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宇治上神社・宇治神社

京都府宇治市宇治山田

            祭神−−宇治上神社−−菟道稚郎子・応神天皇・仁徳天皇
                     宇治神社−−菟道稚郎子
                                                                  2009.12.17参詣

 両社ともに、宇治川に架かる宇治橋東方の仏徳山(離宮山)の麓に鎮座する古社で、宇治川を隔てた対岸に平等院がある。

 延喜式神名帳(927撰上)に記す「山城国宇治郡 宇治神社二座 鍬靫」がこの2社とされ、千年にもおよぶ歴史をもっている。

 江戸時代までは、「宇治離宮明神」・「離宮八幡宮」あるいは「離宮上社」(宇治上神社)・「離宮下社」(宇治神社、若宮ともいう)とも呼ばれたというが(宇治上神社参道に“正一位離宮大神”と刻した古い石燈籠があり、古く離宮の名で呼ばれていたことを証する)、宇治市史(1973)によれば、離宮の名の由来として、「応神天皇の離宮があり、太子菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)が居住したことにもとずく」との古伝承があるという。
 なお“宇治”は、古く“菟道”と記されていた。

 京阪・宇治駅前の交差点を渡り、宇治川右岸沿いを南東へ、途中の三叉路を左し“さわらびの道”を進むと宇治神社(正面大鳥居は川沿いの道に面する)が、その前を左に進んだ先に宇治上神社が鎮座する。


※祭神
 今の祭神は、いずれも菟道稚郎子(以下「ワキイラツコ」という)を主祭神とし、宇治上神社では応神・仁徳の両帝を合祀しているが、延喜式には「宇治神社二座」とあり、ワキイラツコ他一座を祀るとする。

 当社の祭神・二座について、
 ・菟道稚郎子+応神天皇説
 ・菟道稚郎子+仁徳天皇説
 ・菟道稚郎子+母:宮主矢河枝比売説(ミヤヌシ ヤカワエヒメ、和邇臣の祖・日触使主の娘、書紀では宮主宅媛−ヤカヒメ)
 ・菟道稚郎子+忍熊皇子(オシクマ、下記)
などがある。
 応神・仁徳・ヤカワエヒメはワキイラツコの家族(応神一家)であり、いずれも併祭神としておかしくはない。

 併祭神が誰かということについての定説はないが、上記3神のうち、母・ヤカワエヒメが当地の豪族・和邇氏の出身であること、応神一家に母子神信仰(神功皇后と応神天皇)が伴うことからみて、ヤカワエヒメであった可能性は強いが、それを証する資料はなく、今、その面影はない。
 また応神天皇については、かつて“離宮八幡”と呼ばれていたことからみて、応神八幡信仰が広まった平安中期の頃、八幡神としての応神天皇が加わったのかもしれない。
 とすれば、書紀にいうワキイラツコと仁徳との関係(下記)から、ワキイラツコ以外の一座は仁徳とするのが妥当かと思われる。

 なおオシクマ皇子とは、応神応神の皇位継承に反対して乱を起こし敗れた異母兄で、宇治市史は、「弟の誉田別皇子(応神天皇)に皇位が奪われるのを恐れて反乱を起こし、最後の陣を菟道に張ってついに敗れ、その死体が菟道河より出たと日本書紀に記される皇子」という(書紀・神功皇后摂政前記には、菟道で敗れ、近江の戦いでも敗れて瀬多で入水して死んだが、数日後、菟道川から死体が見つかったとある)
 この伝承から、宇治市史は、「菟道にゆかりの深い伝承が、オシクマ皇子祭神説を生みだす背景となっている」というが、ワキイラツコとの直接的関係は薄く、この組合せには疑問がある。

 なお、当該2社について、江戸時代までは2社をあわせて一体視されていたというが、延喜式当時の状況は不明。
 通常、○○神社二座という場合、一社に2柱の神を祀ることをいうから、元は宇治上神社(祭神:二座)一社であったと思われ、宇治市史は、「菟道河のほとりの母子神を中心とした宇治神社の信仰は、ワキイラツコとその父・応神天皇をまつる上・下二座の神へと発展し、やがてそれに前掲の神々が加わって今日にみる宇治神社と宇治上神社の祭神に至ったものであろう」という。

◎菟道稚郎子
 書紀・応神紀によれば、ウジノワキイラツコは、応神天皇と妃・宮主宅媛(ヤカヒメ=ヤカワエヒメ)との皇子で、応神に愛され、応神40年に皇太子に立てられている。一を聞いて十を知る賢者だったと記し、その師として百済から招かれたのが王仁博士という。

