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宇佐神宮/菱形池・御霊水・鍛冶翁伝承

※菱形池
 上宮の真裏、小椋山の北麓に『菱形池』という霊池がある。菱形というが、池の形が菱形をしているのではなく、辛嶋宇豆高嶋に天降った大御神(八幡神)が御許山を経て遷座した“比志方荒城磯辺”(ヒシカタ・アラキ・イソベ)に因む名という。“比志方=菱形”とは“神が顕現した聖地”を意味し(「顕現伝承」参照)、そこから応神八幡神は菱形池の畔に顕現したという伝承が生まれたともいえる。

宇佐神宮・菱形池
菱形池・展望
宇佐神宮・菱形池
同左
 今、池面の大半は蓮で覆われ、池中の小島には水を司る末社・『水分神社』(ミクマリ)が鎮座する。ミクマリの“ミ”は美称、“クマリ”とは“水を配る”の意で、ミクマリ神は、山中の水源地・分水嶺・上・中流部の川辺・池辺などに祀られることが多い。
 水分社祭神--高龗神(タカオカミ)・天水分神(アメノミクマリ)・国水分神(クニノミクマリ)
              
・天汲匏持神(アメノクヒサモチ)・国汲匏持神(クニノクヒサモチ)の5座。

 タカオカミの“オカミ”は龍の古称で、水を司る竜神を指すことから、ミクマリ神とともに菱形池の守護神として祀られたのであろう。クヒサモチとは水を汲む瓢を神格化したものか。なお、ミクマリがミゴモリ(懐妊)へ、更にコモリと変化して子守の神とされることもある。
宇佐神宮/菱形池・水分社
菱形池・水分社

※御霊水
 菱形池の北畔にある三つの井戸。神社由緒記には、
 「天つ神の祭に、中臣の祖神アメノオシクモネ神が高天原からお供えの水を頂くとき、天の玉串を挿したてた下から御井の真清水が湧き出した。“宇佐の内宮”とも伝えられる霊泉で、小椋山の地主神・“北辰影向(ホクシンヨウゴウ)の井戸”ともいう」(大意)
とある。
 菱形池から霊泉にかけての地は“鍛冶翁伝承”(下記)があるように、この井戸水を使用した古代の鍛冶場だったともいわれ、後世のことながら、社僧・神息(シンソク)が当霊泉の井水を使用して打った刀剣には重要美術品級のものがあるという(由緒記)
 なお当地が、宇佐の原信仰・三女神降臨の御許山の麓にあることから、古くからの神奈備山信仰に連なる霊泉ともいえる。
宇佐神宮・御霊水
御霊水・鳥居(史料転写)

※鍛冶翁伝承
 宇佐神宮由緒記に
 「菱形池畔の霊泉の処に、欽明天皇29年(568)、鍛冶する老人や八頭の竜が現れ、姿を見た者は病気になったり、死んだりした。この神の祟りを鎮めようと、大神比義なる老人が3年余り断食して神行すると、同天皇32年(571)、泉の傍らの笹の葉の上に三歳の童子が顕れ、『吾は誉田天皇広幡八幡麻呂なり』と告げ、金色の鷹となって駅館川東岸の松の木の上に留まった。この鷹の留まったところに鷹居社をつくり八幡さまを祀り、云々」(大意)
とあり、宇佐神宮では菱形池と霊泉の畔が八幡大神顕現の場としている。

