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祐徳稲荷神社
佐賀県鹿島市古枝
祭神−−倉稲魂大神・大宮売大神・猿田彦大神
                                                               2010.10.06参詣

 佐賀県南部・鹿島市の山麓に鎮座する稲荷社で、日本三大稲荷(当社・伏見稲荷・豊川稲荷)の一とされる。

※創建由緒

 日本三大稲荷の一として有名のため、古くからの社と思われるが、その創建は江戸時代前期と新しい(公称-伏見は飛鳥時代末、豊川は室町時代初

 当社由緒記に記す“御本社由来”によれば、
 「本社は、朝廷祈願所たりし京都花山院邸内奉祀の稲荷大神の分霊にして、後陽成天皇の曾孫女、左大臣花山院定好公(1599--1673)の女、母は前関白鷹司信尚公に降嫁せられたる准后清子内親王の女、肥前国鹿島の藩主鍋島和泉守直朝公(1622--1709・肥前鹿島藩初代藩主)の室、花山院万媛(満子媛)の勧請する所なり。(中略)
 (鍋島直朝公と婚儀を結びしとき、)父花山院定好公、別れに臨み稲荷大神の神霊を神鏡に奉遷し万媛に授けて曰く、『郷身を以て此の神霊に仕へ、以て上は宝祚の無窮を祈り、下は邦家の安泰を願い、敢て或は怠る勿れ』と。
 寛文2年(1662)5月、鹿島に下向、直朝公に入稼せられ、稲荷大神を祭らる。
 貞享4年(1687)、改めて古田村(鹿島市古枝の古称)静寂の地に殿宇を建立し、以て三神の霊を勧請し、躬自らも亦居を遷して奉仕せられきと。それより後十有九年、石壁山の一角に入定せらるゝや、夫人を祐徳院殿瑞顔実麟大姉と称へるに至る。
 依って本社を祐徳稲荷神社と称するものなり」
とある。

 また附記によれば、
 「旧記によれば、京都花山院内稲荷神社は、延歴13年(794)花山院冬嗣公(775--826)宗像三神を邸内に奉祀し、後左大臣照宣公(?)が伏見稲荷大神の分霊を合祀したもので、伏見は京都から遠いので、朝廷の祈願所に定められ、牛の日毎に内侍所より御供物の典あり・・・」
とあるが、祈願所云々はやや疑問。伏見稲荷大社は、延喜式神名帳に、「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次新嘗」とあることからみて、祈願所というより名神大社(官社)としての奉斎であろう。

※祭神
 ・倉稲魂大神(ウガノミタマ)
   稲荷信仰の原点である稲魂・穀霊を神格化した神で、保食神(ウケモチ)・豊受姫神(トヨウケ)・大宣都比売神(オオゲツヒメ)と同体異名。

 ・大宮売大神(オオミヤメ)
   天皇を守護する神として神祇官西院に祀られていた八神(俗称・宮中八神)の一座だが、当社由緒記には、
 「アマテラスが隠れた天岩戸の前で舞を舞ったアメノウズメと同体」
としている。しかし、記紀の天岩戸神話にオオミヤノメは見えず、ましてやアメノウズメとの関係はみえない。

 ただ、延喜式にある祝詞・“大殿祭”(オオトノノホカイ、宮殿の無災害・平安を祈る祝詞)には、
 「宮殿に出入りする人々や荒振る神等を鎮めて、宮殿の平安をもたらす女神」(延喜式祝詞教本・1959)
とあり、また古語拾遺(802・忌部・斎部氏系史書)には、アマテラスが天岩戸から出てきたとき、
 「大宮売神をして御前に侍はしむ。注−−是、太玉命の生みませる神なり。今の世に内侍の善言・美詞をもて、君と臣との間を和らげて、御心を喜ばしむるが如し」
とあり、オオミヤメはアメノフトタマ命(タカミムスヒの御子で、忌部氏-後の斎部氏-の祖)の子で、アマテラスに奉仕して、君臣(上下)の間を取りもち和らげる働きをする女神とある。

 稲荷信仰におけるオオミヤノメは“水神”とされるのが普通だが(二十二社記、伏見大社も水神としている)、俗信では、何時の頃からかアメノウズメと習合したようで(その由縁は不明)、当社がアメノウズメと同体とするのは俗信によったものであろう。

 ・猿田彦大神(サルタヒコ)
   由緒記には、
 「大土御祖神(オオツチミオヤ)とも申し、天孫降臨の時先導の任に当たり給ひし神にして、交通安全・土地の神として祀るものなり」
とある。
 道案内・先導の神であるサルタヒコにはいろんな神格が習合しているが、そのひとつ塞の神・道祖神とされることから、その土地の守護神・地主神ともされ、稲荷信仰では“地主神”と見るのが普通(伏見大社では地主神とする)

※社殿等

 社殿は、県道282号線沿いに流れる銀波川の西側に位置し、石壁山山麓の本殿から山頂・奥の院にかけて摂末社が点在する。

 境内には、橋を渡って北側から入る。鳥居をくぐり、北向きの楼門を入った右手(西側)の山腹高く、懸造り(京都・清水寺と同じ舞台造)の上に豪壮な本殿が東面して建つ。諸建造物はすべて朱塗りで、稲荷社独特の派手さに満ちている。

