トップページへ戻る

宇佐神宮/行幸会

 かつての宇佐神宮には『行幸会』と称する重要な神事があったが、江戸初期以降中断したままとなっている。

 行幸会とは、宇佐神宮大宮司をはじめとする神官たちが、八幡大神の御験である薦枕を奉じて、八摂社など応神八幡神の縁故社を巡る巡幸行事を指し、宇佐神宮における二大神事の一つである。その始まりについては、孝謙天皇天平勝宝元年(749、八幡大神の東大寺大仏拝礼の年)または称徳天皇天平神護元年(765、八幡大神の大尾山遷座の年)の2説が有力だが、嵯峨天皇弘仁2年(811)・同8年・同14年説などがありはっきりしない。始め4年に一度おこなわれていたが、弘仁2年(811、辛卯年)からは6年に一度・卯の年と酉の年におこなわれるようになったという。
 かつての行幸会は、5日間の巡幸行事を中心とする前後5ヶ月間にわたる神事のために、豊前・豊後・日向三国七郷の人々が2年間にわたって準備するという大規模なもので、莫大な経費を要したことから、鎌倉期以降は長期の中断を余儀なくされ、元和元年(1615、江戸初期)細川忠興によって150年ぶりに挙行された以降は再興されず今に至るという(昭和46年-1971-に略式の行幸会がおこなわれたともいう)

 行幸会の神事について簡単にまとめると、
 @七月初旬の初午の日、宇佐八幡の祝・装束検校ら神職が御輿を奉じて下毛郡の薦神社(現中津市)に参宮し、三角池の薦(コモ)を刈りとって下宮一の御殿の御前回廊に安置する。これを一之御殿西に設けられた鵜羽屋(ウバヤ)に収め、そこに百日間潔斎した装束検校が17日間籠もって新しい神服と御験(薦枕)を調進し、本宮正殿に納める。
 A11月初旬の初午の日、大宮司以下の神職が新御験を神輿に乗せ、豊前豊後の国境にある田笛社(豊後高田市)を経て駅館川右岸の鷹居社から左岸の郡瀬社に行幸し、一泊。
 B翌日、郡瀬社から泉社(酒井泉社)→乙梼ミを経て西方一里半の大根川社へ行幸。ここで大神宝の鉾だけが下毛郡の薦社(現中津市)に行幸。その後、郡瀬社に還幸して一泊。
 C翌日、郡瀬社から安心院の妻垣社に行幸し、仮殿に一泊
 D翌日、大神宝だけが豊後国速見郡の辛川社(山香町)へ行幸し、帰って妻垣社仮殿に一泊。
 E翌日、妻垣社から小山田社へ行幸して本宮に還幸し、新御験を上宮に納め、帰齋の神事をおこなう。一方。新御験の上宮奉納と同時に旧御験を上宮から出して下宮に移す。

 ここまでが新しい御験を奉じた行幸会の主要神事で、ここからは旧御験関連の神事となる(中世になって付加された行事ともいう)
 F下宮に納められた旧御験は、翌日、奈多八幡宮(杵築市)から出迎えにきていた神職等に奉じられて、若宮八幡宮(豊後高田市)から国東半島を横断して田染社・田原別府などにそれぞれ一泊し、4日後に奈多八幡宮へ入る。
 Gその後は、奈多八幡宮前の小島(厳島)にある大石から薦枕を竜宮へ還すとして海に流した時代もあり、また伊与国宇和島のあるいは八幡浜の八幡宮へ送り、そこで海中に流した時代もあった。
というもので、行幸先は新御験巡幸だけで10社、旧御験の移動を含めると14〜15社という大がかりな神事である。
 

宇佐神宮/行幸会・経路図
行幸会・経路図(資料転写)

 宇佐行幸会は、
 @下毛郡に鎮座する薦神社(大貞八幡宮)のご神体である三角池に生える真薦で造った新薦枕(御験)を、宇佐八幡宮に収める儀礼
 Aその新薦枕が、旧宇佐国造の勢力圏にある八幡関係社を一巡する儀礼
 B旧薦枕を豊後国の奈多八幡宮に納める儀礼
 Cさらに、旧薦枕を伊与国の八幡宮に納める儀礼
という4儀礼からなるが、その中心は新旧薦枕の更新と新薦枕の聖地巡幸である。
 ここでおこなわれる薦枕の新造とは“神の再生”であり、“神の子の誕生”ということもできる。その神(神の子)が旧宇佐郡内の聖地(古社)を巡幸することは、古社に坐す祖霊・地主神との結縁を図るものともいえる。