 書紀・仁徳天皇即位前紀によれば、
 「応神崩御後、ワキイラツコは『兄を越えて皇位を嗣ぐのは道に背く』として皇位を異母兄・オオササギ(仁徳天皇)に譲ろうとし、オオササギは『父帝の意志』としてこれを拒み続け、互いに3年もの間譲り合いを繰りかえし、最後にはワキイラツコが自殺したことで、オオササギが皇位についた」(大意)
とある(古事記は、「ウジノワキイラツコは早く崩りましき。故、オオササギが天下治らしめしき」と簡単に記している)

 書紀には、オオササギとワキイラツコが互いに皇位を譲り合った儒教的美談として記されているが、ワキイラツコとオオササギが皇位を譲り合っていたとき、
 「時に、海人(漁師)が鮮魚の大贄(オオニエ)を菟道宮に奉った。しかし、ウジノワキイラツコは吾は天皇ではないとして難波に持って行かせたが、オオササギもまた受けとらなかった。海人が両者の間を行き来しているうちに、魚が腐ってしまった」(大意)
との話がある。
 オオニエとは天皇に捧げられる献上物をいう。それを菟道宮に持っていったことは、ワキイラツコが即位して菟道を都としていたことを示唆し、
また、山城国風土記逸文・宇治条に
 「応神天皇の子の宇治の若郎子(ワキイラツコ)は、桐原の日桁(ヒケタ)の宮を造って宮室(オオミヤ)となされた。その皇子の名によって宇治と名づけた・・・」
とあり、ワキイラツコの居た桐原日桁宮(菟道宮ともいう、ワキイラツコの離宮とも応神天皇の離宮ともいうが、ワキイラツコが居住していたという)を宮室・オオミヤ(天皇の宮居)と呼んでいること、
あるいは、播磨国風土記揖保郡条に
 「宇治天皇(ワキイラツコ)の御世に・・・」
とあることなどから、ワキイラツコが皇位についていたともみられ、そこから、宇治にいるワキイラツコと難波のオオササギの間に対立・抗争があり(それは両者を担ぐ豪族間の抗争ともいえる)、それに勝利したオオササギが仁徳天皇として即位し、河内王朝の基礎を固めたとする見方もある(宇治市史他)

 また、皇位が空位だったとき、異母兄・大山守命が皇位をねらってワキイラツコを殺そうとした。それを知ったオオササギはワキイラツコに知らせ、ワキイラツコは宇治川の畔に兵を伏せ、自らは渡守に変装して大山守を騙し討ちにした(大意)、という記述がある。応神から仁徳への皇位継承には、記紀のいうような美談ではなく、3皇子間の抗争があった、ともとれる。

 因みに、ワキイラツコの宮居という桐原日桁宮の跡に創建されたのが宇治上神社(宇治神社ともいう)といわれ、醍醐天皇が神託をうけて延喜元年(901)に社殿を造営したことに始まるというが、詳細不明。

※社殿等

◎宇治上神社−−世界文化遺産
 宇治川添いの静かなさわらび路を進み、宇治神社(後述)脇を過ぎた先に建つ朱塗りの大鳥居をくぐり、参道先の小さな石橋を渡り、山寺の山門のような簡素な門を入ると、正面に横長の拝殿が、その裏一段高くなって本殿3社を収めた覆屋が建つ。

宇治上神社/大鳥居
宇治上神社・大鳥居
宇治上神社/境内入口
同・境内入口

 境内には、本殿右に摂社・春日神社(後述)、末社の住吉社(上筒男命・底筒男命)・香椎社(神功皇后・武内宿禰)が、本殿左に末社の厳島社(市杵島姫命)・稲荷社(倉稲魂命)がある。

*本殿−−国宝
 ・本殿3社−−一間社流造・檜皮葺−−平安後期(藤原摂関時代)
 ・本殿覆屋−−桁行五間梁行三間流造・檜皮葺−−鎌倉時代

 覆屋内に本殿の小祠が3殿並び、左殿(向かって右)に菟道稚郎子、中央に応神天皇、右殿(左)に仁徳天皇を祀る。
 左右両殿はほぼ同規模・同様式で、構造の一部を覆屋と共用するが、中央殿はやや簡素で小さく独立している。ただ柱高は3社とも同じで、最初から覆屋を想定したのではないかという。また、中央殿が独立していることから、本来は左右の2殿のみだったとする説もある。
 用材の年輪年代法による測定では、本殿は1060年頃の造営で、現存する最古の神殿建築という。
宇治上神社/本殿覆屋
宇治上神社・本殿覆屋

*拝殿−−国宝
 ・拝殿−−桁行六間・梁行三間・単層切妻造・妻庇付・檜皮葺−−鎌倉時代(年輪年代法測定では1215年頃)

 鎌倉時代の寝殿造住宅様式で、妻側の庇を大きく張り出し、反りをつけた大きな屋根をもつ横長の建物の優美な姿から、離宮・宇治院の建物を下賜されたのではないかという。
 拝殿前の左右に三角錐形の“清め砂”がある。元々は清浄性を保つための“清め塩”だったのかもしれない。

