が、それぞれに鳥居をもって並び、社殿裏に 「三宝宅神社」が鎮座している。

◎稲荷社
 祭神−−末鷹大神・熊吉大神
 伏見稲荷・奥山の第一峯から勧請したものという(時期不明)。末鷹・熊吉大神とは伏見のお山に祀られている稲荷神の神名。

◎蛭子社(ヒルコ)
 祭神−蛭子大神
 ヒルコ大神とは“エビス神”のことで、地域の商い繁盛を願って西宮社から勧請した(昭和32年)ものという。

◎九頭八幡社(クズハチマン)
 祭神−−九頭大神(クズ)・八幡大菩薩
 やや横長の祠の中に梵字を彫りこんだ石祠2基が並んでいる。
 HPには、「古古川左岸の横地村より遷座と伝える」とある。
 九頭大神とは所謂“竜神”で、地元の人が、淀川の治水と四季の順調な巡りを祈願した祠であろう。

 
末社3社(左より稲荷社・蛭子社・九頭八幡社)

稲荷社社殿 
 
蛭子社社殿

九頭八幡社社殿 
 
同・内陣(石祠2基あり) 

◎三宝宅神社
 祭神:三宝社−−火産霊神(ホムスヒ・火の神)・句々廼馳命(ククノチ・木の神・水速女命(ミズハヤノメ・水の神)
     宅神社−−彦狭智命(ヒコサチ・木工の神)・闇淤加美神(クラオカミ・水の神)・闇御津羽神(クラミツハ・水の神)
 本殿裏に鎮座する小祠で、まだ新しい祠の中に、“三宝神”・“宅神”と刻した石碑2基が立っている。
 祭神は、いずれも“火”や“水”といった身近な生活に係わる神々で、“三宝神”とは台所などに祀られる所謂“三宝荒神”、“宅神”も竈神など台所・水場などの守護神を指すのだろう。HPには「台所火鎮め・トイレ・風呂の守護神」とある。

   


【伝茨田堤遺構】
 茨田堤の遺構とされる堤が、神社のある街区の北側道路沿いに神社を挟んで東西2ヶ所に分かれて残っている。

 
茨田堤遺構・位置図
(ネット地図に加筆、赤枠内が遺構)

*東側遺構前に立つ案内には、
 「伝茨田堤(府指定史跡)
 茨田堤は、古事記・日本書紀にみられる記録に残る最古の堤防と言われています。
 日本書紀の説話によると、仁徳天皇の時代(5世紀)に淀川の洪水を防ぐため治水工事がおこなわれ、当時の最先端技術であった渡来人の土木技術を用い、難工事の末堤防を完成させたと伝えています。
 また堤防跡から古墳時代(5世紀後半)の須恵器が出土していることから、この堤防跡こそ現在唯一地上に残る茨田堤の遺構と推定され、堤根神社を挟んで東西542.97mが大坂府の史跡に指定されています。(注−−東部分:昭和49年指定、西部分:昭和58年追加指定)

 茨田堤の寛政により田畑は一挙に広がり、農地は安定し茨田屯倉が設置されました。
 門真市内では、5世紀後半に集落が形成され(元町遺跡・元町)、6世紀には河内の低地では最大級の円墳や普賢寺古墳(墳丘約30m・幸福町)が築造されるなど、大きな発展をみることができます。 平成20年10月 門真市教育委員会
とあり、当該築堤を茨田堤の遺構と推定し大阪府史跡に指定している。

 東側遺構(L=約80m、H=2〜3m)は、鉄柵に囲われたなかに蒲鉾状の築堤跡が堤形を保って東西に延び、堤上には樹齢500年以上といわれる楠の大樹2本が聳えている。
 鉄柵内には入れないが、東側に小さな広場があり、そのから鉄柵内を見ることができる。

 
伝茨田堤・東側遺構全景
 
同・東側より
 
同・築堤部

 なお、堤根神社境内東北角が東側遺構(西端)に接していて、鉄柵前に「史跡 伝茨田堤」と刻した石柱と「史跡茨田堤 顕彰」と刻した茶色の石碑が立っている。


東側遺構・西端部 

同・築堤部 
 
同・顕彰碑

*西側遺構は神社境内の北西隅から西へ続いているが、建物が接していて境内からみることはできない。
 西側遺構の西端に立つ案内には
 「ここには東西方向に堤防跡が残存し、延喜式内の堤根神社が鎮座することから、茨田堤の遺構と推定され、府の史跡に指定されています。
 平成24年に初めて発掘調査がおこなわれ、地上に残る遺構を含め、鎌倉時代(13世紀)に築かれた堤防状の遺構であることが判りましたが、茨田堤と断定するには至っておりません。 門真市教育委員会
とあり、平成24年以降の設置と思われる当案内では、当遺構を茨田堤跡とするには慎重な姿勢をとっている。

 西側遺構は距離が短く、築堤部も大分痩せている。
 遺構の西側は小さな広場となっていて築堤部はなくなっているが、昭和の初め頃までは西から南方向に向けてずっと残っていたという。

 
西側遺構・全景
 
同・西端部
 
同・築堤部


【御旅所】
 当社の南約2kmほどの北島町に御旅所があり(大阪メトロ鶴見緑地線・門真駅の北約1.2km)、HPには
 「遙拝所(御旅所)
 当社南端の氏地である北島町にあります。日々の参拝が不便のため、遙拝所として明治初年に本殿を移築したと伝わります。
 現在は御旅所と通称し、平成22年氏子各位の奉賛により建替新築されました」
とある。

 御旅所は大阪メトロ鶴見緑地線・門真駅の北約1.3km、駅西を流れる古川の東岸沿いの道を北上した東側にあり、鳥居の神額には「堤根神社 御旅所」とある。


御旅所・鳥居 
 
同・社殿

 なお、当社は延喜式内・堤根神社に比定されているが、同じ門真市ひえ島に内に式内堤根と称する論社がある(別稿・堤根神社・稗島参照)

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