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宇佐神宮/比売大神

 宇佐神宮の祭神3柱のうち、二之御殿に祀られる祭神は『比売大神』(ヒメ オオカミ)とよばれ、その社殿は『八幡大神』(一之御殿)造営の9年後、聖武天皇・天平6年(734)という。宇佐八幡宮御託宣集には
 「聖武天皇御宇、天平3年神託。同5年甲戌遷宮の時、第二御殿を造らる」
とある。ここには天平5年甲戌とあるが、5年は癸酉で甲戌は6年に当たり、6年の誤記であろう

 比売大神について、宇佐神宮由緒記には、
 「社伝では、アマテラスとスサノヲのウケヒによって顕れ、スサノヲの剣を物実(モノザネ)とした“三柱の比売大神”で、筑紫の宇佐島に天降ったとされている。宇佐国造らが大元山(御許山)を中心として祀ったものと伝えられ、八幡神が顕れる以前の古い神、地主神であるとされている」
とあり、御許山に降臨した三女神をもって比売大神としている。

 しかし、比売大神との神名は一般的名称という色彩が強く、従来から、その出自について諸説がある。
@八幡大神顕現の前からの地主神である三女神
A玉依姫
B豊玉姫
C胎中天皇(応神天皇)の婚約者としての竜王の娘
D仲姫命(応神の皇后)
E弟姫命(応神の后・仲姫の妹)
F母子神としての八幡大神の母神
 これ以外に、応神天皇の御女(皇女)(諸神記)・応神の姉君説(鎌倉志)などがある。

 @にいう“三女神”とは、日本書紀・アマテラスとスサノヲとの誓約(ウケヒ))段・第3の一書の
 「日神が生まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に降らせた」
との記述に基づくもので、タゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメの3柱を指す。一般に、三女神とは福岡の宗像大社の祭神(宗像三神)とされるが、宇佐では“宇佐嶋”を宇佐神宮の南に聳える“御許山”に比定し、山頂にある3基の磐座を三女神が降臨された聖地とする(別項・「御許山」参照、また安心院の地との説もある−別項「三女神社」参照)

 宇佐における御許山は、古来から、神が降臨する神奈備山として付近の住民から崇敬されていた聖山で、その頂上にある磐座を神の降臨地とするのが、古代宇佐における最初の信仰である。
 その古代宇佐の地に大和朝廷の勢力が浸透し、北部九州における大和朝廷の拠点の一つとなるに従って、御許山上の磐座に降臨した神を書紀にいう三女神としたのが、宇佐における比売神信仰の原点といえる。
 この三女神は、古書・先代旧事本紀によれば“天三降命”(アメノミクダリノミコト)と同体とされ、宇佐国造(宇佐氏)の祖とされている。すなわち、宇佐氏は三女神(天三降命)の子孫であり宇佐国造ということになる。そこから、“宇佐国造らが大元山を中心として祀った”との由緒が出てくる。
 これらをまとめると、御許山を対象とする素朴な神奈備信仰を原点として、そこに三女神降臨神話が被さり、その三女神を宇佐氏が祖神として祀ったのが比売大神ということになる。
 
 A説にいう“玉依姫”(タマヨリヒメ)について、託宣集(三所宝殿条)には
 「 一御殿  人皇十六代応神天皇の御霊、八幡大菩薩也
  二御殿  人皇第一神武天皇御母玉依姫の御霊也
  三御殿  人皇第十五代神功皇后の御霊也」
とあり、託宣集が成立(1313年)した鎌倉時代以前には、第二殿の“比売大神は玉依姫”という説が信じられていたらしい。

 ここでいう玉依姫とは、記紀神話で高天原から天降った天孫ニニギの子・ヒコホホデミ(山幸彦)と海神の娘・トヨタマヒメの間に生まれたウガヤフキアヘズを、姉・豊玉姫に代わって養育し、後にその后となって神武天皇他4皇子を生んだとされる妹神を指す。いわば、記紀神話を取り入れることで、比売大神を皇統譜に結びつけたものである。

 この神武の母・玉依姫説について、柳田国男は
 「けだし玉依姫なる御名をもって、終古ただ一人の貴き女性のみに属すとすることは、最も容易に訂正し得べき誤りである」
と記し、その例として、神武の母以外に、三輪山の神・オオモノヌシの神妻・活玉依姫(イクタマヨリヒメ)と京都・上賀茂神社の神・別雷命(ワケイカズチ)の母で、下賀茂神社に祀られる多々須玉依比売(タタスタマヨリヒメ)を挙げ(妹の力」大正6年1917)、玉依姫は神武の母だけでないことを強調している(「妹の力」大正6年1917)