 今の本殿は昭和8年(1933)に再建されたものが、同24年に焼失後、同32年(1957)に再建されたもの。
祐徳稲荷/絵地図
祐徳稲荷/入口の鳥居
境内入口に立つ鳥居
祐徳稲荷/楼門
楼門
祐徳稲荷/楼門・拡大
楼門・拡大
祐徳稲荷/本殿
本殿
祐徳稲荷/本殿・内陣
本殿・内陣

◎摂末社
 当社に関する資料が少なく、細かいことは不明だが、山頂の奥の院までの参道沿いに摂社5社と末社・数十祠が点在する。
 ・摂社
  石壁神社−−満媛命(祐徳院殿ともいう)
  命婦社(ミョウブ)−−−命婦大神
  岩本社−−−岩本大神(出自・神格不明)
  岩崎社−−−岩崎大神(出自・神格不明)
  若宮社−−−文丸命・朝清命(満媛の子息)
 ・末社
  本社から奥の院に至る参道(山道)の途中に小祠が点在するが、総数としては伏見稲荷背後のお山にある祠群よりはるかに少なく、まとまりもない。

*石壁神社
 由緒記によれば、
 「満媛は入嫁後、内助に功あるも、わが子2子の夭折後大悟し、貞享4年(1687)62歳にして祐徳院を創立し、自ら神に仕えること十有九年、宝永2年(1705)80歳にして石壁山山腹に巌を穿ち寿蔵を構造せしめ、同年4月工事なるや、此所に安座し断食の行を積みつつ、邦家の安泰を祈願しつつ入定せられし、・・・」(大意)
とある。
 伝承からみて満媛の墓所ともいえるが、明治の神仏分離により、神社として整備されたという。

石壁神社/正面
石壁神社・正面
石壁神社/社殿
同・社殿

*水鏡
 石壁社から右手に進んだ崖下の窪みに水場があり、甕の口辺のような円形(径30cmほど)の枠が見える。
 傍らに立つ案内板には、
 「水鏡  祐徳院様(満媛)は、この水鏡に自分の姿を写して吉凶を占ったと伝える」
とある。
水鏡

*命婦社
 当社由緒記に記す“命婦社由来”によれば、
 「抑も命婦神とは神令使(お使い)の称にして、白狐の霊を祀るものなり。
 光格天皇天明年間(1781--89)御所内から発した火が延焼し花山院内大臣の邸に及ぶ。その時、白衣の一隊忽然と現れ敏活に屋上を馳せ廻りて防火に力め、その為さしもの烈火も瞬時にして鎮火せり。
 花山院公大いに喜び、之を引見して労をねぎらい問い給ふ。一同平伏して答えて曰く、『肥前国鹿島祐徳神社奉仕の者なり。偶々本邸に危難ありと聞き、微力を致せしのみ』と。
 公怪しみ且つ悦ばずして曰く、『本邸は物の数かは、何ぞ御所の危難に行かざりし』と。一同恐縮して答えて曰く、『吾等賤く、御所に上がるを得ざりしのみ』と言い終わって、形影消えて跡なし。
 公これを奇とし、ひそかに之を天聴に達す。是に於いて内大臣をして命婦の官位を授けられ、内大臣自ら御前に於いて命婦の二字を書して贈与せられたるもの現に宝蔵せらる。
 今石壁山中命婦大神として命婦社に祀る之なり」
とある。

 稲荷神と狐(白狐)との関係を語る伝承の一つだが、ここで与えられた“命婦”の称号とは、律令制下において宮廷に出仕する女性の地位を示す称号で、五位以上の位階を有する女性(内命婦)、および五位以上の官人の妻(外命婦)に与えられたという。

 また平安時代以降、天皇に仕えるために宮中(殿上)に昇ることができるのは、五位以上の位階を有する者および六位の蔵人の職にある者のみという制度があり、上記伝承で、白狐に命婦の称号が与えられたのは、命婦の称を与えることで五位の位階を有する者(殿上人)と同等とみなされ、宮中に入ることができるようになったことを意味する。

 今の命婦社・社殿は、江戸時代(1804)以降の本殿旧社殿で、昭和8年(1933)に移築されたものといわれ、正面軒先などに残る彫刻は精細美麗で、江戸時代の面影を良く残しているという。佐賀県・重要文化財(昭和52年-1977-指定)

命婦社/社殿1 命婦社/社殿2 命婦社/飾り彫刻

 なお、此所から山頂にかけて“命婦社”と称する小祠を2基ほど見かけた。

*岩崎社
 本殿の真下にある小祠。
 祭神・岩崎大神とあるが、その神格不明。傍らの立て札には“縁結びの神様”とある。

*岩本社
 右手の山腹に鎮座する社
 祭神・岩本大神とあるが、神格など不明。

 上記以外に、満媛の2子を祀った若宮社があるが、時間がなく参詣せず。
岩崎社
岩崎社
岩本社
岩本社

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