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宇佐の原信仰/御許山(三女神降臨伝承)

※三女神降臨伝承
 日本書紀(720年編纂)・神代記・天安川誓約(ウケヒ)段に、
 「日神(アマテラス)が生まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に天降らせた」
との一文(第3の一書)がある。
 三柱の女神とはタゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメを指し、一般には宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の祭神とされるが、宇佐では、宇佐神宮の東南に聳える宇佐嶋すなわち御許山(オモトヤマ、H=647m)に天降ったとする(安心院の地という説もある。「三女神社」参照)
 また先代旧事本紀(平安初期に編された物部氏系史書)には、
 「ニニギ尊の天孫降臨の時、ニニギに従った神々の中の“天三降命”(アメノミクダリ)が豊前国宇佐国造(宇佐氏)の先祖」
とあり、このアメノミクダリとは先の三女神の別名だとされている。

 この三女神すなわちアメノミクダリ命を以て、今、宇佐神宮・第二殿に祀られている『比売大神』(ヒメオオカミ)の原姿とするのが一般だが、異論もあり、はっきりしない(別項・「比売大神」参照)
 宇佐神宮由緒記(以下「由緒記」という)には、
 「二之御殿の祭神(比売大神)を、八幡さまの妻神とか大宮能売神(オオミヤノメ)という学者もあったが、社伝では、アマテラスとスサノヲのウケヒによって顕れた三柱の女神で、宇佐の国造らが奥宮の大元山(オオモト、御許山)を中心として祀ったものと伝えられている。そして、八幡さまが顕れる以前の古い神様で地主神であるとされている」
とあり、三女神を比売大神の前姿としている。

 これらの伝承は、宇佐地方ならびに宇佐国造であった宇佐氏が初期大和朝廷に取り込まれる中(4世紀半ば頃か)で語られたものだろうが、それ以前から、御許山をカミの山・神奈備山(カンナビやま)とする信仰があったことを示唆し、その後、宇佐国造家(宇佐氏)の祖神、ついで比売大神へと変貌していったのであろう。

【御許山】
 御許山は宇佐神宮の東南約6qに位置する。馬城嶺(マキみね)とも廚岑(クリヤみね)ともよばれるが、御許山(神宮では「大元山」と書く)とは八幡宇佐宮の元宮という意味を含み、宗教的意味をはなれたら馬城嶺と呼ぶべきかもしれない。

 山頂に3個の立石いわゆる磐座(イワクラ)があり、三女神は、この立石を依代(ヨリシロ)として降臨したという。今、イワクラのある頂上部は禁足地となっていて実見できない。
 資料によれば、中央の石が最も大きく高さ一丈五尺(約4.5m)の烏帽子型、右の石はこれに次ぐ大きさで形はほぼ同じ、左の石は高さ四尺(約1.2m)余りと小さく、人の手が加えられた痕跡があるという。

 わが国の古代信仰は、里近くの秀麗な山をカミの山・神奈備山として仰ぎ見、山頂にある巨石(イワクラ)などをカミの降りくる聖地としてカミ祀りをおこなったことに始まるという。神奈備信仰・磐座信仰と呼ばれるもので、宇佐平野にあっては、東の御許山と西の稲積山がこれに当たる。

宇佐・御許山遠望
御許山・遠望

 御許山に降臨した三女神は所謂“山の神”であり、それは又、山麓での農耕に必要な水を掌る“水の神”でもあり、そこから“田の神”としても信仰されてきた。民俗学では、山の神は春先に麓に降りて稲作を助け、秋の収穫を見届けて山に帰るとされてきた。御許山は、宇佐神宮境内を流れて周防灘に至る寄藻川の水源でもある。

 一方、平安初期に成った宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(承和11年-844、以下「承和縁起」という)には、
 「大御神は、是品太天皇(ホムタノスメラミコト、応神天皇)の御霊(ミタマ)也。欽明天皇の御世(539--71)、豊前国宇佐郡馬城嶺に始めて顕れます」
とあり、鎌倉時代の八幡宇佐宮御託宣集(正和2年-1313、以下「託宣集」という)には、
 「一伝に曰く、八幡大菩薩、神明の時、三柱石と発す」
とある。これらは、八幡神は御許山山頂ののイワクラに始めて顕現したという伝承である。
 また託宣集によれば、
 「宝亀8年(777)5月8日、八幡神は『翌9日辰刻に沙門となり三帰五戒を浮くべし。今より以後は殺生を禁断し生を放つべし。但し国家の為、巨害あるの徒出で来たらむ時は、この限りにあらず』と託宣し、僧・法蓮を戒師として出家受戒した。その場所は、馬城嶺の磐座から南に十四・五町下った正覚岩(未見)の辺りで、そこには八幡神の霊鬘・玉冠や剃髪に使った剃刀を収めた箱が石となって残っている」
という。仏教と習合した八幡神は“八幡大菩薩”と呼ばれるが、その出家受戒の地が御許山だという伝承である。
 なお、このとき授戒師となって八幡神を出家させた僧・法蓮とは、大宝3年(703)および養老5年(721)に朝廷から褒賞を受けた(続日本紀)という実在の人物で、宇佐氏の出身。彦山あるいは六郷山を中心に活躍したといわれる修験者的人物で、八幡神関係の伝承のうち仏教に関わるものにはほとんど係わっている。

◎霊山寺
 平安時代になると、御許山にも仏教(天台系の修験道的色彩の強いものかという)が入り、『霊山寺』という寺院が建立されたという。それは「石を躰と為し、水を意と為し」(託宣集)とあるように、山頂のイワクラと鬱蒼と茂る杉の大樹あるいは山麓に湧く霊水などに対する原始信仰が仏教と習合したものといえる。
 また伝承では、
 「八幡大菩薩が化身した人聞菩薩が、御許山から国東半島の六郷山に移り、法蓮・華厳・体能・覚満らとともに70余年にわたって仏道修行し、その後も更に70年余り修行した上で、9世紀中頃に御許山に霊山寺を開基し、本尊・釈迦如来、脇侍の多聞天・持国天を祀って行法修行の道場とした」
ともいう。八幡神が仏法修行をして、霊山寺を開いたという伝承である。
 霊山寺の本尊は、創建当初の釈迦三尊から、鎌倉時代には阿弥陀三尊へと変わったというが、釈迦三尊・阿弥陀三尊のいずれにしろ、三尊を山上のイワクラすなわち三女神の本地仏と見立てたものであろう。
 霊山寺の創建時期は、諸資料からみて嘉祥3年(850)頃とみられるが、その規模結構などの詳細は不詳で、修験道的色彩の強い修行道場ではなかったかという。

 御許山における本格寺院の建立は、延喜19年(919)の『正覚寺』にはじまり、多数の坊舎を擁する寺院として江戸時代まで続いたが、幕末動乱のなか慶応4年(1968)正月、長州藩兵士の焼き討ちにあって焼失したが、明治初年の神仏分離によって再建されず今に至っている。

 宇佐神宮発刊の写真集(以下「神宮写真集」という)に、“奥山御許山図”なる古図(右の図)が載っている。
 そこには、左上に3基の磐座、その左右に若宮・武内の巨岩、前に善神王の巨岩一対、左下に講堂・鐘堂、右下に観音堂が見える。これら講堂・鐘堂などが正覚寺あるいはその関係坊舎であろう。

 この講堂の辺りが、今の大元神社かとも思われるが、古図には神社らしき建物は見当たらない。大元神社は江戸時代にはなかったのかもしれない。
宇佐神宮・古図「奥宮御許山図」

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