 玉依姫・タマヨリヒメの“玉”とは“魂・神霊”、“依”とは“神霊が人に憑く”の意であることから、タマヨリヒメとは“神が依り憑く巫女・ヨリマシ”で、“神との聖婚の相手”つまり“神霊を宿して神の子を生む女性”を指す一般的な名称である。ただ、八幡神には母子神的要素が多分にあることからみると、比売大神を八幡大神を生んだ母神としてのタマヨリヒメと解することもできるが、それを神武の母と短絡するには無理がある。

 Bにいう“豊玉姫”(トヨタマヒメ)とは、Aにいう玉依姫の姉で、なくした釣り針を求めて竜宮を訪れた山幸彦(ヒコホホデミ)と結ばれてウガヤフキアヘズを生んだ海神の娘。その出産に際して、渚に設けられた仮の産屋の中で、姫の正体である大鰐の姿となって御子を生んだという。
 そのトヨタマヒメを比売大神とする由緒は、A説と大同小異。
 なお、かつて“八幡神はヒコホホデミ”とする説があったそうで、その説を補強するためにヒコホホデミの妃であるトヨタマヒメを持ってきたともいう。

 C説にいう“胎中天皇の婚約者としての竜王の娘”は、八幡愚童訓(鎌倉中〜後期成立、石清水八幡宮関係文書)に記す
 「姫大神と申すは、竜王の御女(娘)、応神天皇の妃にておわします」
からでた説らしいが、その根拠として
 「神功皇后が朝鮮出兵に際して、竜王から干珠・満珠を借り受けられた時、竜王の娘と胎中天皇(応神)とが婚約された」
との伝承があるという(「愚童訓」所載というが、未確認)。一つの伝承であり、これを以て比売大神=龍神の娘とするのは俗説といえる

 DEにいう応神天皇の后・仲姫あるいは弟姫説の出典は不詳。
 ただ八幡愚童訓に、上記“竜王の御女云々”に続いて、
 「世間の習い、夫の次には妻を本とするに準じて、第二とあがめ奉れり」
とある。第二殿に祀られているから応神の妃だというわけだが、その名は挙げていない。日本書紀によれば、仲姫は皇后、弟姫はその妹とあり、他にも6人の后妃名を記している。后妃の代表として皇后あるいはその妹説が出たのであろう。
 なお、少し後に
 「姫大神をのどきて玉依姫を西の御前と申事あり。玉依姫と申すは、神武天皇の母后、ウガヤフキアヘズの妃也」
とあり、ここにも、比売大神=玉依姫説が記されている。

 Fにいう“母子神としての八幡神の母”とは、民俗学にいう“母子神信仰”からくるもので、八幡大神と比売大神の関係を母子神信仰から説くものである。
 母子神とは、単純にいえば“神霊を宿して子を生んだ母神と、生まれた神の御子”を指し、母神と御子神(男性神)を一体として崇拝する信仰で、八幡信仰では、神功皇后と応神天皇との母子神がこれに当たる。
 記紀では、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との皇子となっているが、次第に仲哀天皇の影が薄れ、皇后は神霊をうけて妊ったとの説が強まったという。因みに、住吉年代記には「神功皇后は住吉大神と共寝された」との伝承すらある。
 この母子神信仰からいう比売大神とは、
 「女性の中で最も貴い方で、天つ神の霊をうけて神の御子を生み、その御子を伴ってこの国に降り、共に神として祀られた方で、巫女の開祖である」(柳田・前掲書)
ということになり、具体の御名としては神功皇后がそれに当たる(記紀に記す皇后は、神が依り憑く巫女そのものともいえる)

