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海神社(神戸市垂水区)
神戸市垂水区宮本町
祭神--底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神
相殿神--大日孁貴尊
                                                          2015.09.23参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国明石郡 海神社三座 並名神大 月次新嘗』とある式内社。

 社名について、頂いた海神社御由緒略記には次のようにある。
  「古名アマ神社、又はタルミ神社、現在は一般にカイ神社、又は御祭神名よりワタツミ神社と申し上げています」

 これによれば、今の社名・ワタツミとは祭神名からの呼称となるが、古事記伝(1798・本居宣長)には
 ・海神は和多能加微(ワタノカミ)と訓べし。海を和多(ワタ)と云ふは、渡ると云ことなり。古書に山には越(コユ)といひ、海には渡るといへり
 ・大綿津見神(オオワタツミ)の名の義、師の説に、綿は海(ワタ)、津は助詞、見は毛知(モチ)の約りたるにて海津持(ワタツモチ)てふ意なり。これ海を持神(タモツカミ)なればなり
 ・又師の説に、綿津海(ワタツミ)など書る。綿(ワタ)も海(ミ)も借字にて意なし。又ワタツミを只海のことに云は、此神の名より転(ウツ)れるなり
とあり(神代三の巻)、海の古称ワタから海神をワタツミと呼び、これから転じたのが当社名ワタツミだという。

 アマ社とは、この神が海人族(アマ)が斎き祭る神であったことからの呼称
 タルミ社とは、当社にかかわる最古の資料・新抄格勅符抄(806)に『播磨明石垂水神』とあるように鎮座地地名からの呼称で、神名帳考証(1813・伴信友)には、「おもふに神社の在る地名もてタルミの神とも称せるを、やがて訓をつけたるにやあらむ」とある。

 また、江戸時代以降“日向(ヒュウガ)大明神”とも呼ばれていたといわれ、明治4年5月、国幣中社に列したとき古称・“海神社”に復し、同30年に官幣中社に昇格したという。

 JR山陽本線・垂水駅のすぐ南に接した密集民家の中に鎮座し、駅北側(海側)の駅前広場を左(東)に回り込んだ処に西側の入口が開く。

※由緒
 境内に案内表示はないが、海神社御由緒略記(以下「略記」という)によれば、
  「今から千数百年の昔、神功皇后が三韓征伐を終えてお還りの時、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。
 皇后が御みずから綿津見(ワタツミ)三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちまち風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。
 その時、神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります」
という。

 また、社伝(日向大明神御縁起1728・江戸中期)によれば、
  「神功皇后三韓より御凱陣あり。此の沖まで還幸ありしに、俄に辰巳(南東)の方より暴風頻りに起こりて、御船を始め数多の兵船潮に漂い波に浮沈して危なきこと計りなし。
 此時に皇后御請願有りて御身の穢れを祓い給ひ、海童(ワタツミ)三柱の大神を勧請したまひしかば風波忽ちに鎮まり、海上穏やかになりて帰京ましましけり」
 とあり(式内社調査報告・山陽、1980)
 古資料・神祇志料(1871・明治4)注記には
  「神功皇后三韓を征けて還りましし時、俄に暴風起こりて危なかりしかば、皇后綿津見三座を祭りしに、風雨鎮まりきとあるは、古伝と聞こえたり」
とある。略記はこれらの伝承に由ったものであろう。

 この社伝伝承の成立時期は不明だが中世以降のものと思われるが、これに先行する書紀・神功皇后元年条に、
  「三韓から帰った皇后は、摂津の地で忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞いて、真っ直ぐ難波に向かわれた。ところが船は海中をぐるぐる回って進まなかった。そこで務古水門(ムコノミナト、JR兵庫駅の南・大輪田泊付近か)に帰って占われた。
 その時、四柱の神が顕れて、
 ・天照大神から、『わが荒魂を皇后の近くに置くのはよくない。広田(現広田神社、西宮市大社町)に置くがよい』、
 ・稚日女尊から、『自分は活田長峡国(現生田神社、神戸市中央区)に居たい』、
 ・事代主命から、『自分を長田国(現長田神社、神戸市長田区)に祀れ』、
 ・表筒男・中筒男・底筒男の三神(住吉三神)から、『わが和魂を大津の渟中倉(ヌナクラ)の長峡(ナガオ・現本住吉神社、神戸市東灘区)に居さしむべし。さすれば往来する船を見守ることもできる』
との神託があったので、神の教えのままに斎き祀った。それで平穏に海を渡ることができた」(大意)
との伝承(以下「神功皇后伝承」という)がある。