 これは八幡宇佐宮御託宣集(1313成立)にある、
 「菱形池の辺り小椋山の麓に一身八頭という奇異な姿をした鍛冶の翁が顕れ、人が行く毎に、五人行けば三人を、十人行けば五人を殺した。大神比義が出向いたら梢の上に金色の鷹がいた。比義が祈って『誰が成り変りしか』と問うと、金色の鳩となって比義の袂の上に飛び来たった。
 神の変化と知った比義が三年間五穀を絶って籠居修行し、欽明天皇32年2月10日、弊を献げて『もし神ならば我が前に顕れてほしい』と願ったら、三歳の童子が竹の葉の上に現れ、
 『辛国の城(村)に始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり。釈迦如来の化身にして、一切衆生を度せむと念じて、神道と現れる也。
 吾は是れ日本人皇第十六代誉田天皇(応神天皇)広幡八幡麻呂也
と告げた」(大意)
との大神氏系伝承と、これに先行する辛嶋氏系伝承814、承和縁起-844-所載にいう
 「大御神は欽明天皇の御世(539--71)、宇佐郡辛国宇豆高嶋(宇佐市・稲積山406mに比定)に天降り、大和・紀伊・吉備を経て宇佐郡馬城嶺(御許山)に再顕現し、その後ふたたび、現乙咩社・現泉社・現郡瀬社を経て現鷹居社の地に移った。
 この時、大御神は鷹と化生して現れ、五人行けば三人殺し、十人行けば五人を殺したので、辛嶋勝乙目が崇峻天皇3年(590)から3年間五穀を絶って祈祷したところ御心が和らいだので、鷹居社を建て、辛嶋勝乙目が祝となり、辛嶋勝意布売が禰宜となって齋き祀った」(大意)
との伝承後半などを集約したものといえる。

 八幡神の原姿は、朝鮮半島から香春岳辺り(現福岡県香春町)の新羅系渡来人(秦氏ともいう)が齋き祀った神(新羅神)であり、それが辛嶋氏(秦氏)の東進にともない宇佐の地(辛国)に移って在地宇佐氏の比売神信仰と習合した原八幡神が、大神氏によって大和からもたらされた応神天皇霊と習合することで、応神八幡神となったという。

 この経緯をふまえて二つの伝承を比べるとき、後者が八幡神関連縁起のなかで最古(814)とされること、大神が鷹となって顕れたから鷹居社を建てたという点に無理がないことなどからみて、後者・辛嶋氏系伝承が本来のものであって、前者・大神氏系伝承は応神八幡神の定着後に成立したのものともとれる(時期不明・小椋山鎮座後か)
 それは、応神八幡神の顕現地が小椋山の麓・菱形池の畔であることを強調し、かつ応神八幡信仰における大神氏の正当性・主導性を主張するためつくられたものであろう(前者・①大神氏系伝承を載せる“託宣集”は、鎌倉時代末期に大神氏系の僧・神吽が、20数年をかけて旧記・古伝承などの史料をまとめたもので、大神氏寄りの記述が多いという)

 しかし、応神八幡神の顕現に関する幾つかの伝承を概観するとき、中央から来た大神氏が辛嶋氏などの在地氏族を傘下におさめ、原八幡神に応神霊が加上され応神八幡神に変貌したのは鷹居社創建時(崇峻天皇3年-590、異論あり。別項・「鷹居社」参照)であって、伝承にいう、“五人いけば三人を殺し云々”とは、応神八幡神定着前にあったであろう辛嶋氏・宇佐氏などと新来の大神氏との間の抗争を示唆するものともいう。

 この鍛冶翁伝承は、八幡神に係わる伝承のなかでは異質なものともいえる。ただ、大神氏系伝承で“鍛冶の翁”が出てくることは、香春の神(新羅神)の神格をひく原八幡神がもつ“鍛冶神的神格”から、また、“辛国城に八流の幡となって天降り、日本の神となれり”と託宣したことも、原八幡神が持つ香春の神(新羅神)の神格からくるもので、大神氏も原八幡神を完全に無視することができなかったことを示唆するともいえる。そこから、鍛冶翁伝承は応神八幡神とは関係のない香春の神の伝承で、それがある時期に御許山の神(三女神)と結びつけられ、やがて八幡大神として表現されたのではないか、との説もある。

 古く香春岳付近に渡来した新羅系の人々は、当時の先端技術である採銅・冶金技術に長けていたという。古代人にとって、石塊から金属を生み出す鍛冶技術は神秘的なものであり、それを扱う人々はシャーマンとして畏怖されたという。そこから、彼らが齋き祀る新羅神もまた神秘的な鍛冶神として崇拝されたのであろう。
 応神八幡神の神格の中に“鍛冶神”があるが、それは、原八幡神の原姿である新羅神の神格を継承するもので、その神格を形を変えて表したのが鍛冶翁伝承ということもできる。
 また鍛冶技術には多量の水を必要とすることから、鍛冶の翁の顕現場所が菱形池と霊水の湧き出す井戸の畔であったのも当然のことかもしれない。

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