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鶯 塚
(長柄の鶯塚)
大阪市北区長柄東2-5地先
                                                    2020.10.27訪問

 大阪メトロ堺筋線谷町線・天神橋六丁目駅(天六駅)の北東約700m、駅上の天六交差点から都島線を南東方へ約450m程行った天満橋筋との交差点を左折、北へ約500m程行った西側に位置する。
 ただ、道路からは樹木に阻まれて見えにくく、西側の旧道からが見付けやすい。

※由緒
 境内に掲げる案内・「鶯塚の由来」(鶯塚保存会設置)には、
 「この鶯塚は、今から1200年ほど昔、長柄長者の美姫が鶯を飼って人間のように可愛がっていた。ところがこの姫が病のため死ぬと、鶯はその死を悲しみ後を追う如く死んでしまった。
 長者たちは、このうるわしい話を後世まで伝えようと、姫と鶯を一緒に埋葬して『鶯塚』と名付けたと言われている。

 又、長柄は1310年前人皇第38代孝徳天皇の遺蹟で、中大兄皇子(後の天智天皇)及び中臣鎌足(藤原氏祖)と共に蘇我氏の専横を退けて、大化の改新を断行された由緒の地で、“摂津名所図会”によると、『孝徳天皇の御陵は南河内の山田村に古来より鶯塚と伝えられているので、この鶯塚も天皇に関係の高貴な方の御墓であろう』とある。

 又、今から240年前の正徳3年(1713)夏、河内狭山の藩士で笹木源之介が父の仇・加州の浪人・羽滝伝太郎を母と共に400年間さがしもとめて、遂に長柄長者の配慮により、この鶯塚のほとりで見事仇討ちをとげ、狭山藩に帰ってから長者の娘お菊を迎えたと云う。この鶯塚を舞台にした芝居もある。

 昔は小丘の上に五輪塔の墓があって、その前に『鶯塚』と刻んだ石標が立てられ、小庵もあって四時薫香が絶えなかったと言う」

 また、大阪市HPには、
 「昔、このあたりは一帯が田畑であり、小高くなった此処だけが目立っていた。
 貞享3年(1686)在銘の五輪塔が建っているから墳丘と考えられるが、誰のものかは不明である。
 地元では鶯塚と呼ばれ、鶯にまつわる伝説が残っている」
とある。

 鶯塚は、浪華往古図(伝応永年代・1394--1428)の中に、長柄の渡しへ向かう道の東側に『鶯塚』とあるるから、室町初期頃からあったのは確からしい。

 上記案内は、鶯塚の由来を長柄長者の愛娘と彼女が飼っていた鶯の話としているが、他にも幾つかの伝承類が残っている。
 管見した資料によれば
*葦分船(1675、文献上での初見)
 ・昔、この畔に住む富める人に愛娘が一人あり、、この娘は久しく鶯を飼って可愛がっていた
 ・あるとき、この娘が急に亡くなってしまい、父母は愛する娘に先立たれたことを嘆き、悲しみにくれ
 ・母親か娘が飼っていた鶯に向かって「汝は誰をよすがとして、今より後、この家にいるのか」と語ると、
 ・これを聞いた鶯は、声の限りに鳴き続け、そのまま死んでしまった 
 ・今、その鶯を埋めた処を鶯塚という

*摂陽群誌(1701)
 ・葦分船と略同じ伝承を記した後に、
 ・一説に曰く、孝徳天皇が長柄豊碕宮を造営した時、皇后の遺骸を納めた塚とも云うが、その証は不祥

*村役人から幕府役人へ提出した鶯塚由来書(1754)
 ・昔、長柄里に“こさし”という長者がいて鶯を愛していたが、その長者が亡くなったとき、鶯はおおいに悲しみ
 ・長者の家の少し東にあった“いとこひ”という池に生える葦に留まって、「死出の山 三途の川に関据へて こさじと言わば 帰れこの君」との歌を詠じ
 ・「もし君が帰らなかったら、葦の葉は片葉となれ」と歎いた。それ以降、此処の葦葉は片葉(茎の片側にだけ葉があること)という
 ・世人曰く、毎年正月朔日の暁には、鶯が初音一声鳴いて飛び去ると
  (略同文が大阪府全志にも見える)

