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陽関/西域への門
                                                                2004.10訪問

 中国西部・甘粛省の西端に位置する敦煌は、仏像・仏教壁画などを多く残す“沙漠の美術館”・『莫高窟』(バッコウクツ・世界遺産)の所在地としてしられているが、敦煌市の南西約70余kmには、古代の東西交流の路・シルクロードの一つ『西域南道』の東の関門であった『陽関』(ヨウカン)の遺構がある。

 前漢・武帝の頃(BC141--87)に築かれた陽関は、西域北道の玉門関(陽関の北約60km、敦煌市の北西約75km)とならんで、中国と西域を結ぶシルクロードの東端、いいかえれば中国本土最西端の門戸(関所)であるとともに、西方から侵入する匈奴などの遊牧民と対峙する重要な軍事施設として設置された西域経営の要衝の一つであった。

 陽関は、漢代から魏晋南北朝時代を最盛期とし、10世記以降(宋時代)の異教徒(イスラム教徒など)の侵入と、海路交易(海のシルクロード)の発展などにともなう陸のシルクロード交易の衰退などにより衰微し、民の嘉靖3年(1524)に完全に放棄されたという。

 なお、陽関の名称は、陰陽説で“南”を“陽”とすることから、北の関所・玉門関に対する南(陽)の関所として陽関と命名されたという。

※陽関・烽火台址
 敦煌市内を抜け、一面に広がる沙漠(ゴビ灘)を貫く一本道を2時間ほど走った先にある陽関址には、小さい砂礫丘の上に漢代の『烽火台址』が、周りを簡単な柵に囲まれてポツンと残っているだけ。
 資料によれば、一辺10m強、高さ3mほどの台形をした版築造遺構だが、二千余年にわたるの風雪にさらされて崩壊が著しい。
 
 千数百年の昔、ここを往き来した旅人が一夜の安眠をむさぼり、屯田兵たちが西方をにらんで立った陽関そのものは、幻となって沙漠のなかに消え去っている。

 現地入手の絵地図によれば、烽火台の西・古薫灘(コトウタン)の地に陽関遺址とある。
 また、現状からは考えなれないが、当地には「かつての陽関は洪水によって流失した」との伝承があるという。

 
陽関・烽火台址
 
同・近景
 
現地入手の絵地図(部分)
中央の黒い四角形が烽火台址で
その上部、黄色い楕円形が陽関遺址
 烽火台の丘から西方を望めば一望千里、古書に
 「沙河中は、しばしば悪鬼・熱風が現れ、これに逢えばみな死んで一人も無事な者はいない。
 空に飛ぶ鳥、地に走る獣なく、行路を求めようとしても、見わたすかぎり拠り処なく、ただ死人の枯骨を標識とするのみ」(法顕伝・紀元400年頃) 
とあるように、ただ茫漠・荒涼たる荒野が果てしなく広がり、近くには低草木の影が見えるものの、遠く延々とつづく灰褐色の沙漠は、折からの薄曇りの空に溶けこんで、どこが地平線やら判別不能。

 荒涼たる烽火台址に立って遠く西方を眺めながら、古く、この陽関をとおって西域へ赴いた旅人の心細さ、あるいは陽関を守らんがために派遣された兵士たちの望郷の念を想うと、ただ漠然とした寂寥感がわきあがってくる。


※陽関博物館
 烽火台址が残る小丘の麓に『陽関博物館』があり観光拠点とされている。
 西を向いた城門に続く城壁・角櫓などが何時のものを模したのかは不明。
 場内中央には、武帝の命をうけて初めて西域を旅した“張騫”(チョウケン、?--BC114)の騎馬像が立ち、周りには陽関都尉府(トイフ・守備隊本部)を中心に宿舎・民家などの復元家屋や、長城・シルクロード関係の展示場などがあり、隣接して天幕兵舎からなる駐屯地が復元されているが、特記するようなものはない。

     


※唐詩にみる西域行

◎陽関といえば、人々から賞嘆され愛唱されてきた一首がある。
 「送元二使安西」(元二が安西に使いするを送る)--王維(701--761)
   渭城の朝雨  軽塵を潤し  (ジョウのチョウウ  ケイジンをうるおし) 
   客舎清々  柳色新なり  (キャクシャ セイセイ  リュウショクあらたなり)
   君に勧(スス)む  更に尽くせ一杯の酒   
   西の方  陽関を出ずれば  故人(コジン)なからん

