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庚申信仰/八坂庚申堂
正式名:大黒山延命院金剛寺
京都市東山区金園町 390
本尊:青面金剛童子
                                             2006.11.27参詣・2021.03.15再訪改訂

 八坂の庚申堂は、“八坂の塔”への坂道・八坂通り(夢見坂)を登りつめた右手にあり(八坂の塔のすぐ下)、京洛三庚申の一。
 正式には『大黒山延命院金剛寺』と称する天台宗の寺で(大黒山金剛寺延命院とする資料もある)、八坂庚申堂は通称。

※縁起
 頂いた「八坂庚申堂」との参詣の栞には、由緒として
 「当山は、大阪四天王寺庚申堂・東京入谷の庚申堂(今は廃絶している)と並ぶ日本三大庚申堂の一つで、本尊・青面金剛は、飛鳥時代に中国大陸から渡来した秦河勝(ハタカワカツ、聖徳太子に仕えた秦氏の長)により秦氏の守り本尊として祀られた。
 平安時代、当代随一の験者であった浄蔵貴所(ジョウゾウキショ)が、すべての人々がお詣りできるようにと八坂の地に当寺を建てた。
 以後、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集めており、現在の本堂は江戸時代・延宝6年(1679)の再建になるもの」
とある。 

 江戸時代の八坂庚申堂は、八坂の塔とともに京洛の名所・名勝として広く知られていたようで、
 “花洛名勝図会”(1864)との案内書(ガイドブック)には、「八坂法観寺 庚申堂」として
 「法観寺塔(八坂塔を指す)の西にあり。大黒山金剛寺延命院の号す。
  本尊 青面金剛 長三尺五寸
  脇壇 不動・聖徳太子・大黒天・妙見宮・天満宮・弁財天・浄蔵貴所 
  当寺の本尊は、大宝元年(701)正月7日庚申の日に降臨したまふ所にして、摂州大阪天王寺、武州江戸浅草寺の庚申とこの八坂をして日本三庚申と称する」
とあり、八坂塔の下にある小堂に「庚申堂」との注記がある。(右絵図の箇所)
 ただ、ここには栞にいう秦河勝云々との記述はない。

 参詣の栞には、当庚申堂の本尊・青面金剛は秦河勝が守護仏として祀った仏とある。
 秦河勝とは、応神天皇の御代に渡来したという秦氏の一族で、聖徳太子に仕えた(7世紀初頭頃・飛鳥時代)というが、その頃青面金剛が知られていたかどうかは不祥。
 ただ梅原猛氏は、
 「庚申堂が属する金剛寺はもともと秦氏を鎮魂する寺院で、八坂の塔も聖徳太子建立との伝承があり、またこの付近から飛鳥時代の瓦なども出土しているなど、この伝承の真実性を裏付けている」(京都発見-2002
として、隣接する八坂の塔に聖徳太子建立との伝承があることから、当庚申堂もその頃の開基と推測されている。

 八坂の塔の建立について、崇峻天皇5年(592)、聖徳太子が如意輪観音の夢告を受けて建立したとの伝承があることから、隣接する当堂も太子に仕えた秦河勝に付託して作られた伝承であろう。


 当寺を建立したとされる浄蔵貴所(891~964)は平安時代に実在した高僧で、三善清行の第八子で、嵯峨天皇の孫(母が嵯峨天皇の皇女という)と伝えられる。
 “母が、天人が懐に入る夢を見て懐妊した”とか“八坂の塔が傾いたとき浄蔵が祈祷したら真っ直ぐに直った”とか、“死んだ父・三善清行を蘇生させた(一条戻橋伝説)”など摩訶不思議な話が多々伝えられていることからみると、天台系の修験者あるいは陰陽師だったらしい。

 金剛寺(庚申堂)が浄蔵貴所の開基であれば、それは10世紀前半のこととなり、名勝絵図がいう“本尊は大宝元年降臨”(8世紀初頭)との間で平仄があわない。
 また、その大宝元年正月7日は四天王寺庚申堂の開創年日ということから、当庚申堂を以て日本最初の庚申堂というのには疑問がある。