 この二つの伝承を比べるとき、
 ・神を祀った土地(垂水沖・務古水門)及び顕れた神(ワタツミ三神・アマテラス以下4座)は異なるものの、
 ・神功皇后三韓からの帰路、船が進まなくなったこと、
 ・これを神の祟りとして神マツリをおこなったところ海が鎮まり、船を進めることが出来たということは同じで、
 これからみて、社伝にいう創建由緒は神功皇后伝承に仮託して作られた伝承であろう。

 しかし、当社がワタツミ三神を祀ることからみると、明石海峡一帯にあって漁労・舟航に常時していた海人族が、その祖神・ワタツミ三神を祀ったものであることは確かであろう。

 また、これら伝承によれば、当社の創建は神功皇后治世の始め頃(皇后実在とすれば4世紀末頃か)となるが、それは神話伝承上でのことで、4世紀あるいは5世紀に当社があったことを証する資料はない。

 なお、当社に関する記録としては、
 ・大同元年牒(806・新抄格勅符抄所収)--播磨明石垂水神 十戸
を初見とし、8世紀初頭にあったのは確かだが、その後は
 ・三代実録・貞観元年(859)正月27日条--播磨国従五位下海神に従五位上を授く
とあるのみで、その後の昇階記録はない。

 なお、当社が名神大社という社格をもち、畿内のそれと同じ扱いをうけたことについて、
  「当社が畿内と畿外との境界に立地し、沖行く船を守護するとともに、大阪湾への“禍つ霊”(マガツヒ・悪霊)の侵入を防ぎ祓い清める役割を負っていたからであろう」
という(日本の神々2)

※祭神
 由緒略記には
 「 正祀  底津綿津見神(ソコツワタツミ)・中津綿津見神(ナカツワタツミ)・上津綿津見神(ウワツワタツミ)
  配祀  大日孁貴尊(オオヒルメムチ・天照大神の別名)
  御祭神綿津見三神は総称して綿津見大神とも申し、伊弉諾神(イザナギ)のお子様で、天照皇大神(アマテルスメオオミカミ)・素戔鳴尊(スサノオ)・住吉三神とは御兄弟にあたる神様であります」
とある(以下ワタツミ三神という)

 ワタツミ三神の出自については、古事記・日本書紀とも同じで(以下、古事記による)
  黄泉国(ヨミノクニ・死者の国)から帰ったイザナギは、穢れた身体を清めようとして筑紫の日向の橘の小門(オド)の阿波岐原(アハキハラ)で禊ぎ祓いされた。その時、多くの神々が成り出るが、その最後に
 「次に水底に滌ぎたまふ時成りし神の名は、底津綿津見神、次に底筒之男命(ソコツツノオ)。中に滌ぎたまふ時成りし神の名は中津綿津見神、次に中筒之男命。水の上に滌ぎたまふ時成りし神の名は、上津綿津見神、次に上筒之男命。
 この三柱の綿津見神は、阿墨連(アヅミノムラジ)等が祖神(オヤガミ)ともちいつく神なり。阿墨連等は、その綿津見神の子、宇津志日金柞命(ウツシヒカナサク)の子孫なり。筒之男三神は墨江の大神(住吉三神)なり」
とある。
 なお、書紀は綿津見神を少童命と記す、読みはワタツミで同じ。

 当社祭神・ワタツミ三神を祖神とする阿墨氏(安曇氏)とは、旧筑前国糟屋郡阿墨郷から志賀島一帯(いずれも現福岡県東区)が発祥の地といわれる古代の有力氏族で、
 古事記にワタツミ神の子・ウツシヒカナサク命の後裔、
 新撰姓氏録に
   右京神別(地祇) 安曇宿祢 海神綿積豊玉彦神の子・穂高見命(宇津志日金柞命の別名という)の後也
   摂津国神別(地祇)  阿墨犬飼連 海神大和多羅命(大綿津見)三世孫・穂己都久命(ホコツク)の後也
   河内国神別(地祇)  綿積神命の児・穂高見命の後也
とあるように神別氏族というが、その原点は中国南部の海洋民ではないかという。

