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伝王仁墓
枚方市藤阪東町2丁目
                                                    2020.10.18訪問

 JR学研都市線・長尾駅の南東約600m、住宅地に囲まれた中にある王仁の墓伝承地。
 JR線路の北にある王仁公園の東側道路を北進、途中から右に折れ(案内表示あり)二つ目の角を左に曲がった(案内表示あり)先にあるが、道路が輻輳していて事前に地図上での検索が必要。

 王仁(ワニ・王仁博士ともいう)とは、古事記・応神天皇段に、
 「百済の国に『若し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ』と仰せ給ひき。かれ、命を受けて貢上し人、名は和邇吉師(ワニキシ)、即ち論語十巻・千字文一巻併せて十一巻をこの人に付けて貢進(タテマツリ)りき。この和邇吉師は文首(フミノオビト)等の祖なり
 書紀・応神16年条には、
 「春2月、王仁が来た。太子・菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)はこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれた。すべてによく通達していた。書首(フミノオビト)らの先祖である」
とある伝説的な百済人で、わが国に儒教と漢字を伝えたという。

 ただ、王仁渡来の頃、論語はいざしらず、千字文は未だ成立していなかったはずで(成立は6世紀前半頃という)、王仁による千字文の招来は疑問視されている。

 墓所に立つ「王仁塚の環境を守る会」設置の案内には、
 「王仁博士は古事記・日本書紀によると、応神天皇の招きで朝鮮半島の百済から論語千字文を携え渡来され、日本文化の始祖として江戸時代よりこの地に祀られていた。
 ・享保16年(1731)京都の儒学者並川五一郎(並川誠所)が文献により現墓所中央の自然石を王仁の墓と考証
  領主・久貝因幡守に進言、『王仁の墓』と刻んだ墓碑を後ろに建立した
 ・昭和12年(1937)、北河内郡菅原村山中信造村長が、大阪府に史跡指定を上申
 ・昭和13年(1938)、大阪府は古文化記念物等保存顕彰規則により史跡13号に指定
 ・昭和15年(1940)、財界文化人有志により、周囲に玉垣を寄進。第二次世界大戦のあと、草むらに埋もれ忘れ去られていた
 ・昭和59年(1984)、王仁の祖国韓国無窮花(ムクゲ)植樹運動本部から贈られた『ムクゲ』の花植樹を機会に、市民有志で『王仁墓の環境を守る会』を結成。墓域浄化奉祀を続けている」

 また、枚方市教育委員会設置の案内板には、
 「伝王仁墓
 (前略)この地には、かつて「おに(鬼)墓」と呼ばれた自然石があり、歯痛や瘧(オコリ)に霊験あらたかであると信じられていました。
 江戸時代の儒学者・並河誠所は、その自然石を『王仁(ワニ)が“オニ”になまったもので、本来は王仁の墓である』として当地の領主に進言し、享保16年に『博士王仁之墓』の石碑が建てられ、文政10年(1827)には『博士王仁墳』と刻まれた顕彰碑が建てられました。
 明治になると、王仁は日本に来て天皇に仕えた文教の祖として検証されはじめ、墓域の整備拡張や神社創建の運動も試みられました。
 昭和13年、には『伝王仁墓』として府の史跡に指定されました。
 現在は日韓交流の拠点の一つとして、多くの人が訪れています」
とあり、その後、
 ・平成4年(1992)、大阪府と枚方市により墓域が整備され、ハングルの案内板・善隣友好館(休憩所)・記念碑などを建設
 ・平成19年(2007)、百済門の建設
がなされている。

 当墓所は、江戸中期の儒学者・並川誠所(ナミカワセイショ・並河とも記す、1668--1738)が、和田寺の記録から此処を王仁の墓と考証したもので、その著・河内志(1733)には
  「河内文首始祖博士王仁墓 藤坂村東北御墓谷に在り、今於爾墓(オニハカ)と称す」
とあり、これにより“王仁の墓は枚方市藤阪西町にあり”とする風評が広がったという。

 誠所の考証の基となった記録とは、禁野村にあった和田寺の住職・道俊が記した「王仁墳廟来朝紀」(1616、原本なし)の中に
  「王仁没するに及び、河内文首の始祖百済墓紀書、河内国交野県藤坂村に墓を造りて葬る、則ち藤坂村艮(東北)字御墓谷と称す、土俗於爾之墓と誤訛す」(漢文意訳)
とあるのを指す。

