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行幸会/薦神社(大貞八幡宮)
中津市大貞
祭神−−応神天皇・比売大神・神功皇后
                                                             2008.10.12参詣

 JR日豊本線・中津駅の南東約4.5q、中津市のほぼ中央にある“三角池(ミスミ池、市販の地図には御澄池とある)の傍らに鎮座する古社。

 薦神社由緒記によれば、
「薦神社は大貞(オオサダ)八幡宮とも称され、霊池である三角池を内宮、社殿を外宮と仰ぐ由緒正しい八幡の古社である。社殿の造営は承和年中(834--48)と伝えられているが、歴史は遙かに溯り、八幡大神顕現にかかわる上古以来の歴史を刻むものである」
という。
 ここでいう“八幡大神顕現云々”とは、宇佐氏系図・池守項注記にいう、
「池守−−弘仁2年(811)大宮司兼押領使に任ぜられ正八位下を叙さる。常に野仲郷に住み、神誓により三角(ミスミ)霊池を守護し、故に池守の名を得。
 舒明天皇の御宇(629--41)、三角池で神詠を拝聴し、大神比義とともに始めて八幡大神の霊を奉拝し、仕え奉る。又神護景雲中(767--70)大尾山社を造立。寿三百歳」
との伝承を指し、ここで八幡大神は先ず三角池に顕現したという。ただし、この伝承はここ以外の諸縁起伝承にはみえない。

 池守とは、宇佐八幡宮弥勒寺縁起(765)・天平神護元年・大尾社造営条にある
 「宇佐公池守を以て造宮の押領使とし、大神神宮を造り奉る」
とある人物と思われるが、“寿三百余歳”とあるように伝説的な人名でもある。
 資料によれば、池守は下毛郡諫山(イサヤマ)郷を本拠とする佐知氏の出身で、その祖・佐知翁が三角池の薦に顕れる神霊を拝んでいたとか、三角池を守っていたとか、池を造り住民の尊敬を受けていたなどの伝承があるように、代々、三角池を守り、そこでの祭祀を司ってきた巫覡をさす職名的なものではなかったかという。

※薦神社と八幡神
 今、薦神社の祭神は宇佐神宮と同じ3柱となっているが、本来のそれは、古来の佐知氏あるいは佐知氏を統合した宇佐氏系氏族の氏神と思われる。それが八幡神と具体の関わりをもつようになったのは、養老4年(720)の隼人反乱からといえる。
 八幡宇佐宮御託宣集(1313)によれば、
 「隼人反乱に際し、朝廷の祈願を受けた八幡神は『吾行きて降伏さすべし』との託宣を発し、その行幸(出征)に際して、姿なき八幡神の代わりに神輿に乗せる御験(ミシルシ、神霊を宿す依代)として作られたのが“薦枕”(コモマクラ)である。
 それは大神諸男(オオガモロオ、大神比義の孫、諸兄とも記す)が、豊前国下毛郡野仲郷にあって、『勝境林間の宝池は、八幡大菩薩御修行の昔に湧き出した』との伝承がある三角池におもむいて祈り、『吾、昔此の薦を枕と為し、百王守護の誓いを発しき。百王守護とは凶賊を降伏さすべし、ということなり』との託宣を得た。
 この託宣によって、諸男が三角池の真薦を刈りとり、7日間の参籠のうえ、“薦枕”(長さ一尺、径三寸)を作り、これを神輿に乗せ、禰宜・辛嶋勝波豆米(カラシマスグリ ハツメ)を御杖人(ミツエビト・神の託宣を受ける憑依-ヨリマシ)として、豊前国軍の将・宇努首男人(ウヌノオビトオヒト)とともに出兵した。
 このとき宇佐仏教の法師、法蓮・華厳・覚満・体能らも供奉し、水に竜頭船を浮かべ、地に獅子狛犬を走らせ、空に鷁鳥をとばせ、二十八部衆を繰り出して細男(サイノオ、楽人)に傀儡舞を舞わせ、これに見とれて城を出てきた隼人らを殺戮した」(大意)
という。