 行幸会の意義については諸説がある。私意をまじえて幾つか略記する。
 @ 薦枕とは、養老4年(720)の隼人征伐に際して三角池に顕れた八幡大神の御験で、その薦枕を奉じる行幸会は8世紀中頃から始まったというが、それ以前から類似の巡行儀礼があったのではなかろうか。
 古代の儀礼とは、古代宇佐国を統治していた宇佐国造が、その支配下にあった小部族集落の首長が祀る聖地を巡って豊穣を感謝していた農耕儀礼がそれではないかという説で、応神八幡神受容後に、それらの聖地が応神八幡神の縁故社とされ、八幡大神の御験である薦枕の巡幸儀礼に変貌したのではないか、というもの。
 新薦枕の巡幸先である10社を眺めると、宇佐氏系(5社)・辛嶋氏系(4社、うち1社は大神氏がからむ)がほとんどで大神氏系は1社しかない。また、薦枕出現の契機となった隼人征伐に関係するのは、その時応神八幡神が鎮座していた小山田社のみであって、その他の神社は直接的な関係はない。これらからいって、行幸会は宇佐氏や辛嶋氏がおこなっていた古来儀礼の姿を替えての継承ではないか、とみることができる。
 更に、御験とされる薦枕もまた、それを出す三角池が宇佐氏関連の聖地であることからみて、真薦の御験は宇佐氏の祖神である比売大神の御験であって、大神氏によって八幡大神の御験にすり替えられたもいう
 以上は、行幸会の原点を古くからあった氏神の祭に求めるもので、それが応神八幡神の定着により取り込まれ一体化されたのが8世紀以降の行幸会とする説といえる。

 A 行幸会の始まりを、八幡大神の四国・宇和からの帰座の反映とみる説で、託宣集には
 「昔、伊与国宇和郡と豊前国国崎郡安岐郷を往来していた時、住むべき処を考え、豊後・豊前・日向・肥後の境の広野に行き、そこから豊前と豊後の境の田夫江に着き、鷹居・郡瀬・大根川・乙燈l・馬城峯・安心院・小山田を経て菱形の池の畔に帰着した。これらの場所は神が選んだ勝地であり、宇佐郡内の勝地は4年に一度巡幸してみて廻りたい。云々」
との託宣がある(天平神護元年-765)
 ここでいう“宇佐郡内の勝地”が行幸会の巡幸先だが、それらは宇佐郡全域に亘るもので、且つ宇佐・辛嶋・大神の各氏ゆかりの祭祀拠点であり、それらを巡幸することは3氏の統合・協力体制が成立したことを意味する。また、三角池の真薦を以て御験を造ることもまた、大神氏と宇佐氏との協力体制を反映している。
 その行幸会が、弘仁2年(811)から6年に一度となり、その直後に薦神社の社殿が建てられたというが(注:薦社縁起には承和年間-834--48-とある)、この年は八幡大菩薩が生まれ、大神・宇佐氏の神事体制が確立した時期であり、行幸会の枠組みが成立するに相応しい年といえる、というもの。
 確かに、旧御験を含めた行幸会の巡幸路は、厭魅事件により四国の宇和に遷座していた八幡大神が宇佐に帰還した経路を逆に辿るものであり、行幸先も宇佐郡内全域にわたり、天平神護元年の託宣に記す行幸先と一致することから、この託宣により始まったというのは一理あるが、大神の宇佐帰還は大神氏不在の時期に宇佐氏・辛嶋氏によっておこなわれたことからみて、この託宣は大神氏による大神祭祀の再掌握後の付会ともとれる。

 @説・A説いずれにしろ、行幸会で宇佐・辛嶋・大神氏関連の聖地を巡幸することは、宇佐八幡信仰が大神氏主導のもと3氏の協調体制により成立していることを示唆するものではある。

トップページへ戻る]