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刈田嶺神社・奥宮
宮城県苅田郡蔵王町遠刈田温泉・刈田岳山頂
祭神--天之水分神・国之水分神・蔵王大権現
                                                                 2017.06.12参詣

 延喜式神名帳に、『陸奥国苅田郡 苅田嶺神社 名神大』とある式内社の論社の一

 宮城・山梨両県の南部県境にまたがる蔵王連峰の一峯・刈田岳(H=1758m・苅田岳とも)の山頂に鎮座する小祠で、観光地・蔵王御釜の南約900mに位置する。
 社名・刈田嶺は、管見した資料にはカムタミネ・カリタミネとあるが、地元ではカッタミネと称している。
 地名・遠刈田は“トウカッタ”(又はトウガッタ)と読むが、本来は“湯刈田”であったが、何時の頃かに“湯”(トウ)が同じ読みの“遠”に変じたという。

※論社
 延喜式にいう苅田嶺神社には論社として
 ①刈田嶺神社--刈田郡蔵王町宮・別名白鳥大明神・祭神:日本武尊他(不参詣)
 ②刈田嶺神社--刈田郡蔵王町東刈田温泉
の2社があり、且つ、②刈田嶺神社は
  ・奥宮--刈田岳山頂、祭神:天之水分神他
  ・里宮--遠刈田温泉仲町、祭神:同上(不参詣)
2社にわかれている。

 ①②両刈田嶺神社のいずれが式内・刈田嶺神社かは不詳だが、
 近世の古資料・神名帳考証(1813・江戸後期)には
  「不忘山(ワスレズノヤマ)土人蔵王嶽と呼ぶ。山上に蔵王権現神祠有り。神名帳に所謂の苅田嶺神社是也。山下に寺有り、金峰山蔵王寺と曰ふ」
として、当社②を以て式内社とするものの、
  「又云、刈田神社を郷人刈田宮社と謂ふ。宮駅を去ること北二町余り。宮社の南に寺有り、宝地山蓮蔵寺と曰ふ。・・・
   神名帳に謂う所の苅田嶺神社は不忘山神に非ずして、実は此の宮社也・・・」
として、蔵王町宮にある①刈田嶺神社が式内社だとして両論併記している。

 資料(式内社調査報告14・1986)によれば、神社覈録(1870・明治3)以下近世の資料のほとんどが蔵王町宮の刈田嶺神社①を以て式内・刈田嶺神社に比定し、刈田岳山上のそれ②に比定するのは宮城県管内式内神社調(1950)他数誌だけとして、「現在のところ蔵王町宮の刈田嶺神社が有力視されている」という。

 なお、①②両社は由緒・祭神ともに異なった別神社であって、この両社を式内・刈田嶺神社の論社とするのは、両社とも、その社名が刈田嶺であることからのことと思われる。

※奥宮由緒
 奥宮社務所で頂いた神社略記によれば、
  「開山せしは何時頃なりしか不明なれど、人皇二代綏靖天皇(スイゼイ)を奉祀せしこと地方伝説等に徴しても明らかなり。
 其後文武天皇の御宇(697--707)、仏教の余波として彼の修験道なるものあらわれ、其一人として有名なる役の小角(エンノオヅヌ)、天武天皇の白鳳8年大和国吉野山に鎮座せる蔵王権現 即ち 天之水分(アメノミクマリ)・国之水分 二柱の御神霊を不忘山に奉遷し、山名をも蔵王山と改むるに至れり。

 此の時代は仏教の最も盛んなる時にして、畏くも天皇御自身三宝の奴と称し、行基出でて神仏習合説を唱へ、空海・伝教のに僧出づるに及び、本地垂迹説を説きし頃なりしかば何時しか神社名も忘れ蔵王大権現と称するに至れり。

 平安朝の末 、前九年頃(11世紀中頃、奥州で起こった前九年の役の頃か)は阿部氏当社を己が氏神とし神下五十町歩を神田に寄進し、家臣甘糟氏をして守護せしめたり。其後伊達氏代わりて陸奥に覇を握るや又己が守護神として家臣片倉小十郎をして守護せしめ、伊勢神宮の例に倣い21年毎に御改築の例を開き、金華山を鬼門除け(北東方) 当社を病門除け(南西方・裏鬼門)として共に青葉城を守らしめたり。