 この詩は、元二(元家の次男)が使者として安西(西域にあった安西都護府)に出立する際に詠われた送別の詩で、
 前半で、春暁の渭城(長安の西・渭水の北岸にあったという街)の美しさ細やかさを詠いながら、
 後半では一転して、陽関を出て西域に赴く元二の心細さを思いやり、“西域には心許した友人はいないだろうから、今ここで、この酒をもう一杯飲んでいってくれ”と別れを惜しむとともに、
 「更に尽くせ 一杯の酒」の一句に、“無事に帰ってこいよ”と願う気持ちが込められている。

 この詩は、古来から送別詩の傑作として知られ、人々は送別の場で“陽関三唱”(ヨウカン サンショウ)と称して、この詩(特に最後の一句)を詠いながら三度杯を挙げたという。
 なお、この詩では点景として“柳”が詠われているが、古い中国では、旅人を送るとき柳の小枝を曲げて輪を作って渡し、無事の帰還を祈ったという。為に、別れを惜しむ心を表す点景として、よく柳が詠い込まれている。

◎西域を旅する人の心境を唄った詩
 「碩中作」(セキチュウ-沙漠-にて作る)--岑参(715--770) 
   馬を走らせて西に来たり  天に致らんとす 
   家を辞して  月の両回(リョウカイ)(マドカ)なるを見る
   今夜  知らず  何れの処にか宿(シュク)
   平沙万里  人煙絶ゆ

 馬を走らせて、遠く天にとどきそうな西へと旅してきた。長安の家を出てから満月を二度迎えたから、もう一月以上が経ったことになる。
 ここ一望千里の沙漠の中には人家らしいものは見えず、今夜は何処に宿るのだろうか。おそらく野宿であろう。
という意で、旅の厳しさと旅人の心細さを詠っている。

 作者・岑参(シンジン)は、西域・安西都護使の幕僚として何度も従軍し、その経験と見聞をもとに、現実味を帯びた西域の詩を数多く詠んだといわれ、この詩は、作者が西域に赴任する際の作という。

◎陽関・玉門関を含めて西域に派兵された兵士たちは、なかなか帰れなかったという。
 そんな兵士が抱く望郷の念を詠った詩。
 「涼州詞」(リョウシュウ シ)--王翰(687--726)
   葡萄の美酒  夜光の杯
   飲まんと欲すれば  琵琶  馬上に催(ウナガ)
   酔うて沙場(サジョウ)に臥すとも  君  笑うこと莫(ナカ)
   古来  征戦  幾人か回(カエ)

 葡萄酒・夜光杯・琵琶といった西域渡来の文物を詠い込むことで、辺境らしい雰囲気と異国情緒あふれる華やかさと、そのなかで極上の葡萄酒に酔って砂上に倒れ伏す兵士、といった豪快さが詠われているが、
 そんな束の間の享楽の底には、戦場にあって何時死ぬかもしれないという恐怖感、故郷に帰れるだろうかという不安感、そんな消えることのない焦燥感が潜んでいるという。

◎辺境の地に夫を送り出した妻の想いを詠った詩
 「子夜呉歌」(シヤ ゴカ)--李白(701--62)
   長安  一片の月
   万戸(バンコ)  衣(キヌ)を打つの声
   秋風  吹いて尽きず
   総て是れ  玉関の情
   何れの日にか  胡虜(コリョ)を平らげて
   良人(リョウニン)  遠征を罷(ヤ)めん

 明月冴えわたる秋の夜長、長安の家々からは、冬の衣服を用意するために砧(キヌタ)を打つ音が聞こえるのに、夫を戦場に送り出している私は、夫のために砧を打つこともない。
 吹きすさぶ秋風・聞こえてくる砧の音、それらすべてが、わが想いを、玉門間の彼方にいるあの人へと駆りたてる。
 ああ何時になったら、我が夫は異狄(イテキ)を平らげて遠征から帰ってくるのだろうか、
とただ一人家に残っている妻の嘆きを詠った詩。

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