 ここでいう於爾(鬼)之墓とは、上記・枚方市教育委員会の説明板にあるように、藤坂村字御墓谷にあって古くから鬼墓と呼ばれていた自然石のことで、歯痛や瘧(オコリ)に霊験があると伝えられていたものを、和田寺の道俊和尚が“オニ”は“ワニ”の誤伝であると主張し、それを誠所が何らの検証もなしに引用したものといわれ、この経緯から見ると、当墓所を王仁の墓とするには根拠薄弱といわざるをえない。
 大阪府・枚方市が当墓所を「伝王仁墓」というのは、これが確たるものではないことの証しともいえる。
 なお枚方市には、百済王を祀る百済王神社(中宮西之町)・百済寺跡など百済系渡来人に関係するものは幾つか見られるが、王仁に関する遺構・伝承は当墓所以外にみえない。

 因みに並川誠所とは、江戸中期の儒学者で、享保14年(1729)62歳の時、幕府から畿内地誌編纂の命を受け、河内・摂津・和泉・大和・山城国を踏査し「五畿内志」を完成した(同19年・1734)という人物で、その中で、その頃在処不明となっていた式内社を幾つも明らかにしたという。
 ただ、誠所の調査は現地に残る口伝・伝承などによるものといわれ、古文書等を何処まで精査したかは不明。

※伝王仁之墓
 道路脇に「大阪府妃指定史跡 伝王仁墓」と刻した大きな石碑が立ち、入った右手に韓国様式の『百済門』が建ち、側らの案内には
 ・伝王仁墓は1938年に大阪府指定史跡に指定された。1988年5月には史跡指定50周年を記念して、(社)韓日文化親善協会が、墓前に祭壇・香炉・花瓶を設置・奉献した。
 ・2006年は韓日親善協会創立30周年に当たる年であり、これを記念するために、同協会の尹在明会長は2004年4月百済門建立推進委員会を構成、同年7月大阪府枚方市の王仁墓前に於いて韓・日両国の文化親善協会が合同推進総会を開いた。
 ・同年10月、韓・日文化親善協会が共同主催し、王仁塚の環境を守る会が主管となって、百済門建立を大阪府教育委員会に申し出て2005年1月に許可され、2006年3月に起工式を催し、同年10月に韓国の伝統的な文化建築様式による歴史的な百済門を竣工した旨、天地神明に報告した。
 ・この百済門に要したすべての資財、木材・亙・石などは、かつての百済にあたる全羅南道から運ばれた。ちなみに亙には無窮花と百済王仁像が刻まれている」
とある(一部省略あり)

 なお、百済門右に自然石に「史跡 伝王仁墓」と刻した石碑がある。


伝王仁墓・正面入口 

百済門 

百済門(側面) 

社頭に立つ石碑 
 
百済門右の石碑 

 百済門を入った墓域の正面、玉垣に囲まれ一段と高くなった区画の中央台座の上に、『博士王仁之墓』と刻した墓石が建ち(領主久貝氏の建立という)、その前に香華台と小さな獅子の像一対が置かれている。


伝王仁之墓への参道 

同・全景 
 
同・墓石

 墓石の前に、やや扁平な円い自然石があり、これが誠所が王仁之墓であるとした“鬼墓”であろうが、摩耗していて一部苔生しているが文字等の痕跡はみえず、これを以て王仁之墓とするのは牽強付会の極みとしかいいようがない。

 
同・側面
 
伝鬼墓 

 境内の左手、低い灌木列を挟んで朱塗り・四方吹き放ち・瓦葺きの『善隣友好館』がある。
 平成4年に建設された建物で、休憩所とはいうものの広い土間の片側にベンチらしいものがあるだけて、框部に韓国における王仁関係とおぼしき写真等がずらりと掲げられている。


善隣友好館 
 
同 左

同・内部 

 墓域の南西側、少し離れた高所、石段の上に『博士王仁墳』と刻した石碑が建ち、側らに『第四回王仁博士三ケ国合同慰霊祭記念建之 北九州市門司区 博士王仁顕彰会二代会長□□」とあり、当地が王仁之墓という伝承が九州まで広がっていたことを示すものといえる。
 ここから左には、芝生広場と樹木からなる小公園がある。

     

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