*摂津名所図会(1798)
 ・長柄村田圃の中にあって、冢上に古梅があり、花英(花弁)は六形という
 ・元旦の朝、此の梅に鶯が来て鳴き始めるという
 ・此冢については諸説があるが、いずれも後人の付会の論であって、上古高貴なる人の荒塚であろう
として、下の絵図が載せてあり、そこには道の脇に立つ高低2本の木に挟まれて五輪塔らしき石碑(宝篋印塔かもしれない)が見える。


摂津名所図会・長柄渡口
(右下に鶯塚がみえる) 
 
鶯塚部分拡大 

*大阪府誌(1903)
 ・伝え云う、昔、墳上に古梅があり六弁の花が開き、元旦には必ず鶯が来て春を告げていたので鶯塚の名を得た
 ・しかし、今は古梅はなく、鶯塚の標石も倒れている
 ・或は云う、孝徳天皇が長柄豊碕宮に居られたとき、鶯式部との官女が大化4年に病没したのを此地に埋葬したので、此の名があると
 ・或は云う、昔此地に居た長柄長者という富者が愛していた鶯の死を悼み、墳を造って葬った処で、元旦に鶯が来るのはこの故である
 ・その他種々の異説があるが、是は後人の付会であって、畢竟上古貴人の荒墳に過ぎない

*大阪府全志(1922)
 ・鶯塚は路傍にあって、往時は芝山だったが周囲が開墾されて漸次畠地となった
 ・今は8坪ほどの地に椋(ムク、榎とする資料もある)の古木があり、その下に高さ7尺許りの五輪塔(宝篋印塔の誤記)があり、貞享3年(1686)の建立とある
 ・伝云う、孝徳天皇が長柄豊碕宮に居られたとき鶯式部という官女があり、大化4年病没したので此処に埋葬したので鶯塚の名があり
 ・或は云う、昔墳上に古梅があり6弁の花を開き、元旦には必ず鶯が来て春を告げるので、この名を得た
 ・或は云う、昔此の地に居た長柄長者の愛児が常に鶯を愛していたが、幾ばくもなく亡くなってしまった
 ・その後、鶯も餌を食わずに死んだので、父母之を歎き墳を造って共に葬った。依って時の人鶯塚と号して伝えた
 ・しかし、是らは皆後の付会であって、実は古墳であろう
 ・里人は、その煙滅することを恐れて、大正4年頃から鶯塚燈明講を設け、同7年傍らに小庵を設けて保護している
等がみえる(いずれも抄紀)

 このように、鶯塚については幾つもの伝承があり、それぞれに視点の置き方に相違があり混乱しているが、これらはいずれも、大阪府誌や大阪府全志がいうように後人の付会で、つくられた伝承とみるべきであろう。

 なお、当鶯塚は明治初年の神仏分離に際して放棄され、荒廃して宝篋印塔も倒れたままだったといわれ、大正に入って発足した鶯塚燈明講の手で復興したという。

◎現地
 かつての鶯塚は微高地上にあったというが今は平坦で、天満橋筋と、その西側に沿った旧道に挟まれた歩道(細長い植え込みになっている)の北端部に位置し、朱塗り木柵に囲まれた細長い境内のほぼ中央に椋の木樹が枝を広げている。
 ただ、鶯塚の由来ともなっている梅の古木はなくなっている。

 
鶯塚・全掲(西南方より)
 
同左(西側より)

 境内は低い柵によって南北に分かれ、南端に「稲荷神社」との神額を掲げた朱塗りの鳥居が立つ。
 鳥居を入ってすぐ右に注連縄を張った椋木が聳え、左に社殿が南面して鎮座し(大正8年建立という)、内陣に収めてある小祠の前に白狐像一対が見える。
 椋木の根本には、自然石に「稲荷 藤八大明神」と刻した立石が立ち、この藤八大明神が祭神かと思われる。

 
稲荷社・鳥居

稲荷社と椋の大樹
 
稲荷社
 
同・内陣

 北の区画には、東から入った左側に宝篋印塔(ホウキョウイントウ)が一基(貞享5年建立という)、その右に地蔵尊像などの小石仏が数体置かれ、その前の香華台には花が供えられていた。

 宝篋印塔とは宝篋印陀羅尼経を納める塔で、下から基礎・塔身・笠・相輪(九輪)・宝珠の5層から成り、笠の四隅にある隅飾突起を特徴とするが、当地のそれは、相輪部がなくなり笠の上に宝珠が直接載っている。
 明治初年の神仏分離により一時放棄されていたというから、その頃になくなったのかもしれない。


北区画・全景(東より) 
 
宝篋印塔
 
石仏群

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