 なお、庚申について、頂いた参詣の栞には
 「庚申とは干支 即ち庚(カノエ)(サル)の日を意味し、この夜に人間の体内にいる三尸(サンシ)の虫が、寝ている間に体から抜け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人に罰として寿命を縮める。
 ところが、三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体から抜け出ることができないので、庚申日は徹夜する。これを庚申待ちという。
 この庚申待ちの行事には様々にことを行って徹夜していたが、青面金剛はこの三尸の虫を食ってしまうので、いつの頃からか、庚申待ちにはこの青面金剛を本尊として拝むようになり、庚申イコール青面金剛となった。 
 また、この日、睡眠を捧げて一晩一心に願い続ければ、如何なる願いも叶うとされている」
とある(別稿・庚申信仰とは参照)

※本尊
   青面金剛童子(ショウメンコンゴウドウジ)

 参詣の栞には
 「本尊さんは、末法の乱れた世の衆生を救おうと、お釈迦様と阿弥陀如来様と薬師如来様が相談され、青面金剛として現れたといわれ、
 また、青面金剛はお釈迦様に出会い仏教に帰依するようになった夜叉で、仏教に帰依したので、仏教を信じる人を全力で護り、御利益を与える善神となったといわれている」
とあるが、

 仏教辞典(岩波版)によれば 
 「庚申の日に祀られる夜叉神。帝釈天の使者で、羅刹とともに毘沙門天の眷族となって北方を守護するとされ、三尸説と習合して庚申信仰の本尊となった。

 一身四手、頭部には髑髏を頂き、顔は3面、左の上手に三股叉 、下手に棒を握り、右の上手は輪、下手は羂索をとる。全身を青色で彩り、怒髪天をつく憤怒の相を現す」
とあるように夜叉の類であり、
 陀羅尼集経(第9、653編)には
 「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に三叉戟・棒・弓・矢・剣・錫杖・ショラケ(人間)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」(要約)
とあるといわれ(原文未確認)
 他にも六臂・二臂・八臂のものもあり持ち物にも異相のものが多く、当堂本尊が如何なる儀軌によったものかは不明。
 (右図は当庚申堂の本尊とされる青面金剛童子像を描いた掛軸を写したもので、二童子・四鬼神・三猿を従えている) 

 庚申信仰の本尊は青面金剛とするのが通例だが、本来は無関係な神仏であり、
 ・青面金剛は、元々は悪質な伝染病である伝尸病(デンシビョウ・現在の肺結核)を除く加持祈祷の本尊とされていた
 ・この病気にかかれば数ヶ月の内に死亡し、墓に葬られることもなく、山川荒野に捨てられたといわれるほど怖れられていた
 ・一方、陀羅尼集経によると、この病気を直すには、まず体内の三尸九虫を禁滅したのち薬を飲めば効果があると記され
 ・その三尸九虫を禁滅するということから、平安時代以降、青面金剛は三尸の虫を押さえ込む庚申信仰の本尊と考えられるようなったのではないか
という。 

※境内
 八坂神社西門前から東大路通りを南下、4っめの信号(西側信号柱に八坂通りとの表示あり)を左(東)へ八坂通り(夢見坂ともいう)を上った右側(南側)に鎮座する。八坂の塔のすぐ下。

 八坂通りから少し入った処に、朱塗り・亙葺きの山門(四脚門)が北面して建ち、その左、三猿像の下に「日本最初 庚申尊」と刻した石標が立つ。
 また、山門屋根の上には「三猿像」が座り、石標とともに、当社が庚申信仰に関係する寺であることを示している。

 また、山門右前の植え込みの中に「夢見坂」と刻した小さい石柱が立つ。
 当堂前の通り(八坂通り)を夢見坂と呼ぶのは
 ・聖徳太子が、如意輪観音からの夢告によって八坂の塔を建立したから
 ・聖徳太子が、何時の頃かに都が京に移るという夢告を受けたから
といった伝承によるというが、聖徳太子に附会した後世の呼称であろう。

 
八坂通り(夢見坂)
 
八坂庚申堂・山門

同・石標 

山門尾根上の三猿像 
 
夢見坂の碑

◎本堂
 山門を入った境内は狭く、正面奥に唐破風を有する本堂が北面して建ち、その向かって左前に融通尊を祀る小堂が建つ。

 「庚申堂」との扁額が掛かった本堂正面には、沢山の“くくり猿”(括り猿)が屏風のように垂れ下がっていて内陣の様子は見えない。


八坂庚申堂・境内(左前:融通尊堂)