 ワタツミ三神は、その出自からみるように海神(水神)だが、古代の水神信仰について谷川健一氏が、
  「先史時代、水の信仰は筑紫にはじまった。それには宗像・安曇・住吉など潜水漁労に従事する海人族が大いにかかわっていたことはまちがいない。
 それら海人族が東に移動し、阿波・淡路を中心として活躍するようになると、水の信仰はそれを奉齊する集団によって地方にはこばれた、と見ることができる」(古代海人の世界・1995)
というように、阿墨氏は北部九州から瀬戸内海沿岸へ進出し、更に紀州半島を廻って東海地方から東方へと勢力を拡げたという。

 その阿墨氏と海人族との関係について、書紀・応神天皇3年11月条に
  「処々の海人 騒ぎて命に従わず。則ち阿墨連の祖・大浜宿祢を遣わして、その騒ぎを平らぐ。由りて海人の宰(ミコトモチ・統率者)とす」
とあり(但し応神朝との確証はない)、当地・明石垂水の海人族も阿墨氏の統率下にあったと思われ、当社は、明石海峡一帯で活動していた海人族が自分らの守護神として祀った海神に、阿墨氏の祖神であるワタツミ三神を充てたのが始まりか、と思われる。

 配祀されている大日孁貴尊(オオヒルメムチ)は、南北朝(14世紀)以降の勧請というが(式内社調査報告)、勧請由緒など不明。
 ただ、当社が江戸時代以降“日向(ヒュウガ)大明神”と呼ばれたことに関係するのかもしれず、
 ・江戸時代には“日向大明神”と称されたことがあり、元和6年(1620)の社領寄進状に「垂水之内日向大明神」、貞享3年(1686)のそれに「明石郡垂水村日向大明神」とあり、当社縁起や播磨鑑にも「日向大明神」としている(式内社調査報告)
 ・当社は初めは三座だけを祀っていたのであろうが、その後、祭神に仕える巫女が神の代言者として尊ばれ、比売神として相殿に祀られるようになり、それをワタツミ三神が日向で化生したことにちなんで“日向大日孁貴”として祀るようになり、総称して“日向大明神”と称するようになったと考えられる(日本の神々2・1984)
ともいう。

 オオヒルメムチとは、イザナギ・イザナミによる神生みの最初に
  「『吾已に大八洲国及び山川草木を生めり、何ぞ天下の主者(キミタルモノ)を生まざらむ』と曰ふ。是に日の神を生みまつります。大日孁貴と申す。一書に云わく、天照大神といふ」(書紀5段)
とあってアマテラスの別名とされ、イザナギが日向のアハキハラでおこなった禊ぎ祓いからワタツミ三神が化成した後に、
  「然して後に、左の眼を洗いたまふ。由りて生める神を号けて天照大神と曰す」(書紀5段)
とあることから、ワタツミ三神の化成と無関係ではないが、アマテラスは“天下の主者”としての神であり、当社略記が兄弟神というのには違和感がある(アマテラスの化成を神生み最初とみれば兄弟神ではない)

 なお、アマテラスをオオヒルメムチと呼ぶ場合、皇祖神という神格よりも、その前身である日神としての神格が強く、日神・オオヒルメムチであれば、日向大明神は地名・“ヒュウガ”ではなく、日に向かう“ヒムカ”と呼ぶのが妥当かもしれない。


※社殿等
 一般には、駅前広場に連なる西側の入口から入るが、狭い境内の南・国道2号線に面して一の鳥居が、その南、民家に挟まれた参道の先に朱塗りの浜大鳥居(両部鳥居)が立つ。浜大鳥居の南は垂水港で、岸壁近くに市立水産会館が建つ。

 境内北側に大屋根に千鳥破風を、向拝に唐破風を有する拝殿(入母屋造銅板葺)が、その奥の透塀中に、幣殿に続いて本殿(流造銅板葺)が建つ。

 
海神社・浜大鳥居
 
同・一の鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

◎境内社
 拝殿の右に“天神社”との小祠があるが、案内なく祭神・由緒など不明。
 拝殿左手に朱塗りの鳥居列が立ち、その奥に“蛭子社(えびす神)・猿田彦社(猿田彦命)・稲荷社(倉稲魂命)”の三社合祀殿が建つが、由緒など不明。
 鳥居列の横・藤棚の下には“七福神石像”が7躰並んでいる。


末社・天神社 

末社三社合祀殿
 
七福神像

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