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原八幡神の誕生

※新羅系渡来人の東進
 別項・香春神社で述べた香春(現福岡県香春町付近)に住み着いた新羅系渡来人(秦氏系というが異論もある)たちは、5世紀後半頃から、その居住範囲を東方・周防灘沿岸にむけて広げていったという。
 中国の史書・隋書(7世紀)の倭国伝に、
 「(倭国への経路は、百済から対馬・壱岐を経て九州に上陸した一行は)、また竹斯国(筑紫)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華南(中国)に同じ。以て夷州と為す。疑わしくも、明らかにする能わざる也」
との一文がある。
 推古天皇15年(607)、遣隋使・小野妹子(オノ イモコ)の帰国に同道して来朝した使節・裴世清(ハイセイセイ)の行路を記すもので、そのなかに「中国・華南と同じ風俗をもった人々が住む秦王国があった」との記述である。この秦王国の所在地については諸説があるが、周防灘沿岸、今の福岡県東部から宇佐市にかけての地域も有力なひとつで、上記・新羅系渡来人の東進・定着を示唆するものといえる(他にも、8世紀の戸籍資料残欠に秦部を名乗る人名が多数みられるという)

 香春の渡来人たちは各地に居住地を開きながら東進したが、それらの居住地が『辛国』(カラクニ)である。カラクニとは「韓国」を意味し、そこの住人たちが朝鮮半島出自であることを示している。
 それらの渡来人の中で、宇佐平野の西部・駅館川左岸(西岸)にまで至ったのが“辛嶋氏”を中心とする一団で、その地もまた“辛国”であり、後の“豊前国宇佐郡・辛嶋郷”を指す。辛嶋氏の宇佐定着は5世紀末ごろではないか、という。

 辛嶋氏は、「辛嶋勝姓系図」によると
 「スサノヲ命を祖神とし、その子・イタケル命を奉斎して新羅より渡来し、筑紫国(福岡県筑紫野市付近)にイタケルを祀り(筑紫神社)、豊前国香春岳(福岡県唐香春町)に移って新羅神を祀り(香春神社)、そののち豊国を経て宇佐に入った」
とあるが、系図原資料は未確認。
 辛嶋氏が名乗る“勝”(スグリ、「村主」とも書く)という姓(カバネ・古代の豪族が古代朝廷から与えられた政治的・社会的地位を示す称号)は、主として渡来系有力氏族に与えられた姓というから、記紀神話の神・スサノヲ・イタケルを祖神とはするものの本来は新羅系渡来氏族であり、秦氏の一族または支族という。ただスサノヲに関して、日本書紀(八岐大蛇段)・第3の一書に
 「(高天原を追放された)スサノヲは、その子イタケルを率いて新羅国に降りられて、ソシモリの地へ行かれた。そこで『吾は、この地には居たくない』といわれて、土で船を造り、それに乗って東の方へ渡り、出雲国の簸の川の上流にある、鳥上の山に着いた」
とあることから、半島出身の渡来人から先祖と仮託される事例は多い。。

 彼らが持ちこんだのが香春岳に降臨したという“新羅神”を齋き祀る信仰で、古来のわが国に多い農耕神的な世俗信仰というより、仏教・道教・半島の民俗信仰などが複雑に習合した呪的・シャーマニズム的なもので、その奉斎集団が採鉱・冶金技術に長けていたことから鍛冶神的な神格をもっていたという(別項・香春神社参照)

※原八幡神の誕生
 一方宇佐地方には、古来からウサツヒコ・ウサツヒメを始祖とし、御許山に降臨した三女神(天三降命)を奉斎する豪族・宇佐氏が勢力を張っていた(別項・「御許山」参照)。そこに入ってきた辛嶋氏と間には、当然のことながら抗争があったと思われるが、次第に統合協力関係が進み、5世紀末から6世紀初頭にかけての宇佐は、駅館川右岸(東)側に主として宇佐氏が、左岸(西)側は主として辛嶋氏という棲み分けがなされていた、ともいう。

 二つの氏族が出合い抗争することは、彼らが奉じる二つの神の抗争ともいえるが、辛嶋氏の奉じる新羅神がもつ呪的・シャーマニズム的な性格が、次第に、宇佐氏の神奈備山信仰・比売神信仰を吸収して、両信仰が習合した特異な神として生まれたのが『原八幡神』である。
 それは、宇佐氏の素朴な神奈備信仰の呪的なものへの変貌といえるが、逆にいえば、辛嶋氏の新羅神信仰がわが国古来からの神奈備信仰を取り入れたことであり、渡来系氏族である辛嶋氏の日本化ともいえる。
 その表れが、宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起にいう「宇佐郡辛国宇豆高嶋に天降った」という伝承で、辛嶋氏が、かつての居住地・香春岳に天降った新羅の神を、原八幡神に衣替えしたうえで、改めて辛国宇豆高嶋・稲積山に降臨させたものといえる。

 その宇佐氏が、6世紀にはいると急速に衰退したという。それは、継体天皇期に起こった“筑紫国造磐井(チクシノクニノミヤツコ イワイ)の乱”に荷担したためというのが一般の理解である。
 磐井の乱については、日本書紀・継体天皇21年(521)条に、
 「大和朝廷が新羅に出兵しようとしたとき、筑紫国造磐井が肥前・肥後・豊前・豊後などを押さえてこれを遮り、乱を起こした。朝廷は物部大連麁鹿火(アラカヒ)を派遣してこれを伐たせ、翌22年、アラカヒは磐井軍を破り磐井を斬った」
とあるが、筑後国風土記逸文には
 「筑紫君磐井は、官軍を襲おうとしたがその勢力に勝てそうにないことを知って、単身、豊前国の上膳(カミアガタ)の県に逃げて、南の山の険しい峰で生命を終わった]
とある。ここでいう上膳の山とは英彦山を指すとされ、それは宇佐氏の勢力圏に隣接する。一説では、宇佐氏の勢力圏に逃れたともいう。
 この乱が収束した後の宇佐氏の動向については不明だが、敗者側に荷担したことから、少なくとも宇佐氏本流は途絶え、残存勢力や傍系氏族は数カ所の奥地に逼塞したのではないかという。その宇佐氏に関係するのが安心院の三女神社妻垣神社である。
 その空き家となった駅館川右岸一体に進出してきたのが大和の大神氏で、6世紀前半の宇佐平野には、駅館川を境として東に大神氏、西に辛嶋氏が居住し、大神氏が奉ずる応神天皇霊と辛嶋氏の原八幡神との競合抗争が始まったという。

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