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松 陰 神 社
山口県萩市椿東1537
祭神--吉田炬方命
付--松門神社他
                                                    2019.02.04参詣

 山陰本線・東萩駅の南東約850mの萩市街地の中に鎮座する。

※由緒
 当社公式HPには、
 「松陰神社の御祭神、吉田炬方命(ヨシダノリカタ・松陰の本名、1830--59)が殉節されてから31年後の明治23年(1890)8月、松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。
 この時、松陰先生のご実家・杉家の人々の手で、松陰先生の御霊を祀る土蔵造りの祠が建立されました。これが松陰神社の前身であります。

 明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、この祠を公の神社として創建しようと山口県に請願書が提出されました。
 同年10月4月、当時の社格制度の中で県社の社格をもって創建が許可され、土蔵造りの祠を松下村塾南隣りに移して本殿としました。萩城の鎮守で、当時廃社となっていた宮崎八幡宮の拝殿を譲り受け移築するなど、境内の整備が進められました。

 昭和11年(1936)、松陰神社改築奉賛会が設立され、翌年には王政復古七十年記念事業として、神社社域拡張工事が着工されました。昭和15年(1940)には新社殿が起工され、同17年(1942)には檜皮葺の社殿が竣工しました。
 しかし、大東亜戦争が激しさを増し、国家総力戦の様相を呈するに至り、遂に御遷座されないまま終戦を迎えました。

 戦後、社会情勢が落ち着くと、厚東常吉などが中心となり事業が再開し、新社殿屋根を銅板に葺き替えるなどの改修工事をおこない、ついに昭和30年(1955)10月26日に御祭神が新社殿に遷座されました。これが現在の松陰神社であります。

 翌昭和31年には、旧社殿を新社殿北側に移し、松陰先生の塾生・門下生を御祭神とする末社・松門神社が建立されました。
 平成22年(2010)10月、松陰先生御生誕180年祈念に10柱を追合祀し、更に平成27年(2015)10月、松陰先生の遺書『留魂録』を守り抜き後世に伝えた功績をもって、沼崎吉五郎命を合祀し、現在その御祭神は53柱であります」
とある(参詣の栞には簡単に記してある)

※祭神
  松陰神社--吉田矩方命(ヨシダノリカタ・号松陰)
  松門神社--久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・前原一誠・木戸孝允など、
           幕末の倒幕運動から明治維新後の新政府で活躍した松下村塾出身者53柱(所謂勤王の志士ら)

※社殿等
 道路脇の一の鳥居を入り、参道をすすんだ先に“松下村塾”、その奥に“松陰幽囚の旧宅”(杉家旧宅)が、その奥に二の鳥居が立ち神社境内に入る。
 境内正面に“松陰神社”、その向かって左に塾生・門下生を祀る“松門神社”、右に品川彌二郎を祀る“勧学堂”が鎮座する。
 そのほか松下村塾の左に花月楼(茶室)・薩長土連合密議之処(石碑)・吉田松陰歴史舘などが点在する。


境内図(左が北)
 
松陰神社・一の鳥居

◎松陰神社
 二の鳥居を入った正面に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、瑞籬に囲まれた中に本殿(流造・銅板葺)が西面して鎮座する。
 参詣の栞には、
 「明治23年(1890)8月、松下村塾改築の際、実家杉家の私祠として土蔵造りの小祠を建てたのが始めで、同40年(1907)9月、門人伊藤博文・野村靖の名をもって公に神社創建・県社列格を出願し、同年10月許可を得て成ったものであります。
 至誠熱烈なる松陰先生の愛国心は人々の景迎するところであります。又近年は学業の神として崇敬せられ、参拝者は全国各地に及んでいます」
とある。
 昭和17年(1942)桧皮葺きに改修、同30年(1955)10月銅板葺きに改修 現在に至るという。


松陰神社・拝殿 
 
同・拝殿内陣
 
同・本殿

◎松門神社
 松陰神社の左少し離れて建つ社で、社頭の案内には
 「昭和30年、松陰神社の新社殿(現社殿)が竣工し、遷座祭も滞りなく斎行されたので、旧社殿を北隣の現在地に移し、塾生・門下生を祀ることになりました。
 社名を松門神社として改修した後、昭和31年10月26日、松陰先生門下42柱を合祀して鎮座祭が斎行されました。
 平成22年(2010)、松陰先生御生誕180年を記念して10柱を追祀し、合わせて52柱が祀られています」
とある。

 
松門神社・正面
 
同・側面 

◎勧学堂

 松陰神社の右にある小堂で、堂前の案内には
 「萩市椿東船津にあった品川彌二郎の屋敷内に小祠を建立し(昭和15・16年頃)、品川子爵の霊を奉祀していましたが、昭和60年5月に、この小祠を現在地に移築改修し、勧学堂としたものであります。
 品川彌二郎は15歳で松下村塾に入り勉励を重ね、薩長連携に奔走し、「トコトンヤレ節 の作者」といわれています。
 松陰先生は、「少年中稀観(まれにみる)の男子なり」と評されました(以下略)
とある。

勧学堂

◎松下村塾(国指定史跡・世界遺産)
 参詣の栞には、
 「松陰先生が実家杉家に幽閉中藩許を得て家伝の兵学を講義されると共に、愛と情と至誠をもって青年の教育に精魂を打ち込み、活きた人材の育成に努められた塾舎であります。
 もとは古い小屋で八畳一室のみでありましたが、塾生の増加に伴い、師弟の労役により十畳半と土間一坪を増築されたものであります。
 幽囚室時代を併せ、安政3年(1856)から僅か2ヶ年半の短期間に過ぎませんでしたが、その薫陶により有為の人材が多数輩出し、明治の大業に尽瘁(ジンスイ)せられしことは広く世人の知るところであります」
とある。
 平成27年(2015)登録の世界遺産、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製銅・造船・石炭産業」の構成要素の一つ

 
松下村塾・石碑
 
松下村塾
 
同・講義の間(八畳)

◎松陰幽囚の旧宅(国指定史跡)
 参詣の栞には、
 「実家杉家の旧宅で、慶安6年(1853)4月以後の住宅であります。
 安政元年(1854)3月27日、松陰先生は同志・金子重輔と共に、伊豆下田港より海外密航を企てられましたが失敗に終わり、自首して江戸の獄に送られ、10月萩の野山獄に送還され、翌2年12月15日じ実家に謹慎を命じられて以来、同5年12月再度入獄されるまで3年間蟄居された処であります」
とある。

 
吉田松陰幽囚の旧宅
 
同・幽囚の部屋

◎花月楼

 松下村塾の左(北側)にある建物で、参詣の栞には、 
 「萩藩7代藩主・毛利重就(英雲)公が、江戸千家家元・川上不白に命じ三田尻(現防府市)の廷内に建てられた茶室で、公はこの茶室に農民を招き農事を聞かれたと伝えられています。
 後、萩の平安古に移されたものを、英雲公の偉大なる治績を景迎しておられた子爵・品川彌二郎が、由緒深き茶室の荒廃を憂いて之を譲り受け、明治21年(1888)松本川畔の旧宅地内に移し、更に昭和34年(1959)神社境内に移築保存したものであります」
とある。

 

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