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宇佐の放生会

※放生会とは
 “放生”とは本来、仏教の不殺生戒に由来する慈悲行で、その象徴的行為として、生きた魚鳥を山野池水に放すことをいう。その放生という慈悲行を儀礼化したのが“放生会”だが、神仏習合によって、神前に魚鳥を供える神道儀礼に僧侶が関与するようになって、不殺生戒と生類犠牲という矛盾を解消するために、僧侶の側から始めたものではないかともいう。
 わが国での不殺生戒にもとずく殺生禁断の令は、敏達7年(576)・推古19年(611)などに出されたという記録があり、放生会については、日本書紀・天武5年(677)条に、「この日(8月17日)諸国に詔して、放生令を敷かれた」というのが初見で、続く持統5年(691)条にも、「畿内および諸国に長生地(殺生禁断の地)として各千歩を設けた」とあり、7世紀後半には国家行事として放生会が行われたことがわかる。
 放生又は不殺生という慈悲行をおこなうことは、鳥や魚などの生き物を救済することによって病を逃れ、歳を延ばすという功徳があるとされ、これらの慈悲行を繰りかえすことで、その功徳はより重なるとされていた。
 この幾度となく繰りかえす慈悲行を儀礼化・恒例化したのが放生会で、神社として初めて放生会をおこなったのが宇佐の八幡宮とされている。

※宇佐八幡放生会
 続日本紀・元正天皇条に、
・養老4年(720)2月29日、太宰府が「隼人が反乱を起こし、大隅国主・陽侯史麻呂を殺害した」と奏上してきた。
・同3月4日、中納言正4位下大伴宿禰旅人を征隼人持節大将軍に任命し、従五位下笠朝臣御室・同巨勢朝臣真人を副将軍に 任命した。
・養老5年7月7日、征隼人副将軍・笠朝臣御室・巨勢朝臣真人等が帰還した。斬首した者や捕虜は合わせて千四百人余りであった。
との記事がある。
 養老3年に起こった所謂“大隅日向隼人の反乱”と呼ばれるもので、このとき八幡神は、朝廷の祈願に答えて
 「吾行きて降伏さすべし」
と託宣し、八幡宮の宮司・大神諸兄(オオガモロエ、大神比義の孫)が、豊前国下毛郡野仲の霊池・三角(ミスミ)池の真薦で枕を作り、これを八幡神の御験(ミシルシ、薦枕という)として御輿に収め、禰宜・辛嶋勝波豆米(カラシマノスグリ・ハツメ)を御杖人(神の託宣を聞く憑依:ヨリマシ)として、征隼人軍の将軍・豊前国主・宇努首男人(ウヌノオビト・オヒト)とともに出征した。
 このとき宇佐仏教団の法蓮・華厳・覚満・体能といった法師らも供奉し、
 「水に竜頭の船を浮かべ、地上には獅子狛犬を走らせ、空に鷁鳥を飛ばし、仏法の二十八部衆(千手観音の信者を守るという28柱の御法神)に傀儡舞(クグツマイ)を舞わせ、それに見とれて敵愾心を忘れ、城を出てきた隼人等を殺した」(宇佐宮齋会式・放生会之事・大意)
という(別項・「薦神社」参照)

 宇佐八幡宮の放生会は、隼人の反乱鎮圧後、八幡神が辛嶋勝波豆米に対して
 「隼人等多く殺した報いとして、毎年放生会を修むべし」
と託宣した(承和縁起)のをうけて始められたという(託宣集には「年別に2度放生会を奉祀せむ」とある)
 その開始年については養老2年(718)説から宝亀8年(777)説まで12説ほどある。主なものとしては養老4年説(720)・神亀4年説(727)・天平16年説があり、反乱鎮圧直後の養老6年(722)託宣・神亀4年開始説が有力という。

 宇佐神宮の放生会とは、簡単にいえば、
@宇佐から約50q離れた豊前国田川郡の豊比売社(現古宮八幡宮・福岡県香春町、採銅所・元宮八幡ともいう)で鋳造された銅鏡を、神職たちが八幡神の御正躰として捧持して宇佐に向かう。
Aその途中で、上毛郡の古表神社(福岡県吉富町)と下毛郡・古要神社(大分県中津市)から傀儡人形を持ち来たった楽人たちが合流し、宇佐の凶首塚(隼人塚)・百体神社(いずれも宇佐市)へ向かい、
Bそこで、宇佐八幡から御輿を擁してきた神職・僧侶の一行と合流して、隼人の霊を慰める供養儀礼をおこなう。
Cその後、和間浜の頓宮(宇佐市、現和間神社)へ向かい、到着後、舞楽が奏せられるなかで鎮魂法要がおこなわれ、銅鏡を浮殿に納める(八幡宮からの神官に渡されるとも)
D翌日、潮が満ちてきた頃をみはからって、八幡神が浮殿に出御し、その前で僧侶らによる放生陀羅尼が誦され、傀儡舞や伎楽などが奏舞されるなか、神官により蜷貝が海中に放たれる、
というもので、延べ15日間にわたっておこなわれる一大行事であったという。

放生会・経路図
放生会・経路図
(西の採銅所から東の和間浜に至る)

 これら和間浜での行事だけををみると、放生会は隼人戦没者慰霊のためというのも頷けるが、行事全体は
@田川郡採銅所の古宮八幡宮(豊比売社)で鋳造された銅鏡を、八幡神のご正躰として宇佐八幡に奉納する儀礼
A上毛・下毛郡の古表・古要神社が傀儡人形を持ってこれに合流し、傀儡舞という伝統の舞を奉納する儀礼、
B隼人塚での供養儀礼
C和間浜での放生儀礼
という4っに別けられる。
 それは銅鏡奉納儀礼と放生会という異質な二つが複合したもので、管見した限りでは、両者が一体化すべき由縁は見当たらない。また、そこで奉納されるのは隼人反乱時に始めて造られたという伝承をもつ薦枕ではなく、隼人反乱には無関係と思われる豊比売社(採銅所)鋳造の銅鏡であり、且つ、それを八幡宮に直接納めるのではなく、和間浜の頓宮で奉納されるというもので、いずれも不可解な行事である。
 これらのことからみると、本来の行事はご神体としての銅鏡奉納という古い儀礼であって、それは八幡神の前身といわれる香春の里の新羅の神(原初八幡神)が、田川郡から宇佐郡へと進出したという古い記憶・伝承(別稿・原八幡神参照)に準拠し再現するものであり、それに隼人鎮圧後になって、殺傷した隼人の鎮魂・供養のためという仏教儀礼が付会されたのではないかともいう。

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