同・本堂 

同・本堂正面 

 本堂正面には、くくり猿の下に見ざる・聞かざる・言わざるの三猿が鎮座し、また本堂前の香炉も三猿によって支えられている。

 前回参詣したときには(2006.11)、本堂正面に下がる括り猿はなく内陣の様子が拝観でき、
 そこには、本尊・青面金剛を治める厨子の左に聖徳太子像が、その前に三猿の一“聞かざる”の像が見えるが(下右写真)、写真はこれ一枚しかなく詳しいことは不明。


三猿像 

香炉を支える三猿
 
本堂内陣(2006年撮影)

◎融通尊堂(仮称)
 本堂の左前に三方を括り猿に囲まれた小堂があり、正面上部に「融通尊」(ユウズウソン)との扁額が掛かり、中に赤い毛糸の帽子をかぶり赤い前垂れをつけた尊像が鎮座している。

 融通尊とは賓頭廬尊(ビンズルソン、びんずるさん)の別名といわれる(社務所談)
 賓頭廬尊は古代インドの婆羅門(バラモン)出身の釈迦の弟子で、十六羅漢の第一とされる。
 神通力に勝れ且つ説法に勝れていたことから獅子吼第一と呼ばれたが、その神通力をみだりに誇示することから釈迦に𠮟られ、「お前は究極の悟りを得ずに(羅漢の一というのは、ここからきている)この世に留まって仏法を守り、人々の病を治せ」と命じられたという。
 このことから、わが国では、賓頭廬尊は本堂の外脇にあって、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると病が治るという信仰が生まれ、「撫仏」(ナデボトケ)・「びんずるさん」として親しまれている。
 ただ当融通尊(賓頭廬尊)は堂内に鎮座していて、外から触りにくくなっているのが他とは異なる。 

 
融通尊像・全景

融通尊 
 
融通尊

◎括り猿(ククリサル)
 今の庚申堂は、本堂の正面からその両脇、また融通尊堂の3面など各処に大小・色とりどりの括り猿が垂れ下がり、境内全体が花が咲いたような華やかな雰囲気に包まれている。

 括り猿とは「身代わり猿」とも呼ばれ、小さな座布団の四隅をまとめて括り、これを猿が手足を括られて本能のままに動けない状態に見立て、それを以て、人間が欲望のままに行動することを抑制しようとしたものであり、
 また“猿”と“厄を去る”との語呂合わせから、厄除けの呪具としての意味も込められているという。

 参詣の栞には
 「お猿さんは庚申さん(本尊:青面金剛)のお使いですから、お猿さんに願いを託せば、必ず本尊に伝えてくれます。
 お猿さんは、よく動き回る動物の代表ですが、人の心も常に動き回って落ちつかないことから、お猿さんを括ることから、あなたの心も欲につれて動かないように、本尊の霊力によって括りつけようとしているのです。
 あなたの心の中に悪心が起こりそうなとき、努力を怠りそうなとき括り猿の姿を思い出して、心をコントロールしてください」
とある。

 ただ、今の括り猿は自分の願い事を書いた絵馬と同じように使われ、奉納されている括り猿には、いろんな願いことが書き込まれている。

 なお、かつての八坂通り(夢見坂)には、民家の軒先・商店の店先を問わず赤い色の括り猿が吊され、通り全体が一つの風物詩を形作っていたが、現在の通りには括り猿の数が減少したうえに、残ったものも色が褪せてしまい、括り猿は忘れ去られようとしている。

 
本堂右の括り猿

括り猿(拡大) 

曾ての括り猿 
 
現在の括り猿

◎蒟蒻(コンニャク)
 前回訪れた納め庚申の日には、境内で賽子状に切ったコンニャクがふるまわれ、参詣人が串に刺したコンニャク3個を北を向いて黙って食べていた。
 縁起によれば、
 「千年の昔、開祖浄蔵貴所が庚申尊の霊示をうけ、庶民の病を療治するにコンニャクを以てす。即ち、祈祷せるコンニャクを3個、北を向いて庚申尊を念じ、無言で食すれば諸病諸厄を免れる」
とあり、このコンニャクは病除け厄除けに験ありとされている。
 コンニャクが体内の砂を押し流すという俗信から、体内に住まう三尸の虫を排除してくるというわけか。

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