 降って明治5年4月太政官布達により神仏混交相成らざる旨布達せられてより水分神社と称せしが、仝8年に至り旧神社名を襲いて刈田嶺神社と改名し郷社に列せられて今日に及べり」
というものの(括弧内は挿入注記)、当社が式内社だとする記述はない。

 略記は、伝承等からみて綏靖天皇を奉祀しているのは明らかなりというが、その伝承が如何なるものか不明で、且つ祭神・綏靖天皇とする資料はみえない。

 略記は、当社の創建を役の小角(役の行者)に求めているが、蔵王町刊の資料によれば、
  「平安時代に修験道開祖の役小角の叔父にあたる願行が、吉野山の金峯山蔵王堂から当地の奥羽山脈の山頂に蔵王権現を分祀し、青麻山(奥宮の東南東約7.5km)東麓に僧坊を構えて修験道の修行を行った。そのため、修行の場となった当地の奥羽山脈は“蔵王山”と呼ばれるようになった。・・・(中略)・・・

 明治維新で神仏分離が行われると、吉野では蔵王権現を神号とし、従前の僧侶が神官となった。
 これに従って、当地でも明治2年(1869)7月に“蔵王大権現”を“蔵王大神”に改号、さらに同年9月、蔵王大神とは“天水分神(アメノミクマリノカミ)・国水分神(クニノミクマリノカミ)”の2柱であるとの解釈から、社号を“水分神社”(ミクマリノカミノヤシロ)に改称した」
という(Wikipedia)

 役の小角(役行者)の生没年は不明だが(伝承では舒明天皇6年・634--文武天皇5年・701という)、続日本紀・文武天皇3年(699)5月24日条に、「役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛木山に住み、呪術をよく使うので有名である・・・」とある実在の山岳修行者(優婆塞)で、鎌倉時代に入って修験道の開祖とされたという。
 また叔父・願行とは、伝承によれば、9歳にして出家した小角に仏教の基本を教えたというが、確証はない。

 役小角(又は叔父・願行)が当地に勧請したという蔵王権現とは、役小角が吉野の金峰山で修行していたとき示現したという仏で、金剛蔵王最極秘密習事所収の役小角伝(鎌倉末期)には
 ・天武天皇の御代(673--86)、役小角が金峰山上に住み、己の本尊とすべく、
 ・まず、除魔大将を求めて祈念したら釈迦が顕れた
 ・次に、抜苦与楽の仏を求めて祈ったら千手千眼観音が顕れた
 ・次に、与楽の大慈尊を求めて祈ったら弥勒菩薩が顕れた
 ・しかし役小角は、これらの仏尊に満足せず、更に降魔の仏を求めて祈念したら、憤怒の姿をした青黒色の金剛蔵王権現が湧出した
とあるという(役行者と修験道の歴史・2000)

 
役小角像
(大峰山寺蔵)
 
蔵王権現像
(如意輪寺蔵)

 ・略記に、役の小角が大和国吉野山から蔵王権現を勧請したのが当社の始まりということ、
 ・当地に願行寺四十八坊と呼ばれる修験道の大寺院があったこと
などからみて、当社は純粋な神社ではなく、蔵王連峰における修験道修行の拠点行場としての色彩が強かったかと思われ、それが明治初年の神仏分離によって修験道が禁止されたことから、独立した神社へと衣替えし、祭神も蔵王権現から水分神へと変更して現在に至ったもので、その意味では、当社を以て式内・刈田嶺神社とするには無理があるようにも思える(刈田嶺神社との社号から論社とされたのかもしれない)

◎創建時期
 当社創建の年次は不詳だが(白鳳年間・672--82ともいうが信用できない)、公的記録にみる刈田嶺神社は、
 ・新抄格勅符抄所載・大同元年牒(806)--刈田神二戸
との封戸授与記録を初見とし、
 ・続日本後紀・承和11年(844)8月17日条--陸奥国無位勲九等刈田嶺神に従五位下を授く、霊験有の縁也
 ・  同    ・承和15年(848)5月15日条--陸奥国従五位下勲九等刈田嶺名神に正五位下を授く
 ・三代実録・貞観11年(869)12月8日条---陸奥国正五位下勲九等苅田神に従四位下を授く
とあり、9世紀初頭にあったことは確かだが、この神階綬叙が上記①②社の何れに対するものかは不詳。
 ただ、当社が蔵王大権現を祭神とするなど修験道的色彩が強かったことから、上記神階綬叙は蔵王町宮の苅田嶺神社①に対するものかもしれない。

