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宇佐神宮/摂社・大尾神社
祭神−−八幡大神
                                                                2008.10.11参詣

 宇佐神宮の東側、御許山から北に伸びる尾根の先端に位置する大尾山の頂上に鎮座する。
 表参道大鳥居の先から左(東)へ、“頓宮”前を東西に通る参道を抜けると、県道の向こう側に急な石段がある。石段下の両脇には巨大な石燈籠が、その前に狛犬一対が座る。
 石段を登り切ると、正面に“和気公之碑”と刻した石碑があり、道は左右に分かれ、山道を左手へ回り込むと『大尾(オオ)神社』に、右手へ進むと『護皇(ゴオウ)神社』に至る。
宇佐神宮/大尾神社・石段下
大尾神社・石段下
和気公之碑
和気公之碑

※厭魅(エンミ)事件
 八幡大神による奈良・東大寺大仏礼拝(天平勝宝元年-749)の5年後・天平勝宝4年(754)、薬師寺の僧・行信と八幡宮の神職・大神田麻呂らによって「厭魅(エンミ)事件」と呼ばれる不祥事が起こっている。
 続日本紀には「人を呪い殺そうとする呪法を行った・・・」とあるが、何のために、誰を呪詛したのかなど細かい内容は不明。説によれば、当時の朝廷での実力者・藤原仲麻呂(恵美押勝)を追い落とそうとする橘奈良麻呂に荷担した行信が、大神田麻呂を引き入れようとして発覚した事件ではないかともいう。
 中央勢力と結ぶことで勢力を広げてきた八幡大神(大神氏系神職団)が、逆に中央での勢力争いに巻き込まれて失脚したともいえ、これにより大仏造立時の立役者・大神杜女・大神田麻呂は流罪となり、大神氏一族は宇佐八幡宮から退去している。

 この時、八幡大神は託宣して、それまでに朝廷から下賜された封戸・田畑を返還し、加えて
  「汝等、穢はしくして過有り。神吾、今よりは帰らじ」
と託宣して四国は伊予国宇和嶺(現愛媛県八幡浜)に移り(755)、宇佐には大神不在という異常な事態が起こっている。
 これらは大神氏なきあとをひきついだ八幡神職団(辛嶋・宇佐氏系)による自粛行為ともいえるが、朝廷からの強要があったともいう。また、この事件の裏には、八幡大神が政治化し中央勢力と結ぶことで、禰宜などの要職を独占してきた大神氏に対する辛嶋氏・宇佐氏の不満があったともいう。
 この八幡大神の宇和嶺遷座は12年に及び、その間、宇佐では辛嶋氏が大神帰座へ向けた環境作りに当たり、宇佐氏(宇佐公池守)が大神帰座に適する淨地選定に当たったという。その淨地とされたのが大尾山である。

※大尾社創建
 称徳天皇・天平神護元年(765)3月、宇和峯に坐(イマ)した大神は宇佐に残る禰宜・辛嶋志奈女に
 「今の宇佐八幡宮は吾が安んずる処ではない。願わくば、浄き処に移って朝廷を守護し奉りたい。その処は、吾が指示に従え」(大意)
と託宣し、これを受けた宇佐公池守が造営したのが『大尾神社』(神社刊由緒記には「仮殿」とある)で、同年10月、八幡大神は当社に帰座したという(建立縁起・託宣集)
 なお、当社祭神は八幡大神一座で比淘蜷_の名はない。宇和嶺から大尾山・小椋山へと遷座を繰りかえしたのは八幡大神のみであったからで、その間、小椋山には比売神のみが残っていたのであろう。

 この比売神が小椋山に単独で鎮座していたことは、八幡大神の大尾山帰座の前年・天平宝字2年(766)に、比売神に対して封戸500戸が贈られ、2年後の神護景雲元年(767)には『比盗_宮寺』が建立されるなど、それまで大神の背後に隠れていた比売神が表に出てきたことでも知ることができる。
 このことは、比売神の奉斎氏族である宇佐氏の勢力が大きくなったことを意味するが、説によれば、それまで大神氏の後塵を拝していた宇佐氏は、在地での失地回復を願って、その頃、朝廷で勢力を広げてきた道鏡らと結託したのではないかともいう。