宇治上神社/拝殿
宇治上神社・拝殿
宇治上神社/拝殿内陣
同・拝所

*摂社・春日神社−−重要文化財
 祭神−−武甕槌命(タケミカヅチ)・天児屋根命(アメノコヤネ)
 社殿−−一間社流造・檜皮葺−−鎌倉時代

 宇治上神社が平等院の鎮守とされることから、藤原一族の氏神とされる2柱を勧請したというが、平等院の南西(坤−裏鬼門)にある県神社(アガタ)が鎮守だったという説もある。
宇治上神社/摂社・春日神社

*桐原水
 境内の右手、覆屋の中に泉(井戸)がある。
 室町以降、茶道が隆盛化するに伴って定められた「宇治七名水」の一つで、今残る唯一の井戸というが、それ以前から、神詣時の手水用の水として用いられていたのでは、ともいう。
 桐原の名は、当地にあったというワキイラツコの桐原日桁宮に由来するのであろう。 

*磐座
 本殿の右、春日社とに挟まれて、古い注連縄を張った大きな石が座っている。
 場所をお聞きした宮司さんの言では、「古い神様の跡」とのこと。古代の磐座信仰の跡で、当社原始の姿を窺わせる遺構であろう。なお、巨石の上に乗る小石は無関係。

 なお、当社境内脇や周囲の山中にも、同じような巨石が点在することからみると、当社創建以前、この辺りには、背後の仏徳山を神奈備とする信仰があり、それが当社の前身だったのかもしれない。

宇治上神社・磐座
宇治上神社/境内磐座
同・境内にある巨石


◎宇治
神社
 京阪宇治駅前から宇治川沿いの道を北へ、朝霧橋西詰の道路脇に一の鳥居が立ち、参道奥の石段の上に鎮座する。さわらび道からだと、神社南門に出る。
 境内正面に舞殿・桐原殿が、その背後二の鳥居奥、石段を登った先に朱塗りの透かし塀に囲まれて東面して本殿が建つ。境内には簡単な案内はあるが、由緒などなく詳細不明。

*本殿−−重要文化財
 三間社流造・檜皮葺−−鎌倉時代初期
 本殿中に、菟道稚郎子像という神像(重文)が安置されているという(非公開)

宇治神社/一の鳥居
宇治神社・一の鳥居
宇治神社/二の鳥居
同・二の鳥居(この上が本殿)
宇治神社/本殿
同・本殿
宇治神社/桐原殿
同・桐原殿

 境内右手に、末社3社(春日・日吉・住吉社)、左手に同4社(伊勢・高良・松尾・広田社)が並ぶが、鎮座由緒など不明。

宇治神社/末社群1
右手の末社群
宇治神社/末社群2
左手の末社群

※菟道稚郎子陵墓
 京阪宇治駅の西北、宇治線と宇治川に挟まれた堤防脇にある陵墓(宮内庁所管)。電車が宇治駅に近づいた右手に見える、樹木に覆われた小高い丘が当陵墓。

 書紀には、「ワキイラツコは菟道の山の上に葬られた」とあるが、今の陵墓は山の上ではなく宇治川左岸の平地にあり、書紀にいう山の上とは異なる。
 この陵墓は、明治22年(1889)にワキイラツコの墓と定められたものだが、その比定理由は不明。その時、前方後円墳(L≒106m・H≒4m)に改築されたといわれ、学術的には宇治丸山古墳と呼ぶ。

 陵墓比定以前、当地には古墳状の円丘があり、ワキイラツコの母・ヤカワエヒメの墓、あるいは異母兄・大山守命の墓との伝承があったという。

 この伝承あるいは地形が書紀と異なることから、本当の陵墓は、東南の山上にある宇治二子山古墳(円墳+方墳)あるいは北方の五ケ丘二子塚(前方後円墳)のいずれかではないか、ともいう。
菟道稚郎子陵墓
菟道稚郎子陵墓

付記
 菟道稚郎子を主祭神とする神社は、畿内でも当2社以外には見当たらないが、何故か、遠く離れた神奈川県平塚市(旧相模国大住郡)にも主祭神とする「前鳥神社」(サキトリ・式内社)がある。
 その社伝によれば、書紀の「ワキイラツコは、駆けつけた兄・オオササギの呼び声をうけて生きかえり、オオササギが皇位に就くべきこと、妹・八田皇女を后にして欲しいことを告げて、ふただひ亡くなっ」(大意)との記述をうけて、
 「ワキイラツコは死んだのではなく、一族を引き連れて東国に下り、曾祖父ヤマトタケルに由縁のある前鳥の里に宮居を建てた」
との伝承を伝えている、という。

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