 昔の戦争は、ある意味では敵味方が奉じるカミ同士の戦いでもある。為に、征討軍は「先頭に立って闘おう」と託宣した八幡神を先頭に立てて戦いに臨み、勝利したということで、その先頭に立った御験としての薦枕は八幡神そのものだったといえる。ただ、ここで先頭に立った神が、わが国古来からのカミではなく、カミとホトケが複雑に混淆した神すなわち応神八幡神だったところに特色があり、が故に、隼人が奉じるカミより強力だったといえる。

 この隼人反乱の鎮圧に神威を発揮したことから、八幡神は一地方神から国家鎮護の神へと変身し、小椋山に鎮座する契機となったという(隼人反乱は、応神八幡神が小山田社に鎮座しているときのことで、現社地ではない)。しかし、国選史書である続日本紀には「隼人が反乱を起こしたが平定した」とあるのみで、八幡神の関与については沈黙している。ただ朝廷は、反乱鎮圧後の養老5年(721)に「沙門法蓮の行いは仏法にかない、医術に詳しく民を救済している」として褒賞し、あわせて「三等以上の親族に“宇佐の君の姓”」を与えている(続日本紀)。褒賞の理由は“仏法にかない、医術による救済”となっているが、隼人鎮圧における法蓮をはじめとする宇佐氏の協力に対するものともいう。

※薦神社と三角池
 薦神社は三角池のの東北隅に位置するが、本来、薦神社と三角池は一体のものである。
 現在の三角池は面積約5ha、水深約1.5mほどの平底型の溜池で、主な水源は雨水という。池の南西方に三つの沢が三本の指のように湾入し、その汀線や湿原には真薦をはじめ多くの水生・湿地性植物の群生がみられ、三角池全体が県の史蹟(昭和51指定)、真薦などの湿地性植物群は県・天然記念物(昭和55指定)に指定されている。

 託宣集によれば、以前は、もっと広範囲にわたって八面山からの伏流水が豊かに湧き出し、池の周りの杜には各種の樹木・薬草などが生い茂り、その中に湧き出す清水が沢を形成していたという。
三角池・古図
三角池中の鳥居 三角池

 三角池が聖地とされるのは、南に聳える八面山(H=659m)との関係からで、八面山山頂の磐座を仰ぎ見る神奈備信仰のなかで、磐座に宿るカミを麓に降ろして祀った幾つかの里宮の中心が三角池ではなかったかという。
 また、三角池の辺りを古く野仲郷というように、山野の多い畑地であって、そこに湧き出す伏流水を集めて大きな溜池を作ることで、水田耕作が可能になったのではないかともいう。
 このように、三角池は池畔での社殿造営まで、八面山の山宮に対する里宮、あるいは豊穣をもたらす水の神として崇敬された聖池で、その証が、池の中に立つ朱塗りの鳥居であろう。

※社殿
 由緒記によれば、「承和年間に社殿造営と伝える」とある。その後、平安時代の天仁2年(1184)には神宮寺が建立されて宮寺としての形態を整えたというが、その後の記録は途絶えている。
 室町時代に入って、守護大名・大内氏によって再興されたが戦乱により焼失、江戸初期の元和2年(1616)に、宇佐行幸会を復活させた細川忠興によって本殿・申殿・回廊・神門などの大規模造営がおこなわれ、現在に至る。今に残る神門(楼門、国重要文化財)はその時のものという。

薦神社・大鳥居
薦神社・大鳥居
薦神社・社殿全景
薦神社・社殿全景
薦神社・神門
薦神社・神門
薦神社・勅使門
薦神社・勅使門
薦神社・本殿
薦神社・本殿
薦神社・呉橋
薦神社・呉橋

 今回まわった宇佐八幡の摂末社の中で唯一、神門(楼門)・本殿・勅使門・回廊などが整い、美麗な社であったが、これは平成7年から始まった平成の大修理がほぼ完成した姿である。
 大鳥居を入った正面に架かる呉橋は、宇佐神宮の呉橋を短くしたような橋で、かつては神門の前にあったという。

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