◎社殿
 山頂近くのちょっとした平地に、朱塗り柱に緑色狭間という透塀に囲まれた神域に簡素な小祠一棟が鎮座し、周りには案内板以外に何もない。現社殿は、昭和の御造営(昭和8〜17年)のとき再建という。
 ただ、今、宇佐八幡宮を訪れる参詣者あるいは観光客の中で、当社が道鏡天位託宣事件の舞台と知る人もなく、ここまで登ってくる参詣者はないようで、静かな雰囲気に囲まれている。

宇佐神宮/大尾神社・拝殿
大尾神社・拝殿
宇佐神宮/大尾神社・本殿
大尾神社・本殿

※道鏡天位託宣事件
 続日本紀・称徳天皇・神護景雲3年(769)9月条に、
 「道鏡に媚び仕えていた太宰府の神主・習宣阿曽麻呂(スゲノアソマロ)が、宇佐の八幡大神から
 『道鏡を皇位に就ければ天下は太平になるであろう』
との託宣があったと告げた。
 これを聞いた天皇は、和気清麻呂を側近くに呼んで、
 昨夜の夢に、八幡神の使いが来て『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わすように』と告げられた。姉・法均に代わって汝が行って神託を聞いてこい
と命じた。出発する清麻呂に対して道鏡は「大神が使者の派遣を請うのは、吾の即位のことであろう」と語り、吉報をもたらせば官位を上げてやると持ちかけた。
 宇佐に着いた清麻呂は、大尾社に坐す大神に祈願し、禰宜・辛嶋勝与曽女(ヨソメ)を通してその神意を問うたところ、大神から
 『わが国は開闢より君臣の秩序は定まっている。臣下を君主とすることは未だかってない。天つ日嗣(皇位)には必ず皇統の人を立てよ。無道の者は速やかに払い除けよ』
との託宣を得、帰京した清麻呂はそのまま奏上した。怒った天皇(と道鏡)は、清麻呂の官位を削り大隅国へ、姉・法均を備後国へ配流した」(大意)
との記述がある。
 称徳天皇(在位764--70)は聖武天皇の皇女(安倍内親王)で、聖武より譲位されて孝謙天皇(在位749--58)として即位し、後に淳仁天皇(在位758--764)に譲位して上皇となるも淳仁との間で軋轢を重ね、淳仁の後ろ盾だった藤原仲麻呂(恵美押勝)の失脚・敗死を機に淳仁を廃して復位した女帝。上皇時代、病になった女帝を看病したのが道鏡(700?--72)で、復位後の天皇が道鏡を寵愛し太政大臣・法皇として重用したため、奢った道鏡が皇位簒奪をねらって起こったのがこの偽託宣事件というのが、一般の解釈である。

 この偽託宣事件に際して、正統な皇位継承を託宣したことから、八幡大神の下す託宣、特に皇位に際してのそれは、皇位継承の正当性を示すものとして重要視され(時の権力者に利用されたといってもいい)、皇位継承ごとに使いを宇佐に派遣して即位を神へ報告する慣わしがうまれたという。石清水八幡宮創建に係わった僧・教信の宇佐派遣も、幼少天皇・清和の即位(清和天皇は、3人の兄皇子を差しおいて即位している)を八幡神の託宣によって正当化しようとする藤原良房の策謀に端を発するという。

◎末社・護皇神社
 祭神−−和気清麻呂(733--99)
 和気清麻呂は、戦前までは救国の忠臣として顕彰された人物で、幕末の頃、孝明天皇は、清麻呂の功績をたたえて正一位とし“護王大明神”の神号を贈り(嘉永4年1851)、明治天皇は、それまで神護寺境内にあった和気清麻呂廟を“護王神社”と改称し(明治7年1874)、また勅命によって神護寺境内から御所・蛤門前に遷座せしめる(同19年1886)など、各地に神社が設けられている。
 当社も、皇位継承の正しいありようを示す託宣を得た清麻呂を、国体擁護の忠臣としてに祀ったもの。神宮刊由緒記には「もと菱形池の中島にあったのを、昭和造営でこの山腹に移した」とあるが、旧社の創建時期は不明。明治以降かもしれない。
宇佐神宮・末社・護皇神社
護皇神社(資料転写)

