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宇佐神宮/摂社・鷹居社
宇佐市上田
祭神−−仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
                                                                2008.10.11参詣

 宇佐神宮の西約1q、駅館川右岸(東側)に鎮座する。
 国道10号線沿いの民家に挟まれて立つ大鳥居の先、“おおいた百年の森公園”の中に色あせた朱塗りの拝殿がポツンと建っている。拝殿裏に申殿と本殿覆屋が縦に並ぶが、覆屋の桟間が狭く中に鎮座する朱塗り本殿の全体は見えない。周りは広々とした緑地公園で、神社境内という雰囲気は薄い。

鷹居社・大鳥居
鷹居社・大鳥居
鷹居社・拝殿
鷹居社・拝殿
鷹居社・本殿覆屋と申殿
本殿覆屋(左)・申殿(右)

※創建伝承
 今、八幡大神は応神天皇とされている(以下「応神八幡神」という)が、これは、古来の宇佐氏が祀る比売神信仰と西方・香春からやってきた辛嶋氏の新羅神信仰とが習合した在地の神祇信仰(以下「原八幡神」という)に、大和からの大神氏が奉斎する応神天皇霊が習合して生まれたというのが一般認識である。原八幡信仰が応神八幡信仰へと変貌する間には、それぞれの祭祀集団間の抗争があったと思われるが、次第に中央勢力を背景とする大神氏が優勢となり、辛嶋氏(宇佐氏も含む)が大神氏の傘下に統合されて創祀されたのが『鷹居社』という。いいかえれば、応神八幡信仰は鷹居社の創建から始まったといってもいい。

 しかし、当社の創建に関して、鷹居社・社頭の説明には
 「和銅元年(708)、八幡神は鷹の姿となって駅館川の畔の松の木に現れた。このため、大神比義と辛嶋勝乙目が神殿を建て、お祭した。本公園は、鷹居社の境内として重要な歴史を有している」
とある
 当社の創建に係わっては幾つかの伝承が残っている。略記すれば、
@大神清麻呂解状(弘仁6年-815、宇佐八幡宮弥勒寺縁起所載、以下「承和縁起」という)
 欽明天皇29年(568)に御許山に顕現した大御神を、大神比義(オオガ ヒギ)が鷹居社を建てて祀った。
A辛嶋勝家主解状(弘仁5年-814、同上)
 大御神は宇佐河渡(現郡瀬社)から当地に遷った時、人々を殺傷するほど御心が荒れていた。そこで辛嶋勝乙女(カラシマスグリ オトメ)が崇峻天皇3年(590)から3年間祈って心を和ませ、同5年(592)鷹居社を創建し、乙目を祝(ハフリ)と為し、辛嶋勝意布売(イフメ)を禰宜と為した。
 (以上、詳しくは別項「顕現伝承」参考)
B八幡宇佐宮御託宣集(正和2年-1313、以下「託宣集」という)
 元明天皇・和銅元年(708)、大御神が鷹と化して駅館川東岸の松の木の上に顕れたが、その御心は荒れていて、遠近の輩が五人行けば三人を殺し、十人行けば五人を殺した。大神比義〔比義の子・春麻呂との注記あり〕と辛嶋勝乙目が三ヶ年穀を絶ち千日間精進して祈り、御心を和ませようとした。
 和銅3年(710)、鷹の姿が見えなくなり、「我れ霊神と成れし後、虚空を飛翔するも棲息するところ無し。心荒れたり」と告げられた。そこで、和銅3年から同5年(712)まで祈りを捧げて之を鎮め、初めて宮柱を立てて齋敬し奉った。則ち鷹居瀬社是也。
とあり、当社の創建には
 イ−−欽明天皇29年(568)説−−承和縁起(大神氏系)
 ロ−−崇峻天皇5年(592)説−−承和縁起(辛嶋氏系)
 ハ−−元明天皇・和銅5年(712)説−−託宣集
の3種がある。

 しかし、イ説にいう欽明29年とは大御神顕現の年で、その直後に鷹居社を創建したというのは不自然で、大神比義の宇佐での活躍期は6世紀末から7世紀前半ともいうことから、欽明29年というのは後世の仮託であろう。
 ロ説は、辛嶋氏系図によれば、乙目の活躍時期が敏達朝から崇峻朝と位置づけられているから、乙目による崇峻5年鷹居社創建は妥当ともみられる。しかし乙目と同時に禰宜と為した意布売が元明朝(707--15)と注記されていることから、それを同時期とするのには疑問も残るともいう。
 残るハ説については、託宣集のなかに、
 「鷹居瀬社−−敏達天皇元年(572)より元明天皇・和銅2年(708)までの138年間、奇異有りと雖も、未だ霊社(社殿)を造らず」
とあり、また他にも「和銅5年、初めて鷹居社を造る」との文書が多見されることなどからみて、和銅5年の鷹居瀬社社殿創建は認められるであろうという。
 これらをまとめると、崇峻朝のある時期に鷹居社における祭祀が始まったが、それは、祭祀の度に仮の社・神籬(ヒモロギ・仮設の祭祀場)を設けておこなうものであって、元明朝のある時期(和銅5年頃)になって初めて社殿が創建された、というのは妥当であろう。

 また当社の社名について、伝承@Aでは“鷹居社”とあるのに対して、伝承Bをはじめとする大神氏系文書では“鷹居瀬社”とあり、駅館川右岸の鷹居社と同左岸の郡瀬社との合併社名となっている(今、両社間は斜めに川を挟んで直線距離約1q)
 その説明と思われるのが、託宣集にある。
 「鷹居社と群瀬社の間に大河あり。大御神が鷹と化して瀬を渡り東岸の松に止まり、また飛翔して西の地に遊ぶ。故に鷹居瀬社という。云々」
 との記述で、鷹と化した大御神が両社間を飛び回っていたからの社名とある。ただ、この鷹居瀬社とは大神氏が辛嶋氏系伝承を恣意的に改竄したもので、これを以て大神氏系伝承は恣意的な創作との説もある。
 この当時の宇佐では、駅館川右岸に主として大神氏が左岸には主として辛嶋氏が居住していたといわれる。その両居住地則ち両勢力圏にある二つの社を併せ祀ったとすることは、大神氏による辛嶋氏の服従化・協力化が進んだことを意味し、両氏による応神八幡神の合同祭祀(あるいは大神氏主導による合同祭祀)が始まったことを示唆するという。

なお祭神については、別項・「乙梼ミ・泉社・郡瀬社」参照。

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