 この神功・応神という母子神に対して、大隅正八幡宮(鹿児島神宮・鹿児島県姶良郡隼人町)には別系統の母子神伝承がある。その伝承とは
 「震旦国陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)、七歳で御懐妊。父王怖畏をなして、汝未だ幼少也、誰人の子かありていに申すべしと仰せければ、我が夢に朝日が胸を覆ひ妊娠したと申し給えば、驚きて、ご誕生の皇子と共に空船(ウツボブネ)に乗せ、流れ着いた所を領とし給へと大海原に浮かべ奉る。日本大隅の岸に着き給ふ。其の太子を八幡と号す。此より船が着いた所を八幡浜と名づく。是継体天皇の御宇(6世紀初葉)也。大比留女、筑紫国若椙山へ飛入給ひし後、香椎聖母大菩薩と顕れ給へり。皇子大隅国に留まりて八幡宮と祀られ給へり」
というもので、同じ八幡神の顕現伝承とはいっても宇佐とは異なっている。そのため、八幡宮の本家は宇佐なのか大隅なのか、また宇佐の八幡神と大隅のそれは同じ神かどうかなど争いがあったといわれ、今昔物語には、「大隅に八幡神が顕れ、その後、宇佐に現れた」と記すという。
 大隅伝承は、日の神に仕える巫女・ヒルメ(日女・日妻)が神の御子を生み、ウツボ船(密閉された箱船・卵のイメージをもつ)に乗って漂流し、漂着した処で神となったという典型的な“母子神伝承”だが、それは、朝鮮半島に残る新羅や加羅国などの建国神話(始祖王は卵=ウツボ船に入ってやってきたという)などに繋がるといわれ、正八幡宮縁起は新羅系の人々が伝えたものか、ともいう。

 母子神信仰は、わが国だけでなく世界各地の古代信仰のなかで広くみられる。古代オリエントの豊穣の大地母神・イシュタルと、その子で配偶神でもある穀神・タンムズ、古代エジプトの大女神・イシスとその子・ホルスなどが代表的なもので、キリスト教にいう聖母マリアとイエス・キリスト信仰も、古代の母子神信仰を引き継いでいるという。

◎比売大神とは
 比売大神の出自については上記のように諸説があるが、その原点は、由緒記にいうように宇佐氏が奉斎していた“三女神”で、最古の比売神は、御許山にあって水を司る山の神=農耕神的神格の神だったと思われる。
 そこへ持ちこまれたのが辛嶋氏の豊比(あるいは息長火姫大目命)なる比売神で、それは新羅系シャーマニズム的神格をもった特異なものだったらしい。
 この宇佐氏の三女神と辛嶋氏の豊比唐ニが統合合体したのが“第一次比売大神”で、辛嶋系比売神の持つシャマニズム的色彩の強いものだったろうという。これが、大神氏による応神八幡神登場以前における宇佐の信仰、則ち原八幡神であろう。
 この第一次比売大神を覆ったのが大神系の応神八幡神で、その具体化が聖武天皇・神亀2年の一之御殿造営である。ここに祀られる八幡大神には比売大神も一体化していたと思われ、応神八幡神のもつ託宣の神的神格は、多分に辛嶋系比売神がもっていたシャマニズム的神格をひきついだものともいえ、加えて、八幡神のもつ母子神的神格から、母神としての神功皇后をも包含していたと思われる。なお、神功皇后は、応神の母としての神格とともに、神の託宣に与る巫女的神格をももっている。
 この応神八幡神と一体化した“第二次比売大神”は、宇佐氏の三女神と辛嶋氏の豊比刀Aそれに大神氏の神功皇后という3者が一体となっもので、その具体化が天平6年造営の二の御殿ともいえる。
 この第二次比売大神は、二の御殿に祀られるとはいえ、その神格は、応神八幡神に包含された漠然としたものだったと思われるが、厭魅事件による大神氏勢力の衰退にともない、台頭してきた宇佐氏・辛嶋氏によって原八幡神的神格が復活し、加えて仏教との習合のもと建立されたのが“比売神宮寺”(称徳天皇・天平景雲元年767)とみることができる。その中心となったのが、宇佐氏出身といわれる僧・法蓮で、そこには宇佐氏による三女神の復活ということもできる。

 その後、八幡大神の小椋山帰座にともなう応神八幡信仰の復活、仏教と習合した八幡大菩薩の出現などの経緯の後、“三之御殿:大帯姫廟(オオタラシヒメビョウ・嵯峨天皇・弘仁14年-823)が造営されるが、これは第二次比売大神がもっていた託宣の神・母子神的神格を神功皇后として分離したものともとれる。
 宇佐八幡宮における三社並立構成に確立によって、二の御殿に祀られる比売大神は、かつて宇佐氏が奉じていた三女神信仰を主とする神格を取り戻したといえる。

 この三女神原点説に対して、比売大神は政治的に創設された神であり、8世紀初めの頃、対新羅関係が緊張した時、北部九州の比売神諸神を宗像三女神を中心に糾合したのが八幡比売神である、との説もある。

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