◎奥宮と里宮
 当社は刈田岳山頂の奥宮と、麓の遠苅田温泉仲町の里宮から構成されるが、蔵王町刊の資料に、
  「江戸時代後期(18世紀末)になると、山頂の蔵王大権現社への参詣者も増え、当社と参詣路を管理する嶽之坊には住職が常住するようになり、また、冬期は積雪のため山頂の蔵王大権現社(現奥宮)へ参詣できない不便を解消するため、冬期には麓にある蔵王大権現御旅宮(現里宮)に季節遷座をするようになった」
とあるように、一年を二季に分けて祭神(御神体)が互いに遷座するという。

 その時期は、古来は陰暦4月8日を開扉(トヒラキ)と称して、御神体が里宮から本殿(奥宮)へ上り、10月8日を鎖扉(トタテ)と称して山頂より里宮に下っていたが、現在は、蔵王エコーライン・蔵王ハイラインの開通(蔵王山開)にあわせて4月下旬に奥宮に上り、秋の彼岸が過ぎた10月第一日曜日に里宮へ下るという(御神体下山式)

※祭神
 略記には
  祭神  天之水分 国之水分 蔵王大権現
とある。

 天之水分(アメノミクマリ)・国之水分(クニノミクマリ)とは水分神(ミクマリノカミ)とよばれる一対の神で、
 その出自について、古事記には
  「(イザナギ・イザナミの双神は)国を生み終えて、さらに神を生み出した。生んだ神の名は・・・速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)、次に女神・速秋津比売神(ハヤアキツヒメ) 併せて十神
 この二神が河と海を分担して生んだ神の名は、・・・次に天之水分神、次に国之水分神 併せて八神
とあり(書紀にはみえない)
 水の分配を司る神で(クマリ=配り・クバリ)、水源地・分水嶺などに坐すという。

 上記蔵王町刊の資料には、「蔵王大神(蔵王大権現)とは天水分神および国之水分神の2柱であるとの解釈から・・・」というが、蔵王権現と水分神とは出自・神格を異にする神であって、両神を結びつけるものはない。

 当社が水分神を祭神としたのは、刈田岳・広くいえば蔵王連峰に坐す山の神を、それがもつ水神としての神格に特化して祀ったもので、それは、蔵王大権現が祀られる以前に当社がもっていたであろう自然信仰への復帰ともいえよう。

 蔵王大権現とは、上記したように、役の小角(役行者)の祈念をうけて出現した修験道の本尊で、修験道での正式名称は金剛蔵王権現という。
 金剛蔵王とは、究極不滅の心理を体現し、あらゆるものを司る王という意味だという。
 江戸時代まで当社祭神(本尊)として祀られていたことから、祭神が変更された後のある時期に、改めて祭神に追加されたものと思われる。

※社殿等
 奥宮は国道457号線沿いにある裏磐梯グランデコ東急ホテルの前から蔵王エコーライン(県道12号線)に入り(入口に薄い朱塗りの鳥居が立つ)、屈曲の多い道を観光バスで約30分ほど走った山頂駐車場(休憩所・売店あり)からすぐの御釜展望所横から、緩やかな坂道を100mほど上った処に鎮座する。
 当地に行った目的は蔵王の御釜見学だったが、奥宮の位置が御釜展望所から近いことから何人かが足を伸ばしただけで、ほとんどの人には興味ないらしい。


エコーライン入口に立つ 大鳥居 
 
同・神額

 参詣当日の山頂は霧が立ちこめ雨が降ったり止んだりするあいにくの天候で、視界不良のため御釜はもちろん、奥宮社殿も霧につつまれ、周りの状況も見えなかった。

 山頂には、素木の鳥居の奥にコンクリート造銅板葺の社殿と、その横に簡単な社務所が建つだけで、他には何もない。
 社殿からすこし離れた処に“刈田岳山頂”との標識が立つことから、晴れた日の眺望は素晴らしいであろう。。

 
社殿前に立つ素木の鳥居
 
奥宮社殿
 
同・内陣正面

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