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宇佐神宮/弥勒寺跡

 宇佐神宮西からの入口・呉橋から続く西参道の両側一帯には、かつて『弥勒寺』なる神宮寺があった。過去2回行われた発掘調査によれば、北からの表参道の西側一帯に広がる弥勒寺は、そのほぼ中央を東西に走る西参道によって南北に2分され、南側には南大門・中門・金堂・講堂が南北軸に沿って配され、金堂前面に2基の三重塔が建っていたという。所謂“薬師寺式伽藍”をもつ堂々たる大寺だったらしい。なお、西参道北側には附属堂宇が甍を並べていたという。

宇佐八幡・境内古図
境内古図:室町・応永年間(1394--1428)
(左に弥勒寺が大きく描かれている、資料転写)
宇佐神宮・弥勒寺復元図
弥勒寺・復元図
(資料転写)

 弥勒寺は、承和縁起に
「天平9年(737、聖武朝)4月7日大御神(応神八幡神)の発願により、始め5月15日より、(日)足禅院を移し来たって宮の西に建立、則ち今の弥勒寺是也」
とある寺で、応神八幡神の小椋山鎮座(725)に併せて建立された二つの神宮寺・弥勒禅院(日足禅院)と薬師勝恩寺を統合して宇佐八幡宮の境内に移築した神宮寺で、翌10年に講堂・金堂の移築が完了したという。
 この弥勒寺の建立は、単に二つの神宮寺を統合移築したというのではなく、神と仏を名実共に一体するためのもので、国家鎮護仏として弥勒菩薩(講堂本尊)を主体に、当時の社会を覆っていた疾病苦難の救済仏として薬師如来(金堂本尊)を併せ祀ったものという。

 一般に神宮寺の建立は、当時の神仏習合思想をうけて、宿業によって神身を受け苦悩する吾(神)の救済を求める神身離脱思想によるものが多いが、当初から仏教と習合していた八幡神には神身からの離脱という意志はなく、八幡神がもつ神仏の一体性を目に見える形で具体化したのが弥勒寺建立だったともいう。

 なお、統合前の神宮寺2寺とは、託宣集に
「聖武天皇・神亀2年(725、八幡神の小椋山遷座と同年)、大御神から『吾は、衆生救済のために薬師・弥勒の2仏を本尊となす』との託宣を受け、勅許を得て寺を造り仏像を置き、弥勒禅院と号す。大菩薩御願主也。菱形池東方の日足(ヒアシ)林に在り。又御堂を造り本尊を安置し、薬師之勝恩寺と号す。大神比義の建立也。宮の辰巳方南無江(ナムエ)之林に在り。
 弥勒寺の初代別当は法蓮和尚、大菩薩が如意宝珠得た時のお約束也」(大意)
とある寺である。
 この伝承からみると、この2寺は、八幡宮の神宮寺的性格をもつとはいえ、いまだ氏寺的性格をもった寺で、これを統合した弥勒寺は、氏寺的性格から脱した国家鎮護の寺・国分寺的性格の寺だったともいう。

 また、弥勒寺建立は、単に八幡宮境内に神宮寺を建立したというのに止まらず、神社と寺院を一体化した“宮寺”創設の端緒となるものという(最初から神仏一体の宮寺として創建されたものとしては、石清水八幡宮が最初という)
 これに関係して、続日本紀・聖武天皇・天平13年(741)閏3月12日条に
 「宇佐の八幡神宮に秘錦冠(ヒゴンノカンムリ)一つ、金泥で書いた最勝王経と法華経を各一揃い、得度者(トクドシャ・僧侶)10人、馬5匹を献上した。また三重塔一基を造営させた。これまでの祈祷に対する礼である」
とある。ここで、八幡宮は神社なのに経典・僧侶・三重塔など寺院に対するそれと同じものが奉献・造営されており、中央では、八幡宮と弥勒寺とが一体のものと認識していたことを示している。
 これらのことは、朝廷が、弥勒寺と一体となった八幡宮に、国分寺に準じた、あるいはそれ以上に鎮護国家の宮寺としての期待を寄せていたことを示している。

 今、西参道南の弥勒寺跡には、草むらのなか講堂・金堂跡とおぼしき礎石が残るだけで、往時を偲ばせるものはない。また神宮刊の資料に弥勒寺に関する記述はほとんど見当たらない。明治初年の神仏分離令によって弥勒寺を分離し(明治3年1870)、官弊神社として独立した宇佐神宮としては当然のことかもしれないが、宇佐八幡宮の歴史を語るとき、弥勒寺に象徴される仏教を除くことはできない。

宇佐神宮・弥勒寺跡(講堂跡か)
弥勒寺跡・礎石(講堂跡か)
宇佐神宮・弥勒寺跡(金堂跡か)
同・礎石(金堂跡か)

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