※道鏡天位託宣事件の決着
 神護景雲4年(770)8月、仏教に深く帰依し道鏡を重用した称徳天皇が崩御し、それまでの天武系に変わって天智系の光仁天皇(770--81)が即位すると、道鏡は下野国薬師寺別当に左遷され、和気清麻呂が中央朝廷に復帰してくる。この皇統の交代は、称徳天皇が独身のため世継ぎの皇子がなかったこともあるが、聖武から称徳と続く仏教重視(その現れが道鏡親任)の政策に対する、藤原氏をはじめとする貴族層の反発があったともいう。
 光仁天皇・宝亀2年(771)、清麻呂は豊前守に任じられて宇佐に赴任、宇佐八幡宮の神職団内部の粛正と機構改革に着手し、同4年(773)、禰宜・辛嶋勝与曽女、宮司・宇佐公池守を解任し、禰宜に大神小吉備売、祝に辛嶋勝龍麿、大宮司に復帰した大神田麻呂を任じるとともに、今後は、
 @大宮司職は大神比義の子孫が就くべきこと
 A少宮司職は宇佐公池守の子孫が就くべきこと
 A禰宜・祝には辛嶋勝乙目の子孫が就くべきこと
と定め、それまでの大神・辛嶋・宇佐氏間の確執に終止符を打ったという。

 先述したように、この偽託宣事件は、皇位を伺う道鏡の野心を和気清麻呂が阻止した事件となっているが、その真偽について幾つかの疑義が出ている。
 そのひとつとして、清麻呂が大尾山に於いて神意を問うたとき、大神は2度にわたってそれを拒んだとか(先の託宣の正当性を主張するものか)、豊前守として宇佐神職団の粛正に乗り出した清麻呂が、まず対馬・壱岐の呪師を招いて、大尾山で辛嶋勝与曽女を通して下された託宣の真偽を卜せしめ、それは虚偽であったと認定した(773)、といった記録がある。
 このことは、辛嶋与曽女は先の託宣と同じく「道鏡を皇位に就けたら天下泰平となる」との託宣を出した可能性を示唆し、清麻呂は、それを無視して「皇位には皇統の者を就けよ」との託宣を奏上することで、称徳天皇・道鏡による仏教主導の政策に反対する、藤原氏をはじめとする貴族全般の意志を示したのではないかという。
 この道鏡天位託宣事件とは一種の宮廷クーデターといってもいいが、皇位簒奪という重大事件を目論んだ道鏡は下野国に流されているが、きっかけとなる偽託宣を奏上した阿曽麻呂は逆に大隅守に任命される(宝亀3年-772)など、その処分には不可解なものが多く、説によれば、この事件の裏には宮廷内の勢力争いを有利にしようとする藤原氏の策謀があったのではないかという。
 これらのことからみて、これら一連の事件は、奈良時代の宮廷内部における皇位継承を巡る天武系・天智系の争いと、それにからんだ貴族間での勢力争いに、宇佐神職団が巻き込まれて起こったというのが真実らしい。

※八幡大神の小椋山遷座
 このようにして、偽託宣事件が決着したたのをみはからうように、宝亀10年(779)、大尾山に坐す八幡大神は、
 「前に居た菱形池(小椋山)は、神の名が始めて顕れ、位封甚だ高き処である。だから、願わくば此の旧い宮に住み、身に冑鎧を着て、朝廷および国家を守護したい」(大意)
と託宣して小椋山再遷座を指示したという。
 この託宣をうけて、翌年から小椋山の社殿の改築が始まり、大神が大尾山から小椋山へと再遷座したのが桓武天皇・延暦元年(782)で、それは厭魅事件による小椋山退去・宇和嶺遷座から数えて27年目にあたる。
 この小椋山再遷座は、復帰した大神氏が八幡宮神職団の主導権を再掌握したことを意味し、以後、八幡大神は応神八幡神として各地に広がっていくこととなる。

 今、大尾神社には八幡大神の分霊が鎮座しているというが、神宮刊資料に、
 「国家鎮護の遺蹟を保存するために、このとき(小椋山再遷座時)大尾神社が創祀された」
とあるように、国体擁護・皇位皇統の正当性を護った象徴として創建されたのが、大尾神社ということができる。

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